007_出会い
俺たちは広葉樹の森をゆっくりと歩いて行った。
ほどなく、巨大樹の樹海の「岬」から見えた牧草地に踏み入れるだろう。
空腹で、疲れ切っている。早く人里にたどり着いて休みたい。
そう思っているのに、徐々に俺の足取りは重くなっていった。
もう歌を歌いながら歩く気分ではなかった。胸がむかむかするのは、腹が減りすぎているからだろうか。
将聖が何度も立ち止まっては振り返る。少し歩くだけで、俺との距離が開いてしまうからだ。疲れているのなら、と手を差し出すが、俺は首を振って握り返すのを断った。
「大丈夫か?」
将聖も、俺の変化の理由に気付いている様子だった。
「もう少し行くと、人がいる。結構な人数だぞ。」
「行くよ。」
俺はこみあげてくるむかむかを堪えて言った。
「俺は腹が減ってるし、お前には医者が必要だ。誰かに助けてもらわなきゃ、俺たちこれからやっていけない。人がいるっていうなら、会おうや。」
そんなことを話し合っているうちにも、森の向こうから人の声が響いてきた。俺はぎくりとしてその場に立ち止まってしまった。
人の声が聞こえるというだけで、俺は怯えてしまっていた。将聖はあの男たちとは人数も気配も違うと言っていたが、俺はただただ他人に合うのが怖かったのだ。
俺自身は自分を男だと思っているのに、外側は完全に女。
人々は俺を女だと思って接してくるだろうし、一方俺は、女としての振舞い方や他人との接し方、距離の取り方が皆目わからない。
自分でも気持ち悪くて仕方がないし、他人から見たら、どれだけ不自然なのだろう。
それでも自分を叱咤して、無理矢理声のする方向に歩いていくにつれ、俺はこの話し声の人々なら、そこまで恐れる必要はないかもしれないと思い始めていた。それがどうやら働く人々の声で、笑い声や子供の声、特に小さな女の子の声が混じっていることに気付いたからだ。
「お母さーん。早く! こっち! こっちにいっぱいあるよー!」
「待って。そんなに急がないで!」
「おーい。あんまり遠くにはなれるなよー!」
きのこ狩りでもしているのだろうか。子供も混じった複数の男女が、声を掛け合いながら周囲を探索しまわっているような雰囲気だった。声はどんどん近くなっていく。彼らの声から感じられるのどかさや大らかさは、俺たちにも向けてもらえるのだろうか。俺は全力疾走した直後のような激しい動悸を感じて、息が詰まりそうだった。
突然、将聖が俺の肩をつかんだ。
「…!」
将聖が何も言わずにこんなことをする時は、近くに魔物がいる。俺が見上げると、将聖は近くにある俺でも登れそうな木を顎で示して、自分は人々の声のする方向へ走っていった。
俺もすぐに動いた。あいつの足手まといは最低限に留めることが、俺の最後のプライドだからだ。俺は木に登り、できるだけ枝の密集したところへ入り込んで、息を潜めた。
待ち時間は長かった。
意外でもなんでもなかった。将聖の危険察知能力がかなり広範囲に及ぶことは、巨大樹の森の中で実証済みだ。
「きゃああああっ!」
先に駆け抜けたのは、女の悲鳴だった。授業中雷が鳴ったときに、クラスの女子が上げる悲鳴よりも突き刺さる声だった。女子の悲鳴はおそらく、半分以上はおふざけだ。本当の悲鳴は声にならない。でなければ、凄まじい絶望を含んで空気を引き裂くようだ。
俺は悲鳴の聞こえた方角へ耳を澄ました。うかつに頭を出せない以上、こんな時は聴覚だけが頼りとなる。
チュイイイイインッ。
チュイイイイインッ。
また、変な音がする。機械の起動音のような音だ。だが、俺はそれが魔物の咆哮だと分かっていた。森で見かけた小鳥たちは、地球世界の小鳥とよく似た鳴き声でさえずっていたが、魔物に普通の生物の常識は当てはまらない。
男たちの怒号が響く。俺は唇を噛んで恐怖に堪えた。イザナリアの男たちがすべて、俺に襲い掛かった男たちと同じなはずはない。だが、その時俺は、魔物より見ず知らずの男のほうが怖いと思った。俺は頭を振って、嫌な思いを振り払った。
俺の隠れている木の下の、わずかに開けた空間に、女の子が飛び込んできたのはその時だった。艶やかなクルミ色の髪が印象的な、十歳くらいの女の子だ。
「――っ! ――っ!」
何かを叫んでいるのだが言葉にならない。俺もあまりに突然のことで呆けている一瞬に、泥をぶちまけるようにして魔物が飛び込んできた。
それは蛇の大群をひとまとめにしたような何かだった。モップの先についているモフモフに似ている。ただし、蛇一匹一匹は大人の腕ぐらいの太さがあって、ぐにゃぐにゃ動いている姿は、これだけで一本の恐怖映画だ。
