005_受難
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異世界での第四日目も、巨大樹の森の中で暮れ始めていた。
森を進むにつれ、俺たちは魔物と接近することが多くなってきた。将聖の危険察知能力がかなり高くて、正面から突然出くわすということはなかったが、それでも相手の動きが速いのと、俺の動きが遅いのとでニアミスることも多かった。どうやらこれまでの安全だった道のりは、かなり恵まれたほうであるらしい。徐々に俺たちにも、イザナリアではこんな危険と隣り合わせの状況のほうが普通なのだということが分かってきた。
将聖が魔物の気配に気付くたびに、俺を岩陰に隠したり、木の上に引っ張り上げたりする。
あー。俺ホント、完全に将聖の足手まといだな。
俺が自己嫌悪を隠しながら歩いていると、また、将聖が俺の肩をつかんだ。
「ダメだ。数が多すぎるっ!」
どこに意識が飛んでいるのか、将聖が虚空を見ながら低く叫ぶ。そして俺を一瞬絶望的な目で見てから、なんと肩に担ぎあげて、今来た方向へ向かって走り出した。
――速い!
俺は絶句した。
嘘だろ、俺を担いでいるんだぞ。
俺は将聖の背中に顎が何度も叩きつけられるのを避けるために、逆さまの状態であいつの腰にしがみついた。
こうしたほうが安定するのか、将聖の体の動きもますます激しくなっていく。
背後から擦過音のような音が追いかけてきた。黒板を爪で引っ掻くような、不快な音だ。
それが魔物の咆哮だと気付いた時には、その黒い獣はすぐ近くまで迫っていた。
ちゃんとその姿を確認したいが、下手に体を起こして将聖の動きを妨げたくはない。足枷には足枷のプライドがあるのだ。
「…っ。」
凄まじい殺気が叩きつけてきた。すぐそこにいる。
「ギャオアゥッ」
まさに映画に出てくる化け物そのものの絶叫だ。そいつはひと声吠えると、将聖の肩、すなわち俺の背中に向かって飛びついた。
「――っ!」
背中に痛みが走る。爪をかけられたのだ。制服のブレザーの上から、ワイシャツとタンクトップを突き抜けて、肉まで届く。将聖が脚力で振りほどいた。
「優希っ!」
「いいからっ! 走れ!」
俺は将聖の背中に被さったまま叫んだ。こうすれば、将聖は傷つかない。
ハッハッハッハッ…。
頭のすぐ脇で、魔物の荒い息遣いがする。怖い。
でも将聖に傷をつけるわけにはいかない。俺は息遣いから顔を背けながら、将聖の背中をかばうように体を伸ばした。
こいつは俺のためにこんなに頑張っている。ずっとずっと頑張っている。睡眠時間さえ削って、頑張っている。だから、傷つけるわけにはいかない。
突然、将聖が俺を体から引き剥がした。
そして、放り投げた。俺の体は軽々と吹き飛んで、え、と思う間もなく水の中へ突っ込んでいた。
「~~~っ!」
突然のことに、俺は水を吸い込みそうになるのを必死で堪えた。着衣のままの潜水は、体が恐ろしく重い。冷水に手足が一気に強ばるのを必死で動かして、俺は水面に顔を出した。
「将聖っ!」
俺は森を流れる沢の深い澱みの中から、将聖を見て悲鳴を上げた。狼に似た魔物に喰いつかれている。
その数、三頭。
魔物は将聖の左腕と左肩、そして右の太腿に牙を立てていた。将聖が体を折り曲げるようにして、引き裂かれそうになるのを堪えている。
「将聖。…将聖! 将聖っ!」
俺は岸に向かって必死で泳いだ。
「来るな、優希!」
将聖が怒鳴る。
だが、来るなと言われて行かずにいられるか。
俺だって男なんだぞ。
耳障りな咆哮が、さらに近づいてきた。おそらく、後続の群れが迫っている。
俺は無我夢中で手足を動かした。
俺が岸にたどり着いたところで、何ができるというのでもない。でも、あいつの盾になることぐらいはできるかもしれない。
シャアアアアッ。
擦過音が悲鳴のように響いた。
え?
