009_鬱屈(前)
霜暦九七六八年 フェンゼイの月(※1)
「ねえ、ちょっと、そこのあんた。早くどいてくれないかい。こっちは忙しいんだよ。」
不機嫌な声がして、俺は慌てて振り返った。
「す、すみません。ちょっと待ってもらえませんか。」
俺は急いで洗濯物を川の中から引き揚げようとした。だがたっぷり水を吸った厚い毛織物の上着は重く、すっかりかじかんだ手は思うように動いてくれなかった。
一仕事を終えたかみさんたちは、この洗濯用に設けられた狭い桟橋を早く後にして、家に戻り、ほかの仕事に取り掛かりたがっている。爪はじきにされて一番岸に近い場所で作業していた俺は、その行く手を塞ぐ形になっていた。
「お待たせしました。どうぞ。」
ようやく俺が立ち上がって桟橋の端に下がると、大きな籠を抱えたかみさんたちは俺から顔をそむけるようにして通り過ぎていった。俺は俯いて、その冷ややかな空気に耐えた。怠け者や要領の悪い無能者は、このメドーシェンではすぐに人々にその事が伝わり、嫌われ者になってしまう。
「ふんっ。」
「――っ!」
女の一人が、俺の洗濯物を踏みつけた。もちろんほかの女たちと同様に、靴は河原に残し、その足で洗濯物を踏み洗いしていたのだから、汚れが付着するわけではない。働くことの過酷さを誰よりもよく知っている彼女たちは、俺にそこまで酷い嫌がらせをしたことは一度もなかった。だが、びくりと肩を震わせた俺を見て、にんまりと見下したような笑みを浮かべられると、胸を氷で突き刺されたような痛みを感じた。
イザナリアに来て、俺の生活は一変した。手足を使って川で洗濯をし、火を使うために森で粗朶集めをするようになり、生活用水にするために、天秤棒と桶を使って共同井戸から汲んだ水を家まで運ぶようになった。親切なハノスさんが迎え入れてくれたお陰で、当面はスプーン一本持たない身の上であるにもかかわらず家財道具に困ることもなく、リーシャやその姉のレニオラに女の仕事やふるまい方を教えてもらいながら生活できている。だが、慣れない家事に不手際が多く、これまでまともに家の手伝いさえしたことがないことが、あっという間に近所中に知れ渡ってしまった。庶民にとっては働くことが当たり前な、生活の厳しいイザナリアでは、労働経験がないというのはそれだけで世間の目が厳しくなるのだが、加えて俺は、この性別なら当然押さえておくべき、諸々《もろもろ》の配慮にも欠けていて、そのために白い目で見られることも多かった。
例えばこの「見苦しい」短髪を隠しもせずに、衆目にさらしたまま表通りを歩くし、部位も使い方も分からないために肉屋に行っても肉を買うことができず、市場に行っても野菜の名前一つまともに言うことができないでいる。水溜まりを飛び越えようとして、男たちが見ている前でくるぶしより上までスカートをまくり上げるし、代官屋敷近くの大通りで大声を出し、果物の中に入り込んだ虫ごときに無様な悲鳴を上げてしまう。
「怠け者」で「不注意」で「無能者」、「常識も知らない」「下品な娘」というのが、ご近所から下された、最近の俺への総合評価だった。
もちろん、メドーシェン中の女たちが俺を嫌っているわけではない。
俺に対して好意的な人もいるし、お互いよく知っているわけではないが、親切にしてくれる人もいる。もちろん、全く無関心な相手だっていた。
だが、一部の女たちからは、俺は徹底的に嫌われていた。種族も違う余所者のくせに、メドーシェン市に来てすぐに神殿領の領民として戸籍が与えられ、それによって自由民としての身分が認められたことなども反感を買う理由になっている。これはフォーリミナの神託によるところが大きいのだが、月に二度ある「祈りの集会」の席も、代官一家や金持ち連中と同じ中央列前寄りに用意されているし、時折神官長に請われて聖歌の練習に招かれたり、古い写本の開示に同席を許されたりしていることなどの優遇措置が、彼女たちには不公平で許しがたいものに思われるらしい。