泥をぶちまける。そんな形容しかできない動きだというのに、その動作は素早かった。少女の背後に瞬時に迫ると、その蛇そっくりの触手を振って、少女の背中を鞭打った。
「はうっ!」
打たれて、少女が地面に倒れこんだ。服の端と一緒に髪が一房切り裂かれ、宙に舞う。
触手が少女の細い足首をつかんで、ぐい、と引き寄せた。
俺はまだ呆けていて、何をしたらいいのか分からなかった。
「誰かっ! 誰か助けてっ!」
少女が叫んだ。恐怖に締め上げられ、ほとんど誰にも届かない囁き声だった。
――そうだ、助けなきゃ。
そう思った瞬間、俺の心が決まった。
女の子に「助けて」と言われて、何もしないのは男じゃない。
たとえ丸腰だとしても、少しばかり語弊があるとしても、やっぱり俺は、男なのだ。
俺は男だ。
「とうっ!」
俺は樹上から飛び降りた。梢から魔物の真上に向かって、である。
特撮の正義の味方の必殺キックを真似して、右足の踵に全体重を乗せて、俺は魔物に突っ込んだ。
何か、俺ってカッコイイかも。
そう思ったのは一瞬だった。
むに、と踵が魔物を踏みつけた。一応手応えというか、足応えはあったので、それなりにダメージは与えられたと思う。
――しかし。
「やっべぇっ!」
俺は心に叫んでいた。俺の踵は、高跳びの授業で使うマットレスに飛び込んだ時のような、弾力性のある衝撃とともに、簡単に弾き返されてしまったのである。
――何という耐久力。俺のキックを吸収するとは。
そんなボケをかましている余裕さえなかった。
これが「魔物」か。
俺の心臓を、ひやりとした手が一瞬撫でた。甘く見ていた。そんな表現ですら烏滸がましい。常識を超える存在だということを、あれほど将聖に見せてもらっていたはずなのに。
これほど強靭な相手だとは、想像さえしなかった。
俺の体は気持ちよく弾き飛ばされた。幸運にも草地の上に足のほうから着地できたが、うまくバランスが取れなくて、たたらを踏んでそのまま膝を突く。
くそっ。
俺は両手で地面を突き返すようにして体を起こし、身を翻した。一瞬でも隙を見せたら、魔物にやられる。
魔物は少女を放していた。それだけは救いだった。俺のしたことは無駄じゃない。
少女も無抵抗は無駄死にだということが分かっているのだろうか、スカートがまくれ上がるのも構わず、くるりと寝返りを打ってうつ伏せ状態になると、そこから手足を突っ張り、苦しそうに立ち上がった。とはいえ周囲にすぐに駆け込めるような逃げ場はなく、魔物の動きに目を注いだまま、次はどうしたらいいのか分からないというように二の足を踏んでいる。
俺に一蹴り入れられた魔物は、ほんの少しの間だけ、体をぐにゃぐにゃと動かしていた。まったく効果なし、というわけではなかったらしい。今は自分のことで手一杯、という様子だった。動かして状態を確認しているといったところだろうか。
魔物にも驚きという感情があるのだろうか、そいつは予想もしなかった攻撃を受けたことにわずかな動揺を見せていた。だが、すぐにそれは怒りに似た反応へと変化し、ざわざわと触手を振りながら俺のほうへ迫ってきた。
…ああ、やっぱり、誰に何されたか、分かっているわけね…。
自虐とも、ブラック・ユーモアともつかない思いが、胸をよぎった。
少女は、逃げなかった。自分を追ってきた魔物が、今度は俺に襲い掛かろうとしていることに動揺して、大きく目を見開いている。俺は「いいから逃げろ」というように手を振った。俺たちが二人共やられたら、俺はそれこそ犬死だ。
だが、この後どうしたらいいのか。それは俺にも分からなかった。
投げつける石か、振り回す枝でも落ちていないだろうか。
視線を走らせたが、そんなに都合よく、手近な場所に手頃な武器は見当たらない。少女にしたように、魔物が触手を鞭のように振り下ろしてきたので、とっさに俺はその下を潜り抜けるようにしてやり過ごしたが、すぐ後に続く二本目の触手へは対応できず、右腕を嫌と言うほどぶちのめされた。
パシィッ
「痛あぁっ。」
俺は吹き飛ばされかけたが、尻餅をつくのをどうにかこらえた。だが、この打撃はかなり効いた。右腕の肉を全部持っていかれるかと思ったほどだ。さっきのキックの衝撃の吸収力といい、今のしなやかな動きといい、こいつの弾力は、全身がゴムでできているようなものだろうか。
これが他人事なら某有名漫画の海賊王を目指す主人公を思い出して喜んだかもしれないが、このときの俺は、腹の中で将聖の名前を呼び続けるだけだった。
将聖、将聖っ、将聖~~~っ!
