Side story _クルサーティリ防衛線_08
将聖は以前思うところがあって、四肢蛇という魔物について少し調べてみたことがある。優希と一緒に神殿の文献の中を探したり、自警団の団員たちに聞き取り調査をしたりした程度だが、それらによれば「四肢蛇は、尾鞭虫や魔狼が出没する地域を避けて現れる魔物」とのことだった。体格は巨狼よりやや小さい程度だが、単独行動を基本とする上、尾鞭虫や魔狼のほうが断然機動力があるからである。相手が巨狼なら、言わずもがなだ。
だが、はしばみ自警団の団員たちは口を揃えて「尾鞭虫よりも四肢蛇の方が厄介な魔物だ」と言い切っている。四肢蛇が夜行性とも昼行性とも分類できず、また隠密行動に長けているからだった。
知らぬ間に仔牛や仔羊、時には子供までもがさらわれる。しかもいったん目を付けた地域は、繰り返し襲う習性があった。出没時間や潜伏場所を次々と変えて所在を掴ませないため、撃退するのにかなりの時間と根気を要する相手なのだ。
その上一度暴れ出すと、相手を殲滅するか、自身の息の根が止まるまで猛り狂うのだから、「大人や成獣だったら被害がない」などということもない。それについては将聖も身に染みて体験済みだった。
――まさかあの鎧蜥蜴を傷つけたのが、この魔物ってわけじゃないよな?
そうは思ったが、その数が気になった。おそらく十体以上はいる。鎧蜥蜴に太刀打ちできる数ではないが、この魔物にとって、この「群れ行動」は従来の常識や記録通りとは言い難い。
――まあ、リツカさんがさらわれた時の状況から『群れを作ることもある』とは分かっていたんだが……。でも俺たちは今まで、これほど大きな集団を作るとは想定していなかった。もしかしたら、群れが大きくなるほど戦闘力も跳ね上がるのか?
その場から動けぬまま、将聖は思案した。
この魔物の個々の戦闘力は分かっている。将聖は一対一で戦った経験があったし、バレルドやルグフリートらも相対したことがあるため、その戦闘力についてはすでにかなり信憑性の高いデータが得られていたのだ。
「決して侮れない相手ではあるが、落ち着いて対応し、逃がすことがなければ、一対一でも十分倒すことは可能だ。」
ゴスカデュロスの騎士たちの間では、現在はそう考えられている。あの腕の力を受け止めるだけの膂力があり、または受け流せるだけの技量があれば、魔狩人らにとっても決して勝てない相手ではない。群れであってもリツカがさらわれた時のような少数構成のものなら、小隊クラスの人数で撃退することができるとされているのだ。
単体または小規模の群れである限り、四肢蛇はそこまで恐れるような相手ではない。ザインもルグフリートらもそう考えており、将聖もそれには同意していた。
だが正直なところ、もしそれが可能であるならば、将聖は四肢蛇とは決して戦いたくないと思っていた。妙にバランスの取れた二足歩行をすることといい、道具を使うところといい、これまでに出会ったどの魔物よりも生理的に不快感を与えてくる相手である。悪知恵を巡らせたようなその狩りの仕方にも「四肢蛇には知性らしきものがあるのでは」と疑ってしまいそうな不気味さがあった。
――リツカさんは『四肢蛇がしゃべった』なんて言っているし……。
将聖はきゅっと口元を歪めた。
リツカの証言についてはエリュースト卿も懐疑的であったし、長く自警団で活動を共にしてきた団長のオルグさえも、バレルドの言う「恐怖が聞かせた空耳では」という意見に賛成していた。将聖も「転生者」として余計な知識を持っていなければ、その「空耳説」を頭から鵜呑みにして能天気でいられたはずだったのだ。ほぼ人間族と姿の変わらないハイランダー族でさえ、口腔内のほんの少しの構造の違いであそこまで言葉に不自由するのである。ならば外見も大きく異なる魔物の四肢蛇に、言語を操る能力などあろうはずがない。
――でも、初めからそういう『兵器』として造られた可能性だってあるわけだからな。
将聖にとっては、そこが問題なのだった。誰にでも相談できる内容ではないだけに、ますます不安材料として無視できないものになっている。
そもそもの魔物の起源は「生物兵器」である。四肢蛇も例外ではない。巨狼の体が複数の生き物の嵌合体であるように、四肢蛇にも何らかの人為的な改造が施されているはずなのだ。
