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俺たちは勇者じゃない  作者: 陶子
25/49

025_新代官(後)

霜暦九七七〇年 シファオレンの月


「なあ、おい、将聖。いいからそれちょっと貸せよ。」

 俺は将聖に声をかけた。

「うるせ……っ。いい……って、言……ってんだろっ。」

 将聖は重荷に足元をふらつかせながら、頑固に拒絶する。その背負子(しょいこ)には、布袋に詰められたモルタル用の焼成粘土が山のように積まれていた。

 エク・セドラス騎士団の活躍で、最近の将聖は魔物狩りの出番がほとんどなくなってしまった。エク・セドラス騎士団とは、エリュースト卿がメドーシェン市に連れてきた、ヴァイズ・ルフス帰りの精鋭たちのことである。彼らは集団での魔物狩りに長けており、巨狼(ワーグ)のような大型の魔物や、群れで行動する魔物相手にその優れた組織力を発揮していた。万が一、取り逃がした場合に備えて、街の自警団にも後詰めを要請されてはいるが、この騎士団がやってきてから、呼子が吹かれて団員たちが出動したことは一度もなかった。中型の魔物にいたっては、魔狩人(シーカー)たちの間で取り合いが起こっているようなありさまで、お陰で将聖は魔物狩りで報酬を得る機会を失った形になっている。

 しかし本人はそれを気にする風でもなく、日雇いの仕事に専念していた。むしろ土塁建設や市壁の増強など、にわかに起こった「防衛景気」に便乗できて喜んでいる様子である。魔物狩りの収入も悪くはないが、実入りがあるかどうかは日雇い仕事よりもさらに不安定なのだ。その緊張感にも雲泥の差があることは言うまでもない。自警団の呼び出しが激減しても、気楽に安定した収入が見込める仕事ができるということで、将聖は以前よりもその表情まで明るくなったように見えた。「結構現金な奴だったんだな」と、少し可笑(おか)しさがこみ上げてくるくらいだ。

 だが、今こいつが担いでいる焼成粘土は「気楽に」運べる量ではなかった。

馬車馬(ばしゃうま)驢馬(ろば)じゃあるめえし、手押し車もないのにその量はねえだろ。ずいぶんブラックに働かされてんなあ。」

「いや……、俺が、『運ぶ』って言った。……これはっ、階級上げのための、行軍訓練だから……っ。」

「なんだよ、そりゃ。」

 将聖がまた、意味不明なことを言っている。「生まれ変わったら(さむらい)になりたい」と言われた時も、「過去に転生(てんしょう)なんてできるのか?」と俺は首を傾げたものだ。

 土塁建設と並行して、市壁の増強も急ピッチで進められていた。いくらエク・セドラス騎士団が精鋭ぞろいの集団だとしても、数で攻められては対応しきれない。巨狼(ワーグ)のような大型の魔物の出現よりも、魔狼(ガルム)のような魔物が複数の群れで現れた時のほうが危険だとエリュースト卿は考えているのだ。この新代官には魔物狩りに関する豊富な知識があり、しかも用意周到だった。増え続ける魔物の出現に不安を募らせていたメドーシェン市民に、そんな新代官の意向に異を唱える者などなく、人々はみなとても協力的だった。

「お前、階級上げしたいの?」

 俺は訊いたが、将聖は答えなかった。ぜーぜー言いながら、滝のように汗を流している。

「いや確かに、二階級制覇は男の夢だよ? 無差別級はロマンだよ? でもお前、魔物狩りに階級なんてねえだろが。」

 将聖は黙ったまま、憮然とした目で俺を睨んできた。息が上がっているせいで、言い返せないのだ。

 もちろん、俺は将聖が本気で言っているわけではないことくらい分かっていた。将聖のジト目は「単なる言葉の(あや)を真正面から受け取るな」と言っている。だが、俺はその表情(かお)が面白くて、思わず笑ってしまった。



 エリュースト卿が新代官に就任してから、土塁建設や市壁の増強にかかる物資が次々と中央都市(イクシマール)から届くようになった。資材ばかりでなく、道具や荷馬車、人足に役畜(えきちく)、彼らを養う食料や飼料などもぞくぞくと集まってきている。

 防衛に必要な資材が他郷から届くのはありがたい。徐々に牧草地の周辺を歩くこともままならなくなり、閉塞感に包まれていた街に、外の空気が入り込んで明るい雰囲気が戻ってきている。

 だが、宿舎はなんとか確保できたものの、届けられた物資を保管するスペースは市内にはなかった。「前哨基地」という土地柄だけに、市民はほぼ全員市壁の中で暮らしている。市から離れた場所に農地を持つ者ですら、安全確保のために市壁の中に自宅を持っているのだ。市内は家々ですし詰め状態になっているため、届けられた物資は南門前の広場に山のように積み上げられていた。

 最近の将聖は、それらの資材を工事が進んでいる各地へ運搬する仕事に従事しているのだった。いつもこんなハードな仕事にしか就けないのは気の毒だが、そんな現実さえも「単純だし安全だし金になるから」と前向きに受け止めて過ごしている。むしろもっと適性をつけようと、それを逆手にとって働きながら筋肉を増強しようと目論(もくろ)んでいるらしい。そういうところは、俺も見習わなければいけないなと思う。

 とはいえ、見習うべき点にも程度というものはある。今将聖が抱えている仕事量は、どう見ても多すぎた。これほど文字通りな場面は、そうそうない気がするくらいだ。

 賢明な俺は将聖が音を上げるのを見越して、こいつがついでに言づけられた注文の料理を届けるために、一緒に東の建設現場を目指していた。ライナルさんは簡易屋台の出店場所を日によって変えている。土塁建設の進む東の森だけでなく、市内にも店のお得意様である労働者は大勢いるからだ。今日のライナルさんは南門前広場の近くで店を開いている。俺が将聖と一緒に配達に行きたいと願い出ると、快く送り出してくれた。

