12.花咲く晩翠宮の主
晩翠宮の主は花が好きだった。
自慢の庭に咲く秋明菊を幾つか切らせ、部屋に持ってこさせたのを、ほんの少し首を傾げて、おっとりと鼻に近づける。そうすると、いかにも花を愛でているように見えるということを、先の主の所作から学んだ。
――こちらへ。
王后、魏氏は気取った姿勢のまま侍女を促し、耳打ちできる距離まで近づくことを許した。侍女は身を屈めて側に寄り、たった今仕入れたばかりの情報を主の耳に流し入れる。
「永逸宮の者たちは皆、まるで公子妃に接するように、例の娘に傅いているようです」
魏氏はハンと鼻で笑った。
「露骨だわね」
彼女はすべてを知っていた。
国境から帰還したその日に、璇が身元の知れぬ、今にも死にかけている娘をどこからか連れ帰ったこと。あの洪巫婆をして娘の治療に当たらせていること。娘について、直ちに緘口令を敷いたこと。
日毎夜毎、恋に狂った男のように、娘の許を訪れていること。
これには魏氏も大いに笑った。計算高くて抜け目のない璇が、恋慕の情なぞで動くはずがない。
「……どう思う?」
「突拍子もないこととは存じますが、もしかしたら、本当に、そうなのかもしれません……」
侍女の答えは歯切れが悪く、業を煮やした魏氏をして、平手で卓を叩かしめた。
「ええそうね。そうであるかもしれないし、そうでないかもしれないわね。でも、いいこと。もしそうであった場合、私たちは手をこまねいて見ている訳にはいかないのよ!」
顔一面にたっぷりと塗られた白粉の下で、鬼の形相が蠢いた。
魏氏はすべてを知っていた。
璇が戻ってきた日の夜、九尾の狐の輿入れの列が、茱を通る予定だったこと。璇は太卜令と話をした後、俄かに落ち着きを失ったこと。そのまま呉侍衛のみを伴って、いずこかへ駆けていったこと。
戻ってきた時には瀕死の娘を腕に抱いていたこと。
「もし万が一……万が一、その娘が九尾の狐の姫だったとしたら」
魏氏の声は畏怖からか悔しさからか、幽鬼のようにぶるぶる震えていた。
もしそうだったとしたら、確かなことが二つある。
姫の一行はあの夜、何者かの襲撃を受けた。
そしてそれを璇が助けた。
「……何てこと」
璇はこれで、九尾の姫の恩人の座に納まった。
「ですが、解せません。九尾の姫の婚礼の列を、一体誰が襲うというのでしょう」
「分からないの? 璇の自作自演に決まってるじゃない!」
魏氏が執着し、行動を逐一追っているのは義理の息子ばかりで、実の息子の方は煩いことも言わず好きにさせている。
「腹黒い策士め。瑞獣が認めた公子となれば、何をおいても太子に冊立されてしまう。いえ、それどころか譲位すらあるかも――」
「王后、お気を確かに」
呼吸を乱し、体をよろめかせる魏氏を侍女が支えた。
「実は……これとは真逆のような報告もありまして……」
侍女は魏氏を扇であおぎながら、躊躇いがちに切り出した。
「公子の側近の呉侍衛が、酒場の娘に妙なことを口走っていたらしいのです」
魏氏がぴくりと眉を上げた。
身分を明かさず、気楽な酒場で一人酒を飲んでいた呉蘭舟が、可愛い酒場娘についうっかり口を滑らせた話というのはこうである。
「曰く、お仕えしているご主君が、以前命を助けてくれた娘と偶然再会した。ご主君はどうしてもその娘と添い遂げたいが、娘は山育ちの卑しい身分で、ご主君の家柄とそぐわない。どうしたものか、と」
「何それ」
四十を過ぎた今でも小娘じみた口調が抜けないのは、彼女にそれを指摘する者が、周囲に誰もいないからであろう。
若かりし頃、美貌で鳴らした人が往々にしてそうであるように、魏氏の自己認識もまた、花の盛りの年頃で止まっていた。
彼女の自信も無理からぬことだった。
