037_召集-6
ザインさんが訪れた日の翌朝、俺は早くから持ち物の準備を始めていた。
だが、それは何というか、失態続きだった。縫物をすれば指に針を刺し、朝食の支度をすれば皿をひっくり返して自分でもイライラしたが、気持ちが焦るばかりでそんな凡ミスに歯止めが効かなかったのである。
「父さんが迎えに来てくれたの。ティルとお義母さんも許してくれたから、しばらくこっちに泊まっていくね。」
そう言ってレニオラが現れた時には、俺はハノスさんに心の底から感謝した。実を言うと、俺はレニオラの顔を見るや胸がいっぱいになってしまい、その肩に顔を埋めて少しばかり泣いてしまったのだ。
「大変だったね、ユーク。驚いたでしょ?」
レニオラは俺を甘やかすように抱きしめてくれた。きゅっと抱きしめる腕の力が心地よくて、俺は三歳児に戻ってオンオンと泣いた。レニオラも俺を三歳児のようにあやしてくれた。
将聖がずっと外出しており、近くにいなくて良かったと思う。
それから二人で買い物を済ませた後、「あまり陽が高くならないうちに」と俺たちはサティシュ川へ将聖の着替えの洗濯に行った。魔物の数は増え続けていたが、それでも生活は続いている。農夫たちが市壁の外の畑に仕事に出かけないわけにはいかないように、街の女たちも西門の外に出て、この桟橋で洗濯を続けていたのである。
「あのね、話があるんだけど……。」
二人きりで手を動かしていると、レニオラが言った。
「うちを出る前に、ティルの従兄弟が教えてくれたの。こんな事を言ったら悪いんだけど、もしショーセが帰って来られない事があったら……。」
「……うん。」
レニオラは申し訳なさそうにいったん口を閉じたが、俺はじっと耳を傾けていた。レニオラが俺のために、何か大事な事を言おうとしているのが分かったからだ。
「ティルの大伯父さんがね、ユークもあちらのうちに来て、自分の畑で働かないかって言ってくれているんですって。ほら、お義母さんも寡婦だけど、大伯父さんが助けてくれたから再婚しなくて済んで、家も畑も全部ティルに継がせることが出来たでしょう? 再婚って色々厄介なのよ。初婚の男性が再婚の女性を選ぶことは少ないから、相手を選べない分、どうしても足元を見られてしまうらしいの。だから財産を取られたり、下女みたいな扱いを受けたりすることもあるみたい。」
「普通再婚って、どうしてもしなくちゃダメなの?」
思わず俺は訊いた。俺はそんな事までは、全く考えていなかったからだ。
「……ショーセがいなくても、ユークはちゃんと生きていける? その、金銭的な意味でよ?」
遠慮がちなレニオラの問いに、俺は小さく首を横に振った。今の俺は、一人では生きては行けないのだった。
「多分父さんも、リーシャが結婚するまではユークをうちに置いておくつもりでいると思う。でもリーシャが結婚したら、どうなるか分からないわ。父さんはずっと住まわせるつもりでも、お相手とその家族が縁談を持って来ると思うの。追い出しはしないでしょうけれど、一応父さんは土地を持っているし、後々の財産分与の事を考えると『どこかに片付けてしまいたい』って思われてしまうと思うのよ。ティルの大伯父さんは、もしそうなったらユークは断れないんじゃないかって心配しているの。家柄や血筋から言ったら、絶対断るような相手でもね。」
俺が再婚を断固拒否する理由は別にあるのだが、ティルファンさんの大伯父さんはうまい具合に誤解してくれているようだった。少し後ろめたい気もしたが、その申し出に救われた気分だったので、俺はただ素直に感謝する事にした。
「本当に働くだけでいいの? やっぱり嫁にやられたりしない?」
俺が不安そうに訊くと、レニオラは笑った。
「本当は、『嫁に出す』っていうよりは、『嫁に欲しい』っていう気持ちの方が強いんじゃないかしら。ティルは従兄弟が多いから。でも大伯父さんは無理強いするような人じゃないから、安心して。お義母さんの時もそうだったらしいし、そこはあたしも目を光らせているし。」