 妙にいそいそと支度をして、意味ありげな極上の笑顔と共に籠を渡されたことだけは気に食わなかったが。このおっさんは、息子には「恋愛はご法度だ」などと言っていたくせに、俺に対してはどうしてこう、妙な期待をしているのだろう。

「う~……。きっつ……。」

 また将聖が立ち止まり、両膝に手をついた。この上り坂がきついのだろう。緩やかではあるが、だらだらと続いている。

 俺も少しくらい一緒に粘土を運んでやってもいいと思っているのだが、将聖は頑強に拒み続けていた。今俺が手にしているのは、十五人前の惣菜パン(ティマッキ)が入った籠だけだ。建設現場は関係者以外立ち入り禁止となっているので、最終的にはこの籠も将聖の背負子(しょいこ)の上に乗ることになる。

 だが将聖の足取りを見る限り、この上小さな鼠一匹でもこの背負子(しょいこ)の上に駆け上がったなら、こいつは漫画のようにうつ伏せに、地面に大の字に倒れたまま、立ち上がれなくなるのではないかと俺は思っていた。

 もはや粘土配達の任務を遂行することさえも怪しい気がする。

「なあ将聖。今突然目の前に魔物が現れたりしたら、お前、走れるのか?」

 俺が厳しい声を出すと、将聖は返事に詰まった様子で上目遣いに俺を見た。

 俺より背が高いのに、上目遣いって何なんだ。

「どこかに避難する前に、立ちんぼでKO(ケーオー)されたらどうするよ。」

「……。」

「いいからその袋、少しこっちに寄越せって。」

 ようやく、将聖は立ち止った。むくれた表情かおをしながらも、背負子(しょいこ)を肩からどさりと降ろす。

「お前はどうやって持っていく気?」

「この風呂敷に入れてくれないか。」

 俺は籠の中に用意していた大判の方形の布を地面に広げた。もちろん本当の風呂敷ではなく、ハノスさんが野菜を保存したり、農具を保管したりする時に上にかけていた布を拝借したものである。レニオラの野菜運びを手伝っているうちに、籠をこの布で包んで背負ったほうが、ずっと早く大量に運べることに気付いて、使わせてもらうようになったのだ。ちゃんと洗って、(へり)もかがってある。ゆくゆくは日本の風呂敷のような、いきな絵柄のついた、ぱきっとした色合いの風呂敷を持つのが俺の密かな憧れだった。

 できれば、濃い紫か濃紺がいい。

「おお……。いけるね。」

 俺が粘土を包んだ大きな風呂敷包みを時代劇の行商人のように背負い、普通に歩き始めたのを見て、将聖が呆れたような、感心したような声を出した。

「そりゃあそうでしょ。毎日野菜を運んでいるし、ちょっと前までは朝も水汲みしていたし?」

 思わず俺はドヤ顔になった。実のところ、この粘土の包みは予想よりもはるかに重かった。いきなり膝と腰に大きな負荷がかかって「おっとぉ?」と焦ったのだが、それを認めるのが何となく嫌だったので、そこはうまく胡麻化している。

「あー、軽くなった。これは楽だわ。」

 将聖も背負子(しょいこ)を背負いあげて、嬉しそうな声を出した。腕の血行を取り戻そうとしてか、歩きながら首を左右に動かしている。

「でも、いいよなあ、風呂敷。お前、富山の薬売りみたいだぞ?」

「……お前は二宮金次郎な。」

「……俺の教科書がないんだけど。」

「エアー教科書じゃダメなのか?」

「うん。……もうダメだ。教科書がなきゃ歩けない。俺をここに置いていってくれ……。」

「……どういう末期症状だよ。んなモンあるわけねえだろ。これで我慢しろ。」

 俺が惣菜パン(ティマッキ)の上にかぶせていた布巾を渡すと、項垂うなだれていた将聖は俄然元気になった。本を開いているようにそれを手の上に載せて、いかにも読んでいるような素振りをする。

「学びて時に之を習う。(また)(よろこ)ばしからずやっ。朋有(ともあ)り、遠方より(きた)る。(また)楽しからずやっ。」

「……全然似てねえな。こんな育ち過ぎた金次郎はいねーよ。」

「だったら言うなって。」

 将聖はげらげらと笑った。最近の将聖はこんな感じだ。イザナリアに来てからこっち、ずっと大人として振る舞うことを余儀なくされた反動だろうか。すぐにふざけ始め、それに自分でウケて大笑いしたりしている。

 まあ、こいつの機嫌がいいなら、俺に言うことはないのだが。

 将聖は足取りがしっかりしたせいで、歩く速度が上がった。俺も負けじと食らいついたが、粘土の重さに引き留められて、気を抜くと距離が開いてしまう。何とか追いつこうと意地を張ると、隠しようもないほど息が上がってしまった。

「ほら。それ貸せ。」

 将聖が俺の手から惣菜パン(ティマッキ)の籠を取り上げた。今度は俺が上目遣いに睨む番だったが、将聖は「おー、いい匂い。美味(うま)そう」と言っただけだった。

 だがバランスが崩れるのか、やはり惣菜パン(ティマッキ)の籠一つでだいぶ歩きにくそうにしている。俺はまた、籠に手を伸ばした。

「ごめん、将聖。半分持つよ。」

「うん?」

 将聖は俺を見、「ん」と(うなず)くと籠の持ち手を差し出した。片方ずつ持ち手を握ると、俺たちの間に惣菜パン(ティマッキ)の籠がぶら下がる。

「あー。このままどこかに行きてえなあ。」

 頭上を見上げて、将聖が言った。突き抜けるような青空が広がる。遠く山脈の(へり)にはまだ雲が垂れ込めていたが、メドーシェン市の上空はよく晴れて青く、所々にぽつんと浮かぶ雲の白さがまぶしかった。

 もう厳しい寒さの時期は過ぎたとはいえ、市内も市の周辺の農地にも、まだぶ厚い雪が残っている。しかし市の西を流れるサティシュ川の川岸の氷は解け始めていて、上流でも雪解けが始まっていることを告げるように、徐々にその水かさを増してきていた。通りがかりの小さな広場に、井戸を守るように立っている木蓮に似た大樹の固い花芽も、少しずつ大きく膨らんできている。

