表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/41

08.働かざる者食うべからず

 黒板の前で額を拭い、汗などかいていないことに気付く。クーラーの効きすぎた教室で、生徒たちは律令政治の小テストを解いている。広松(ひろまつ)は再び、頭の中の五日前に舞い戻る。

夜響(やきょう)というのは偽名だな。それでなきゃ、俺に名を呼ばれて縛られぬはずがない)

 子供たちに、隣同士自己採点を任せて、

(夜響はオニになることを望んだ愚かな子だ。そんな子がどこかで行方不明になっているはずだ。その子の名前が分かれば俺の勝ちだ)

 五分前に授業を終え、教科書とチョーク入れ小脇に講師室へ向かう。すれ違う講師の数がいつもより多いのは、ここ本部教室で、個別指導部の定期研修が行われたためだ。講師室に入ると、他教室から来たアルバイト講師二人が、何やら真剣な顔で、頭を寄せ合っている。

「行方不明って?」

「大宮の方で持ってる百合子(ゆりこ)ちゃんって高校生。質問もしないおとなしい子なんだけど、昨日授業に来ないから家に電話したら――」

 広松も、白衣のボタンをはずす手を思わす止める。

「母親が出て、家に帰ってないって言うの」

「テレクラとか出会い系とかやって、変な事件に巻き込まれたとか」

 そう言われて慌てて首を振り、

「遊んでる感じの子じゃないの、勉強はできないけど。まじめそうっていうより――」

 言葉を選んで一瞬目を伏せる。

「いじめられそうっていうか、ちょっと暗い感じの子だから、心配なんだよ」

 もしや、と広松は受付後ろの本棚へ向かう。個別指導部、「高校生」の生徒台帳を探し、最初のページから順に指で追ってゆくと、程なくして目的の名はみつかった。「高一、市野沢(いちのざわ)百合子(ゆりこ)、埼玉県さいたま市……」

 一応手帳に写し取る。ただの偶然に過ぎないかも知れない、だが可能性は皆無ではない。夜響は幼く見えるが、オニとなり、やりたい放題をしたならば、三十五の広松とて子供のようになるだろう。

「広松先生」

 後ろから呼ばれて、慌てて手帳をポケットに突っ込む。

「倉橋先生が呼んでましたよ」

 それだけを伝えて、若い講師は去っていく。

(なんだろう)

 と、苦い顔になる。本部教室長の倉橋は、超難関コースの数学担当、彼を好きだという生徒は見たことがない。太った魚を思わせる丸い目と、甲高い声を思ってうんざりしながら、奥の部屋へ向かう。

(身に覚えがありすぎるというのが痛いな)

 成績優秀な講師と言い難いことは、広松自身が一番分かっている。いつもの嫌味を覚悟して、失礼します、と足を踏み入れると、パソコンに向かっていた倉橋は、回転椅子をこちらに向けた。「どうぞどうぞ」

 勧められるまま、隣の椅子を引き出して腰を下ろせば、

「あれ~、先生座って下さいなんて言ってないよぉ」

 例の甲高い声、慌てて席立つ広松に、

「ああ、いいんですよ、座ってくれて」

 どうも、などと頭を下げるのも情けない。

「先生ねぇ」

 と、倉橋が出したのは、月ごとの模試の結果をグラフにしたもの、広松の受け持つクラスとその下のクラスは、次第に差を縮め、六月には逆転している。目をそらしたくてもそらせない広松に、倉橋は、どう? と答えようもないことを迫る。

(早く用件を言ってくれ)

 曖昧な返事を繰り返しながら、胸の中で呟く。じらされるのはご免だ。

「先生この仕事、向いてないんじゃないかなあ」

 突然解雇! と血が引いてゆく。

「でももうちょっと頑張ってみる?」

「はい、やらせて下さい」

 意気込み答える広松の、まぶたの裏に、一瞬映ったのは織江(おりえ)の冷たい横顔。

「先生分かると思うけどねえ、アルバイトの講師さんでも、すっごい頑張ってくれてる人がいっぱいいるの」

「はい、私はそれ以上に頑張りますから、成績に結びつけますから」

 背に汗かく広松の耳を、聞き慣れた声が射る。倉橋先生、と扉があいて、小柄な女性が顔をのぞかせる。

「ああ、紀藤(きとう)先生ごめんねえ、僕もすぐ行くからもうちょっと待ってもらうよう言ってくれる?」

 職場では旧姓で呼ばれているが、妻の織江だ。ゆるく波打つ髪に、色白で小さな顔、意志の強そうな瞳も鼻も唇も、全てが小さくきゅっとまとまっている。難関高校受験のための、上位二クラスを担当する講師は、授業終了後毎回会議を行っているから、その催促に来たのだろう。広松には程遠い世界の話だ。

「それじゃあ広松先生ね、夏期講習からは大宮仲町(おおみやなかまち)教室でやってもらうことになるから」

「は」

 手短に用件を告げる倉橋に、一瞬広松は目を白黒させる。

「仲町教室の場所と地図はね、ああこれこれ、持ってっていいから」

 机の横に積んだ冊子からひとつを手渡し、倉橋は足早に会議室へ向かった。会議室の向こうに出口があるので、広松は倉橋の後ろについて歩く形になる。会議室の前を通り抜けるとき、ほかの講師らと机についた織江と目が合ってしまう。その冷たいまなざしが、いいわね、あなたはもう帰れて、と呟くよう。

(まもる)のためにも母親のお前が早く帰ってやるべきだろう、今夜だってあの子は、ひとりで夕飯食べてひとりで寝てるんだぞ)

 一瞬見せた鋭い目線で、それだけのことが伝わったのか、織江は仕返すように、広松の手にした全教室の地図に目を向ける。広松はふいと視線をそらし、まっすぐ前だけを見て、もう来ることはないかも知れない、所沢本部教室をあとにした。

臨兵闘者皆陣烈在前(りんぴょうとうじゃかいじんれつざいぜん)

 悪運払いのつもりで、ぶつぶつ九字を唱えながら駐車場まで歩いていたら、

「やべっ」

 と、まだ残っていた男子生徒数人に馬鹿にされたようだ。見られたならしょうがない、もう来ることもない場所だ、広松は開き直って空中に、指で大きく縦、横、縦、横、と線を引きながら、

「臨、兵、闘、者――」

 と叫んでやった。男子生徒らは、これは危ないと、そそくさ逃げ帰ってゆく。

 人との関わりは、気を遣ったり辛抱を通したり、社会生活を営むためには当然の義務だが、だからこそ精神の自由だけは持っていたい。心までは()らわれたくない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