10.まずはお友達から(前)
子季の部屋へ颯爽と舞い戻った璇が見たものは、吃驚するほど打ち解けて、巫婆と話し込む子季の姿だった。
自分の唇をとんとんと指しながら、一生懸命訴えている子季に、酸いも甘いも噛み分けた巫婆が「男は難儀な生き物だの」と答えている。
「子季、起きたのか」
先程見せた荒々しさも、謝執事との密談も、すべてお綺麗な面の皮の下につるりと隠し、璇は爽やかに微笑んだ。
子季の唇が嬉しそうに弧を描き、璇、と動く。
「あなた様が来られたからには、婆はお役御免じゃ」
巫婆は寝台の前の凳子から億劫そうに立ち上がり、形ばかりは恭しげに場所を譲った。
「婆も暇ではございませんのでな」
「ああ、大儀であった」
何がだ、どうせこの後は、薬草園で漬け込んでいる果実酒などをまったり舐めるだけのくせにと思いつつ、璇は快く巫婆を送り出す。
何の話をしていたのだろう。男がどうのと言っていたような気がするが、そういう話をしている時に、唇を指すというのは意味深だった。後で誰かに確認しなくてはならない。
璇が心もち凳子を寝台に寄せて座ると、子季は包帯の下を指し示しながら、蘆薈をありがとう、と照れくさそうに告げてきた。
「なに。礼には及ばぬ」
子季に礼を言われるのはいつだってむず痒く、「いいんだ」と抱きしめたくなってしまう。
まだ思いが通じ合った訳ではないし、子季の体の傷も乾いていないので自重しているが。
「今日は調子がよさそうだな」
あ、うん。
璇を見つめる綺麗な眼は変わらず無垢で、人の世の醜さなど知らぬげに澄んでいる。小さな顔や首を横切って覆う包帯が痛々しく、一層璇の庇護欲をそそった。そうでなくとも、ずっと心密かに思い続けた初恋の姫である。
「巫婆と仲が良いのだな」
うん、と子季は嬉しそうに頷いた。
巫婆は優しい。今日もいい匂いがするお湯で、髪や体を拭いてくれた。湯浴み出来ぬのはつらかろう、って。
「そうか」
言われてみれば、子季の頬は軽く上気していて、髪もまだ少し濡れている。
そうか、と璇は繰り返した。
もう少し。
子季の吐息を聞き取る為に、もう少しだけ、体を寄せてはいけないだろうか――。
意に反して体がその場で硬直してしまったのは、子季がすっかり気を許している様子で、屈託なく顔を近づけてきたからである。
璇は公子様だったのだな。
「ああ、言ってなかったか」
子季に言われて初めて気がついた。隠すつもりもなかったのだが、どうして伝えていないのだったか。璇は少し考え、いかにも王族らしいことをぽつりと言った。
「そう言えば、いちいち身分を名乗ることはないな。言わずとも皆が知っているから」
そうだよね、と子季が微妙な表情で頷いた。
「……私が公子だと、子季は何か差し障りがあるのか」
寂しげに目を逸らされ、璇は急に不安になった。
瑞獣である者と親しく交わるには、たとえ婚姻まではいかずとも、友諠を結ぶことさえ、王でなくては駄目なのだろうか。それならば、璇は何としてでも――。
逆だろう、と子季はため息をついた。
差し障りがあるのは璇だろう。わたしのような、どこの誰とも知れぬ者を家に置いていては――。
「何だ。そんなことか」
璇はほっと胸を撫で下ろした。
そうだったな。今のお前は九尾の姫君ではなく、私が野で拾ってきた村娘。
子季がおいそれと正体を明かせぬことは察せられたから、璇も一介の村娘に接する体で、優しく言って聞かせた。
「気にするな。深手を負った者に冷たい王族など、天が許さぬ」
子季が目を瞬いて璇を見た。
素で驚いている表情が愛らしい。
「差し伸べられた手を振り払うのは、かえって不敬だぞ」
でも。
「私がいいと言っている。お前は余計なことを考えず、ここでしかと養生せよ」
璇は公子然として、優しく子季の手を取った。
私たちの間で、何の遠慮が要るものか――。
「……よいな?」
なかなか諾と言わぬ子季に業を煮やし、璇が返事を促した。
璇……。
子季は璇に手を取られたまま、ふっと穏やかに微笑んだ。
それは人ならぬ美しい存在が、庇護下にある人の子に与えるような、慈愛に満ちた笑みだった。
璇……。お前には、一方ならぬ世話になった。
「子季。何を……」
璇は呻くように声を絞り出した。
この言い方では、まるで……。
これ以上、お前の厚意に甘えるのも忍びぬ。明日にでもここを出ていこうと思う。
改まった口調で告げられたのは、紛れもない別れの言葉だった。
いずれ相応の礼を、と言いかける子季を、璇は強い調子で遮った。
「まだ包帯も取れていない。こんな体で行かせられるものか!」
子季が何故急にそんなことを言い出したのか、璇にはまったく理解できなかった。いくら子季が不思議の身とて、この傷では歩くこともままならぬ。絶対に行かせる訳にはいかなかった。
幾重にも巻かれた包帯から覗く、綺麗な顔がくしゃっと歪んだ。
馬鹿。分からないのか。
「馬鹿はお前だ。命を粗末にするような真似、もう二度とさせぬ」
子季は眦を決して璇を睨んだ。どこの誰とも知れぬ娘を自称する割には、王族たる璇に対して一歩も引く気配がない。子季は怒ったように続けた。
いいか、わたしは素性の怪しい、山育ちの娘なんだ。お前の立派なお屋敷に、わたしなんかを置いていたら、お前は人から何を言われるか!
「子季」
あ、これは、と璇は美しい眉を寄せた。
もしやさっきの侍女長の言葉を、子季は聞いていたのでは。
随分と気を昂らせ、まだ何かを言い募ろうとしていた子季が、突然苦しげな表情を浮かべて喉を押さえた。
「子季!」
璇は咄嗟に寝台に乗り上げ、崩れそうになる子季の体を抱き寄せた。
「――巫婆を呼べ!」