 世界は春の気配で満ちていた。

 俺は急に滅茶苦茶懐かしさがこみあげてきて、桜を歌ったヒットソングを口ずさんでいた。



 俺たちは中央広場に向かって目抜き通りを北上してから、東門へ進んだ。本当は、市壁沿いに歩いたほうがずっと近道だったのだが、補強工事があちこちで進んでいるせいで途中が通行止めになっており、遠回りするしかなかったのだ。

 将聖が粘土を届けることになっている建設現場は、市門を出てからさらに北上した位置にある。だが道が大きく迂回しているため、俺たちはしばらくそのまま東に向かって坂道を下って行った。

 メドーシェン市はなだらかな山一つがそっくりそのまま街になったような形をしている。記録によれば、当初は山頂付近の部分にのみ、人々は住んでいたらしい。対魔物戦の防衛に都合がいいという理由からかと思われる。しかし開墾が進むにつれ周辺の地域からも住民が移り住んでくるようになり、神殿も領民を積極的に受け入れたため、(ふもと)に向かって民家が増えていったのである。市壁はその都度建て増しされ外に広がっていったが、山裾(やますそ)に到達する前にほぼ飽和人口に達したため、その後数世紀にわたって現在の規模で定着しているもののようだ。

 山頂の、やや東寄りに張り出した部分が昔要塞だった場所で、ゴスカデュロスと呼ばれている。現在も代官屋敷として使われていて、堅牢な胸壁に守られた内部に騎士たちの宿舎や馬小屋なども立ち並んでいるそうだ。そこからやや距離を置いて南に下ったところに中央広場があり、神殿や市庁舎が立っている。日当たりが良く、中央都市(イクシマール)へ続く街道も南に向かって伸びているので、メドーシェン市のある山は南斜面から民家で埋まっていった。しかしその後も人口は増加し続けたため、徐々に山の北側にも人々は住み始めたのである。

 そしておそらくこの山は、北から流れ下るサティシュ川がもたらした堆積物によってできた地形と思われる。さほど標高もない小さな山とはいえ、傾斜のきつい場所も残る南側の斜面と比べ、北側の斜面はまるで岩が溶けて流れたかのように凹凸の少ない地形だからだ。こんな地形のお陰で山の北側であっても案外抵抗なく民家は増えていったようだが、このためもともとは街の中心にあったのであろう「中央広場」も、現在では市の中心よりもずっと南寄りに位置することになってしまったのである。

 中央広場を縦横に走る大通りが、東西南北のそれぞれの市門に続いているわけだが、だから南門と東門の間よりも北門と東門の間のほうが、距離がずっと長いのだった。しかも魔物の出現頻度の高い北側のほうが、起伏がなだらかで接近もしやすい地形であるために、東門と北門の間には側防塔(そくぼうとう)が設置されている。市壁の他の部分と同様、あまり高いとは言えない石垣の上に木製のアーケードを乗せただけの素朴な造りではあるが、この張り出しが一つあるお陰で、魔物が攻め込んできた時の防戦に有利になるのである。弓矢で迎撃するにしても、線ではなく面で対抗できるからだ。

 目的地はこの側防塔(そくぼうとう)を越えた先にある。迂回路が結構外側に膨らんでいるので、俺たちは東門を出てからもだいぶ歩かなければならなかった。

 それでも、市内を歩いている時よりもぐっと人通りは少なくなり、歩きやすくなったので俺は安堵の溜息をついた。エリュースト卿が起こした公共事業による好景気のお陰で、今メドーシェン市は人でごった返している。俺たちのように大きな荷物を背負った労働者が多く、みなきびきびとした足取りだが、市内は大型連休中の観光地のような様相を呈していた。

「悪い。疲れただろ。」

 俺の溜息に反応して、将聖が言った。

「少し休むか?」

「ううん、平気。ちょっと人混みがきつかっただけ。」

 俺は苦笑いを浮かべて将聖を見上げた。

「みんな忙しくて足早だから、ぶつかっちゃいそうで気が抜けなくて。……ここは静かでいいわね。ちょっとほっとしない?」

「……。」

 将聖は応えなかった。何かに驚いたのか、目を見開いてこちらを振り返ったが、俺と目が合うと、その視線はすぐに逸らされてしまった。

「……? なんだ、あれは。」

 突然将聖が、はっと空を見上げた。

「なにか、来るっ!」

 将聖は俺の手から惣菜パン(ティマッキ)の籠をひったくって地面に置くと、背負子(しょいこ)も放り出すように背中から落とした。

「優希、急げ!」

 ゆっくり荷物を地面に下ろそうとかがみかけていた俺の肩をつかんで、将聖は風呂敷の結び目を乱暴にほどいた。そして包みが地面に落ちるよりも先に、俺の手をつかんで走り出していた。

 穏やかな昼時(ひるどき)の散歩気分は一変した。先ほどまでは、道端の雪の隙間から顔をのぞかせている馬肥し(ファウンペニ)の緑や、例年並みに降り積もった雪を頂くディフリューガル山脈の尾根の白さがまぶしく感じられたのに、急に太陽の光さえくすんだように思えた。

「……なにが、来るんだ?」

 俺は訳も分からぬまま、遅れまいと足を動かした。こいつが大真面目なのは百も承知だ。だが俺の目には魔物の姿は見えないし、将聖が知覚している気配さえも、まるで感じられないのだ。将聖の能力(ちから)を知らなければ、からかわれているとさえ思い込んだかもしれない。その正体も分からぬまま危険が迫っていることを告げられても、不安だけが煽られて手足がこわばるばかりだ。

 それでもこいつを信じているから、俺は必死に歩調を合わせた。

「……な、なにが、来るんだよ、将聖っ?」

 もう一度、俺は尋ねた。

「俺も知らんっ。」

「みんなに、知らせないと……っ。」

「分かってる!」

 そうは言ったが、将聖は呼子を手に取らなかった。鳴らすのを躊躇(ためら)っているようだ。魔物の姿が見えない以上、本当に現れるかどうかは未知数なのだ。むやみに吹き鳴らしても、いたずらに警戒心を煽った挙句、「オオカミが来た!」と嘘をつくのと同じ事態になりかねない。