外で働き、俺の分まで生活費を稼ごうとしている将聖が、このかみさん連中の亭主に仕事をもらって口過ぎをしている日雇い労働者に過ぎないことも、この険悪な状態に拍車をかけていた。
会社の正規職員より、アルバイトのほうが上司の覚えめでたいようなものだ。手に職もなく、ハノスさんという他人の家に上がり込んで生活し、ご近所同士のルールも知らない常識はずれな貧乏人が、市内で大きな顔をしている(ように見える)ことに我慢ならない女たちから、俺はひたすら陰湿ないじめを受けていた。
もう一つ、俺の気分を落ち込ませていたのは、女の服を着なければならないことだった。俺はメドーシェン市に来たその日から、ハノスさんの妻のマチアさんから借りた、マチアさんのお母さんの服を身に着けていたのである。
本当は、女の服を着るなんて嫌だった。今の体はどうであれ、男の服を着るくらいは許してほしいと思っていた。ラノベやアニメでは、甲冑を着た女騎士や、際どい胸元の女魔法使い、太腿やへその穴の露出が趣味みたいな女冒険者のほうがざらではないか。それに比べたらズボンくらいなんだと思ってしまう。
だが、それはハノスさんに反対されてしまった。当初は俺の一人称が「俺」であることや、男子用の制服を着ているのさえ、旅のための変装だと思っていたのだそうだ。俺は「自分は男として育てられてきたので、これからも男の服を着続けていたい」と訴えたのだが、ハノスさんは俺を見て、きっぱりと言い渡した。
「お前さんみたいに綺麗な娘さんが、股が見えるような服装なんかしちゃいかん。ハイランダー族の風習はよく知らんが、人間族の女は、人前で股や尻の恰好なんか見せんのだ。そんなことをしたら変な男どもに誤解されて、悪戯されてしまうわい。勝手に娼婦扱いでもされたらどうする。旅芸人の中にはそういう格好をしている変わり者もいるようだが、あいつらも時々客を取ったりしているみたいだからな。」
俺はどきりとした。
何も知らなかったとはいえ、巨大樹の森であった出来事は、俺自身にも責任の一端があったということなのだろうか。
「絶対女の服でなければダメですか? 例えば、男の服の丈を長くして隠すということではいけませんか? 女の服は動きづらそうで、いざというとき危険な感じがするんですが。」
俺は必死に食い下がった。スカートをはくなんて、男としての矜持が許さない。せめて服装くらいは男を貫きたかったのだ。
「確かにスカートというのは動きづらそうだな。お前さんの気持ちも分からんでもない。だがな、男の服装のままでいたら、お前さんは男として扱われることになる。何か危険な目に遭ったら、お前さんは男として対処しなければならん。」
ハノスさんは俺の目を見て諭すように言った。
「お前さんにはそれができるかね? もし力ずくでお前さんを襲おうなどと考え奴がいたとして、…残念ながらメドーシェン市にもそういう輩がいないとは言い切れないんだが…、お前さんがきちんと女の服装をしていれば、手を出した者に与えられる罰は相当過酷なものになる。両手を切り落とされた上で檻に入れられ、市門の前で見世物にされるだろうな。弱い女に手を出すというのはそういうことだし、メドーシェン市にも司法が存在することは、ほかの市にも示さなければならんのでな。」
言いながら、ハノスさんはわずかに頬を歪めた。おそらくどこかで、そんな刑罰が行われている現場を実際に見たことがあるのだろう。