そう言ってから、レニオラは俺の髪や頬を優しく撫でた。俺は泣きすぎて少しむくんだ顔をしていたので、これ以上見苦しくならないようにと、レニオラが髪を結い直してくれたのである。
「この事、ショーセにも言っていいかしら? きっと安心すると思うの。ユークの事、すごく心配しているから。」
「……うん。ありがとう。」
俺は頷いた。元気そうな表情をしているだけで精一杯で、俺にはあいつの気持ちまで思いやる余裕はなかったのだが、代わりに案じてくれるみんながいてくれて本当に嬉しかったのだ。「こんなで俺、大丈夫かな」とまだ気分は落ち込んでいたが、この「留守番」の間も、俺の傍にはハノスさん一家やレニオラがいる。そう思うと自分の中に巣食っていた、飲み込まれるような不安も少しだけ軽くなったような気がしたのだった。
そんな風に俺が必死に保っていた平静を、最後の最後でぶち壊しにしたのは、あろうことか、将聖その人だった。
二日目の夜の「激励会」の後、俺が台所で片付けをしていると、そっと将聖がやって来た。既にマチアさんもレニオラも寝室に引き払ってしまったが、俺は眠る事が出来ず、音を立てないように気遣いながら、生ごみの始末や皿の簡単な汚れ落としをしていたのだった。
「優希。」
「うん?」
「ちょっと。」
将聖が納戸からひそひそと声をかけてきて、それから台所に入ってきた。言葉を交わす事を何となく避けて来てしまったが、こいつはもう明日には出立してしまう。もしかすると、二人きりで交わす最後の会話になるかも知れないと、その時ふと思った。
――何を考えている。
俺はすぐに首を振ったが、何だかその一瞬、締め付けられるような胸の痛みを感じた。
「これ。お前に渡しておきたくて。」
将聖が言い、何かの塊を握った手を差し出した。俺は両手が濡れていたので、大急ぎでエプロンで拭い、それから慌てて受け取った。
あの時、俺は一体何を渡されると思っていたのだろう。
ずしっとした塊を乗せられて、俺はその重さに驚いた。当初は魔物狩りで使っている白魔石の塊でも預けられたのかと思った。
そして、手の中に押し込められた物の正体に気付いた途端、俺の頭に一気に血が上った。
金の入った革袋。
――そうか。
金属の持つ独特の重量感を手のひらに感じて、その瞬間に色々な事を理解した。
――これを俺に渡すためだったのか。
俺はこいつが何故あれほどまでに、働き詰めに働いていたのかを理解した。
そしてその瞬間に、俺の中に燻っていた、負い目や悔しさ、自分に降りかかっている理不尽への怒りの感情が、一気に噴きあがったのだった。
「……お前はこうしてさ、俺をあからさまにお荷物扱いしているのが、自分で分からねえのかよ。」
「え……?」
自分でも驚くほど低く、冷たく、ギスギスとした声が出た。
将聖も心底驚いた様子だった。確かに意外だったかもしれない。俺自身、感情がこれほど瞬時に天と地ほどもひっくり返るとは思わなかったのだ。突然腹の中でむかむかした物が渦巻いたが、それは棒を突っ込んでかき回されたかと思うほど、不快で激甚な感覚だった。
「……お前はさ、今度の召集の事は前から聞かされていたって言っていたよな? でも俺には全然その話、しなかったよな?」
「だってそれはまだ確定した話じゃなかったし……。」
「だとしても、こうして仕事入れたり金用意したりして準備して来たんだろうが。なのに、俺には隠してただろ? それは何故だって訊いているんだよ?」
「それは……。」
将聖は口ごもった。俺が一転して不機嫌になった事の理由に気付いたのだろう。だが、すぐにそんな事には構っていられないと思ったのか、少し声を大きくして言葉を続けた。
「あのさ、こっちにだって色々と事情があるの。それをお前に何もかもいちいち言う必要あるわけ?」
「ああ、そう来るのかよ。」
開き直られて、俺の中のむかむかは、吐き出さずにはいられない程の状態に達していた。