 ようやく市門の中まで駆け戻ったが、将聖は俺を市壁の前に立たせたまま、戸惑ったように周囲に目を走らせるばかりだった。この辺りは民家が続く。俺を避難させられるような場所が見つからないのだ。将聖もメドーシェン市ではだいぶ顔が広くなったが、だからといってすべての住人と、その家に突然押しかけられるほど親しい間柄になっているというわけではない。

 将聖は井戸のある広場まで俺を引っ張っていった。井戸の傍に、積み上げた石で作られた塀をくり抜いただけの小さな(ほこら)がある。聖人マヨルフィネを祀った祠だ。マヨルフィネは火を司り、かまどの守護聖人とされているが、その役割が庶民のご家庭の台所に直結しているせいか、井戸に祀られることも多いのだ。将聖はその祠の下の小さな窪みに俺を押し込んだ。入り口を自分の体で塞ぐように屈みこみ、肩越しに上空を窺っている。

「頼む。頼むからこっちに来るなよ……。」

 将聖が祈るように呟いている。あまりにも張りつめた様子なので、俺の心臓の鼓動もなかなか収まろうとはしなかった。一体なにが現れるというのだろう。

 ブオオオオオオオオッ。

 どこか、聞き慣れた音がした。地球世界(アルウィンディア)の日本では、もう日常的に聞くことは少なくなってしまったかもしれない。だがイザナリアに生きる者なら、屋外で働いていれば時折耳にする音である。音源は若干うっとうしいが、こんな早春に耳にすれば、少しは心が弾むことだってあるかもしれない。

 羽虫が飛び回る音。やぶ蚊のようなホバリングを得意とする虫が、羽ばたく時に立てる音だ。あの虫たちは指先ほどの大きさしかないというのに、やけに耳につくぶんぶんとした音を発する。群れで飛んでいる時の騒々しさはなおさらだ。

 そして今、そんな羽音が遠雷のようにとどろき、空を覆いながら近づいてくる。

 将聖が呼子を口に当てた。

 俺は目を閉じた。音は、その羽虫の脅威が尋常ではないことを告げていた。



 悲鳴が響き渡った。市内は大混乱の様相を呈している。

「建物の中に入れ! 急げ!」

 将聖の叫ぶ声が聞こえる。助けを求める声が被さり、それをかき消していく。

 羽虫は群れで行動した。頑健そうな大人には目もくれず、逃げ遅れた小さな子供や、動きの鈍い老人に襲い掛かる。獲物にされた人々は四方八方から取りつかれ、羽虫の腹部の先の針と(とげ)だらけの六肢に肌を引き裂かれてなす術もなく立ちすくむばかりだった。

 羽虫はその形状から蜜蜂を連想させるが、腹部の武器は針というより鎌である。もうすぐ一歳になるエリアスと同程度の大きさはあり、動きが素早く、しかもその数を武器に真正面から襲い掛かってくるのだった。(つち)や箒など、手にした道具を武器に反撃する者もいたが、それらで殴りつけてもきりがなかった。当たればそれなりに倒すこともできるが、数匹を撃退する間に、全身から血を流すことになる。

 逆に羽虫は真っ先に獲物の顔を狙った。襲われた者は、目さえ開けることができずに身動きが取れなくなる。そうこうしているうちに、徐々に群がる羽虫に地面に押さえつけられていくのだ。

 羽虫は引き裂いた傷口から流れる血を吸っている。口から伸びる長い管が、獲物の傷口に差し込まれていた。

 子供を助けに走った母親が倒れた。それでも何とか子供だけは守ろうと地面を這っていき、上に覆いかぶさっている。だが、羽虫は数体で母親の体を簡単に持ち上げ、その下から子供を引きずり出した。母親の悲痛な叫びが空気を裂く。すでに子供はぐったりとして動かなかった。

 その光景を目前にしながら、俺は動けなかった。俺は避難を受け入れてくれた近くの民家の窓を、死に物狂いで抑えていた。家主の妻は表通りに続くドアを抑え、家主自身は煙突から入ってこようとする羽虫を追い払うため、室内だというのに松明(たいまつ)を振り回している。

 外にいるよりは安全とはいえ、家の中にいれば無事というわけにはいかなかった。

 羽虫たちは獲物を求めて、ありとあらゆる隙間から家の中へ入り込もうとしている。匂いに反応するのか、それとも熱を感知する能力があるのか、人々が逃げ込んだ家の扉という扉に、蜂球(ほうきゅう)のように羽虫が群がっていた。ただし、熱殺(ねっさつ)するためにまとまっているわけではない。頭部や胸部に比べ、腹部はかなり衝撃に強いらしく、先端の鎌も折れよという勢いで体当たりしてくるのである。

 それは頑強な機体を持つ一歳児大のドローンが数十基で、薄い板のバリケードを突破しようと体当たりしてくるようなものだった。隣の家はついに玄関を破られたらしく、中から上がった悲鳴が壁越しに響いてきた。

 今や市内の至る所から悲鳴が上がっていた。そしてそれが、少しずつ弱々しくなっていく。聞いているのは耐え難かったが、耳を塞ぐことも叶わなかった。

 ドドッ、ドドッ、ドドッ。

 ガラガラガラ……。

 馬蹄の音が近づいてきて、男たちの怒鳴り声が響き渡った。荷車の過ぎる音もする。救援だろうか。この惨事になす術はあるのか。

 窓の鎧戸の隙間から外を見やった俺の目に、馬に曲芸乗りのようにまたがった騎士の姿が飛び込んできて、すぐ消えた。視界に入る範囲を、ほんの一瞬、駆け抜けただけだった。だが俺の目は、その騎士がすり抜けざまに倒れた子供の帯をつかみ、馬に引きずり上げたのをとらえることができた。