このため、単に地球世界のオウムやインコが行う「模倣」程度のものだとしても、四肢蛇が「人語を話す」能力を有している可能性を、簡単に否定することはできないのだった。機械の起動音のような咆哮を放つ、尾鞭虫のような魔物もいる。妖怪「子泣き爺(※1)」ではないが、かつて四肢蛇が生み出されたとき、秘密裏に人間を、特にも子供を誘い出して殺すように設計されていたとするならば、赤子の声ならぬ「人語を操る能力を有する」ということも、あながちあり得ない話ではないのかもしれない。
何よりも、リツカが「その言葉を聞いた」と本気で信じていることだけは、疑いようがないのだった。こっそり打ち明けた際に、かなり取り乱していたということも優希から聞かされて知っている。
――一番気にかかるのは、本当に四肢蛇がしゃべるかどうかじゃないんだ。むしろそれが『模倣』ではなかったとしたら……。
左腕がうずいた。脳裏に、自分が戦った四肢蛇の記憶がちらつく。その前肢に握られていたものを、将聖は今でも鮮明に覚えていた。
――ええい、いつまで迷ってる! 魔物を選り好みしている場合かっ。
我に返って、将聖は自分を叱りつけた。あれこれ考えているうちに、ますます身動きが取れなくなっている自分に気がついたのだ。
四肢蛇がどんな魔物であるにせよ、今すべきはここでただ悶々と考え続けることではない。怪我の回復のために鎧蜥蜴を潜伏させるほどの戦闘能力を、四肢蛇が有しているのかどうか。それを確かめるのがこの瞬間の将聖の任務なのである。
――群れでの連携を確認することはできるか? いやそれよりも、今ここには何体いる?
将聖は隠れていた巨大樹の陰から進み出た。今の自分の能力では、余程接近しなければ魔物の個体数を把握することができないからだ。自分の本体との間にある鎧蜥蜴の強烈な気配も、将聖の索敵を容易ではないものにしている。
木陰から数歩歩み出て、将聖の全身が泡立った。
四肢蛇が振り返った。
何の根拠もなかったが、その時将聖は確信していた。
四肢蛇が自分に向かって振り返った。しかも一体二体どころではない。周辺にいる四肢蛇という四肢蛇が、今、一斉に振り返って自分に視線を向けている。
――見つかったっ!
将聖の意識が視ていることを、四肢蛇に気付かれてしまった。つまりこの魔物には、そういう能力があるということだ。
――道理で隠密行動が得意なわけだっ。
内心苦虫を嚙み潰しながらも、将聖は納得していた。
――こいつら、魔刃蜂と似た能力を持っているのか!
四肢蛇が叫んだ。
一頭が叫ぶとそれは伝染し、近くの数頭が喉を震わせながら天を仰いだ。さらにその周囲の数頭が続くと、背後の四肢蛇たちが、次々と大きく開いたその口から凄まじい咆哮をほとばしらせていく。
この場に鼓膜はなくとも、将聖はその「声」を感じ取っていた。まるで波紋が広がるように、狼煙の明かりが先へ送られながら次々と灯されていくように、その範囲を広げながら上がる叫び声に、将聖は胸に穴が開くかと思うほどの後悔を覚えた。
――これじゃ洪信(※2)の二の舞だ! 俺はなんてことを……っ!
将聖が最初に思っていたよりも、はるかに四肢蛇の数は多かった。群れの個体数まで判別する能力はないのだから仕方のないことではあるが、その数の多さに、将聖の焦燥はさらに募った。
――クソクソクソクソッ。
将聖は前に飛び出した。
一瞬の判断の遅れが命取りになる。そんな経験を何度も重ねた後では、次の行動を決めるのにもう迷いはなかった。
将聖の意識が、周辺を駆け巡った。
どうせ見つかってしまったのだ。ならば、何もせずに逃げ帰るのはそれこそ悪手だ。
――何でもいい。最低限の情報は持ち帰らなければ……っ。
自身が地上から離れることができない将聖には、上空から俯瞰するような索敵は難しい。より詳細な情報をつかむには、どうしてもそのすぐ傍まで接近する必要があった。おそらくは魔物が発する瘴気と、自分の体から放出する魔法粒子を触れ合わせることで敵を認識しているためだろう。
――ひ、広い!
依然、個体数は分からない。だが、存在を感じ取れる面積が広い。それだけの数がいるということだ。
――……っ。はあっ?
