15. どこかで聞いたような話
怡若が賢そうに眉を寄せて言った。
「こういうことでしょうか……。姓は袁、名は璇。茱王、袁威の子。生母は夏氏。年は数えで二十」
「怡若さん、お墓に刻む文章じゃないんだから」
あ、うん。本当に何でもいい……。璇は二十なのだな。
優しい大人のようにも、やんちゃな子供のようにも見える璇は、子季より二つ年上のようだ。
他には? と子季がねだると、二人ははたと顔を見合わせた。
「あれ。でも本当に、それくらいしか言うことがありませんね」
「そうね。あの方はあまりご自分をお見せにならないから」
え……。そうなの?
「はい。私は永逸宮にお仕えして四年になりますが、未だに公子がどういう方か、よく分からないです」
「一応補足しますが、これは芸欣が取り立てて駄目な子というのではなく、単に璇公子が人と深く接することを好まず、誰にも心を開かないというだけです」
子季は不思議そうに首をひねった。
それは本当に璇のこと? と確認しても、「はい。勿論、璇公子のことです」と二人は声を揃える。おかしい。子季の知る璇は、軽やかで朗らかで、子供のように屈託なく笑う、気さくな公子様なのだが。
怡若がやんわりと含んだ笑顔を見せた。
「先程申しましたように、娘子がいらっしゃってからは、随分人間らしくおなりですので」
「――なかなかに面倒なお育ちなのじゃ。王族の宿命とも言えるが」
億劫そうに割って入ってきた巫婆に、子季は「どういうこと?」と目で尋ねた。
「早くにご生母を亡くされ、幼い頃より何度も命を狙われておる」
誰に。
「今の王后よ」
ああ――そういうことか。
子季はうんざりと目を細めた。大昔からよくある話だ。義理の母子が良好な関係を築くことも、まあ無いとは言わないが、権力に近づくにつれ、そんなものは夢物語となり果てる。
分かりきっていることを、子季は確認した。
その継母には、自身が生んだ子がいるのだな?
「そうじゃ。あの方より二つ年下の公子じゃ」
それはそれは、と子季は妖艶に嘆息した。継母にとって、璇はさぞかし目障りな存在だろう。それにしても二つ下とは。
璇のお母上は、そんなに早くに亡くなったのか。
「公子をお生みになって、一年ほどで。元々、あまり体がお丈夫ではなかったそうです」
しんみりと尋ねる子季に、答えたのは怡若だった。巫婆は面倒になったようで、怡若に顎をしゃくった後は、のんびりとお茶をすすっている。
そう、と子季は頷いた。
まだ幼い璇を残し、どんなに心残りだったことだろう。
「璇公子のお母様、夏惇様は、ここから国ひとつ隔てた霓の国の公主でした」
人間たちの国のことは、子季も少しは知っている。北方にありて武を尊び、やや男性的な気風の茱に対し、華やかで洗練された南の霓。すっきりとした柳腰の美女が多く、彼の国の女を娶るということは、他国の男たちの一生の夢だという。それを裏付けるように、怡若はうっとりと続けた。
「ほっそりとして涼やかで、月のようにお美しい方だったとか」
芸欣がすかさず言い添える。
「公子は母后に生き写しだそうですよ」
分かる、と子季は頷いた。
ほっそりとして涼やかで、月のように美しい、とは。
まさに璇。
「――お小さい頃の公子は、随分と美少女だったようです」
声を潜めて付け足す芸欣に、それも分かる、と子季は頷いた。
「王后亡き後、後釜に座ったのは、王后の侍女だった魏氏という人でした」
「元は宮中の洗濯女の娘だったらしいですよ」と、再び芸欣が素早く口を挟む。
「本人は必死で隠そうとしてますけど」
「そういうのって逆効果よね」
彼女がどういう経緯で霓の公主の侍女となったのか、その辺りの事情は誰にも分からない。だが、「ちょっとした美人で、それなりに目立っていたようですから」と、芸欣もそこは渋々認め、「何かの折に侍女長だか誰だかの目に留まって、お引き立てを受けたのでしょう」と悔しそうに唇を尖らせた。その後の大出世は誰もが知る通りである。
「まあそれなりに淑やかな人だったみたいですが、権公子を生んで、立場が確立された瞬間、態度が豹変したんです」
「急に権高になったんだよね。人が変わったみたいに」
「変わったのではない。あれは地が出たのじゃ」
ふーん……。
巫婆はともかく、その頃まだ生まれてもいない二人が、まるで見てきたかのように。
そんなことを思わなくもないが、宮中にいれば、その手の話は聞くともなく聞いてしまうものなのだろう。
言われてみれば子季でさえ、それなりにここの事情を聞くともなく聞いている。例えば、怡若と芸欣は元々永逸宮付きの侍女だったのだが、いつの間にか巫婆付きの侍女になっていて、もう誰も「返せ」と言えないこと。璇が何を思ったか、二人を子季の侍女にしようとしたが、「今でも娘子の侍女のようなものじゃろう!」と巫婆の激しい抵抗に遭い、結局果たせなかったこと。その後、巫婆がとろりと琥珀色をした、秘蔵の枇杷酒を差し入れて、璇が少し機嫌を直したこと。
残念ながら、そんな情報通の二人でさえ、件の継母が幼い璇に何をしたのか、詳らかには知らなかった。こういうことは当事者である璇と、継母の一派がどちらも口を噤んでしまえば、第三者には知りようがない。子季にとっては意外なことに、璇とは長い腐れ縁のような巫婆は、その頃まだ宮中にいなかったという。
「市井の一巫祝として、慎ましくも充実した日々を送っておったのじゃ」
巫婆は宮中に召し抱えられたことを、まるで人さらいに遭ったかのごとくに振り返った。
「初めて会うた時のあの方は、実に貧相なちびじゃった。とてもその年頃の子供とは思えぬほど」
巫婆がぽつりとそう漏らすと、怡若と芸欣が驚いたように巫婆を見た。二人にとっても初耳の話らしい。
「王后は殊更あの方のことを、母に似て体の弱い質と触れ回っておったようじゃ。周到なことよの」
ふん、と子季は冷ややかに目を細めた。
碌に食事も与えず、死に至るほど衰弱させて、自然死を装う腹積もりだったか。継子殺しなど珍しくもない話とはいえ、醜悪な。
子季が腹の底をふつふつと煮えたぎらせている一方で、そのような醜悪さとは一切無縁の芸欣が鼻息も荒く拳を握った。
「成程。それで公子が遂に王后の手にかからんとした正にその時、そうはさせじと現れたのが、我らが巫婆だったという訳ですね」
「いや……」
「いえいえ、よおく分かっております」
芸欣は皆まで言うなとばかりに巫婆を遮った。
「巫婆が呼ばれたのって、あの事件の時なんですよね」と、怡若もさらっと入ってきた。
子季が怡若と巫婆を交互に見やる。
なんだ。あの事件とは。
「公子が蠱毒に侵されたという」
――え?




