七度目の迎え
雨が降る。
今日もあの人は来るだろう。
喪われてしまった、大切な少女を迎えに。
「いやー今日も暑いねー」
「そうですねぇ、ご利用ありがとうございます」
顔見知りの乗客から汗を拭きつつ差し出された切符、それにカチッと鋏を入れつつ、俺はそう返した。そのまま駅構内へと進む背中を見送ると、長年の癖で手の中の改札鋏をくるりと回す。
これが俺の仕事だ。
改札を通り過ぎる人々の差し出す切符に、一枚一枚鋏を入れ続けてかれこれ30年。改札の機械化が進むどころかほぼ完了している昨今、しかし俺が入った弱小鉄道会社の運行する私鉄列車は、未だにこのレトロな改札鋏と有人改札を採用していた。
自動改札に慣れた人には面倒くさく手間に思うシステムだろうが、俺は気に入っている。我が列車の利用者数を考えれば妥当というものだし、なによりほら、なんていうかさ、“駅員さん”って感じがするだろ。
「ああ、降ってきた」
ポツポツという音に顔を上げると、地面に濃いシミが見えた。最初は緩慢だった雨脚はしかし、しばらくすれば夏特有のザァっと勢いの強いものへと変化していった。
腕時計を確認する。日はまだ高いが夕方と言っていい時間。
おそらく軽い夕立だ、10分かそこらで止むだろう。
そう判断した時だった。
「っ!」
夏の湿気に包まれるはずの野外で、這い上がるような悪寒を感じた。
辺りを見回す。いつの間にやら駅の構内に人はなく、表の通りにも雨の中出歩く人影はない。
なのに、
パシャ パシャ パシャ
夕立の向こうから、足音が聞こえる。
かすかに聞こえるそれは、ゆっくりとこちらに近づいてくるようだった。
しかしどれだけ目を凝らしても、強い雨脚にけぶる景色のその向こうに変化はなく、明らかに人影が見えるだろう近さまでその足音が迫っても、何も見えない。
だというのに、地面に点々と足跡だけがついている。
ああ、まただ、そう思った。
パシャ パシャ パシャ
足跡が、駅の軒のすぐ手前で止まる。そして、そのまま軒を辿るように駅の出入り口の端へ寄った。
まるで出入りする人の邪魔にならないように、とも言いたげなその様子に、俺は自分の顔が恐怖でも嫌悪でもないもので歪むのが分かった。
つ、と息を吸い込み、足跡を視界の端に入れたまま、囁くように声を吐き出す。
「……なぁ、いい加減諦めなよ」
俺は姿の見えない足跡の主に、そう声をかけた。
どうしようもなく滲む、虚しさとも痛ましさともいえないものを呑み込んで。
「何度来たって、あんたの孫はもう……居ないんだ」
そう、俺はこの足跡の正体を知っている。
一月半ほど前、始発駅からこの私鉄に接続する国営の鉄道内で、かなり大規模な脱線事故が発生した。乗客全員が死亡するという未曾有の事態に、この駅を利用する一人の少女も巻き込まれたのだ。
しかし、話はそこで終わらない。
その少女には祖母がいた。雨の降る夕方には傘を手に駅まで迎えに来てくれる祖母と、その姿を見つけるたび嬉しそうに駆け寄る少女の姿を、俺は見かける都度微笑ましく眺めていた。
そして事故の日。その日も雨が降っていて、時間になっても降りて来ない孫を待って、その人は長い時間雨の中を立っていたらしい。らしい、というのはその時俺が改札を担当をしていなかったためだ。俺の担当はその前日だった。その日ももし自分が担当だったら、という後悔は言っても無駄というものだろう。
結局俺が全てを知ったのは、その人が同日の夜に、孫の後を追うように肺炎で亡くなった後のことだった。
その、暫く後からだろうか。
夕方に雨が降ると、足跡だけが迎えに来るようになった。
最初の頃はそりゃ驚いたし怖かった。正直なんで俺なんだとも思ったし、化けて出るならその日に担当だった奴にしてくれと情けなく訴えた。
でも、その足跡がただそこでじっと待っているだけだと分かると、混乱は波が引くように消えていった。
今はただ、悲しい。
パシャ
本当にそこに人が居るように、時折身じろぎするような動作でもって、足跡が水を弾く。きっと気づいていないんだ。孫が死んだことにも、自分が死んだことにも。
だから俺にできるのは、ただただ語りかけるだけ。
「婆さん、あんたは行くべき場所があるだろ?」
こうして声をかけることに意味があるかはわからない、俺はそんな変わった能力も無ければ知識もないからだ。でも、毎回こうして声をかけ続ければいつの間にか、諦めたように足跡はまた雨の中を帰っていくのだ。
「あんたの孫も、きっと向こうで待って──」
今日もしばらくすれば帰るだろう。
そう、思っていたのに。
パシャ パシャ ヒタ
足跡が、軒の下に入って来た。
「え」
突然のことに、そんな間抜けな声が口から漏れ出る。
なんでだよ、いつもはそんな動きしないだろ、暫く居て、こちらには来ずに帰って行く……そのはずだろ?