俺ムリ。絶対ムリ。死ぬ死ぬ、死んじゃう! 助けてくれ、将聖っ!
魔物が、今度は逆サイドから俺に触手を振り下ろした。避けるのはもう不可能だ。俺は思い切り右に向かって体をひねった。せめて同じ方向に動くことで、その威力を減らしたいと思ったのだ。
「――わっ!」
驚いた。俺の素人戦法が、ともかくも効いた。触手は俺の左肘から腰にかけて打ち据えた後、背中を走って後頭部までかすったが、俺を地面で一回転させただけで右腕ほどのダメージは与えなかったのだ。
――あきらめるなっ!
何かが頭の中で叫んで、回転レシーブの要領で立ち上がりながら、俺は歯を食いしばった。
魔物の動きは速い。俺は近くの木に駆け寄って、背中を預けるように振り返った。
すでに右から触手が飛んできている。
俺は左へ転がった。
ガッ。
チュイイイイインッ。
魔物が声を上げた。俺の代わりに木の幹に自分の触手を叩きつけてしまい、痛みを感じたのか。それとも、ただ単に、勢い余ってくるりと巻き付いた触手をほどいている間に、俺が走り出したので苛立っているのか。
耳の奥で、心臓がバクバクいっている。そのせいで、落ち葉の上を走っているはずの、魔物の足音が聞こえない。
俺は幹がスリング・ショットのように二股に分かれている木の間を、無我夢中ですり抜けた。
ボリリッ。
どこかの枝が、裂けた音がした。骨が砕けるような音だ。跳ねる心臓の音さえ突き抜けて、俺の鼓膜に突き刺さる。
思わず振り返ると、魔物の体がY字になった木の股に食い込んでいた。
逃げ切れる。
そう思った。その瞬間、痛む右腕をつかまれて、俺は引きずり戻されていた。
「…っ、あああああっ!」
あまりの痛みに、俺の両目から沸騰したように涙が吹きこぼれた。一瞬理性が振り切れて、記憶が飛ぶ。何が何だか分からない、長い刹那が駆け抜けた。
…そして。
俺は魔物の前に立たされていた。
最初はなんで立っていられるのか、分からなかった。両手を触手につかまれて、半分宙吊りになっていることに気づいたところで、いきなり解放される。スプリングが壊れた卓上ライトのように、俺の膝はくにゃりと地面に落ちてしまいそうだったが、わずかに残った生存本能が、俺をその場に立たせてくれた。
こんな気持ちの悪い生き物を見たのは生まれて初めてだった。
俺はまじまじと魔物を見上げた。この期に及んで、俺はようやく落ち着いて、魔物の全体像を目に捉えることができた。
全体的には、サソリに似ていた。モップのような幾本もの脚で走りながら、尾の位置にある二本の触手を頭上から振りかぶり、攻撃してくる。
だが、それ以外はサソリにさえ似ても似つかない醜悪さだった。
体表を覆っている、ぐにゃぐにゃと蠢くものが体毛だろうか。
その蠢く体毛を束にしたようなものが、脚なのだろうか。
魔物は触手を使い、俺の足元の地面をピシ、ピシ、と打ち据え始めた。
俺は顔を歪めて舌打ちした。
キックのせいか。それとも、無駄にちょこまか逃げ回ったせいか。魔物はゆでだこ状態だった。俺をいたぶって殺すつもりらしい。
俺は痛む右腕を左腕で胸に抱き寄せ、後ずさりした。ふと気づくと、あの少女がまだ木にも登れないまま、俺を見ている。顔が涙でぐしゃぐしゃだ。俺は笑って「登れ」と顎で促した。
涙に救われる。そんなことが、本当にこの世にはあるのだ。
俺は、魔物に向かって吠えた。
「この、嗜虐趣味の、変態クソ野郎っ!」
その時俺の目に、地面を這うように低い姿勢で、滑るように間合いを詰める将聖の姿が映った。
「かがめ、優希!」
将聖が叫んだ。その体が一瞬で跳ね上がり、足が大きく踏み込む。俺が尻から地面に崩れ落ちるのと、その腕が横に薙ぎ払われたのはほぼ同時だった。
魔物の体が裂けた。
一刀両断とまではいかないが、あの弾力のある体表が深々と切り裂かれ、傷口から真っ黒い血をぶちまける。
将聖の手に、大振りの鉈のような刃物が握られていた。
「立て優希! まだロスタイムっ!」
狂ったように叩き下ろされる触手の鞭を振り払いながら、将聖が俺に怒鳴りつける。まだ俺の戦いも終わっていないという意味だ。俺はズキズキ痛む両腕を突っ張って、跳ねるように立ち上がった。
「そっち! 走れ! 早くっ!」
将聖が戦いながら、森の一方向を指し示す。俺が走り出すと、背後から大きな笛の音がピリピリと空気を震わせた。