「そういう厳罰が準備されているからこそ、うちの娘たちが家の外を歩いても、悪党どもから身を守られているわけだ。誰かが罪を犯すのを、未然に防いでいるということだな。だが、お前さんが男だったら、話は違う。相手が男なら何をしてもいいということにはならないが、男ならある程度の危険からも、自分で身を守れなければならない。裏返せば、男が突然道端で殴られたりしても、その犯人に与えられる刑罰は軽い。」
言われて俺は頷かざるを得なかった。俺も男だからよく分かる。自分に自信がありすぎて、自分のことしか見えなくなっている奴ほど、ほんの些細な事で他人に噛みついてくるものなのだ。そんな男同士の小競り合いや諍いを、いちいち第三者が引き止めたり裁いたりすることはほとんどない。それよりも、自分に余計な火の粉が降りかからぬよう、見て見ぬふりをすることのほうが多いだろう。
「男の服装をするなら、お前さんは『男』だ。お前さんが『男』なら、襲っても実質お咎めはなしだ。犯人にはお前さんへの慰謝料の支払い義務さえないだろう。娼婦を買うより安上がりだ。女として扱われたと訴えても、下手をすると、男の服装をしていたお前さんのほうが罪に問われるかも知れん。メドーシェン市の風紀を乱したという理由でな。」
…理不尽だとは思わなかった。
このとき俺が思い出したのは、スカーフとたっぷりとした上着で全身を隠す、地球世界の一部の地域の女たちだった。
地球世界でも、女がズボンを履いたり肌を露出したりできるのは治安がいい国や地域に限られている。そんな地域ですら、長い歴史の中ではつい最近許されるようになった服飾文化だったはずだ。二十世紀になるまでの長い年月、女は肌を見せず、体型を隠す服装を求められてきた。きっとその理由は、イザナリアと同じだったのだろう。
不承不承、俺はハノスさんの説得を受け入れた。以来俺は、毎日女の服で過ごしている。
違和感はありまくりだった。「スカートのほうがスースーして気持ちがいい」とか言っている奴は、ちゃんとぶら下がっているからそう言えるのだ。こんな格好をしていると、地球世界で過ごした日々があまりにも遠く感じられて泣きそうになってしまう。
いつか俺が、本当の俺自身に戻る日が来るのだろうか。周囲の侮蔑の視線に耐えられず、どうしたら女らしく振舞えるんだろうと焦りながら、俺は男として自分が恥ずかしくて、情けなくてたまらなかった。
「ここがメドーシェン市です。第三十九代勇者のイノーエ様がクルサーティリで魔王と対峙されたときは、ここも戦場の一端になりました。その後外壁はずいぶん拡張されましたが、南側の一部にまだその名残が残っておりますよ。」
あの日、ハノスさんに案内されて、俺たちが連れてこられたのは、市壁に囲まれた城塞都市だった。映画のロケ地になりそうな、中世そのままの街である。もっと中央に近い城塞都市なら石造りの壁が見上げるほど高く周囲を取り囲んでいただろうが、この街の外壁の場合、石垣でできた部分は人の身長ほどの高さしかなかった。人が歩けるほど幅広いそれの上に、低い木造のアーケイドのような建物を乗せただけの、ひどく素朴な作りになっている。胸壁に当たる部分も、細い丸太を加工もせず組み上げただけの簡素さで、屋根は藁で葺かれていた。廃校になった後も歴史的建造物として保存されている、古い木造校舎の渡り廊下みたいだ。
一応有事を意識した作りになっているとはいえ、この街が中央の政治紛争や領土問題と縁があるようにはとても見えなかった。ここは山岳地帯の山裾に連なる辺境の高地で「魔界域」と呼ばれる危険地帯のすぐ手前。要するに、どん詰まりだ。主要街道はこの街を終着駅として途切れ、山脈の向こうはハイランダー族の領地となっている。その地域はハイランダー族の小さな集落が点在しているそうだが、こちら側の人間族には「荒れ地」として認識されているらしい。ハイランダー族の集落とは、巨大樹の森に阻まれて、滅多に行き来はないとのことだった。