革袋を胸元に突き返しながら俺は言った。
「じゃあ、お前は何のために、俺をここへ連れて来たんだ? 俺の保護者面するためか? 俺に自分のいいトコ見せつけるためかよ?」
将聖が顔を歪めた。
「どうせお前にとっては、俺はただの『パンツの洗濯屋』なんだろうよ。『靴下さえ繕ってたら後は引っ込んでろ』って言いたいんだろうよっ。例えそう思われていたとしても、それでも俺はお前のお荷物にだけはなるまいと思って暮らしてきたんだよ。なのに、何これ。何なのさこれ。こんな事されて、俺が喜ぶとでも思ったのか?」
「何その言い方。俺今までそんな風に言った事あったか?」
「じゃあ、俺がバレルドだったら、お前同じ事したか?」
「何でここでバルが出て来るんだよ?」
「例えばの話だよ。俺がバレルドだったら、お前俺に金渡そうなんて考えたか?」
「そんなの今関係ないだろ? いいから持っとけよっ。」
「……ッッッ!」
俺はぶちキレた。
こいつは俺が言っている事が分からないのではない。分からないフリをしているのだ。
そう感じ取って、俺は革袋を脇にあったテーブルの上に叩き付けるように置いた。
「……要らねえわ、こんなモン。自分で持ってけ。でなきゃ誰かにやっちまえ。」
俺は精一杯低い声で言い捨てた。
言い合っているうちに、大分声が大きくなっていた。そのためにハノスさんかマチアさんが起き出して来るかもしれないと思ったのだ。
二人とも、つい先刻まで将聖が心置きなく旅立てるよう尽力してくれたのだ。これ以上世話になっている人たちに迷惑はかけられない。
俺は背を向けて台所から立ち去ろうとした。こいつは自分がクルサーティリ市に派遣されることを知っていて、それを俺に隠していた。俺の行く末を案じて無理を押して働いていたが、俺が理由を訊いても応えようとはせず、俺が心配してもそれを振り切って、何も教えようとはしなかった。何もかも自分の腹一つのうちに収めて決断し、自分一人で納得して行動してきた。
――なら、俺は何のためにここにいるんだ?
俺には自分の存在意義が、もう全く分からなかった。将聖が俺に渡したのは、俺がずっとあいつの足枷であったことの証だった。言い換えれば「頼りにならない」という非難であり、「自立できない」という引導であったのだ。
それがどんなに悔しい事か、なぜこいつには分からないのだろう。
「ちょっと……っ。いいから持っとけって言ったろっ!」
将聖は革袋を拾うと俺の肩をつかみ、またそれを俺に突き出した。俺は受け取るまいとして、一歩後ろへ下がった。
その時、将聖の手が滑ったのか、それとも手を離したのか、……革袋が床に落ちた。
「……お前さあ……。俺だってこんだけ稼ぐの、苦労したんだぞ?」
今度は将聖が、少し裏返った声で言った。行く手を塞ぐように廊下へ続く戸口の前に立つ。
「分かってるよ。それはちゃんと分かってるし、いつもありがとうって言ってるだろ?」
「全然分かってねえよ……っ。」
大分譲歩した返事をしたつもりだったが、声をわななかせて将聖は俺を睨んだ。
「ライナルさんとこで雇われているからって、それでまともに生活なんか出来んのか? ハノスさんはいい人だけど、いつまでも世話になってるわけにも行かないし。お前、そんな事も分かんねえのかよっ。お前にちゃんとした金を稼ぐ事なんか、出来ねえだろが! 働きたくたって仕事も思うように就けないし、暮らしていけるだけの額貰えるとも思えないし、これから何が起こるかも分からないから、せめてもと思ってこうやって準備してきたんだ。それっくらい、そっちも分かれよっ!」
俺の一番の弱みを突かれて、……一番気に障る事を言われて、俺はもう黙っていられなかった。
「てめえはよっ。そうやって善人面しながら、俺のタマもプライドも、全部ぶっ潰してくれてるじゃねえかよっ!」
ああ、ダメだ。
これ以上言ってはいけない。
そう思いながら、俺の怒りの感情はもう止まらなかった。