群れの真っただ中を駆け抜けながら、再び将聖は自分の感覚を疑いそうなほど驚愕した。
何かいる。
――こ、これ、は……。
四肢蛇よりも強大で、獰猛な気配。それに気づき、さらに奥へと踏み込むために、将聖は恐怖を押し殺した。意外に四肢蛇の群れから近い場所だ。しかし今は、それについて考えている余裕などなかった。
――……くっ。やはり、こいつもいたのかっ!
強い。その瘴気は四肢蛇の群れ全体の放つ瘴気さえ押し退けて、将聖の知覚に突き刺さる。
――鬼熊!
初めて接触する相手だが、将聖はすぐにそれが鬼熊だと識別した。
小型バン以上、二トントラック未満。例えて言うなら大型のランドローバーか。
何もかも踏みしだき蹂躙する凶暴さが、形となってそこにいる。その荒々しさは巨狼の比ではない。発する瘴気が強烈過ぎて、鎧蜥蜴のようにその姿を「視」ることさえできなかった。
――なぜすぐに気づかなかったんだ?
四肢蛇に気を取られていたとはいえ、これほどの量の瘴気が発せられていることを見逃していた。決して油断していたつもりはなかっただけに、自分の索敵能力の精度を疑いかけた将聖だったが、すぐにそれが鎧蜥蜴のせいだと気が付いた。
今、自分は強力な鎧蜥蜴の存在越しにその向こうの世界を探ろうとしている。いわば、賑やかに演奏する楽隊越しに、その向こうの音に聞き耳を立てているようなものだ。間にいる鎧蜥蜴があまりにも強者であるがゆえに、その向こう側にある強力な魔物の気配を、「鎧蜥蜴の瘴気とは別なもの」として認識することが出来なかったのだ。
――ふ、ぐっ、ううう……っ!
全身に叩き付けられるエネルギーに呻きながらも、将聖は鬼熊に向かって踏み出した。
――い、行けるか?
鬼熊から感じる瘴気は猛り狂っていた。鎧蜥蜴にはなかった激しさだ。騒ぎ立てる四肢蛇に刺激されたのだろうか。このまま進んでも、その圧力に押し流されてしまう確率の方が高い。
だが、それでも将聖は鬼熊への接近を試みていた。
「見つけたら、できるだけ観察してくれ。周辺の様子、負傷の有無、空腹の度合い、動きのクセなど、特徴なら何でもな。それから一番重要な事だが、お前の接近に対する反応には特に気をつけてくれ。微細な周囲の魔法粒子の流れにも敏感かどうか、それが知りたい。」
ザインの声が蘇る。
将聖は前方へと、まるで手探りしながら這い寄るように意識を集中した。
――ダメだ。このままでは全部削り取られてしまう……っ。
鬼熊の瘴気は、暴風雨のようだった。横殴りの雨となって打ち据えてくる、痛みを感じるほどに荒れ狂う嵐だ。
むしろこれほど興奮し切った瘴気が放出されていることに、将聖は戸惑っていた。
――こいつ、さっきまでは全然大人しかったよな?
自分はここまで激高させるような事をしただろうか。
そうは思ったが、訝っている場合でもなかった。これ以上進めば、脆弱な将聖の魔法粒子など、すぐに鬼熊の瘴気に飲み込まれるか、すり潰されてしまう。
もうこれ以上無理はできなかった。ここは「鬼熊を見つけられた」という成果だけ持ち帰ることで満足しなければならない。
将聖は退いた。未練は残っていたが、鬼熊から大きく距離を取る。
そこでいったん立ち止まったのは、余計な気掛かりを残さないようにするためだった。周囲の四肢蛇は魔法粒子の微細な変化に敏感だ。自分の後を追って来ないかどうかが気になる。鬼熊の逆上のどさくさに紛れ、その索敵能力の届かない場所へ移動したつもりだが、うまくいっただろうか?
自分の存在に気付いた鬼熊が、どれだけ追撃してくるかも知りたい。
――ううん……?
鬼熊の瘴気は追ってこなかった。圧力から解放され、ふわりと体が軽くなったような感覚を覚える。
将聖はきょろきょろと周囲を見回した。
――何だよ、これ。
台風吹きすさぶ屋外から、頑丈な建物の中へ避難したくらいの落差がある。だが、まだ木陰へ隠れたわけではない。
――これって、もしかして……。
稲妻のように、将聖の頭に一つの仮説が浮かんだ。
――……行ける。……行く! あいつの姿を視るんだ。ひと目でいい!
