13.蜜月と涙
――今までのようには来てやれぬ。
麗しいお顔を曇らせた璇に、すまなさそうに告げられた時、子季は一瞬「そんな」と思ってしまったが、すぐに「それはそうだな」と納得した。璇は単なる金持ちの道楽息子ではなく、一国の公子様である。決して暇な身の上ではないはずで、寧ろ今までどうやって時間を捻出していたのか。
――休暇を賜っていたのだ。
子季と出会った日は丁度、戦地から帰還したばかりで、しばらくのんびりさせてもらえたらしい。
璇は武張ったところが欠片もないから、戦地にいくというのは意外だったが、これで一軍の将だという。人はつくづく、見かけによらないものだと思った。
すまないな、折角の休暇を。
青ざめる子季に、璇は優しく言った。「冬になれば、もう少し体が空く。その頃にはお前の体も良くなっているだろうから、少しは外に連れ出してやろう。たくさん着込んで遠出をしよう」
子季は曖昧に微笑んだ。
子季の体が良くなってしまえば、ここにいる理由もなくなるだろうに。
「寒くなってきたら、魚でも茸でも、お前の好物がたっぷり入った、温かい汁物を毎日食べよう。重いものを持てるようになるまで、私が冷まして口に入れてやろう」
そこまでしてくれなくてもよいが、温かい汁物には心惹かれた。そんなことを言われた日には――。
ああそうだ、と璇は涼やかな目をきらめかせた。
「巫婆が仕込んでいる果実酒のことは知っているか。梨でも枇杷でもさくらんぼでも、とにかく何でも酒になっているから、好きなだけ味見をして、気に入ったものがあれば言うといい。翌年から多めに仕込んでくれるだろう。それと、固い物が無理なく食べられるようになったら、厨房がお前の為に蜂蜜の菓子を作るそうだ。楽しみに養生せよ」
子季は耳を塞ぎたくなった。止めて。ここを出ていきたくなくなる。
璇はそうやって悪気もなくにこにこと、楽しいことや美味しいものの話をするのだった。
日に何度も、ということはなくなったが、璇はそれでも、夜毎律儀に子季の部屋を訪れた。
「無理をしてる?」と璇を見上げる子季に、璇は「してない」と答え、「夜しか来られなくてすまない」と言った。
璇は子季の為に甘い汁物や柔らかい菓子を持ってきたり、「不都合はないか」と尋ねたりはするものの、これと言って他に何をするという訳でもなかった。
子季を愛おしげに見つめ、目が合うと涼やかな目を柔らかく細める。子季が眠るまで、そばでのんびりと書物などを読んでいる。
傷口が治っていくにつれ、子季が包帯を嫌がり出すと、「煩わしいだろうが、しばらくは辛抱せよ。こうしておく方が下手に乾かすより治りがよいそうだ」と、少し困ったような表情で、根気よく子季に言い聞かせた。
璇は大事な娘に触れるように子季に触れ、愛しい人を見るように子季を見た。
そのようにされる心当たりは何ひとつなかったが、璇にそうされると、竜胆の優しい薄青の中に、包み込まれているような気持ちになった。
「どうした。眠れぬのか」
ううん、と子季は首を振った。
璇とずっとこうしていたいと、思ってしまっただけだった。
駄目だ、こんなことを思っては――。
子季は心の中で自分を叱った。
璇は人で、子季は獣で、二人は別の世界の住人だった。本来交わるはずのない生が、交わってしまった運命は、誰の罪でもなかったにせよ、それと知りつつ正さぬのは罪である。ずるずると璇のそばに居続けることは、世界を分かつ理に反することだった。
それに何より――わたしは既に、夫のある身なのだから。
「……黙ったままでは分からぬ。困った奴だ」
璇が呆れたように言って、甕の中の痛み止めを少し椀に移した。
痛くなったら我慢せず飲め、と巫婆が毎晩、作り置いているものである。
万事抜かりない巫婆らしく、決して多飲したくなる味ではない為、多めに作っておいても子季が飲み過ぎることはない。
「ほら」
痛むのは体ではなかったが、子季は大人しく匙を受け入れた。
「泣くな。私はここにいる」
うん、と子季は泣きながら頷いた。子季が何故泣いているのか、璇は知っているのではないか。そんな埒もない考えが頭をよぎった。