「見下しやがって、ふざけんじゃねえっ! 結局お前は俺を利用しているだけじゃねえか! 俺はヤムチャか? お前の引き立て役かよっ。どうせお前は『食わせてやってるんだから言う事聞け』とか思ってるんだろうけどな。俺はただ飯食ってクソ垂れるためだけに生きたいとは思ってねーんだよっ。お前の『施し』受けてまで生きていたくはねえっ。 偉そうな口叩くな! 文句があるなら俺を元の体に戻せ! 元の体に戻して、元の場所に返せよ!」
分かっている。言い過ぎた。俺は自分で立てた誓いすら破って、あいつの心を粉砕した。
将聖の顔色が変わった。
高温の炎の色を見せつけられている気分だった。静かな、暗い、青い光。揺らめきもしないあの炎のように、将聖の表情が強張った。
「……だったら、ここから出て行けば良かっただろ? 出て行って、一人で生きて行けば良かったのに、何で出て行かなかったんだ?」
ようやく将聖が言った。声は静かなのに、噴きこぼれるような熱を感じた。
「俺に食わされるのがそんなに嫌だったんなら、出て行けば良かったんだ。自分で働いて、その稼ぎで生活していたらお前も満足したんだろ? 散々居座っておいて、何文句言ってんだよ? 勝手にお前をイザナリアに連れて来たのも悪かったって言うなら、もう俺は何も言えねえよ。」
将聖の言葉が、ぐさぐさと俺に突き刺さった。
「だったら自分の事は、自分で好きにすりゃいいだろ? 俺にお伺いなんか立ててないで、出て行きたきゃ出て行けばいい。死にたきゃ死ねよっ。」
理詰めで将聖になじられて、俺は何も言い返せなかった。
俺は目を見開いて、将聖を見返すばかりだった。
その通りだ。将聖が正しい。
悔しいが、将聖が正しいのだ。
将聖が言う通り、この生活が嫌なら俺は出て行くべきだった。不満を抱えながら我慢をしたり、こいつに文句を言ったりするよりも、自分で自分の生き方を探すべきだったのだ。
しかし、俺にはそれが出来なかった。
俺にはそれが出来なかったのだ。
いや、そうしようとしなかった俺が悪いのだろうか。
以前ビルギーナさんから罵られた言葉が、頭の中に反響した。ビルギーナさんも、今の将聖と同じような事を言ったのだ。
――じゃあ、いつまで居座るつもりだい? これだけ長く居候しているのに、出て行く気はさらさらないじゃないか。
俺はもう、泣く事しか出来なかった。返す言葉もなく将聖を睨み付け、ただ食いしばった歯の隙間から何か言ってやれたらと震える息を吐いた。しかし適当な言葉は何一つ出て来ず、両目から噴き出す熱い涙を拭う事さえ出来なかった。俺は両肩をわななかせながらエプロンを握り締め、涙は鼻水と混じり合いながら顎からぼたぼたと降り注いだ。
「……っ。」
将聖はそんな俺のぐじゃぐじゃな顔を、しばらく睨み付けていた。だが、ややあって床から革袋を拾い上げると、くるりと背を向けて寝室代わりの納戸に戻って行った。
冷静な将聖らしく、扉を閉める音も静かだった。
俺もしばしその扉を睨み付けていたが、やっとの思いで背中を向けた。
これ以上騒ぎ立てたなら、今度こそハノスさんやマチアさんが起き出してきてしまう。
怒りを必死に噛み殺し、二階へ続く階段を上りかけたが、途中で座り込んで俺は膝を抱えた。本当は大声で叫びながら、暴れ回りたい気分だった。だが、そんな事が出来るはずもない。ならここで一人、気が収まるまで泣いたほうがいいと思ったのだ。
「……何かあったの?」
しばらく泣いていると、レニオラが寝室から出て来て尋ねた。どうやらリーシャも起きている様子だった。やはり俺たちの言い争いは、家じゅうに響いていたのだろう。
「うるさくしてごめんね。悪いけど、ちょっと言えない。本当にごめん。」
俺は謝った。あれ程頭が沸いていたのに、よくこんな風に謝る事が出来たと思う。
「ね。ユーク。いいからこっちに来て。」
