出るな 汗
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
よーし、じゃあここで休憩に入る。各自、トイレとか水分補給とかしっかりやっとけよ。
ああ、喉かわいているからって、がぶ飲みはいかんぞ。大量に飲んでも、身体が消化しきれないで、そのまま下から流れ出ちまうからな。ちまちま飲むのがグッドだぞ。
しかし、常識っていうのは変わるもんだな。先生が子供の頃は水分補給なんて、かえってバテるからやめろといわれ続けてきた。みんなも聞いたことはあるか?
現代の視点からしたら、「とんでもねえ拷問だ」と思うかもしれん。だが当時は、経口補水液とかスポドリの開発が進んでねえ時期だ。
個人差はあれど、ただ水を摂るだけじゃあ、失った塩分が補給できん。おまけに浸透圧の関係で、更に身体の塩分濃度が薄まりかねなかった。
結果、体調を崩しやすくなるんで、「飲むな」説が広まっていたらしい。いま「ちゃんと飲め」と指導できるのも、飲み物の常識が変わったことが一因よ。
ま、先生もそれを知る前に、どうして水飲んじゃいけないか、周りの人に尋ね回った。大半は根性論だったが、いくつか妙な言い伝えを知ることにもなってな。
興味がある奴だけで構わん。聞いてみないか?
これは先生のおじさんが、小さいときに体験した話だ。
いまほどじゃないが、当時もそれなりに暑い夏でな。汗っかきのおじさんには、非常にしんどい時期だったらしい。
みんなも汗をかいたなら、その気持ち悪さはよくわかるはずだ。目には入るわ、服はべとつくわ、放っておくと乾いた部分に鳥肌が立つわで、あらゆる不快が襲い掛かってくる。
汗をこまめに拭けばいいが、運動中などはそうはいかない。おじさんは常にハンカチやタオルを何本も持ち、時間を見つけては汗を拭っていたらしい。
だが、おじさんの親にあたるじいちゃん、ばあちゃんは、そもそも汗をかかないことをおじさんに求めたらしい。
おじさんが汗をぬぐう姿を見せたが最後、しばらくは水を飲むことを禁じてくるんだ。つばを飲み込むだけで、思わず顔をしかめる痛みが走るほど、のどが渇いてしまっても。
「身体を冷やしちゃならん。お前だけの大事なもんじゃからな」
当然だ、とおじさんは思う。
汗などの水分は、乾く時に熱を奪うと理科で習ったばかりだ。その温度差に身体が対応できないのが、風邪を呼び込む原因のひとつだとも。
仕方のない場合を除いて、しっかり汗を拭いているのに、どうしてここまで文句を言われなくてはいけないんだろう。
その理由は、友達と隠れ鬼をしたときに明らかになった。
隠れ鬼。鬼以外はどこかに身を隠す点は、かくれんぼと一緒だ。しかし捕まったとみなされるのは、鬼にタッチされたときのみ。古典的なハイブリッド競技で、隠れること、走ることのどちらかのみ得意という人でも、そこそこ楽しめる遊びだ。
今回、鬼になったのは、おじさんに勝るとも劣らない汗っかきの子だった。おじさんのようにハンカチを持ち歩かない子だったらしくてさ。顔に汗が浮かぶたび、肩とか服の袖で拭っていたとか。
おじさんは袋小路を避け、木の影に隠れた茂みの中へ身を潜めた。
隠れ鬼にとって、身をひそめるのは前半戦に過ぎない。足がものをいう後半戦のみでも、鬼の魔の手を避けることはできる。
おじさんは遠くに鬼の声を聞きながら、そっとハンカチで垂れ落ちる汗を拭く。そばまで鬼が迫ってきたら、このような真似も控えて、息を殺す腹積もりだった。
オシ―、オシ―とセミの鳴き声が響く中、おじさんはその場を動かずに待ち受ける。
気配からして、まだ誰も捕まっていないと見ていた。最初に捕まった奴が鬼になるルールである以上、油断はできない。
ややあって。ぬっと茂みの上に鬼の顏が乗っかった。彼の背が低く、首から上だけが茂みの上を滑っていく。
おそらくこちらには気がついていない。ノールックでこちらへ手を伸ばしてきたときのために、間合いはそれなりに保っていた。こちらを視認した上で、茂みを突き破る勢いで来ない限り、こちらには触れない。
ほんの2メートルほど先の茂みの上を、すーっと通る鬼の顏。
「おまぬけさんめ」と心の中だけで舌を出しつつ、おじさんは鬼の背中を見送る。まさか聞こえてはいないだろうけど、彼の姿が見えてから、汗を拭えずにいた。ぽとん、ぽとんと地面へ垂れていく汗水の数は、もう数えきれないほど。
――背中を向けたら、いい加減動くか。
おじさんがじりっと足に力を込めたときだった。
先ほどまで踏みしめていた地面が、ジャボっと音を立てる。一緒におじさんの靴と足が沈むや、飛び上がるほどの痛みが走った。
見るといつの間にか、おじさんの足先には水たまりができていたんだ。それも親が揚げ物をするときの油のように、パチパチと泡立っているもの。そこへ自分は片足を突っ込み、靴の先などは溶けかけていたんだ。
さほど離れていない鬼が、その音を聞き逃すわけがない。ぐるりと振り返る鬼と目が合い、おじさんはすぐさま逃げ出した。
おじさんと鬼の足は、ほぼ互角。先に折れた方が捕まる、シンプルな勝負だ。
もちろん、汗を拭う余裕なんかない。背後からの足音を聞きながら、おじさんはスラロームや直角ターンを織り交ぜて、鬼をほんろうし、差を開こうとする。
溜まり過ぎた汗は前髪を固めて、身体が揺れるたび、ぴしぴしと額を叩いてきた。ぜっ、ぜっと荒い息が、しつこく背中へ張り付いてくる。引きはがせない。
やがて目の前の十字路を反射的に左折してしまい、おじさんは「しまった」と思う。個々から先は塀が待つ袋小路。Uターンして鬼をすり抜けるには、ちょっと手狭な空間と来ている。
「まずったな」と思うのも束の間。先ほどまで荒さを隠さずに迫ってきていた鼻息が、急に途切れたかと思うと、「じゃぼん」という音と共に悲鳴へ変わったんだ。
振り返ったときには、すでに鬼が大きな水たまりにはまっているところだった。おじさんが先ほど足で踏んだものと同じ、油のようにパチパチあぶくが飛んでいる。
とっさに彼を引き上げるも、液体に浸っていた下半身は服が溶けて、すっぽんぽんになってしまっている。それどころか、全体的にぽっちゃりしていた鬼の下半身も、下手なデッサンのように、アンバランスな細身と化してしまっていたんだ。
彼が完全に出てしまうと、油のような跳ねは急激に収まっていく。ほどなく、本物の水たまりとそん色ない水面をたたえるようになった池は、音を立てながら地面に吸い込まれて消えてしまう。
ごっくり、ごっくりと響くその音は、嚥下の音にそっくりだったとか。
じいちゃん、ばあちゃんに話したところ、おじさんも鬼の子も、危うく「氷」にされかけたという。
「俺たちも飲み物を冷やすのに、氷を浮かべるな? あれのもっと規模の大きいものが、お前たちを氷に見立てて起こったんだ。
汗をかくことにより体がわずかながらも冷え、きゃつらにとっての氷となるにふさわしい温度に下がってしまった。
だから俺たちは汗をかかず体温を高く保つことで、氷に選ばれる危険を避けるべき、と考えているのだよ」