このような地勢にあるので、この街の市壁は人間相手ではなく、主に魔物の襲来に備えて築かれたもののようだった。
「思ったよりずいぶん…。」
「うん?」
「いや、何でもない…。」
「…人が多いか?」
「うん…。」
初めて市門をくぐり、市の中心地に足を踏み入れたときは、予想よりも賑わっていて驚いたのを覚えている。日本の商店街には比べるべくもないが、市場では走り回る子供たちから早々に商売を終えて店じまいする老人まで、多様な年齢層の人々が大勢行きかっていた。
市内は広場に面して教会ならぬ神殿が立ち(主神はもちろん、フォーリミナだ)、この中央広場から縦横に、道が市門を超えた先まで続いていた。道の左右に石造りの家々が立ち並んでいる。近隣の山から切り出されたものなのか、みな柔らかなハチミツ色をしており、まるでお菓子の家のように見えた。
中央広場は広々としていた。月に二度の「祈りの集会」の後には、この広場で「聖人の記念日」の市が立っている。こんな辺境の地にあるにも関わらずその市はいつも盛況で、市内ではあまり見かけない「魔狩人」と呼ばれる人々も彼らの狩場から集まってきていた。
「優希。あれ。」
「うわぁ…。」
将聖が視線で俺に指し示したのは、窓ガラスだった。驚いたことに、市内のいくつかの家の窓にはガラスがはめ込まれていたのだ。ただし、大きな邸宅に限られているので、おそらく金持ちの特権なのだろう。歪んでいて透明度も低く、それ越しに外の景色を楽しむことは難しそうだったが、これからの冬の季節に、窓を閉めたまま室内で過ごすには十分な明り取りとなりそうだった。この技術を持ち込んだのは、四十三代続く勇者の中の一人なのかもしれない。
俺と将聖が市内を歩き始めると、人々がもの珍しそうに仕事の手を止めて、じろじろと遠慮のない視線を送ってきた。その頃にはきのこ狩りの人々とも別れ、周囲に身を隠せるような人垣はなくなっていたため、俺はそうやって見られることがやや辛かった。それでも市門までの道中きのこ狩りの人々と会話ができたことや、将聖がずっと俺の手を握っていてくれたお陰で、その抵抗感もだいぶ薄らいでいた。
姿かたちにおいては、イザナリアの人々と地球世界の人々の間に、大きな違いは見受けられない。肌や髪の色は地球世界よりも多様だが、人間族の髪の色は地球世界同様、暖色系が基本のようだ。まれに目の覚めるような、紅葉のような赤毛や、地球世界ではアニメでしかお目にかかれない淡いピンク色などもあり、最近は俺も道行く人々を眺めるのが楽しくなってきている。
そこへいくと、むしろ再構築の結果、外見上はハイランダー族に変えられた将聖のほうが、いかにも「異界人」という姿をしている。浅黒い肌と対照的な銀髪はこの地では珍しく、どこにいてもよく目立った。俺の肌も色が白すぎて、人々の間に立つと青味がかったような色に見えるらしい。寒色系の髪や肌の色、これがハイランダー族の特徴のようだ。
メドーシェン市に住むのは人間族のみだが、時折ドワーフ族の行商人の姿も見かけることがある。映画などで見かけるドワーフは人間の胸ほどの身長しかないように描かれているが、イザナリアのドワーフ族は確かに小柄ではあるものの、そこまで極端に身長差が開いているようには見えなかった。顔立ちも人間族とほぼ変わりはなく、唯一その体との割合において、両手が人間族よりやや大きいということだけが、彼らと人間族の特徴的な違いと言えた。ただし、その逞しい体つきはさすがドワーフ族といった貫録で、小柄だからといって魔物に後れを取るようなことは考えられなかった。