レニオラが俺の手を引っ張り、寝室に連れ込んだ。そして俺を自分たちのベッドに入れ、しっかりと抱きしめた。俺が泣いている間中レニオラは抱きしめてくれ、泣き止んでもしばらくの間背中をポンポンと叩いてくれた。
俺はレニオラに引っ付いて眠り、俺のベッドでリーシャが寝た。
出立当日の朝になってようやく、グヘルムさんが防具を持って来た。間に合わせてくれたのはありがたかったが、「最後の調整」と言って、台所でいつまでも将聖に防具を着せたままあちらこちらを引っ張ったりいじくり回したりしていたので、表に迎えに来た騎士を待たせていたハノスさんたちは気が気ではない様子だった。
「二日しかなかったし、命に関わる物だしな」と思って俺は廊下から横目で見ていたが、時間はどんどん過ぎていった。将聖と話す機会が失われていくので、マチアさんですら苛立ちを隠せない様子だった。
お陰で最後には呼び出しに来た騎士まで怒りだし、終わるや否や、ほぼ連行するようにして将聖を連れて行ってしまった。このため、俺たちは南門まで追いかけて別れの挨拶をすることになった。
「いってらっしゃい。」
「気を付けてね。」
「ありがとうございます。みなさんもお元気で。」
南門の外で、ようやく俺たちは言葉を交わした。と言っても、将聖と言葉を交わして固く抱き合ったのは、ハノスさん、マチアさん、レニオラとリーシャだった。俺も一応南門までついて行ったが、何も言いたくなかったし、手を振るつもりもなかった。
俺の腹の底には、まだどす黒くモヤモヤしたものがわだかまっていた。口を開いたらそれがどんな形で表に出て来るか分からず、俺はそれを隠したままにしておきたかったのだ。
だから俺は念のため、別な物を準備していた。
「じゃあ、行ってくる。」
将聖が、離れた場所から俺に言った。そしてそのまま歩いて行きかけた。
それならそれでもう仕方ないと俺も思っていた。昨日の今日なので、俺は将聖と視線を合わせず、朝食の席にすらつかずに、グヘルムさんが来るまでずっと二階の寝室に籠っていたからだ。
だが、将聖は数歩進んで立ち止まった。躊躇いがちに振り返り、俺の方をじっと見た。
「優希。昨夜はごめん。」
しばらくしてからあいつは言った。
「あれは俺が悪かった。今までの事も全部悪かった。謝ったくらいじゃ、お前は許せないだろうと思うけど……。」
ただ真っ直ぐ突っ立ったまま、将聖はそう言った。その姿はひどく幼く見えた。後悔や不安、怖れ、そして寂しさ……、色々な感情がその表情にも声にも混ざり合っていた。
「あのさあ、優希。今まで、辛い思いさせて本当にごめん。でも、お前がどう思っているかは分からないけど、俺はお前がイザナリアにいてくれて良かったと思ってるよ。俺、お前がいなきゃ生きて来れなかったから。俺は、お前が思っているよりずっとチキン野郎だから。気づいてないかも知れないけれど、俺お前がいなきゃ、怖くてあの森からも出られなかったと思う。……勝手な事ばっかり言ってごめんな。金じゃなくて、もっと他の方法で何か残してやれれば良かったんだけど、何も出来なくてごめん。本当にごめん。色々嫌な事も多いと思うけれど、頼むから元気で。頑張って生きてくれ。今まで本当にありがとう。」
「――っ!」
俺は俯き、顔をくしゃくしゃにして耐えた。こいつも腹に据えかねる事がたくさんあっただろうが、この最後の言葉だけは、絶対に言わなければならないと思っていたのだろう。そのことが、この瞬間痛いほどに分かった。
こいつは謝る時は真正面から謝って来る。
そしてこんな恥ずかしい事さえ、真正面から俺に言うのだ。
俺は、こいつがこいつなりに俺を頼っていたのだと素直に聞かされて、胸に亀裂が走ったかと思うほど動揺した。
俺は涙を堪えた。泣くくらいなら、最後まで怒り続けていたかった。
「おい。待てよ。」
俺は将聖を引き留めた。近づいて行き、目の前に立つ。
将聖も大人しく待っていた。俺がさっと手を振り上げると、将聖はわずかに顔を背けて目を閉じ、歯を食いしばった。
カンッ、カンカンッ!