将聖は再び飛び出していた。
――回り込め。背後へ!
高速で四肢蛇の気配を突っ切った。周囲の四肢蛇が狼狽えた声を上げる。その援護のため鬼熊が瘴気を放つ前に、その死角へ飛び込まなければならない。
――……っ! 二頭目、かっ!
突き抜けた瞬間、それが分かった。砲台の裏側は無人ではなかった。やや間をおいて、その砲台に勝るとも劣らない脅威度を放つ瘴気の塊があった。
しかも、直立している。
将聖はその姿を捉えて、心に快哉を叫んだ。
――やった……っ。 ……そうか。確かにクマだなっ!
それはもう一頭の鬼熊だった。前肢に特に強い力を感じる。器用そうな魔物だ。四肢蛇のように二足歩行することは難しそうだが、後肢で立ちあがるくらいなら、余裕でバランスを保てると見ていいだろう。
おそらくその状態で、前肢で戦う。鎧蜥蜴や巨狼ほどの突貫力、機動力は持たないが、その代わり白兵戦で対応できる範囲は広域だろうと推測できた。ほぼ直線的な攻撃しかできない鎧蜥蜴や巨狼に比べ、対策に別な工夫を要する相手のように感じられる。近接されたら厄介だろう。
――それに、確かにこの二頭なら鎧蜥蜴を傷つけられる……っ。
将聖は思った。一対一なら、鬼熊は戦いを仕掛けることさえ不可能だろうが、二頭なら話は違ってくる。鎧蜥蜴の最大の武器である突貫力を分散することができるからだ。
とはいえ、これほど大型の魔物同士が戦うなど、想像するのも難しかった。メドーシェン市の鍛冶屋が使う溶鉱炉を数十倍大きくしたものが複数体、猛り狂って暴れたなら周囲はどうなるか、という次元の話である。とても現実的とは思えない。
だが魔界域の深部では、日常的にこのレベルの魔物同士が獲物を奪い合い、互いの魔法粒子を奪い合って、激しい戦いを繰り広げているのだ。二頭の鬼熊の間に挟まれたこの狭い空間に、自分が踏み入れられたことさえも、今はただ奇跡であると思うしかなかった。
――っ? しまっ……!
不意に横から四肢蛇が飛び出してきた。意識が逸れた一瞬を突かれたのだ。その動きに対応できない。すぐ目の前まで接近され、その姿に視界のすべてを奪われた。
大きく開かれた口がそこにあった。飲み込まれると知るが、逃げる暇もない。
――うわあっ!
将聖は叫び声を上げた。その叫びをすべて吐き出す前に、目の前が真っ暗になった。
「うわあっ!」
あまりの驚愕に、将聖はがばっと跳ねるように顔を上げた。そして激しい眩暈に襲われて、再びうな垂れると目を閉じた。
「はあっ、はあっ、はあっ、……ぐっ、……はあっ。」
なかなか呼吸が収まらない。全身から冷たい汗が噴き出してくる。
心臓がばくばく脈打つ。吐き気がする。
「ショーセ。大丈夫か? ショーセ!」
押さえてはいたが、深い心配を滲ませた声が、すぐ傍でした。
「済まない、ショーセ。もっと早く呼び戻せば良かった。」
声の主はルグフリートだった。一本下の枝の上に立ち、見上げるようにして将聖の顔を覗き込んでいる。
「……き、気にしないで、くだ……。か、かえって、良かった。ま、ま、待ってて、くれて、ありがと……。」
将聖は息を喘がせながら、どうにか声を絞り出した。
「悪か、た……。し、心配させて……。」
「いや。こんなに無理をさせるつもりはなかった。本当に済まない。」
がくがくと全身を震わせる将聖を見て、ルグフリートの表情に後悔が浮かんだ。呼び戻すタイミングを失した自分を責めているのだろう。
「ルーのせいじゃない。俺が『もう少し待て』と引き留めたんだ。」
ロドハルトが助け舟を出すように口を挟んだ。ルグフリートとは反対側の、上方の枝から身を乗り出す。
「済まん、ショーセ。気分はどうだ? 水でも飲むか?」
「い、いただきま……。」
将聖はロドハルトを見上げた。なんとか口角を持ち上げる。だが、そんなわずかな動きさえも億劫で、すぐに頭を下げてしまった。
自分は消耗し切っている。
それがただただ歯がゆかった。いつまでもこの体たらくでは、索敵のたびに仲間に迷惑をかけることになる。しかも隣に誰もいなかった場合は、命がいくつあっても足りない。