なお余談だが、俺たちの到着についてハノスさんが送った伝令は、メドーシェン市の代官にはまったく取り合ってもらえなかったようである。その若者は市門の前で待っていて、ハノスさんにしばらく何かを話していたが、会話が済むと、ハノスさんは俺たちをメドーシェン神殿へ案内すると言い出したのだった。
「…? 代官邸へ行くのではないのですか?」
当初は代官屋敷へ連れて行くという話だったので、そう将聖が尋ねると、ハノスさんは少しバツの悪そうな表情になって頭をかいた。
「あ、いやその…、お前さんたちは神殿に案内することになりました。」
「なにか、あったのですか?」
「いや、お恥ずかしいというか、言いにくい話なのですが…。」
不安がる将聖に、ハノスさんは慌てたように手を振った。ハノスさんとしては「勇者様の末裔である大鷲の一族のご到着は、代官様のお耳にも入れておくのが筋だろう」というのがごく自然な発想だったようである。
だが、このメドーシェン市の執政官は「神殿同士の手紙のやりとりに、なぜ私が関わらなければならないのだ?」という反応で、神託にも、俺たちの到着についても徹頭徹尾無関心だったそうだ。「難民ごときで煩わせるな」ということらしいのだが、ハノスさんの目には、それが信じられないことのように映ったらしい。
「女神さまのご神託が帝都の大神殿から届いたというのに、『関係ない』とは何と不敬な…。」
そう低くつぶやくと、ハノスさんは天に向かって一瞬目を閉じた。フォーリミナに向かい、謝罪の祈りを捧げたのだ。
俺は冷ややかな態度の代官よりも、このハノスさんの祈りに衝撃を受けた。これがイザナリアの人々の生き方なのだ。俺はフォーリミナを「少し信用のおけない大人みたいな存在」くらいにしか認識していなかったのだが、イザナリアの人々にとっては、フォーリミナは自分たちを救い、罰する全能の神なのだ。
フォーリミナに対する不敬な態度は許されない。俺はこのことを肝に銘じておこうと思った。
とりあえず俺としては、代官が我関せずで良かったと思っていた。街の偉い人の前に連れ出されるなど、それだけで御免被りたかったし、その上「こちらは翼の姫君で」などと紹介された日には、俺はどうしたらいいか分からなかったからである。
だが、神殿に連れていかれた後も同じように無関心でいてくれという願いのほうは、残念ながらかなわなかった。
「お待ちしておりました。ようこそ、『翼の姫君』。」
将聖の後ろに隠れていたのに、俺のほうが先に声をかけられた。何のために連れてこられたのかさえ分からない俺は、ガマガエルの交尾のように将聖の背中にひっついていたかったのだが、当の将聖が「何やってんだよ」という表情で俺に前に出るように促したので、俺は中三の時の担任の、数学教師に似た雰囲気を持つ、苦みばしった顔立ちの男の前に一人でよろよろと出て行く羽目になった。
ううう、覚えてろよ、将聖。この冷たい奴め。
――ああ、この顔は「黒板のこの問題を解いてみろ」と言い渡す寸前って感じだな。
そんなことを考えながら黙って見上げると、「富澤先生」は右手を胸に当て、俺に向かって深々と頭を下げた。
「お連れの方にメドーシェンの者が救われたそうで、深く感謝申し上げます…。」
いやいやいや、それは直接本人に言ってくれよ! すぐそこにいるからさ!
俺は将聖に救援要請の視線を向けたが、将聖は「返事してやれよ」というように、富澤先生に向かって顎を振って見せただけだった。
このクソ野郎。「フォーリミナの加護を受け取っておけ」というのはこういう意味だったのか? 要するに面倒事を俺に押し付けただけじゃねえか!