何が起こったのか、将聖の腕に噛みついていた一頭が、弾かれたように身を翻した。
将聖の太腿をくわえ込んでいる一頭が、将聖を地面に引きずり倒そうとする。
肩に喰いついている奴も、体重をかけて押し倒そうとしていた。
ジャアアアアッ。
キシャアアアアッ。
まただ。
魔物が叫び、そして将聖から離れる。今度は二頭同時だった。
三頭は将聖を取り囲むようにして、くるくるとその周りを歩き始めた。
だが、その様子が少し違う。距離をとるようにして、隙を窺っているように見える。
将聖は肩で息をしていた。剣道で間合いを計るときの、あの独特のすり足で相手の出方を窺いながら、呼吸を整えている。三対一で、全然気迫負けしていない。
俺は流されないように岸に近い岩に身を寄せ、水中でガタガタ震えながら待っていた。これから何が起こるのか、全く予測できなかったが、今、将聖の邪魔をしてはいけないことだけは分かったからだ。
「そっちだ!」
「一頭でいい。殺せ! 金になる!」
人の声がした。
男の声だ。しかも、日本語。
いや、多分日本語に聞こえているだけだ。この四日間、疲れたり喉が渇いたりはしても、まったく空腹は感じてこなかった俺は、フォーリミナが予測できる限り、俺たちが被るであろうあらゆる負担を取り除いて、俺たちをイザナリアへ転生させたことが分かってきていた。俺は今、イザナリアの言語が理解できている。だが、おそらく彼らの言語を日本語として認識しているだけだろう。ゆくゆくはこちらの言語を学ばなければならないかもしれないが、現時点ではありがたい。
人が来た。どうやら武器を持っているらしい。これで将聖も助かる。
なのに、何故か俺は見つかりたくない、と思ってしまった。
見られたくない。誰にも会いたくない。
「お、なんだこのガキは?」
「襲われてんのか?」
「おい、そっちだ。手負いの奴はそっちにいるぞ!」
森の中から武装した男たちが出てきた。武装した人間なんて、漫画や動画の中でしか見たことがない。鶏ガラのように痩せた男が、狂ったように笑いながら飛び出てきたときは、その手に弓矢が握られていてもまるで現実味がなかったが、下生えや小枝を薙ぎ払いながら現れた、スキンヘッドの巨漢の握る大剣が、ザン、と音を立てて地面に突き刺さるころには、俺は十分に彼らにおびえていた。将聖に何をされたのか、動きの鈍い魔物の周囲に、鋭く飛んできた矢が突き立つ。それから、頭頂が禿げて落ち武者のような髪形をした男が弓に矢をつがえて現れた。遅れてさらに一人、ほぼ顔全体が真っ黒な髭に覆われた、小柄だが屈強そうな男が現れる。
武装した人間。
日本で、俺の周囲に、そんな人間は一人もいなかった。
怖い。ただ武器を持っているからというだけでなく、持つ雰囲気も怖かった。
だが男たちは、将聖よりも魔物のほうに夢中だった。人が襲われているのに、それはないだろうと思ったが、射かけてくる矢は威力があり、魔物のすぐ足元にビンと突き立って微動だにしなかった。将聖を取り囲んでいた魔物たちも分が悪いと判断したのか、さっと身を翻し駆け去っていく。
「くっそ。弱っている奴がいたのに。」
「おらっ。とっとと追いかけるぞ!」
男たちは行ってしまうようだ。
そのほうが余程都合がいい。俺は流れに持っていかれた体温と体力の残りを振り絞るようにして、沢から岸へ這い上がった。
「将聖! 将聖っ!」
俺の頭の中には将聖しかなかった。魔物が駆け去ったのを見届けると、将聖は腕を抑えるようにして地面に崩れ落ちてしまったからだ。
だから俺は、男たちが俺の声に反応するように立ち止まったことに気づかなかった。
将聖が、血を流していた。
肩と太腿は制服越しに噛まれたのと、おそらく筋肉を締めて牙が深く食い込むことを防いでいたのだろう、さほど傷は深くない。だが、左前腕の傷は違っていた。牙の跡が穴になってくっきりと穿たれ、そこから、血があとからあとから溢れ出てくる。
「出血が気になるけど、咬まれた傷だから、まずは洗ったほうがいい。ばい菌が入る。」