 後を追うように、火のついた小型の炉の乗った荷車が押し出されてきた。羽虫を追い払いながら、倒れた母親をかばうようにその傍をすり抜ける。松明を持った男たちが数人で母親を囲んだ。後はもう、涙で見えなかった。

 強い異臭が辺りに充満した。久しぶりに嗅いだせいで、とっさに「くさい」と思ってしまったが、直後に口の中に唾液が溜まった。魚を焼く匂いだったのだ。

 いや、それは確かに一部焼き魚の匂いをさせていたが、ほかの匂いも混じっていた。松脂の燃える匂いと、硫黄の燃える匂い。よく分からない刺激臭もする。

「ヤーゴルの家に集まれ! 急げ!」

 男たちが叫んでいる。

「この煙は長くは持たない! 今のうちにヤーゴルの家に集まれ!」

「俺たちもすぐに撤収する! 全員の避難を待ってはやれない! だから急げ!」

 ヤーゴルさんはメドーシェン市の職人の一人だ。荷馬車や荷車を製造している。俺も詳しくは知らないが、時々神殿の行事などで世話役をしているから、この辺りの中心的な役割を担っているのだろう。オルグさんもそうだが、市内に古くからある家柄は、あちこちの職人や農民とコネクションがあるため、そういう立場に推されることが多い。

 窓の外から、羽虫は消えていた。驚くほどあっという間の出来事だった。一時的なもののようだが、今なら外に出ることができる。

「行きましょう。今のうちです!」

 俺は家主を振り返った。

「避難させてくれて、ありがとうございました。俺は隣に行ってきます!」

「待て! 俺も行く!」

 外を飛び出した俺に、家主のおっさんも続いた。

「お前は先に行っていろ! 火の始末だけしとけよ!」

 おっさんが妻に向かって怒鳴っている間に、俺は隣の家に駆け込んだ。羽虫はおらず、中にいた女性は傷ついた腕を抑えながらうずくまっていた。荒い息をついている。昼飯時で帰宅した者もいるが、この時間多くの男たちは外で働いているので、家にいるのはほぼ女か、働けないほど小さな子供か、老人だけだ。

「大丈夫ですかっ?」

 俺が声をかけると、女性は固く目を閉じたまま小さく(うなず)いた。頬や額の辺りにたくさんの切り傷がある。目を守ろうとかばっていたらしく、両手も傷だらけだ。余程恐ろしかったのか、なかなか動こうとはしなかったが、俺が「すぐにヤーゴルさんの家に集まるよう、指示がありました。時間がありません。一緒に逃げましょう」と声をかけると、恐る恐るといった様子で目を開いた。

 目は無事だった。傷はなく、ちゃんと周囲が見えている。

「おい。カリナ、大丈夫か?」

 飛び出したのはほぼ一緒だったのに、なかなか現れなかった隣のおっさんが、戸口から声をかけた。隣人同士、よく知った仲なのだろう。

「……ナーダンさん……? ……ええ、何とか……。」

「カリナ。お前についていてやりてえが、通りの向こうのホラズんとこの爺さんも、襲われて怪我をしたみたいだ。俺はあっちに行くから、悪いが、そこのお姫さんと一緒にヤーゴルの家に避難してくれねえか。傷の手当は向こうでできるって自警団の連中が言ってる。……歩けるだろ?」

「……ええ、大丈夫。分かったわ……。」

 分かったとは言ったが、カリナと呼ばれた女性はなかなか身を起こそうとはしなかった。どこか朦朧(もうろう)としており、怯え切って周囲に視線を彷徨(さまよ)わせるばかりだ。

「行きましょう。」

 俺は手を差し出した。カリナさんがようやく握り返す。その手はぶるぶると震えていた。

 カリナさんの手が傷だらけなので、俺は握り返すのを躊躇(ためら)った。優しく手を添えるだけに(とど)め、肩につかまらせて脇の下に腕を回す。「いいですか? せーのっ!」と声をかけると、カリナさんはやっと立ち上がった。

 その背中にも羽虫の鎌を受けた傷があることに俺は気づいた。手を伸ばしてカリナさんのショールをつかむと、その肩にかけてやる。うまく着せかけてやれなかったが、本人が空いているほうの手で直してくれた。カリナさんはまだ震えていた。

 将聖はどうしているのだろう。俺を隣の家に預けて、自分は通りに飛び出していった。四方八方から襲い掛かってくる羽虫を、斬り、殴り、蹴り飛ばして逃げ遅れた人々を助けに向かった。本当に、両手と両足が別々な羽虫と戦っている感じだった。

 俺はカリナさん一人を助けようとするだけで精一杯だった。俺と将聖はこうも違う。それでも将聖に一歩でも近づきたくて、俺はカリナさんを支え続けた。

 カリナさん本人も、しっかりしようと自分を奮い立たせているようだった。しかし受けたショックが大き過ぎたのか、家の敷居をまたぐのにさえ、つまずいてよろめいてしまう。俺は以前将聖がしてくれたように、強くカリナさんを引き寄せてから、笑顔で言った。

「少しくらい体重をかけても大丈夫ですよ。俺はそんなにヤワじゃないんで。」

「……ありがとう。」

 カリナさんがようやく微笑んだ。泣き出しそうな笑顔だった。

「迎えに来てくれてありがとう、ハイランダーのお姫様。あなたの手、温かくてほっとする。」

 俺は返す言葉が見つからず、ただ照れ笑いをして(うつむ)いてしまった。

 カリナさんの家は扉が壊されていたので、俺たちはかまどの火の始末だけを確認すると、戸締りは諦めて外へ出た。

 市内の至る所から黒い煙が上がっていた。

 メドーシェン市はいつもあちこちから炊事の煙が上がっているが、それはこんな黒煙ではない。今日は風が穏やかなため、その真っ黒な筋はみなディフリューガル山脈の方角に向かって斜めに立ち上り、上空でほどけて市を覆っていた。

 今や街中に焼き魚の匂いがする。俺がそう言うと、「海獣(かいじゅう)の油じゃないかしら」とカリナさんが言った。

「子供の頃、街にいた魔狩人(シーカー)から聞いたことがあるわ……。冷えても固まらない『海獣(かいじゅう)の油』というのがあって、船乗りが蠟燭(ろうそく)代わりに使っているって。その油の炎は明るいけれど、とても魚臭いんですって……。」