「だ、大事にならなくてなによりでした…。」
俺はどこかの漫画で読んだ台詞を、震える声で口にした。
富澤先生は顔を上げてにっこりと笑った。クソ、この富澤先生も男前だな。そう思いながら「これで良かったのか?」と尋ねるようにハノスさんと将聖を見ると、ハノスさんは「上出来だ」というように頷いてくれ、一方の将聖は片方の眉をくいっと上げて、面白そうに俺を見た。
――どういう意味だ、その表情は。
突っ込みたかったが、そんな暇はなかった。俺たちは富澤先生に促されるままに、神殿の奥の間へと足を踏み入れた。
重厚だが古びて色あせた調度の置かれた部屋の中で、俺たちは富澤先生から渡された毛羽立った紙に、氏名と年齢を記載するよう指示された。この時は「生年月日じゃないんだ…」と思ったに過ぎなかったのだが、行政から教育を義務付けられているわけではないイザナリアの人々の中には、自分の生年月日を知らない者もいるらしい。それはさておき、将聖がさらさらと記入しているのを横目で見ながら、「イザナリアの文字なんか知らねえよ」と俺は一人焦ってしまったのだが、紙をのぞき込んでみると、きちんと設けられた記載枠の中に、なんと日本語が書かれている。驚きながらも「これもフォーリミナの加護のお陰か」と思い返し、俺も名前と年齢を書いて差し出すと、富澤先生が「神聖文字がお上手ですね」という言葉とともに受け取ったのでさらに驚愕した。日本語が「神聖文字」とはどういう冗談かと思ったが、事実そのようなものとして扱われているらしい。
そしてこの一連の手続きが、俺たちが勇者の血筋に連なる者であるのを証明するためのものだったということも、遅ればせながら理解したのだった。
なお、これも後で知ったことだが、イザナリアに召喚された勇者は四十三人が全員、元日本人であるらしい。そしてどうやらこれは「始まりの勇者」の九人が、後世の勇者のために手記を残したことに起因するようだ。「再構築」だけでは伝えられないイザナリアの知識や魔王との戦いの経過を、実際の経験者が記録として残してくれているのだ。フォーリミナとしてはこれを利用しない手はない。
そんなわけで勇者は日本人に偏り、勇者が使う文字、日本語は神聖文字となり、この文字を読み書きできる聖職者や勇者の末裔は特権階級と見なされるようになったもののようである。俺や将聖が神殿の写本の開示に同席を求められるのも、単にそれが読めるからで、仕事として誤写や翻訳の誤りの確認を依頼されているからなのだ。
俺と将聖は漢字で氏名を記載することで、「勇者の血筋」に連なる者であることが正式に認められたのだった。そしてその後はすぐ、「戸籍」を作る手続きをしてもらえたのである。
戸籍は「神殿領の領民である」という証であり、同時に「自由民」であるという証でもある。地球世界なら教会の教区民のようなものだ。俺たちはメドーシェン神殿に身分を保証され、「自由民」としてこのメドーシェン市で暮らしていけることになったのだ。
しかし、これは確かに「特別扱い」と疎んじられる部分もないわけでもなかった。
まだまだ経済が発展途上にあるこの世界では、戦争や飢饉、疫病の発生や魔物の襲来などで誰もが簡単に住む場所を失いやすく、失った後の未来は明るいとは言えなかった。難民の多くは農奴、人足、あるいは魔狩人になり、才能があれば職人や旅芸人に、なければ浮浪者になり、一部は強盗や娼婦になっていく。思い出すだけで身震いがするが、あの森で会った連中が言っていたことは正しかったのだ。
一方の俺たちは、神聖文字の知識以外に何の技術も生活手段も持っていない。代官が俺たちに無関心だったように、たくさんの金を積むか、有力な貴族の後ろ盾があることを示せなければ、メドーシェン市で戸籍を得るなど本来不可能だったのだ。
だが俺たちには「フォーリミナの神託」があった。「星読みの巫女」から届いたたった一通の手紙だけで、「祈りの集会」に参加するたびに富澤先生から丁寧に挨拶されたり、この秋最初に樽出しされたワインのテイスティングに招かれたり、聖人の記念日の市場から神殿に贈られた一番良い果物や焼き立てのパンの一部を譲り受けたりしている。「メドーシェン生まれのメドーシェン育ち」であっても、みながみな、このような待遇は受けられないのだから、妬みや反感を抱かれたとしても仕方のないことなのかもしれない。
