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01.真夜中ベッドの上、理想のイメージが降り立った

 甘えん坊な(まもる)の姿は、夜響(やきょう)に家を思い出させた。

 ――興味ないね、帰るもんか。そう言って(ハルカ)のアパートを出たのに、あの町に帰っていた。昔ながらの商店街を飛ぶうちに、妹に会った。男の子や多くの友だちに囲まれて歩く姿に、動揺する自分に腹が立つ。

 アパートに戻る頃には、日が暮れていた。

「お帰り」

 遥は、読みかけの本をベッドに置いて、夜響を見上げる。「ユリちゃんまだ帰らないの。どこ行ったのかな」

「知んない」

真一文字に口を結ぶ。近頃ゆりは、どこで遊んでいるのか、毎日のように終電で帰ってくる。行方(ゆくえ)など、夜響が知るはずない。

 夜響の不機嫌に気が付いて、

「なんか怒ってる?」

「知んない」

 どしたの、と訊く遥、だが夜響自身にも何が面白くないのかよく分からない。双葉(ふたば)への嫉妬? そんなもの、オニになれば忘れられる。もっと呪えばいい。だが、過去を憎めば憎むほど、腹の底でねじ曲げられて暴れ出すものがある。

「夜響、大切な話があるの」

 ちょっと固い声を出して、遥は本を鞄にしまう。「オニでいるのを、やめる気はない?」

「なんで急にそんなこと言うんだ」

 不機嫌な目を益々きつくする。

 急にじゃない、と前置きして、遥はここ数日考えていたことを話した。自由とは、空想におぼれることなのか、現実から逃げ続けても、何も解決しないんじゃないか。

「ハルカは、夜響が嫌いなの?」

「そんなわけないでしょ、夜響の見せる夢はとっても素敵だし、あたしにはそれが必要だよ。でも、頼りすぎるのは危険なの。現実に戻ってみれば、何も変わってないもの」

「楽しけりゃいいじゃんか」

「だけど、あたしたちが生きているのは、ここなんだよ」

 と足下(あしもと)を指さし、

「あんたのやってることは、自分の生まれた世界を否定して、自分を否定して――自己否定の塊だよ。ちゃんと自分に立ち戻って、何が大切なのか考えなきゃ、一生救われないよ」

 きつい言葉に、夜響は頬に朱を注いで叫んだ。

「なんで戻れって言うんだ、ハルカだって変わったじゃないか。先輩にふられて、美容院行って、過去を切り捨てたじゃんか」

 幸田(こうだ)の話をされると、穴にももぐりたい心地、遥はなんとか動揺を抑え、

「だけどあたしは、違う誰かになろうなんて、してないでしょ」

「違う誰か?」

 浮かんだのは、双葉の笑顔。

 あたしは妹になりたいのか、あいつの真似をしているのか? 夜響は頭を抱えた。

「そんなの嫌だ!」

 固く瞼を閉じれば、闇の中に見える殺したはずの影が、ゆっくりと動き出す。影のように立ち尽くす制服姿の少女は、向こうから走ってきた妹の後ろに隠れてしまう。快活な行動力で次々と型を破る妹にひきかえ、姉はいつまでも期待を裏切ることはなかった。期待されればされるほど、機械のようにそれをこなした。

「何が嫌なの? あたしには、夜響は作り物に見える」遥は静かに話す。「カメラを通してもてはやしてる人は、気にしないだろうけど、隣で見てるあたしは、夜響が自分を殺してるみたいで哀しい。だから言ったの、違う誰かになろうと――」

「黙れ」

 夜響は頭を抱えたままうめく。

 あたしはみじめだ、情けない、そんな負け犬は嫌だ! 双葉をうらやましいなんて、許せない! 自虐的な自尊心がうずく。

 ――黙れ一葉(いちは)! 危うく叫ぶところだった。双葉を見たせいで、膨れあがる「過去の自分の影」におびえて、夜響は呪いの言葉を繰り返す。お前なんて嫌いだ、消えちまえ。

 だが一度浮かんだ残像は、なかなか消える気配がない。壁に向かう一葉の後ろに立って、夜響はいぶかる。なぜ、思い出すんだろう。思い出そうとしているの?

 壁に向かう一葉の横で、双葉は鏡に向かい薄化粧して遊びに行く。そういうことには頓着したくない一葉(いちは)をよそに、どんどんきれいになってゆく。

 戻れ戻れと繰り返す遥から逃れようと、夜響はベッドに転がり耳をふさぐ。遥が一葉に見え、腹が立ってしょうがない。今が一番素晴らしいのに、なぜ過去を言い立て台無しにする。だが遥を嫌ったら、何もなくなってしまう気がする。耐えられない喪失だ。

 だってもう二度と、一葉(いちは)の心を思い出せないだろうから。理由は分かっているのに、気付かない振りをしてきた。

(だって夜響は、忘れたいんじゃないの? 変わりたいんだろ?)

 自問する。少しだけ、向き合ってみる。ずっと逃げ続けてきた過去と。オニの呪いで雁字搦(がんじがら)めになっていた体が、少し楽になった気がした。夜響は記憶の淵を滑り落ち、時計の針を逆戻り、一葉(いちは)の姿で一糸も(まと)わず鏡の前に立っている。あの日の感覚が、ありありとよみがえる。鏡を黒く塗りつぶしたい衝動に駆られる。黒い空を見上げれば、望みは次第に地上から離れてゆく。現実で望むことなど、妹が全て叶えてしまうから。窓の外には、存在しないものが見えるようになった。この世界になど興味はない、あたしはずっと、仮の生活を続けている。

 そんな一葉(いちは)の中で、ある夜「夜響」は突然に生まれた。危険な香りに誘われ欲情する己を嫌悪しながら、理想のイメージをかたちどった夜響という存在を、消すことなど出来なかった。いとおしくて、大切すぎて、とっても哀しくて。生まれたての夜響はすぐに、くだらない罪悪感も恥じらいも、笑い飛ばしてしまった。真夜中ベッドの上で、一葉(いちは)は歓喜する。野生の雄叫(おたけ)びをあげ、両手を広げて夜響を迎えた。涙が頬を伝う。出会えたのだ、ようやく。

 だが夜が明ければ、一葉(いちは)は地味な中学生に戻ってしまう。妹は朝からはしゃぎ、今日もまた繰り返しの日々、静かな友だちと歩きながら、黒板に模範解答を書きながら、部活で外周を走りながら、一葉(いちは)は頭の中で夜響を追い続けた。心の中の夜響との距離は、小指の先程なのに、抱きしめることも出来ない。世界を壊せるほどの愛なのに、現実は淡々と流れてゆく。一葉(いちは)は夜響になりたかった。夜響になれば、自由を手に出来ると信じた。

 悪夢への転機が訪れた。一葉(いちは)は古びた骨董品屋で、奇妙な壺に出会う。壺の中の声に挑発されて、現実を打ち破る、危険な「勇気」が生まれた。一葉(いちは)は壺を割る。そこから生まれたひびきは、一葉(いちは)の心臓を(つか)んだ。

 だがそれは、彼女が望んだ自由の形とは違った。ひびきの下僕(しもべ)だなんて、ふざけるな。一度背を押された火の車は止まらない、転がり落ちる。彼女はあっさりとひびきを裏切り、遂に妄想を果たした。過去を塗りつぶし、理想を演じる至福に、脳は麻薬物質を垂れ流す。だが無を有に変換する作業は、至上の悦びと共に、身を引き裂く痛みをもたらした。

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