海獣(かいじゅう)の油ですか。初めて聞きました。」

 メドーシェン市は内陸にあるため、海産物はほとんど手に入らない。食べられているのも淡白な川魚ばかりなので、俺は海の存在を忘れかけていた。サティシュ川の水もいつかはどこかへ流れ込まなくてはならないだろうから、イザナリアにも海はあるはずなのだが、俺はこの地へ来てほとんど海の話を聞かなかったため、少し驚きを感じずにはいられなかった。

 海獣(かいじゅう)の油とは鯨油(げいゆ)のようなものだろうか、とふと俺は思った。鯨油は昔、地球世界(アルウィンディア)でもランプの燃料として使われていたということを何かで聞いたことがある。

 カリナさんはしゃべりながら歩くと気がまぎれるようなので、俺は会話を続けた。

「教えてくれたのは、あちこちを旅した人だったんでしょうか。物知りだったんですね。」

「ええ……。そういえば、海獣(かいじゅう)の油の煙は、納屋の甲殻妖虫(デグミル)除けに使えると父に勧めていたわ。甲殻妖虫(デグミル)のような魔物は、自分よりも弱い相手しか狙わない。海獣(かいじゅう)はとても大きくて強い海の獣で、その油を燃やしている間は、その場所も海獣(かいじゅう)の加護の力を得られるから、甲殻妖虫(デグミル)は用心して近づいてこない、って言っていたの……。」

「多分、その話は当たっていたようですね。」

 俺は上空を見ながら言った。羽虫はいない。羽音が聞こえないかと俺は耳を澄ませたが、耳の奥には先ほどの襲撃の際の音が残っていて、静かなのかそうでないのか、自分でもよく分からなくなっていた。

「そうね。ふふ。ずいぶん昔に聞いた話だわ……。」

 カリナさんは痛々しく笑う。顔に刻まれた傷のせいだ。周囲には、俺たちのように老人の手を引いたり、怪我人や子供を背負ったりした人々の群れが、一様にヤーゴルさんの家を目指して歩いている。誰も口を利かず、犬も吠えず、幼い子供でさえ泣き声一つ上げなかった。第二次世界大戦中、地球世界(アルウィンディア)で爆撃機の空襲を受けた街も、こんな光景だったのだろうか。

 まるで今、俺たちは防空壕(ぼうくうごう)を目指して歩いているようだ。

 そう思った途端、ぞくりと俺の背筋を冷たいものが走り抜けた。俺はカリナさんをしっかりと抱きしめると、物言わぬ人々の群れに紛れ込みながら通りを歩き続けた。



 カリナさんをヤーゴルさんの家に送り届けると、俺はすぐにまた表通りへ駆け出した。

 カリナさんとは、探しに来ていた旦那さんとすぐに会うことができたので、その場で別れた。ひとしきりお礼を言われたが、俺はそれどころではなかったのだ。

 将聖が一人、東門付近で戦っている。

 目撃者からそれを聞いて、俺はいても立ってもいられなかった。本当はヤーゴルさんの家に留まっているべきだということは分かっていながら、俺は東門を目指して走っていった。

 将聖に、信じられないほどの数の羽虫が群がっていたという。羽虫は襲う相手を選り好みする。弱者を狙うのだから、将聖は大怪我でも負っているのかもしれない。

 俺はそう思って血相を変えたのだが、もっと驚きの話を聞かされて開いた口が塞がらなかった。

「あいつ、魔石を光らせていたぞ。ああいう使い方ができるとは思わなかったが……。」

「ああいう使い方?」

「うーん……。夏になると火に虫が群がってくるだろう。あんな感じだ。あの兄ちゃんが魔石を光らせると、その光に向かって虫どもが一斉に群がっていったんだ。」

 魔石は使い方によって熱を発したり、明り取りになったりする。ハノスさんはそれを野菜作りに活用しているし、少し値が張るが「火災の危険のない蠟燭」として使っている家もある。

 だからイザナリアの人々が「光る魔石」自体に驚くことはないのだが、将聖の手の中で魔石が光ると、羽虫が誘われるように将聖を追い始めたのだという。

「で、兄ちゃんはそのまま、虫を引き連れて市門の外へ走って行っちまった。」

 将聖は火の魔法が使える。そして、白魔石を持っている。

 つい今しがた聞いたばかりの、海獣(かいじゅう)の油の話と嚙み合うところがあった。

 魔法粒子(イリューン)は循環する力だ。すべての物質の内に存在する。そしてどうやら、燃やせば揮発して周囲に拡散するらしい。

 将聖は、羽虫が魔法粒子(イリューン)に反応することに気づいたのだ。強い魔法粒子(イリューン)は避け、弱い魔法粒子(イリューン)に群がっていく。そこで羽虫を引き付けるために、自分の魔力で白魔石を燃やしている。

 ――だが、自分自身のことは、ちゃんと考えているのか?

 俺は将聖の防具に籠手しか準備しなかったことを後悔した。

 靴など買ってもらい、収穫祭で浮かれている場合ではなかった。そんな余裕があったら、俺は借金してでもあいつに胴着くらい用意してやるべきだったのだ。

「将聖! 将聖っ! 将聖~~~っ!」

 俺は走りながら、大声であいつの名前を呼び続けた。姿が見えなくてもいい。俺の足で追いつけるとも思えなかった。

 俺はただ、あいつの返事が聞きたかった。ほころんだ口元から、白い歯と一緒にこぼれる「おーい!」という呑気な声をただただ聞きたかった。

「何をしている!」

 強い声が俺を呼び止め、次いで前に立ちふさがった。ゴスカデュロスの騎士だった。

「ひ、人を探しています! この先です!」

 俺は東門の先を示した。門扉はすでに閉ざされていた。

「そと、外の様子が知りたいんです! ここを誰か通りませんでしたかっ?」

「この門は閉鎖された。住民には指定の避難所へ避難するよう指示があったはずだ。早くそこへ移動しろ!」

 騎士は声を張り上げた。この状況だ。今は至急住民を避難させることが最優先なので、それに従わない者へは厳しい対応にならざるを得ないのだろう。

 だが、俺は騎士に食い下がった。

「将聖がここを通ったんです! ……その、たくさんの魔物を引き連れた者が、ここを通り抜けたはずです! すごく目立ったはずです。見ませんでしたか? 教えてください! お願いします!」