それにしても、俺たちはここで初めて、フォーリミナの「神託」の威力がいかに重要かつ絶大であるかをまざまざと知る羽目になったのだった。
ちなみに戸籍がなくてもどこかの土地に勝手に住み着くことは、一応可能ではあるらしい。要するに浮浪者の扱いとなるわけだ。だがその場合、共同体の一員として認められていないので職人ギルドへの参加が認められず、仕事を得ることが難しくなる上、無職のうちはどこかの部屋を間借りすることもほぼ不可能になるとのことだった。市場で買い物をするにも差別され、いざという時に裁判も受けられない。そればかりでなく悪い奴らにも目を付けられやすく、稼ぎを巻き上げられたり売り飛ばされたりすることも稀ではないということだ。不利益を被るどころか、もはや生きていくことそのものが難しくなってしまうといっていい。
ラノベの世界がこんなにシビアだとは思わなかった。
普通、どこかの冒険者ギルドで登録をすれば、仕事を貰え、身元も保証されて生きていけるんじゃなかったのだろうか。
とはいえ、このメドーシェン神殿が俺たちに与えられる恩恵は「自由民であることの保証」だけのようだった。自由民であっても、領主や神殿から土地を借りて農業を営む経営者はいる。土地の借用料と税金さえきっちり払えば、借地しか持たなくても自由民でいられるのだが、俺たちはその「神殿領」を拝借することはできなかった。もちろん借りられたところで農業経験のない俺たちのほうが困り果ててしまったことだろうが、このメドーシェン神殿はそこまでたくさんの農地や果樹園を持つ恵まれた神殿ではなかったのだ。
「ご紹介できる仕事といえば、人足ぐらいしかありませんが。」
俺たちが戸籍を作った日、奥の間で恭しく出迎えてくれた神官長は、かすれた細い声で申し訳なさそうにそう言った。帝都は瑞光大神殿にいらせられる「星読みの巫女」から、名指しで神託の書状を受け取ってしまった張本人である。メドーシェン神殿の最高責任者であるが、そんな地位にあるとは思えないほど痩せさらばえた、胡麻塩頭の爺さんだった。物腰も遠慮がちで控えめだったが、それにもかかわらずその思いやりと信仰心によって市民から崇拝されている、奇特な人物らしい。
誰かに似ているなと思っていたら、将聖が低く「御前様だ…」とつぶやいた。御前様とは、テキ屋を主人公にした日本の国民的映画シリーズに出てくる帝釈天の住職のことである。親父が好きで、テレビ放映される正月には欠かさず見ていた映画なので俺もよく知っていた。確かに似ており、俺は吹き出すのをすんでのところで堪えた。
「この神殿領の土地を貸し付けている農場主に頼めば、土起こしや麦踏み、刈り入れなどの繁忙期には必ず雇ってもらえるはずです。日雇いになりますが、うまくすれば、ゆくゆくは農場使用人として正式に雇ってもらえることになるかもしれません。」
「農場使用人と農奴の違いは何ですか?」
将聖が尋ねた。こういう小さな違いを聞き逃さないのが将聖らしい。
「農場使用人は農奴を監督するのが仕事になります。」
御前様は親切に教えてくれた。だが、同席していたハノスさんは「なるほど、ハイランダー族の方々にとっては、初耳なんでしょうなあ」などと言い出すから、俺は隣でヒヤヒヤしていた。迂闊なことは口にできないと思っているのに、俺たちの発言は片っ端から常識の的を外してしまっているらしい。
…フォーリミナも、俺に理解不能な加護を授けるくらいなら、俺たちが変な発言をしそうになるたびに、自主規制音で隠してくれるくらいのサービスをしてくれたっていいだろうに…。
俺は内心そう思わずにはいられなかった。
「その、職業安定所のような…、つまり、仕事の斡旋を専門的に行っている窓口のようなものは、この街にはないんですか? …例えば『ギルド』とか?」