巫婆が煎じた苦い痛み止めには、眠りを促す薬も入っていたから、子季はじきに幼子のように眠ってしまった。
子季が眠るのを待っていた璇が、子季の眦に溜まった涙を拭った。
「お前に泣かれるのは敵わぬ……」
本来ならば手の届かぬ存在で、到底返しきれぬ恩を受けた人。
いつ好きになったのかなんて、もう憶えていなかった。訳が分からぬうちにそうなっていて、横柄な口をきく娘だなと思った時にはもう遅かった。
絶望的な初恋を自覚したのは、俗世に舞い戻ってからだった。
まさかもう一度会える日がくるとは、思ってもいなかった。
――お前がここにいることは、この宮の者しか知らぬ。
子季を引き留める為に咄嗟にああ言ってしまったが、軒車が王宮の門を通った時点で、魏氏に知られたことは分かっていた。
どうやらあれは不発だったか……。
蘭舟と一緒に立てた、ちょっとした計略のことである。
璇が何の変哲もない田舎娘と添い遂げたがっていると知れば、高笑いしながら後押ししてくれると思ったのだが、どうやら読みが甘かったようだ。
もし協力してくれれば、璇を何度も殺そうとしたことを許してやってもよかったのに。
思えば、あの女にはいろいろとやられてきたものだった。
最初は璇の食事を抜いたり、あからさまではない毒を璇の食事に混ぜてみたり、それで璇がなかなか逝かぬと見るや、今度はやたらと水辺へ誘い出そうとしたり、蜂や蛇のいる山で遊ばせようとしたり。
時折、誰かに焚きつけられたのか、分かりやすく刺客を放ってくることもあったが、魏氏は基本、回りくどくて運の要素を多分に含む、陰湿なやり方を好んだ。
今回も魏氏は思い切った真似をせず、まずは裏から手を回すことにしたらしい。先方が永逸宮に潜ませている侍女を通し、子季に文を寄越してきた。女は女同士、こちらにいらっしゃいな、璇のところでは行き届かない細やかなお世話をこの私が云々。子季に代わって、璇が随分気を持たせる返事を書いてやった。子季は文の存在すら知らない。
それでも、魏氏が急に考えを変えて乱暴な手段に出ぬとも限らなかったから、璇は万一に備え、永逸宮の警備を強化するのを忘れなかった。どんな手練れを寄越してこようと、絶対に子季を連れていかせるつもりはない。
まったく、この母にして――。
もう一人の頭痛の種に関しても、璇は密かに調べていた。権は何故、よりにもよってあの時間、あの場所で火矢を放っていたのか。
結論から言えば、不審な点は何ひとつなかった。ただひたすら、子季にとっては間が悪かったというだけで。
子季が襲撃を受けた野原は王家の狩場からほど近く、最近夜狩りに熱中しているという権が、丁度あの時間、あの場所にいても、特段不思議なことはなかった。権の取り巻きたちは皆、権と似たり寄ったりの連中で、瑞獣と妖狐の区別もつかぬ者たちばかり、悪いことに、あの夜は酒もしたたか飲んでいて、一種の狂騒状態だった。
可哀相に。こんな酷い目に遭って。
異母弟に対するどす黒い感情が湧いたのは、意外にもこれが初めてだった。今までは権に何をされようと、諦めが先に立っていたが、今回は違う。いずれ折を見て肉を焙ってくれよう。
「権のことは私が必ず片を付けてやる。お前はここで、気が済むまで……」
そう言いかけて、璇は思わず顔を覆って自嘲した。
――気が済むまで? ここで?
体が治りさえすれば、子季はすぐにでもここを出ていくだろう。もはやここにいる理由がない。
あちらの世界の住人との交わりは、ごく稀にしか起こらぬ珍事であるが、その理由も璇には分かるような気がしていた。
遥かな高みに生きる、清廉な彼らからすれば、人の世はかくも醜く浅ましい。ほんの少しの間ならともかく、長居をしたい場所とはとても思えまい。
くったりと眠っている子季の、細い指先を璇は手の中に握り込んだ。
だけど、お前が泣いたから。
お前も私と一緒にいたいと、少しは思ってくれているのか――。
切ない視線に絡め取られていることも知らず、子季はころりと璇の方に顔を向けた。
薄く開いた花びらのような唇は、奪ってくれと言わんばかりだった。
無防備な奴め。
璇は恨みがましく唇を見つめ、ふいと出ていった。