「それで? 鬼熊は見つかったのか?」
両腕の上がらない将聖が飲めるよう、水の入った革袋を支えながらロドハルトが尋ねた。
「……はい。見つけました。」
将聖は応えた。ようやく顔を仰向けることはできるようになったが、急いで飲み下ろしたせいで少し咳き込む。
「鎧蜥蜴の状態も、隊長の予想通りでした。深手を負っていて、今は回復に全力を注いでいます。おそらく、まだしばらくは動けないかと……。」
「そうか、やはりいたのか……!」
「さすがは隊長。何でもお見通しだな。ショーセもよく見つけたぞ!」
伝えたのは決して朗報ではないのだが、ルグフリートも白い歯を見せて将聖の肩を叩いた。
将聖は小さく首を振った。
「完全に好都合とは言い切れません。鬼熊は、二頭いました。」
「二頭?」
頭数を告げられ、ロドハルトが驚いたように繰り返した。
「はい。この二頭は群れとして行動していると見て間違いないと思います。……ただし、鎧蜥蜴を傷つけたのがこの二頭かどうかは分かりません。鎧蜥蜴の傷はまだ完治していないのに、この鬼熊はほぼ無傷だったんです。」
「……ということは、このヴァイラメッヒの森には今、大型の魔物が三頭いるということか。」
「確かに笑えないな。」
将聖の言葉をルグフリートがまとめ、それに向かってロドハルトが感想を漏らした。だが、どちらの表情にも焦りや恐れは見られない。まだその脅威に対する実感が湧かないせいかもしれないが、ヴァイズ・ルフスで戦った経験が、彼らの胆力を鍛え上げているのだろうと将聖は思った。
ルドガ大渓谷の谷底で、あれほどの数の魔狼の襲撃を受けた時でさえ、まったく動揺を見せなかった二人である。相手がどんな魔物であれ、最善を尽くすことが己の使命なのだと心に誓った者の強靭さがそこにはあった。
そんな揺るぎのない意志を持った騎士が仲間としてそこにいる。いつものことながらその様子に力を得て、将聖はさらに言葉を続けた。
「それともう一つ、……この二頭の鬼熊は四肢蛇と一緒にいました。」
「四肢蛇?」
「正確には、四肢蛇の群れとです。数は確認できませんでしたが、二十体以上はいたと思います。どちらも鎧蜥蜴からは距離を置いていましたが、ほぼ同じ場所にいました。この二つの魔物の間には、共生関係があると思います。」
将聖は最初から順を追って報告しようとしたが、ふと出発前には聞かなかった音が気になって、言葉を切った。先ほどから遠方に響いているが、まだ頭が重いせいではっきりとは聞き取れずにいたのである。
「ルー。あの音、聞こえるか……?」
「気が付いたか?」
声をやや硬くしたが、ルグフリートは落ち着いた様子でベラガホースに目を向けた。
「お前が目覚める少し前からだ。ああして吠え始めたのは。」
言われてようやく、音の正体を思い出した。それは確かに魔物の遠吠えだった。
将聖ははっとして、どうにか眩暈の収まった首を山の方角へ巡らせた。遠吠えは風に乗り、この作戦拠点まで流れ着いていた。
オ……オオオ……ウオオオオ……ッ。
オアアアア……ウオアアア……オオオオウ……ッ。
自分が四肢蛇を刺激してしまったことは覚えていた。群れがこぞって叫び立てたことも感じ取っている。
たった今感じるのは、その中に自分の一部を残してきてしまったような、妙な感覚だった。例えるなら、服の糸がほつれてどこかに引っかかった状態に似ている。布地が引き攣れて台無しになりながら、それでもどこまでも繋がっているような、背後に引き戻されるようなあの不快な感覚だ。
その意味するところは明らかだった。
「尾行られてる……!」
将聖はかすれた声を張り上げた。大きく目を剝いたまま、ルグフリートに振り返る。
「ここを目指して、四肢蛇の群れが来ます。今のうちに逃げてください!」
「落ち着け、ショーセ。どういうことだ?」
「俺が遠隔から索敵していることを、四肢蛇に気付かれました。奴らにはそういう能力があるんです。魔刃蜂と同じです。奴らはわずかな魔法粒子の変化にも敏感なんです!」