南の大国、霓から嫁してきた美しい公主と、彼女に付き従ってやってきた淑やかな侍女が、花溢れる晩翠宮の庭をそぞろに散策する様は、まるで地上に遊ぶ仙女のごとしと大層評判だったのだ。
魏氏はかつての主と同じく、風に揺れる柳のような、ほっそりとした美女だった。
魏氏は美しく眉をひそめた。
「でも、宮を挙げて、その娘にぺこぺこ媚びているのでしょう?」
王族の側仕えともなれば、自身も良家の出である者が多い。気位の高い彼らが、たとえ主の命であろうと、田舎娘にそう易々と腰を折るものなのだろうか。
「それは、そのようなのですが」と、侍女も困惑した様子で続けた。
「公子ご自身は特にへりくだる様子もなく、随分くだけた口調でお話しされているようです」
「――え?」
相手が九尾の姫君と知りながら、気安い態度を取るなど愚の骨頂である。
娘の正体を確実に知っている璇が、そのような態度を取っているということは。
「……つまり、本当にただの田舎娘かもしれないと?」
「どちらとも言いかねます」
「ええい、役立たずの学者のような口を!」
では一体どうしろと言うのか。
娘が九尾の姫君なら、このまま璇に篭絡させる訳には断じていかなかった。だが、もしただの田舎娘なら、婚姻を後押ししてやらぬこともない。有力者の娘でもない、他国の公主でもない、作法も知らぬ粗野な田舎娘など、璇にぴったりではないか。
「どちらか見極めなければ、動くに動けないわ」
「そうでしょうか」
てっきり同意されるものとばかり思っていた魏氏は、「へっ?」と頓狂な声を出した。
「見極めるのは、後でよいかと存じます」
「……どういうこと?」
「まずはその娘を手中に収めることが先決かと」
「な、な、何を言うの」
九尾の姫君ならともかく、魏氏には野暮ったい田舎娘なぞと馴れ合う趣味はない。
「この私が何故、ただの田舎娘なんかを……」
「王后、そこです」
侍女が鋭い声を上げた。
相手にしなくてはならないのか、と言おうとしていた魏氏は気圧されて黙る。
「娘がただの田舎娘なら、それはつまり――璇公子が本当に、娘に恋慕しているということではありませんか」
魏氏の中で雷鳴が轟いた。
「そうよ――」
「そうです。ならば、その娘には大いに利用価値があるというもの。娘さえ抱き込んでしまえば……」
侍女はそこで口を噤んだ。その先はあえて言葉にしなくとも、主従は目と目でしかと通じ合う。
魏氏は袖でそっと口元を隠した。
この私としたことが……。普段の璇に人間味がないせいで、こんな簡単なことにも気づくのが遅れてしまったなんて。
「勿論、娘が本当に九尾の姫君だった場合は、権公子の妃として、礼を尽くしてお迎えいたしましょう」
侍女はそう言って、恭しく額づいた。
どちらに転んでも得しかしない。
魏氏は高笑いしそうになるのを堪え、勿体をつけて「そうね」と頷いた。
すっかり気をよくした魏氏は、少し稚気など起こし、卓上の秋明菊を指でつついてみたりする。
「何だか気分がいいわ……。ちょっと庭でも歩こうかしら」
「承知いたしました」
魏氏は折に触れ、いかにも花を愛でているように、しゃなりしゃなりと庭を散策する。
花壇も鉢植えも、それは見事な晩翠宮の庭。
植え込みの蔓薔薇に顔を寄せ、美しい王后を憧れの眼差しで見つめている若い侍女に、今気づいたという体で、おっとりと笑いかけてやることもある。
――燕容、ここを花でいっぱいにしましょう……。
かつての主が自ら土をいじることも厭わず、丹精込めて作った庭。
少しでも手入れが悪くなれば、人から何を言われるか分からないから、魏氏は必死で維持している。
そうするしかない。
晩翠宮の主は花が好きだった。