「我々は住民の安全のためにここにいるが、一人一人が何をしているかまで構ってはいられない。いいから避難しろ。協力できないというのなら、強制的に連行するということもあり得るぞ。」

 騎士が俺に向かって一歩踏み出したので、俺はたじろいだ。エリュースト卿の教育が行き届いているので、彼らが俺を力ずくでどうこうしたりなどしないということは分かっていた。むしろこの非常時に、自分のほうが無理を言っているということもわきまえている。俺がうかつに市門の外へ出ようものなら、かえってこの騎士たちを危険な目に遭わせてしまう可能性のほうが高かった。

 それでも俺は、将聖が今どうしているのか知りたかった。誰にも気づかれずに一人で戦っているのなら、最悪命を失ってもおかしくはない。

「どうされたのかな、姫?」

 落ち着いた声が頭上から降ってきた。見上げると、胸壁の上にエリュースト卿が立っていた。この騒ぎに、新代官自らが現場に駆け付けたのだ。騎士たちが対応に張り切っているのも(うなず)ける。

 だが、ここでエリュースト卿に会えたのは俺にとっても幸運だった。この代官は、重要な情報にはきちんと耳を傾けてくれる。それにルグフリートの言葉を信じるなら、将聖に対しても大きな関心を寄せてくれているようだ。

「今が危険な状況ということは分かっておられるはずだ。我々としてはできるだけ早く非難して欲しいところなのだが。……何か理由がおありか?」

「将聖が、魔石で魔物を誘導しています!」

 俺はまだ息が上がっていたので、激しく喘ぎながら急き込んで答えた。

「あの魔物は、弱い魔法粒子(イリューン)を狙う習性があるんです。将聖はそれに気づいて、魔石を使って奴らを門の外に誘導したんです。……たった一人で! そこから、それらしい姿は見えませんか? 魔物の大群に囲まれている人影はありませんか?」

 肩越しに振り返っていただけのエリュースト卿が、俺のほうへ身を乗り出した。

「姫、こちらへ。詳しく聞かせていただこう。……君、姫を案内してくれないか。」

 最後の言葉は、俺の前を塞いでいた騎士に向けられたものだった。騎士は(うなず)くと、俺に向かって「行こう」というように目で合図をした。別段悪びれる風でもない。

 それもそうだろう。この騎士はただ、自分の役割を果たそうとしているだけなのだ。

「申し訳ありません。ありがとうございます。」

 俺は胸に手を重ねて頭を下げた。

 騎士は「この階段は急だぞ。気を付けろ」と言いながら、その大きな手を差し出してくれた。



 エリュースト卿の対応は、初めて会った時と変わりなかった。俺の説明に静かに耳を傾け、それから門を守っていた騎士に確認する。俺の話をまともに取り合ってくれたのが嬉しかった。だが、将聖は騎士たちが到着する前に門を出たらしく、それらしい姿を見た者はいなかった。

 弓矢を手に胸壁の上に待機している騎士たちも、俺と一緒に目を凝らしてくれた。その中にはルグフリートの姿もあったが、市門の外に羽虫が群れている場所などは見つからなかった。

 市内から上がる海獣(かいじゅう)の油の煙は少しずつ細くなってきている。それに反比例するように、上空のはるか高いところに、羽虫が作り出していると思われる黒い(もや)が、うねりながら近づいてきていた。

「あれは『魔刃蜂(ビシュパズ)』だな?」

 エリュースト卿が言った。隣に立つ騎士が(うなず)いた。

「そのようです。蜂に似た形状、群れによる行動は魔刃蜂(ビシュパズ)の特徴です。魔界域から出ることはほとんどありませんが、魔物の大群が移動するときには、その近隣へよく現れると記録に記されています。大移動の前兆とされているものです。」

 問いを受けたのは、以前にも神殿で会ったことがあるザインさんだった。エリュースト卿の護衛役を務めているのか、いつでも抜き放てるように剣の柄に手を置き、肩幅に足を開いて、まるでSP(エスピー)のようにそこに立っている。だが、全体的には武闘派というよりもずっと知的な印象で、口元にはユーモアの気配さえ漂わせていた。神殿の台所で一緒に昼食の準備をした時も、門番のかみさんに指図されながら、にこにこと働いていたものだ。

 今もどこか(くつろ)いだ表情で、「魔刃蜂(ビシュパズ)」と呼ばれた魔物を興味深げに見上げている。

 エリュースト卿も、自分の身の危険についてはどこ吹く風といった様子だった。ザインさんの説明に、顎に手を当てて眉を(ひそ)めている。本当は、エリュースト卿も魔刃蜂(ビシュパズ)がどういった魔物であるかということくらい、ちゃんと把握しているように思われた。だがこうして質問することで、改めてその知識を再確認しているのだろう。

魔法粒子(イリューン)の分散を避けるために、本来魔物は大きな群れを作らない。」

 エリュースト卿は誰にともなく呟いた。

巨狼(ワーグ)などは、魔法粒子(イリューン)を得るためならば、仲間でさえ食い殺すのだからな。だから大群を作って行動し、群れることによって絶大な攻撃力を得ている魔刃蜂(ビシュパズ)のような魔物の存在は珍しいとされてきた。第二十八代勇者、ヤマーダがその生態を解明するまでは。」