俺は震える声で将聖を促した。将聖も頷き、歯を食いしばって立ち上がる。
「水は冷たいから、もしかしたら止血にもなるかも知れない。」
俺自身の歯の根もうまく合わなかったが、俺は将聖のブレザーのポケットに手を突っ込んで、昼間に借りたハンカチを取り出した。将聖が自分で傷口を洗うのを待って、前腕をハンカチで包み、上から将聖のネクタイできつめに縛る。
これで出血が止まってくれればいいが。俺は怪我のことについては素人だから、どうなるのかまるで分らない。
肩と太腿の傷には何もできなかったが、こちらは何とか血が止まりそうだった。
俺が将聖の傷を縛っている間に、気が付くと、背後を男たちが囲んでいた。
「おい。」
突然声をかけられて、俺たちはびくりとして振り返った。
「お前ら、この辺りの人間じゃないだろ。どこから来た?」
こういうところが日本と違うというのか、怪我人を見ても「大丈夫か?」などと気遣う様子がまるでない。あからさまに向けられたのは、余所者に対する不信感だけだった。未成年ということで、日本では周囲の大人にほぼ親切にされたことしかない俺は、それだけでも怯むには十分だったが、将聖はまだ痛みに顔をしかめていて、会話をできる状態ではなかったので、仕方なく自分で答えることにした。
「遠くから…です。魔物に追われてきたんです。」
将聖からレクチャーされた「設定」が、まだきちんとインプットしていない俺は、しどろもどろになりながら答えた。
「お前たちだけか? 連れはいないのか?」
「はい。おれ…私たちだけです。」
男たちは俺を見て、何かひそひそと話し始めた。
その目つきが何だか不快で、俺は落ち着かなかった。
じろじろと遠慮のない目で、俺を見る。
やっぱり俺はどこか変なのだろうか。まあ、服装がこいつらの目には変に映るだろうことは認めるが。
「魔物に襲われたのか。そいつは可哀想にな。」
落ち武者が言った。何だか、白雪姫にリンゴを売る魔女みたいな声だと思った。
「付いてこいや。何もねえが、傷くらいは診てやるぜ?」
俺は将聖を見た。将聖は不安そうだったが、俺はこいつの傷を誰かに診てもらいたかった。この男たちはどこか胡散臭いところがあるが、俺よりは傷を診ることに慣れているような気がする。
「ありがとうございます。」
俺は申し出を受けることにした。
男たちはこの巨大樹の森の中にキャンプを張っていた。
と言っても、小さな湧き水のそばに作られた、一夜限りの野営地に過ぎないことは一目で分かった。巨大樹の根が盛り上がり、ちょうど潜り込めるだけのスペースのある場所に、毛布などいくつかの荷物が隠してあるだけだ。焚火の跡にネズミのような小動物の骨が散乱していて、ただそれだけのことなのにひどく殺伐とした雰囲気が漂う。
俺は胃がきゅっと縮まるのを感じた。
黒髭が、ぞんざいに将聖の傷を診た。
「大した事ねえな。」
黒髭は、そう言っただけだった。俺はついてきたことをすでに後悔し始めていた。
「で? お前たち、どこから来たんだ?」
落ち武者が、改めて俺たちに尋ねた。今度は将聖が受けてくれた。
「…俺たちはウィクタ・ノファダから逃げてきた者です。俺は将聖。こっちは『妻』の優希です。」
「妻? 若っけえ夫婦だな。」
俺は腹の内でフォーリミナに悪態をついた。
そう。俺たちの設定は「夫婦」だった。今のイザナリアの時代は、女にとっていろいろと危険が多いのだ。既婚ならば安全ということでもないらしいが、独身よりはマシ、ということらしい。
だが、俺と将聖が「夫婦」とは。学校の奴らに知られたら、それこそ俺たちは二人とも変態扱いか、一部の女子のオモチャにされてしまうだろう。最悪だ。
イザナリアに来てから、あらゆることが、最悪だ。
「ウィクタ・ノファダって、どこよ。聞かねえ地名だな。」
「ディフリューガル山脈の中腹にあります。俺たちの部族はあまり他部族との交流がないので…、もしかしたらご存じないかもしれません。」