「よぉし! 行って来いっ。」
「……?」
将聖は目を見開いた。俺の顔をまじまじと見て、それから俺が両手に握っている物を見る。
しばらくして、ゆっくりと将聖の顔が崩れた。
「……なーに笑ってんだよ?」
ずっと黙っているつもりだったのに、俺は憮然として尋ねてしまっていた。
「だってお前今、すっげえ凶悪な表情してたから。」
何かがツボに入ったのか、くくくくく……、と将聖は腹を押さえた。訳の分からないハノスさんやマチアさんが、俺が何をしたのかと驚いている。
俺は両手に握った火打ち石を、ずいっと将聖に差し出した。
「『切り火』だよ! 邪気払いだっつーのっ。 お前だって知ってんだろ、これっ。」
「知ってる。知ってるけどさあ、でも俺ずっと、お前にぶん殴られると思ってた。そんな表情してんだもん……っ。」
「んな事する分けねえだろがっ!」
そう言いながら、俺は胸がいっぱいだった。
悪かったのは将聖ではない。俺だ。こいつの精一杯の思いやりを、俺が足蹴にしたのだ。あれほど懸命に働いていたのを目の当たりにしていたのに、稼ぎ出した金を叩き返した。それどころか、俺の未来を心配するその思いすらも、偽善だと言って切り捨てた。
将聖は俺を軽蔑しても良かった。金輪際無視しても良かった。
そうされても、俺は文句を言えないはずだったのだ。
だが、将聖は笑っていた。多分、笑って許してくれたのだ。俺が投げつけた言葉、俺が見せた態度、そしてこいつがずっと俺に示してきた誠意を、俺が真っ向から否定した事さえも。
そして俺はこいつのそんな表情を見て、信じられないほど安堵していたのだった。
もしこいつが許してくれなかったなら、俺はどれだけ不安だった事だろう。こいつが帰って来るまで、どんな思いで待ち続ける事になっただろう。
ましてや、こいつに何かあった時は……。
将聖が楽しそうに笑いながら俺を見ている。
その一コマを切り取って永遠に残しておきたいような、そんな笑顔だ。
「な、何だよ。ったく……。」
俺は自分も笑顔になるのを隠すことが出来ず、それが途轍もなく恥ずかしかった。
俺はこいつにムカついていて、もう口を利きたくもなくて、出来る限り素っ気なく送り出すつもりだった。なのにこいつの笑顔を見ているだけで、勝手に頬が緩んでしまう。
俺は自分でも顔が真っ赤になっているのが分かって、ますます頭に血がのぼった。
「い、いっそのこと、今から殴ってやろうか?」
「止めて、止めて。それだけは止めて。せっかく邪気払いしたんだから。」
逃げるように身をよじりながらそう言われて、ようやく俺も思いとどまった。確かにここで石を打った本人が殴りつけたりしたら、せっかくの切り火が無駄になってしまう。
「まったく、どこでそんなモン覚えたんだか。」
ようやく落ち着いた様子で、将聖が言った。いや、まだ頬のあたりをひくひくさせている。
「日本だよ! 当たり前だろ!」
「いや確かに、日本しかねえけどさあ。お前って、時々妙なところから妙な知識拾ってくるじゃん? 『スイカの種食べると盲腸になる』とか言って、めっちゃ種除けながら食ってたし。姉ちゃんからつむじかばって逃げ回ってたし。」
またそんな昔の事を。
そう思いながらも、何と切り返したらいいのか分からなかった。ただ頭に血をのぼらせたまま、俺は大声で怒鳴った。
「……言っとくけどなあ、俺ぁちっともふざけてなんかねえからなっ。験くらい担いで何が悪い! 危険なんだぞ。心配して当たり前だろ!」
――このクソ野郎っ。
言いながら、俺は今度こそ少し涙目になっていた。
――この期に及んで、こんな事を言わせやがって。俺は何も言いたくなかったから、切り火で終わらせるつもりだったんだ!
「うん。……分かってるよ。」
将聖が頷いた。とても優しい笑顔になっていた。
それからこいつは、俺の前にずい、と立ちはだかった。
腕をぐいっと掴まれて、乱暴に引き寄せられた。顔から将聖の胸に突っ込み、とっさに息が詰まる。
将聖の長い腕が背中に回った。片手が腰の辺りを巻き締め、片手が後頭部をつかんで俺の顔を無理矢理胸に押し付ける。
ぎゅううっと強く抱きしめられた。突き出た鎖骨が当たって少し痛かったが、胸と腕の間に包まれて、将聖の体温や匂いを直に感じた。俺は頭の中がポカンと空っぽになり、五感だけが研ぎ澄まされて、その暖かい感覚を味わっていた。
――あったかい。
そう思った途端、鼻水と汗が目から噴き出しそうになった。俺はそれを封じるために、固く目を閉じた。
――あったかい……っ。
「……っ。」
将聖が何か言おうとしたようだったが、聞こえなかった。喉が鳴っただけだったので、吞み込んでしまったのだろう。
「じゃあな。すぐ帰るから。」
少し間をおいてからようやく、明るい口調で将聖は言った。無理をしているのは分かったが、からかう事はできなかった。俺ももう泣き出しそうだったからだ。
将聖は俺を解放すと、さっと背中を向けて歩き出した。
「……おう、行って来い。」
将聖の背中に向かって、俺は言った。
「気を付けてな。さっさと済ませて帰って来い。」
俺はぼんやりと焼き菓子を噛みながら、あの日の事を思い出していた。
まだ体に将聖の体温や、抱きしめられた感触が残っている。あのぎゅっと締め付けられるような感覚をもう一度反芻してみたくて、俺は自分で自分の体を抱きしめてみた。時々ベッドの中でも、こんな風にして将聖を思うことがある。毛布の中は暖かく、ほっこりと包まれているせいで、よりはっきりとあの日の事を思い出すことが出来た。
固く瘦せた、しかし思いの外広く感じられる胸。長い腕。
土の匂いと混じり合った、将聖の匂い。体温。
額と頬にほんの少しだけ直に触れた、将聖の滑らかな首筋……。
「どうか、姫。そんなに心配なさらずに……。」
肩に手を置かれて、はっと俺は我に返った。ギルフォン様の優しい目が俺の顔を覗き込んでいた。
「ショーセ殿は無事に帰って来ます。信じて待ちましょう。」
「……あ、はい。そ、そうですね。」
俺は神殿の僧房の食堂にいた。ヘルマさんがお茶の茶碗を置いてこちらに顔を向けており、レドナス様もスープを飲む手を止めて心配そうに俺を見ている。
――何をしているんだ?