振り返った俺の目に、降り注ぐ矢が見えた。数は多くないが鋭い威力を含んで、正確に魔物の体を貫いていく。ぼすぼすぼす、という鈍い音が響いた。将聖はまだ笛を口にくわえたまま、木の陰に隠れてやり過ごしている。
俺は離れた木の幹に体をぶつけるようにして、ようやく足を止めた。こうでもしなければ、自分がどこまで走っていったか分からない。
立ち止まった途端、今度は両足が震えた。下半身の力が抜けて、失禁してしまうかと思ったほどだった。俺は初めて「腰が抜ける」という言葉の意味を理解した。頭は何とかしようと焦っても、神経が途中からぷつりと切れてしまったかのように、体がまったく思い通りにならないということがあるのだ。
怖かった。
本当に、死ぬかと思った。
男たちに襲われた時も怖かったが、今の魔物との対峙は、あれの比ではない。
この短期間で、こんなに恐ろしい目に何度も遭うなんて。
体が勝手にガクガク震えてきた。歯の根が合わない。また少し吐き気がする。
俺が木の根元にうずくまり、自分自身が落ち着くのをひたすら待っていると、俺の名前を呼びながら、将聖が走ってきた。
「おい、大丈夫か?」
将聖が立ったまま俺に呼び掛けた。まだ肩で荒く息をしている。
「…おう。」
俺はようやく振り返った。見ると、あのクルミ色の髪の少女も将聖と一緒に俺の傍まで来ていた。近くで見ると、なかなかの美少女だ。
「馬鹿野郎。丸腰で何つー危ねえことしやがる。」
珍しく将聖が毒づいた。ただし、俺が何をしていたのかは大方察しているらしい。俺は少女のほうへちらりと目を向けた。
「仕方ないだろ。…放っておけないし。」
「分かってる。ホント、お前偉いよ。」
将聖は俺の代わりに、まだ涙目の少女の頭をよしよしした。
少女はまだ息が整わないのか、目を閉じ、胸を押さえて肩で呼吸している。
「でもお前さあ、またちびっこに戻ったんだから少しはやり方考えろって。飛び出す前に武器探すとか、大声で人を呼ぶとか、そういう時間もなかったのか? こっちは肝が冷えたわ。」
「るせー。ちびっこ言うな!」
将聖の言うことが正論すぎるので、俺が噛みつけるのはその部分しかなかった。言い返しながらも、胸に安堵が広がっていく。ようやく俺も将聖に笑い返せるようになっていた。
それに、「ちびっこに戻った」とはまた将聖らしい表現だ。
将聖は俺の左手を取って立ち上がらせると、少し遠慮がちに言った。
「腕。見ていいか?」
「骨は折れてないぞ。それくらいは、自分でも分かる。」
そう言いながらも、俺は将聖に右腕を差し出した。あまりにも痛みがきつすぎて、自分では手首を動かすことさえもできない状態だったからだ。
将聖が俺のほころびたブレザーとワイシャツの袖をまくり上げた。俺が縮んだ分、制服はぶかぶかになっていたので、その作業自体は簡単なはずだったが、俺は痛みをこらえるために歯を食いしばった。今は赤くなっているだけだが、そのうち内出血で真っ黒に腫れ上がるだろう。
「多分、しばらく辛いぞ。」
そう言う将聖のほうが辛そうな表情だった。俺の腕の細さに改めて驚いている様子だ。
俺はもうこいつの後悔に付き合うつもりはなかったので、クルミ色の髪の美少女のほうへ顔を向けた。いつの間にか将聖以外への対人恐怖症は消えていて、それに自分でも気づかなかった。
「そっちは大丈夫か?」
少女はまだ、青ざめて俯いていた。つい今しがた死にそうな目に遭ったのだ。この年齢ならすぐに泣きださないだけでも気丈なほうかもしれない。まだ苦し気に両手で胸を押さえているので、俺は心配になって少女の目の高さまで屈み、顔を覗き込むと、片方の手を取って握ってやった。
「怖かったな。でも、もう大丈夫だ。」
少女は大きく息を呑んだ。
「…な手。」
少女が何かを言ったような気がしたが、俺の耳には届かなかった。
「ん? 何か言ったか?」
俺が尋ねると、少女は黙ったまま自分の小さな手を見つめ、それからその手を包みこんでいる俺の手をぎゅっと握りしめた。
少女はようやく、覗き込んでいる俺を見返した。瞳がうるうると熱を持って潤んでいる。安心したせいで、逆にそろそろ泣き出すタイミングなのかと思ったが、何だか様子が違った。頬を紅潮させ、胸の上でもう一方の手をぎゅっと握りしめたまま動かない。
こ、これは…!