「おい。こいつの髪を見ろよ。ハイランダーだろ。ディフリューガル山脈っつったら、ワイバーンの群れが現れて一帯が焼かれたって話だ。あそこにハイランダーの集落があったはずだ。かなり危ないって噂だったが。」
イザナリアには主として四つの人種が存在する。エルフ、ハイランダー、ドワーフ、そして人間族である。この四つの人種は「ヒト族」と総称され、「言語によって思考し、記憶と感情を持つと同時に、共通の価値観を持ち、互いに意思疎通できる存在」として定義されているそうだ。なぜこんな定義が必要かというと、主に小鬼とを区別するためなのだという。魔人から派生した小鬼も、同じく独自の言語と思考回路を持つが、ヒト族が彼らと意思疎通を図ることは不可能なのだそうだ。
いずれにせよ、こんなところだけラノベ・ワールドのテンプレをしっかり踏襲しているのが、俺にも将聖にも解せないところではあった。
「どうせ、みんなやられちまったんだろ? 父祖の地だとか何とか気取ったところで、もともとディフリューガル山脈の東は、半分魔界域に呑まれたただの荒れ地だったんだからな。」
俺たちは心の中で唇を噛んだ。フォーリミナがこの設定を選んだもう一つの理由がこれだった。俺たちが逃げてきたということになっている辺境の村は、住民が全滅している。俺たちの説明について異議を唱える者は、この世に存在しないのだ。
大勢の人々が死んだという事実を、俺たちは都合よく利用している。
「はい。彼女を連れて避難して、数日経ってから二人で村に戻りましたが、ほぼ全焼していて、誰も戻ってきませんでした。俺たちは七日間、仲間が戻ってくるのを待ちましたが、もう食料が限界で、故郷を捨てて逃げてきたんです。この森の東側は今、『魔界域』が決壊して魔物があふれています。しばらくは誰も住めないでしょう。」
将聖は淡々と話した。半分は嘘っぱちだ。感情がこもるわけがない。
だが、半分は事実だった。以前フォーリミナが将聖に話したように、世界のバランスは現在、魔物のほうに傾いている。日本のゲームの世界でもワイバーンは強力なモンスターという扱いだが、こちらの世界でも同様な立ち位置にあるらしい。ただし、こちらの世界ではそれがゲームではなく、現実なのだ。
「ディフリューガル山脈の東は落ちたか。」
スキンヘッドが言った。
「だいぶ以前から、もうもたないだろうって言われていたんだ。…けっ。また貧乏人や難民どもが流れてきやがる。」
「俺達には関係ないやね。魔物が増えたほうが稼げるぜ?」
「まあまあ、そう言うな。こいつらは村を焼かれちまったんだぞ。」
落ち武者がにやにやと笑いながら鶏ガラをたしなめる。スキンヘッドはさっきから俺の全身を舐めるような目つきで見ていた。
…気持ち悪い。
何だかどうしようもなく、気持ち悪い。
俺はもぞもぞと体を動かし、将聖の陰に隠れようとした。まとわりつく視線に、吐き気がこみ上げる。
「可哀想だろうが。仲間は死んじまって、流れて来た奴らはみんな、奴隷や乞食や娼婦になるんだからな。」
落ち武者の表情が、ひどく冷酷なものに変わった。顔ににやにや笑いを張り付けたまま、確かめるように言う。
「じゃあ、お前さんたちは、二人っきりなんだな?」
その口調に、俺はひやりとした。なぜ武器を持った見ず知らずの人間に、自分たちのことをあれこれしゃべってしまったのだろう。
将聖が、俺を背後に入れながら立ち上がった。驚くほど素早い動作だったが、黒髭のほうが早かった。初めからそのつもりで様子を窺っていたのだろう。将聖の片目を、ガツンと音がするほど殴りつけ、足を払って倒れこんだところを、喉元をつかんで押さえつけた。
「将聖っ!」
俺は一瞬、逃げ遅れた。将聖が殺される、と思ったのだ。
すぐに逃げるべきだった。将聖は、それほどヤワじゃない。
――その、一瞬の逡巡の間に。
スキンヘッドが、背後から俺の髪をつかんで地面に引きずり倒した。ほぼ同時に、落ち武者が俺の上に飛び乗って、ワイシャツとタンクトップの前を引き裂いて開く。
あっという間の出来事だった。
「――っ! ――っ!」