俺はぱっと両手を膝に戻しながら思った。ギルフォン様に心の中を見透かされたような気がして、ひどく気恥ずかしかった。ああいう場面だったのだ。将聖にちょっとばかり親密度の高い事をされてしまったのは仕方がない。それはそれとして、その場面を再現するように思い出そうとしている自分がキモいと思った。いや、これを知られたら絶対将聖に「キモい」と思われる事間違いなしだ。
見送りの際のあれは、単にあいつにまわしを取られただけだ。あいつにも俺にも他意はない。がっぷり四つに組んだところからの「送り出し」。語呂的にも合っているではないか。
そう心の中で言い訳をしながら、何故か俺の胸は痛かった。
俺は将聖に会いたかった。ただ会いたくて、会いたくて仕方がなかった。
――どうかしている。
俺は思った。「俺にも召集の事を相談しろ」などと要求するのなら、今ここにいないというだけでこんなに狼狽えていていいわけがない。もっと泰然と構えて「あいつがいない間のメドーシェン市は、俺が守ってやるぜ」くらいの強い気持ちでいるべきだろう。
なのにただ、俺は空っぽだった。体の内側が空っぽになって、その空洞の中に痛みだけが取り残されたような、そんな感じがした。空っぽなのに、痛いのだ。
急に俺の目から涙があふれ出した。「これくらいの事で泣くなんて、ウソだろ?」と自分でも思ったが、痛みはどんどん激しくなり、涙も流れ続けていた。
「……ふぐっ……。」
隠すつもりだったのに、息が詰まって俺はしゃくり上げた。だから泣いている事は、ギルフォン様にもレドナス様にもバレてしまった。
「姫。あなたはお疲れなのです。今、レドナスに家まで送らせましょう。」
「そ、そんな……。レドナス様の方がずっとお疲れです。私は走って帰れば、一人でも大丈夫ですから……。」
俺は辞退しようとしたが、隣からヘルマさんが言った。
「セルウィエレ様がお帰りになる前に、後で従者を一人、私の迎えに寄越すと言ってくださいました。その者に言えば、先にユーク様をお送りすることが出来ると思います。先ほどレドナス様が晩堂課の鐘を鳴らされましたので、間もなく来ると思うのですが。」
「おお、良かった。ぜひお願いいたします。」
ギルフォン様がほっとした声を上げた。
見ると、ギルフォン様の手は疲れのあまり震えていた。それでも明るい声で礼を言いながら、ヘルマさんに微笑みかけていた。
「あなたにも本当に助けられましたな。ありがとうございます。後で奥方様にも感謝しているとお伝えいたしましょう。」
疲れ切った様子のレドナス様が立ち上がり、俺の肩に自分の毛布を掛けた。毛布の上から、そっと背中に手を置く。レドナス様の手のひらの温もりが伝わってきた。
――強くなりたい。
ギルフォン様の声を聴きながら、俺は思った。
――俺はお前やギルフォン様やレドナス様のように強くなりたい。セオフェ様みたいに笑顔でいたい。強くなって、一人で何でもできるようになって、俺がお前を追いかけられるようになって……。だけど、そうなるためにはどうしたらいいんだよ?
俺は両手の中に顔を埋めた。もう我慢は限界で、俺は声を上げて泣き始めた。




