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1.客人

 一面に咲きこぼれる薄青の竜胆りんどうが揺れていた。


 ――おや、人間のお客様だ。


 幻想のように青い野原の片隅で、狐の子は珍しい気配にそろりと午睡の目を開けた。

 子供の毛並みは雪の白、体に巻きつく尾は九つ。人間の年の数え方では、当年十歳になる。名を子季しきといった。

 子季は前足を突っ張り、伸びをした。


 ――お客様と一緒に、お茶でも飲もうか。


 お客様が来たらそうするのだと知っている。子季は人の気配がある方へ、とっと駆けだした。


 ――はやく、はやく。何をして遊ぼう。


 いくらも走らないうちに、小さな人影が見えてくる。子供だ。先程までの子季よろしく、草のしとねに身体を預け、眠っているように見える。着ているものは遠目にも上等で、旅人や山菜採りには見えなかった。


 ――いけない。このままでは。


 子季は走りながら一回転し、人の姿を取った。途端に白絹の袍を着た、愛らしい少女の姿になる。少しつり上がった大きな目に、すっと通った鼻筋と、花びらのように可憐な唇。淡い黄味を帯びた薄茶の瞳は、光の加減によっては金にも見えた。柔らかな灰褐色の髪が風を孕み、甘く滴るように揺れている。

 九尾の狐が人の姿を取れば、絶世の美男美女になると決まっているから、人となった子季も当然、目が覚めるほど美しかった。


 人間の足はちっとも速く走れなくて、子季はもどかしく足を動かした。急がないとお客様が帰ってしまう。


「う……」


 子供が身じろぎし、子季の方へ顔を向けた。

 その時初めて、柔らかな子供の肌を這う、どす黒い紋様に気づいて子季は息をのんだ。


 ――蠱毒こどくだ。


 呪詛に近い、強い毒だった。


「年端もゆかぬ子供に、一体誰がこんなことを」


 子供は人の姿を取った子季と、そう変わらぬ年頃に見えた。仕立ての良い大袖と、袴から覗く手足は頼りなく細く、ことによると子季よりもまだ年下かもしれない。その手足にもいましめのように蠱が巻きついていた。


 子供はうっすらと涙を溜めた、涼やかな目を子季に向けた。蠱毒に侵されていてもなお、得も言われぬ気品がある。随分と良い家の子なのだろう。だがそれ故に、誰かの欲や野心の障りとなってしまったか。


「何故、殊更に苦しませて殺すのか」


 蠱は子供の体に潜っては這い出し、その度に激痛を与えている。

 かたわらに手をつく子季を今やはっきりと認識し、じっと見つめている子供の目から、一筋の涙がこぼれた。


 ――さぞ、悔しかろう。


 為す術もなくむざむざと、誰かに命をもぎ取られるのは。


 子季の一族が棲む山は、人が死後に向かう泰山たいざんとは深い縁があった。この子は恐らく泰山へ向かう途中の身で、だがその旅路を頑として拒み、ここで虚しく足掻あがいているのだ。


「……お前に、新しい命をやる」


 気づけば子季はそう口にしていた。それは憐憫からか、或いは幼い義憤だったか。どちらでもよいことだった。子季はもう、そうすると決めたのだから。


「だから、お前が今握りしめている命を放せ」


 蠱が強く絡みついた、苦しいばかりのその生を。


 子供が涼やかな目を見開いた。

 子季は構わず、苦しげに波打つ薄い胸に手を当てた。


「あっ、もう。暴れるな」


 子季の言葉を聞いていなかったか、出会ったばかりの子季が信用ならないのか、子供はか細い手足を振り回し、抵抗にもならない抵抗を見せた。子季の方もまだ、こういう時によしよしと優しく宥めてやれるほどお姉さんではなかったから、幾らのものにもならない抵抗を、上から覆いかぶさって強引に封じる。

 そうして、幼い体に命をひとつ、ほとんど無理やり流し込んだ。


「あ、あ……!」


 体がちぎれるような痛みに、気を失いそうになった。ぎゅっと目をつぶって耐える子季の下で、子供が何か温かいものに頬をすり寄せるような仕草をする。

 しばらくそうしているうちに、子供が落ち着いたのを感じ、子季はふらふらと身を起こした。顎から汗がしたたり落ちる。子供は顔を強張らせ、子季を見上げていた。はっきりとは分からぬまでも、子季が何をしたのか、おおよそ察したのだろう。聡い子だと思った。


 ――いいんだ。わたしの命は九つあるから。


 そう言ってやりたかったが、くたびれて声が出なかった。子供の目からとめどなく涙があふれ出る。涙を拭ってやる力もなく、子季は代わりにせいぜい神獣らしく、泰然と微笑んでみせた。泣くな。いいから、もっとよく顔を見せて。ほら思った通り、蠱が消え去ったかんばせは、まるで仙女のようではないか。もう二度と会うことはないだろうけど、今度は誰にも殺されぬよう、うんと気をつけて生きるがいい。


 ふいに子供が手を伸ばし、子季の体を撫ぜた。


 思いがけない感触に、尻尾がぴょんと九つ飛び出る。

 次の瞬間、子供の姿は跡形もなく掻き消えた。


 ――ああ……還ったか……。


 今のは夢だったのだろうか、青い青い竜胆が見せた。


 さんざめく青の只中に、子季の体が崩れ落ちる。

 これが夢ではない証に、子季は確かに命をひとつ失っていた。






 その頃、死者を管理する泰山府君たいざんふくんの宮殿では、新米の録事ろくじが丁度、死者の名簿を点検しているところだった。


「ん……?」


 新米録事の目の前で、とある死者の享年の数字が一瞬、不審な動きを見せたかと思うと、目にも留まらぬ速さでひっくり返る。


「んんんっ?」


――しゅ国 えんせん 享年二十


「んんんっ? んんっ?」


 録事が何度目を凝らして見ても、先程まで十二だったはずの享年は、今は確かに二十であった。


 まるで最初からそうであったかのように。

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