俺は悲鳴を上げた。ほとんど声にならない悲鳴だった。
俺の目の前に、気持ちの悪い、白い二つの膨らみがむき出しになる。
落ち武者の、爪の間まで汚れた片手がそれをつかんでぞっとした。
「ひひひっ。こいつぁ上玉だぜっ。見ろよ、この肌!」
「腕! 腕押さえろ!」
「なあ嬢ちゃん。あの兄ちゃんともやることやってんだろ? 俺たちがもっと気持ちよくしてやるよっ。」
襲われる。それがこんなに恐ろしいものだと、俺は初めて知った。
ただパニックに陥り、喉からうまく声さえ出ない。
「やめろっ。…やめろっ!」
必死で叫んでいるのに、囁くようだ。
鶏ガラとスキンヘッドに、左右から腕を押さえつけられた。鶏ガラが俺の乳首にしゃぶりつく。スキンヘッドが、悲鳴を上げた俺の口の中に手を突っ込んだ。落ち武者は馬乗りになったまま俺のベルトを外すと、スラックスとトランクスを一緒に引きずりおろした。
怖い! 怖い!
いやだ! 怖い! いやだ!
やめろ! やめてくれ!
俺は必死で暴れたが、無駄だった。落ち武者がズボンを下ろして自分の一物を引き出し、舌なめずりをしたのを見て、俺の目から涙が噴き出した。
――死んでしまいたい。
この薄汚い男共に何かされるくらいなら。
たった今、ひと思いに死んでしまいたい。
「ぎゃっ!」
弾けるような悲鳴が上がって、男たちは動きを止めた。頭の鈍そうな鶏ガラだけが、気付かずに俺の乳首をちゅうちゅうと吸っていたが、スキンヘッドに殴られて、ようやく顔を上げる。
俺たちの目は、全員将聖に吸い寄せられていた。
将聖の両手が、青く光っている。
あいつを殴って押さえつけていた黒髭に飛びついて、両手で力一杯顔をつかんでいた。
その手のひらから白い湯気が上がり、嫌な臭いを撒き散らす。
「ぎゃあああああああっ!」
耳を覆いたくなるような悲鳴を上げて、黒髭は将聖をようやく突き放した。
顔が焼け爛れている。
何が起こったか分からなかった。突き飛ばされた将聖は、その勢いのままぱっと体を反すと、俺たちのほうへ駆け寄って、あっという間に鶏ガラの顎を蹴り飛ばした。
「ふぐええっ!」
鶏ガラは舌を噛んでしまったらしい。吐血しながら絶叫した。
「こいつ、魔法が使えやがる!」
スキンヘッドが、俺の口の中から手を引き出した。あんまり乱暴で、俺は前歯がへし折れるかと思ったほどだった。
スキンヘッドは俺の前髪をつかんで引き起こし、首に手をかけた。
「女を殺されたくなきゃ…。」
将聖の靴の裏が、スキンヘッドの鼻を押しつぶした。スキンヘッドが俺の前髪を離して自分の顔を抑えたので、俺はがむしゃらに手を伸ばしてスラックスとトランクスを引き上げた。
一生ブルカで過ごしてもいい。俺はもう、誰にも肌を見せたくない。
落ち武者も、身仕舞いをしていて出遅れた。大事な一物をしまっている間に、将聖の間合いになっていたのだ。
将聖が、右手を落ち武者の顔にかけた。その手が光ったのは一瞬だったが、落ち武者の額から片目にかけて、焼けただれて皮が垂れ下がると、獣のような叫び声が巨大樹の森を駆け抜けた。
「優希! 逃げるぞ!」
将聖が俺の手をつかんで走り出した。それだけで、俺の体はぐんっと引きずり上げられ、足をもつれさせながらも走り出す。
自分の体が、こんなにも軽く、こんなにもたやすく他人にあしらわれていることに、俺はショックを受けた。
何の抵抗もできなかった。今も、将聖の手を振りほどくことさえできない。
俺は走りながら、必死でワイシャツの前を合わせた。
さほどデカくもない二つの袋が胸板の上でユサユサと揺れているのが醜悪で、気持ち悪くて見ていられなかった。
俺の息が上がるのは早かった。
将聖に手を引いてもらっているのに、呼吸がまったく追い付かない。
ようやく自力で歩けるようになった手足がまたぶるぶると震え始め、俺は将聖を引き留めるより先に、地面に倒れこんでいた。
どうして、こんな軟弱な体になってしまったんだろう。最近のアクション映画に出てくる女達は、特別な職業などについていなくても、みんなとてもタフなのに。