頭は混乱しているが、体が先にこの異常事態に反応した。恐怖で全身に鳥肌が立つ。僅かばかりか理解できていたはずの何かが、分からなくなった。目の前のこの足跡の主が、「生前見知った老婆」から「よく分からない怖ろしいもの」に変わる。
どういうことだ?俺はもしかして重大な勘違いをしていたんじゃないか。目の前の「コレ」は、死後も孫を案じる老婆の霊なんて優しく悲しいものではなくて、本当はもっと禍々しいものなんじゃないか。
めまぐるしく疑問を投げかける脳内。なのに体は凍ったように動かない。視線をその足跡から離せない。
ヒタ ヒタ ヒタ
足跡が改札のすぐ前で止まった。
ぴったりと両足を揃え、まるで何かを待つように、それは駅の構内を向いている。
つられるように、その先に視線を向け──
「……ひぃっ!」
堪え切れず喉が引きつる。
もう一つ足跡があったのだ。俺の背後、駅の構内に。
それは目の前の透明な水の足跡とは違い、赤い血でぐっしょりと濡れていた。
薄暗い構内の床、わずかに明滅する蛍光灯の明かりに照らされた、ついさっきついたような生々しい血の足跡。男の俺よりも一回り小さな足跡。
孫の少女のものだ、と考えが至る。途端、勘弁してくれよ!と叫びたくなった。
だから、なんで、俺なんだよ!
びちゃ
血の足跡が一歩を踏み出す。
何かがガチャガチャと煩いな、と手元を見れば、鋏が改札の柵に当たって立てた音だった。
持ち手を握った手が滑稽なほどブルブル震えていたが、当然笑えるはずもない。
びちゃ びちゃ びちゃ
それが歩く度に、足跡と見えない靴底の間に粘ついた糸が引き、雨の湿気の中でさえ鉄さびたような膿のような、どこか甘ったるい臭いが鼻をついた。
そのまま足跡は、一歩、二歩、三歩と近づき──目の前に、何かが差し出された。
「え、こ、これ……え?」
それは、切符だった。点々と飛び散った赤黒い染みに汚れているが、よく見慣れたその形を見間違うわけはない。手の中に収まる長方形のそれが、宙に浮いていた。
疑問符だらけの頭を抱えて、思わず交互に二つの足跡を見る。どちらも微動だにしない。
待ってるのか?何を?切符……いや、まさか、そんな。
「もしかして」という思いを胸に、手の中の改札鋏をぎゅっと強く握りしめる。
震えはもう、消えていた。
「ご利用……ありがとう、ございました……」
カチッと、宙に浮いた切符に鋏を入れる。
うまく笑えた自信はない。
それでも、長年のプライドや意地を総動員して、感謝の言葉だけはしっかりと伝えたかった。
びちゃ
血色の足跡が改札を越える。
それは透明な足跡と並ぶと、ゆっくりした足取りで駅の外へと進む。寄り添うように、お互いがはぐれないようにぴったりと並んだその二組の足跡は、やがて雨のけぶる景色の中に溶けて消えた。
雨はその後すぐに上がった。
時計を見ると、本当に10分かそこらの出来事だったようだ。晴れた空の下、次の電車が駅に入り、駅はあっという間に生者の気配に包まれる。
その後何事もなく仕事を終わらせ、次の担当者へと引き継ぎを終えて電車に乗ると、始発駅の事務室へと戻った。
そこでふと壁に貼られたカレンダーを見て、俺はやっと「その事」に思い至った。
「ああ、なるほどな……七度目だったのか……」
並んだ日付、それに指を添えて数えながら、そう呟く。
どうして、俺が担当の日に老婆の足跡が現れたのか。
どうして、今日に限って少女の足跡があの改札を通りたがったのか。
二人とも、ちゃんと辿り着けたかなぁ。
そんなことを思いながら、俺は手の中の改札鋏をくるりと回すのだった。
四十九日(別名:七七日)
ありがとうございました。