まだぜいぜいと息を弾ませたまま、将聖はまくし立てた。
「さっきも木の影から一歩出ただけであっという間に見つかりました。きっとこれまでも、俺が鎧蜥蜴の様子を窺っていることに気付いていて、俺の索敵範囲の中に踏み入れないようにしていたんです! しかも俺が驚かせたせいで、あいつらは隠れていることを止めてしまった。四肢蛇は間違いなくここに来ます。間に合うかどうか分かりませんが、北に向かって走ってください!」
「そんな魔物が向かって来るなら、どこへ逃げてもどうせ無駄だ。俺たちは全員、今はここから動かない方がいい。」
表情は厳しく強張っていたが、ルグフリートの声は静かだった。
「しかし! 四肢蛇と一緒に鬼熊もここまで追って来るかもしれません。鬼熊が現れたら、俺たちは全滅です!」
「そうは言っても、お前は動けないじゃないか。いいから落ち着くんだ、ショーセ。」
「俺は置いていって下さい! あいつらを刺激してしまったのは、俺なんです!」
「こら。」
興奮して大声になる将聖の太腿を、ルグフリートはぽんと叩いた。
「今ショーセが言っていることは、全部ショーセ一人の憶測でしかないだろ? お前の言葉を疑うわけじゃないが、四肢蛇が本当にここまでお前を追って来られるかどうかも分からないうちから、この作戦拠点を放棄することはできない。それに、一昨日隊長が言っていたが、巨狼や魔狼は、お前の索敵範囲の外から一気に距離を詰めて襲撃して来るんだそうだな? なら、突然奴らに襲われる危険があることも考慮しておかなければならないだろうが。」
将聖ははっとした。動転して、まともな判断ができなくなっていたことに気付く。
理由は分かっていた。自分が犯した目先の失敗にとらわれて、全体的な状況を見ることができなかったのだ。
「……す、すみません……。」
恥じ入るように将聖は俯いた。まだ小刻みに震える両手を握り締める。
その様子を見て、ルグフリートは少し表情を緩ませた。太腿に置いた手を将聖の頭に移して、髪をくしゃくしゃとかき乱す。
「それにそもそも、ショーセに奴らを偵察するように命じたのは俺だ。まあその前に、俺たち全員に偵察の指示を出したのは隊長だがな。ここから先をショーセ一人に任せたのは、副隊長のこの俺なんだ。四肢蛇を刺激した責任は俺にもある。だから、本当に鬼熊が現れるかどうかも分からないうちから、俺たちにそんな悲しい事をしろなんて言わないでくれ。」
反対側から、ロドハルトも頷いた。
「四肢蛇は巨狼や魔狼ほど足の速い魔物じゃない。ここに現れるまでには、まだまだ時間があるはずだ。色々と聞きたいことはあるが、今は少しでも休んで、体力を回復させておけ。」
そう言って、ロドハルトはにやりと笑った。
「俺も、お前が動けないと言うのなら撤退する気はないぞ。お前抜きで巨狼や魔狼が出没する森を歩くなんて、おっかなくて仕方ないからな。この森を脱出するにはお前の能力が必要だ。期待しているからな。」
「……っ。」
将聖は唇を噛んだ。ルグフリートたちは決して将聖を見殺しにはしない。それが今の将聖には辛かった。魔物の声は徐々にだが、確実に近づいて来ている。自分が連れて来てしまった魔物だ。もしザイン隊のメンバーたちに何かあったら、どうあっても自分を許すことはできないだろう。
だがルグフリートとロドハルトに向かって、将聖は頷いた。
「……分かりました。みなさんと一緒に退却できるよう、今は休みます。」
「よし。」
二人の笑みが深くなった。
(※1: 子泣き爺は主に旅人を襲うとされる妖怪。路傍にあって赤子の声で泣き、憐れんだ通行人が抱き上げると、すがりついたまま石のように重くなり、押し潰してその命を奪うと言われている。)
(※2: 洪信は『水滸伝』の冒頭に登場する大尉。開けてはならぬとされる「伏魔殿」の扉を興味本位で開いたために、「遇洪而開」と書かれた石碑の下に封じられていた、三十六の天罡星と七十二の地煞星を世界に放ってしまう。)