「優希!」
将聖が慌てて俺に駆け寄った。俺はブレザーの胸をかき寄せて、地面に伏せた。
見られたくない。
もう、誰にも見られたくない。フォーリミナにだって、見せられない。
だが、あいつは見てしまったはずだ。
俺はブレザーの袖で涙を拭った。拭っても拭っても、止まらなかった。
将聖は少し離れたところで固まってしまい、突っ立ったまま身じろぎもしなかった。
「お前もさあ、見たんだろ?」
しばらくして、俺があいつを睨みつけながらゆっくり体を起こすと、ようやく将聖は真っ赤になって俯いた。
やっぱり、見たんだな。
風に乗って、先ほどの男たちの怒声が響いてくる。だいぶ引き離したようだが、それでもまだ追いつかれてもおかしくない距離にいるようだ。怖い。そればかりでなく、おぞましい。あいつらに触られた部分を掻きむしって、生皮を引き剥いでしまいたい。
俺は震える膝で立ち上がり、近くの小さな薮の中に入ってしゃがみ込んだ。
汚らわしい記憶が蘇って、俺は振り払おうと首を振った。
だがどんなに振り払おうとしても脳裏に現れる。触られた体の感触まで蘇って吐き気がする。
「ぐおああっ!」
俺はうなり声を上げて、こぶしで自分の頭をガンガン殴った。
消えろ。…消えろ!
俺は頭を殴り、髪を引きむしり、爪でガリガリと顔を掻きむしった。将聖が止めようと近づいたので、俺は四つん這いになってさらに藪の奥へ逃げた。
「ごめん。優希。ごめん…。」
将聖の声だけが、小さな子供のように頼りなく、背後から追いかけてくる。
俺は耳を塞いだ。この瞬間、俺は将聖が世界の果てに消えてくれるのなら、何を支払っても惜しくはない、と強烈に思った。
将聖が焚火を起こした。俺は臭いでそれに気付いてぎょっとしたが、男たちの声はもう聞こえなかった。
そうだよな。あいつは安全だと判断しなければ、火を起こすようなバカはしない。
そういえば、将聖の危険察知能力は、単に「気配に敏感」というレベルではなかった。あれがあいつのチートスキルか何かなのだろう。それにあいつは「ファイア」の魔法も使えたらしい。マッチやライターもないのにあいつがどうやって火を起こしているのか、今まで俺は考えもしなかったが、そういうことだったのだ。
自分ばかり特殊能力を持っていて、それを俺に隠している、と。
俺は胸のムカムカが止まらなかった。
…考えても無駄だ。考えるな。
俺は頭を振った。
今の俺は、将聖がいなければ生きていけない。歩くこともままならないし、魔物に出くわしたら秒殺されてしまうだろう。
何もかも、あいつ頼み。走って逃げても、追いつかれるのが関の山だ。
どうしたらあいつから逃げられるだろう。
そう考えて、俺はすぐに一つの言葉にたどり着いた。
…自殺。
実のところ、今朝まで俺はそんなこと、考えもしなかった。
将聖が口にするまでは。
だけど今、ふと気付いてしまった。
それだって、未来の選択肢の一つとしてあり得るのだ。
何故だろう。今は「自殺」という言葉が生々しく俺の心に覆いかぶさってくる。
背中を冷たいものが走り抜けるような、心臓をつかまれたような、不快感。
怖い。なのに、その可能性を、方法を、真剣に考えている自分がいる。
…なぜなら、俺はすでに一度、死んでいるからだ。
俺はすでに、死んでいる。
地球世界と違って、イザナリアに惜しいものなど何一つない。そこから再び消えるということが、それほど辛いことだろうか。
…肩にそっと手を置かれて、俺はかすれた悲鳴を上げて振り返った。
男どもに押さえつけられた恐怖が、喉元までせり上がる。
だが、そこにいたのは将聖だった。
「先に声かけろよっ!」
「…ずっと呼んでいたよ。」
「…っ。」
将聖の言葉に、俺は絶句した。
全然気付かなかった。将聖が心配そうに俺を見ている。
「見るんじゃねえって言ってるだろ!」
俺は吠えた。胸元を必死でかばう自分に気付き、恐怖は突然、猛烈な怒りに変わった。
何でこいつは俺と同じ目に遭わないんだ。
何で俺ばっかり、こんな羽目になる!