俺の小鼻が、期待にぴくりと動いた。
やっぱりそうだ。少女はきらきらとした空気を発散させながらじっと俺に目を注いでいる。女子が、将聖ではなく、俺を見ている。
最高にいい気分だ。
頼む。俺に惚れてくれ。
「あなたはお姫様? 翼のお姫様なの?」
…よく分からなかった。今この子はまさに異界語でしゃべっている。
「お姫様だ。…すごい。翼のお姫様が私を助けてくれた…。」
「将聖。なんか俺、急に日本語が分からなくなった…。」
「落ち着けって。あの子がしゃべっているのは日本語じゃない。」
「いや、俺が言っているのはそういうことではなくてだな…。」
将聖は時々、突然ものすごくニブくなる。俺はイライラしながら首を振った。
難しい四字熟語みたいなもんだ。言葉は何とか分かっても、意味不明なことってあるだろうがっ!
だが俺が将聖に言い返す前に、鐘の音のように豊かなバリトンが力強く割り込んできた。
「リーシャ!」
さほど長身ではないが逞しい体つきの、髭もじゃの男が走ってくる。俺が怯えを感じるより先に、少女をその大きな胸に抱き込んで、ポロポロと涙をこぼした。
「無事だったか。良かった。良かった…。」
「父さんっ!」
少女も、男の体にしがみついた。緊張が一気にほどけて、涙に代わる。
そうか。この美少女の親父さんか。
俺は少し安心した。こんなに女の子を大切にするおっさんなら、俺にいかがわしいことを仕掛けてくることはないだろう。
そう思ってから、俺は自分の男を見る目がすっかり変わっていることに気付いて少しばかり驚いた。以前は話が分かる奴かどうかが重要だった気がする。今は安心できる相手かどうかが重要になっていた。
リーシャと呼ばれた少女が、俺たちを示しながら髭のおっさんに何か話している。おっさんは何度も頷くと、帽子をとって近づいてきた。
「只今のご助勢感謝いたします。また娘の命も助けていただいたそうで、なんとお礼申し上げてよいやら…。」
おっさんは、まるで俺たちが一人前の大人であるかのように、丁寧に謝意を述べた。
「とんでもないです。こちらこそ、初対面なのに武器までお借りして、本当にお世話になりました。」
将聖も頭を下げて、きちんと魔物の血を拭った鉈を差し出す。将聖はルックスだけでなく、こういう誠実な態度でも他人受けがいいのだ。おっさんも鉈を受け取りながら、改めて感心したような面持ちで将聖を見上げた。
「私はハノスと申します。この先のメドーシェン市で農夫をしている者です。昨今は魔物が増えまして、魔物狩りの手伝いなんぞもやっております。失礼ですが、あなた方はどちらからお出でになったのですか?」
ハノスさんが礼を言っている間に、俺たちの周囲に人々が集まってきた。最初は弓矢をもった男たちで、これは先ほど将聖をフォローして魔物に矢を射かけてくれた人たちだろう。それから、籠を背負ったり大きな布袋を斜め掛けにしたりした女たちが、子供たちを引き連れてやってきた。一応遠慮するように遠巻きにしているが、実際には俺たちに興味津々といった様子で、押すな押すなの大盛況である。
ハノスさんの挨拶を受けて将聖が自分の名前を言い、俺のことも紹介した。ショウセイ、ユウキという名前は聞きなれず発音が難しいのか、ハノスさんは何度も聞き返している。
それから、将聖が口を開くのも待たず、ハノスさんは将聖に尋ねた。
「あなた方…、もしやディフリューガル山脈の大鷲の一族の方ではありませんか?」
聞きなれぬ言葉に、将聖と俺は互いに顔を見合わせた。
次回の投稿は2020年12月1日(火)の予定です。