16.遥がみつけた宝物
時は三日程遡る――
遥は空を見上げていた。その横には誰もいない。脇をすり抜ける人の波はあっても。
夜響が消えた日から四日が過ぎてようやく、帰りを待つ心に終止符を打った。あれはただの夢だったと。あの禍々(まがまが)しいきらめきは夜の手触り、あんな奇妙で素敵なことが、ベッドの外で起きるわけない。駄々をこねる心に言い聞かせたとき、だが皮肉にも夜響は現れた。ただ空想の産物だったならずっと楽だったのに、残酷にも、つけっぱなしのテレビの中に。画面から、夜響は挑発的な笑みを浴びせる。二人を隔てる硝子の窓、その向こうに、憧れ続けた世界がある。ちりちりするほど画面に近付いて、遥は夜響の後ろに寄り添う少女に気付き、力無く腰を下ろした。
(ここに帰ってくる理由なんてないんだ……。オニに夢を見せて欲しい人は、ごまんといる)
どこかのビルの上、くるくる回る光の輪に浮かび上がる少女の波打つ髪は、肩に腰に絡みつき、黒いレースの胸元で骸骨のネックレスが嗤った。
(夜響の居場所はたくさんあったんだね。あたしにはここから逃げ出す勇気も、逃げ出すほどの理由もみつからないけれど)
このままでは皆の噂を認めることになると、自尊心に突き動かされてサークルへ顔を出しても、頭の片隅には常に夜響のこと、幸田さんへの興味も薄れてゆく、サークルにいる理由が消滅してしまう、あたしは益々だめになってゆく…… 焦る心で空を見上げても、まぶしすぎて何も見えない。
(このまま何もしない癖がついてしまうのはいけない。今ここで負けたら、一生動けないままになる)
こんな自分が悔しい。足の裏からじめじめした根っこを生やしたまま、この先何十年も生き続けるのか――
(嫌だ)遥は強く思う。(なんとかしなくちゃ、なんとか)
瞬間、体の中が粟立った。
(何?)
波が砂をさらうように、血がひいてゆく。夏の風が、汗ばんだ背中に冷たい。
(夜響、あたしに何をしたの)
足下から蜘蛛の影みたいに、黒い恐怖が這い上がる。五晩を共に過ごしたのだ、寝ている間にオニの気とやらを体に入れられても、気付かなかったろう。
違う誰かになって己を忘れ、狂気の舞を舞うなんて嫌だ。疲れ果て、変わり果てた自分を消したくなるか、幻の中に昇華されて己を失うばかりだ。
無理矢理自分を変えようとすることと、どう違う、と夜響の残像が嗤う。
(違う、違うよ、多分)
あえぐように逆らい、花壇に腰掛け手鏡をのぞき込む。白紙に鉛筆で書いたような、平らな顔。いつもと何も変わらない。
夜響は言った。オニになるってのは、自分に呪いをかけることなんだ。オニになれば夜響のような姿になるって? そんなことない。――
(自分を呪ったりなど、するものか。愚かしい)
なんで自分につらいこと強いるの。
このまんまじゃあまりに虚しいから。ここにとどまっていては、憤りが募って死んでしまう。
後ろに縛った前髪の、生え際を鏡に映して、美容院行かなきゃ、と溜息をつく。ちょっと痛い出費だが、黒い部分の幅が随分大きくなって、染めた部分と色の差が目立つ。個性のかけらもない栗色は、赤と金は男の子に好かれない、と雑誌で読んだから。ぱたんと鏡を閉じて、
(もう夜響のことなど考えるもんか)
とらわれ続けるのは癪だ。
(あんたなんかいなくても、一人で変わってみせるから)
立ち上がり、一人きり文学棟まで歩き出す。一人は楽だ。高校の頃はいつも静かな友だちと二、三人で固まって、大勢で騒ぐほかのグループを、教室の隅からみつめていたが。
次の授業は一週間待ちに待った近世文学、鈴木先生の熱弁を思い出せば、浮き世暮らしでくすんだ心も洗われる。だが文学棟の横で発声練習に精を出す演劇部の叫び声に、また焦る。せき立てる声から逃げ出したい。