こいつが平然と傍にいるのが、もう耐えられない。
イライラして、何が何だかわからなかった。
「あっち行けよ! うぜえわ、お前っ!」
「お前濡れてるから風邪…。」
「うるせえっ。黙れクソが!」
ああもうダメだ。
さすがの将聖も、ぷつりと黙った。
怒っている。こいつは滅多に怒らないから、怒ったときが怖い。黙っていても全身から伝わってくる噴き出すような怒りの感情に圧倒される。この上しゃべらせようものなら、頭がいいから絶対敵わない。
「…頼む。頼むから一人にしてくれ。頼むから。」
俺は両手で顔を隠して縮こまりながら言った。
「将聖。頼む。…俺、今ダメなんだ。」
この姿で泣くなんて卑怯だ。なのに両目から涙がぼろぼろ落ちてきて、抑えても抑えても指の間から流れ出てしまう。俺はそれを隠そうと、膝の間に頭を入れた。
将聖が、自分のブレザーを俺の頭の上からバサリとかけた。
「…なら、俺も頼むから。…勝手に、どこかへ行くなよ?」
将聖の声は静かだった。立ち上がり、俺から離れていく。
クソ。先手を打たれた。
俺はもう、どこかへ逃げてしまいたいのに。
逃げようにも行く当てがない。何から逃げたいのかも分からない。ただ、どこかへ逃げてしまいたい。どこか、遠くへ。
でも多分、俺はもう逃げられないんだろう。
俺は膝の間に顔を突っ込んだまま、声を殺して泣いた。
――そして。
いつの間に、俺は眠っていたんだろう。
冷たい風が渡ってきて、俺は目を覚ました。頬を撫でられたような、不思議な感覚だった。
最初の夜のように、降るような星が見える。イザナリアに月はないのか、それともまだ月齢が若いのと、巨大樹に隠されてしまっているせいか、俺はこちらに来てからまだ月を見たことがない。だが梢の向こうに広がる凄まじい数の星々が、空を明るく照らしていた。
一つ一つはこんなに弱い光なのに、こんなに明るく見えるなんて。
こちらに来てから知った夜空に、俺は圧倒された。
地球世界の天の川のように、星の配置にもムラがある。密集しているところは青白い霧に包まれているような、そこだけ清冽な水が流れているような感じがする。
何故かこの夜空は、フォーリミナが俺のために用意してくれたような、俺を慰めるために見せてくれたような、そんな気がした。一瞬の冷風は収まって、信じられないほど澄み渡った空から、これでもか、とばかりに星々の光が降り注いでくる。
そして急に、俺は自分が一人じゃないということに気が付いた。
一人だったら、この空を見上げて、あまりの大きさに俺は怯えていたはずだ。
将聖が俺の背後にいた。俺の体を体で包み込むようにして眠っている。
焚火の傍ではなかった。俺が隠れていた藪の中に、将聖が滑り込んできたのだ。
将聖の寝息は深く、静かだった。
子供のころ、俺を寝かしつけようとして先に寝落ちた親父を思い出す。
いつも忙しくて、帰りが遅かった。だから、たまに構ってもらうと嬉しくて、寝落ちた親父の低いいびきをずっと聞いていた。
お袋とも違う、大きな安心感。
「将聖…。」
俺はつぶやいた。
「お前はあったけえな。」
俺は将聖の体温に体を預けて、もう一度目を閉じた。
次回の投稿は2020年10月1日(木)の予定です。