将聖は先のことが気になってか、食い下がるように仕事のことを尋ね続けていた。すでに冬小麦の畑作りは繁忙期を過ぎ、種蒔きなどの作業も終わってしまったという話に、そうそう仕事が見つかるとも思えず、焦っていたのだろう。
だが、辛抱強く俺たちに付き合ってくれていたハノスさんが、将聖を押しとどめた。
「もし良かったら、お前さんには俺から紹介したい仕事があるんだが。」
ハノスさんは俺たちの会話を聞いているうちに、徐々に俺たちに対する遠慮や慎みが薄れ、代わりにすっかり心配になってしまったらしかった。なにせ、俺たちはあまりにも物を知らなすぎるのだ。見たところ怪我もしているようだし、今日はうちに泊まってくれ、というハノスさんの申し出に、俺たちは甘えるしかなかった。
以来俺たちはずっと、ハノスさんの家に厄介になっている。
一つだけ、この時のことで気になったことがある。俺たちの手続きが終わり、富澤先生への挨拶も済んで、メドーシェン神殿を後にする時だった。俺は立ち去る前に今一度、御前様に深々と頭を下げた。仕事口の斡旋など、これからどれだけ世話になるか分からなかったからだ。
「神官長様。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。」
「こちらこそ、姫。」
御前様も俺に対し、丁寧なお辞儀を返してきた。その頃には俺はもう、この人に「姫」以外の呼称で呼んでもらうことを諦めていた。「星読みの巫女」の発言は、イザナリアの聖職者界隈ではそれほど重いものらしい。
ふと気付くと、顔を上げた御前様は、穏やかな笑顔の中に一抹の憂いを忍ばせていた。
「ここはこのような土地柄です。これからは私どもも、姫には大変なご助力をいただくことになるかもしれません。」
俺は驚いて御前様を見返した。
「えっと、それはどういうことでしょうか…?」
「いえいえ。まだ決まったことではないのですから…。」
俺の質問に、御前様は曖昧に返事をぼかした。そして「ハノスが待っていますよ」と退出を急かされてしまった。
(※1: 地球世界の十一月。フェンゼイは芸術・旅芸人の守護聖人。)
新年あけましておめでとうございます。
2020年は、私にとって、いまだかつて経験したことのない大きな変化の年となりました。社会から受ける影響も大きかったですし、自分の意志で始めたこともいくつかあり、また忽せにはできない家の事情も重なって、目まぐるしく過ぎた1年だったように思います。自分自身はなかなか動き辛い中にありながら、社会情勢には大きな変動があり、不安ばかりが募った1年でもありました。ともかくも無事2021年を迎えることができ、今は支えて下さった全ての方々に、心から感謝しております。本当にありがとうございます。また笑顔で年の瀬を迎えられるよう、頑張っていきたいと思います。
みなさまはこの2021年をどのように迎えられましたでしょうか。
さて、新年最初の投稿は2月1日(月)を予定しておりましたが、なんとか間に合い、繰り上げ投稿しております。本年もお付き合いくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。
なお、このたびの投稿に伴い、あとがきでの次回投稿予定日の通知は廃止することにいたしました。自分としては「2年以内に書き上げる」ことを目標に、最終章を目指してひたすら精進しておりますが、やむを得ぬ事情により予定日に間に合わない危険があったり、逆に今回のように「絶対間に合わないだろう」と思っていたところ、意外にあっさりと執筆の障害となるものが片付いてしまうこともあったりして、私自身先行きの読めないところがあるからです。
これもみな私の未熟さによるものですが、それによりみなさまへのお約束を反故にしてしまうのは大変心苦しく、このような判断をさせていただくこととなりました。本当に申し訳ありません。これからも「月1回の投稿を目安」として活動してまいります。ご理解くださいますようお願い申し上げます。
最後になりますが、みなさまにとって、この2021年が幸多き1年となりますよう、心より願っております。