何物にもとらわれず呼吸できたなら、どんなにか素晴らしいだろう。小舟でずっと川をゆく、霧の降りた水面を静かにすべり、狭い岩の間をすり抜けて、水滴の落ちる洞窟を抜ければ、そこは仙境。昔の服装に髪型の人々、皆親切で嘘をつく者も妬む者もなく、そこはまさに夢にも見た土地。――戦によって倒された秦国の人々の隠れ里に、一人の男が偶然たどり着く、という話だ。誰にも喋らないでくれと頼まれながら、男は賞金欲しさに役人に告げ口をする。しかし、役人と共に舟に乗り、川をゆけども村は現れない。お前嘘をついたな、ということになる。
(夢のような世界なんて、夢の中にしか存在しない。桃源郷なんて、結局幻)
だけどそんなふうに、ずっと続いている重い気持ちも、ノートに向かい一心不乱に教授の言葉を書き留めていると忘れてしまう。ひたすら手を動かす遥の耳に、ドラムの音が小さく響く。サークル棟で、バンドサークルが練習を重ねているのだろう。
(ご苦労様だなあ。あたしは江戸の話聞いてるほうがずっと幸せだけど)
何の気なしに呟いて、はっとする。そう、今、一番満たされている。ほかの何をしているときよりも。一週間にたった九十分、何物にも代え難い貴重な時間だ。こんな幸せがすぐ近くにありながら、なぜ今まで自分を追い立ててきたのだろう。
(あたしって、馬鹿じゃないの…… 幸せの形が人それぞれ違うことくらい、ずっと昔から知ってたはずなのに)
誰の言葉に惑わされたわけでもない、誰にも何も言われぬうちから、他人の姿に一人焦り、あっちを見たりこっちを見たり、自分の価値観定められずに、そのくせ自分を型にもはめこめず、行き場がないと鬱に入り、有意義な大学生活夢に見て、自分は至らないと悔しがっていた。世間の「有意義」と、自分の有意義が違って良いとは気付かずに。
今ようやく見出した大切なもの、あたしにしかない宝物、あたしは江戸が好き、そのために本を読んだり、講義にかみついたり、どうしてそれを「充実」と呼べなかったのか。あとで後悔すると恐れたのか。
(あたしずっと勉強し続けたい。死ぬまで、探求したい)
その瞬間唐突に、あまりに単純で突飛な願いが飛び出した。
(研究者になるってのはどうだろう。そうしたらずっとずっと、大学にいられるんじゃないか)
そうだ、目指せばいい、とうなずくと、背中から体中がかっと熱くなった。オニの気なんてもんじゃない、もっとずっと大きくて、くらくらさせる興奮が、全身を心地よく包み込んでいる。
足下から生えてるじめじめとした根っこ、別にいいじゃない。翳りもまた神秘、暗い心もまた魅惑。七月の太陽みたいな笑顔こそ鬱陶しい、さわやかな汗なんて大嫌い。カルフォルニア産のオレンジみたような奴ばかりが並んでたって、ちっとも面白くないじゃない。遥は鼻先で笑い飛ばす。
好きなことを頑張ろう、目指すものへとひた走ろう。二十二歳になったとき、誰よりも有意義な四年間であったこと、胸を張って誇れるように。
(大学ってのは、興味あることに打ち込める得難い時間だから。あたしはもうそれをみつけたんだから)
誇らしい気持ちで顔を上げる。オールラウンド系のサークルで、ただ駄喋っている、まだ目的のみつからない奴らを見下ろすように。そしてげ、と顔をしかめた。あっという間に講義は進んでいる。
(授業、早いってば……)
教授が雑談――今月国立劇場にかかる芝居の話をしているうちに、遥は慌てて教科書をめくる。
「同じ吉三っていう名の、三人の盗賊が主人公で―― もと見習い僧の和尚吉三、没落武家の息子お坊吉三、娘姿で悪事を働くもと旅役者のお嬢吉三、この三人の男が出会って、過去の罪がもたらす、様々な因果に呑まれてゆくって話なんだが……」
一限さぼって電話して、花道近くの席がとれたことを思い出し、遥は胸を躍らせた。楽しいことが、たくさんあたしを待っている。