 そう言って、エリュースト卿はザインさんを振り返った。

「君はどう思う。あの『手記』の記載を信じられるか? あれはほぼ一体の魔物に近い存在だということだが。」

「手記」というのは、勇者が書いた手記のことだろう。エリュースト卿は魔物の知識を得るために、勇者の手記にも目を通しているようだ。

 それにしても、今エリュースト卿が口にしたことは、簡単に飲み込めるような内容ではなかった。

 あの羽虫の群れが、「ほぼ一体の魔物に近い存在」とはどういうことなのだろう。

「この目で見ないうちは何とも言えませんが…。しかし、その後第三十二代勇者、ナクジムもその説が正しいことを確認しています。事実だとすれば、魔物がいかに捉えがたい存在であるかを示す、格好の例が現れたということになりますね。」

 ザインさんは応え、それから俺に向かって説明してくれた。

魔刃蜂(ビシュパズ)には『女王』がいると言われている。普通の蜂のようにね。ただし便宜上、群れを率いる一番大きな個体を女王と呼んでいるだけで、それが本当に母親であり、産卵を担っているのかどうかは分からないのだ。」

 ザインさんは俺に説明しているが、エリュースト卿もじっと聞き入っている。おそらくこの二人は、こうやって互いの情報のすり合わせをしながら、状況打開の策を練っているのだろう。エク・セドラス騎士団が優秀なのは、優秀な指揮官に率いられているからだ。それをこの二人は目の前で示してくれていた。

「かつて勇者が、あれを『ほぼ一体の魔物に近い存在』と記したのは、その女王が子供――勇者は『眷属』と呼んでいるのでそれに従うが――を、単に魔法粒子(イリューン)採取のための『道具』としてしか扱っていないからだそうだ。眷属がある程度魔法粒子(イリューン)を集めると、女王はその眷属を食べてしまう。そして眷属も、食べられることに抵抗しない。だから勇者は、眷属を女王の一種の『分身』ではないかと考察している。」

 ――なるほど。だから「ほぼ一体」というわけか。

 その説明に、一応表向きは(うなず)いたが、俺の内心はなかなかそれを納得できずにいた。

 あの数がすべて分身なんてことがあるだろうか。

 俺の頭では到底理解できない話だったが、エリュースト卿とザインさんはそのまま会話を続けた。

「だが、その『分身』がこれほどの数とはな。よく魔界域は魔刃蜂(ビシュパズ)に征服されなかったものだ。」

「あいつらは弱い相手しか狙わないからでしょう。こちらの姫君の言うことに間違いはないようです。」

 ザインさんが言った。今更だが、バリトンの気持ちのいい声をしている。

「最初に襲われた一帯の怪我人の情報です。まだ初期調査の段階ですが、重傷者はほとんどが老人と子供です。何人か若い女も含まれますが、みな子供をかばった母親のようです。逆に奴らは騎士を襲わない。あなたも気づいているでしょう?」

 ザインさんは周囲を手で示した。胸壁には騎士たちが並んでいたが、羽虫は見向きもしなかった。

「反撃されると分かっているようです。鎧を着けていなくても、体の大きな者にも近寄りません。なかなか厄介な相手です。」

「なるほど。無理はしないというわけか。」

 エリュースト卿は皮肉たっぷりに言い、上空を睨みつけた。あの大群をどう撃退したものか、考えあぐねているようだった。

「君に頼まれていた海獣(かいじゅう)の油だが、取り寄せておいて良かったよ。魔鼠(ベグダ)甲殻妖虫(デグミル)除けなどそんなに必要かと思ったが…。進言に感謝する。」

「支払ったのはあなたです。こちらこそ感謝していますよ。」

「それもそうだな。だが、こんなに早くに使うことになるとは思わなかった。君も、土嚢が完成するまでは取っておくつもりだったんだろう?」

「いえ。本当は、夏になってから使うつもりでした。あまり大量に使うと大型の魔物を呼び寄せてしまう危険があるので、奴らの動きが活発な時期だけ、通り道や沢沿いに細々と焚いていこうかと……。」

「そうか。……それがまさか、魔刃蜂(ビシュパズ)相手に使うことになるとはな。」

 エリュースト卿の表情(かお)が、固く、厳しく強張った。

「ついに大移動の先鋒が現れたか。まさかこんなに早く、対峙する日が来るとは思わなかったぞ。」

「ええ、そうですね。さすがはメドーシェン。出てくる魔物が一味違います。」

 エリュースト卿の緊張を感じ取ったように、ザインさんがのんびりと言った。エリュースト卿がふっと笑う。あっという間に空気は和らいだ。

「『手記』を集めさせろ。訳本でなくても構わん。中央都市(イクシマール)からすべて取り寄せるんだ。もう一度、じっくり読み直す必要がある。」

 エリュースト卿が強い口調で言った。ザインさんが(うなず)く。

「勉強会ですか。私も参加します。」

「頼む。君が同席しないと、若い奴らがすぐ居眠りをする。」

 ザインさんがにやっと笑ったまま軽く(うつむ)いた。それを見て、俺の隣に立っていた騎士がびくりと体を震わせる。穏やかそうな風貌のザインさんだが、若い騎士たちにはだいぶ恐れられているようだ。

「とりあえず、今はあの群れをどうするか、だが……。」

「『女王』を倒さなければなりませんね。」

 エリュースト卿が本題に戻ると、打てば響くようにザインさんが応えた。

「ああ。『女王』を倒さない限り、この群れは無尽蔵に湧いてくるはずだ。」

「もし『女王』が群れの本体であって、指揮権のようなものを持っているのであれば、この近くにいなければならないはずです。しかし、見た者はおりません。『女王』はどこでしょう?」

 エリュースト卿も騎士たちも、周囲に視線を走らせた。確かに、それらしい姿がない。

 将聖の姿も見つからなかった。

 俺は喉元に何かがせり上がってくるような感覚がして、うまく呼吸ができなかった。



 ――それは、余りにも突然の出来事だった。

 上空から、巨大な蜂が降ってきた。

 優に牛ぐらいの大きさはある蜂だった。全身が鉛色の鎧のような外骨格に覆われている。その凄まじい羽音は、まるでヘリコプターのプロペラのようだった。

 見た瞬間に、俺の髪の毛が逆立った。だが、それはその大きさのせいだけではなかった。

 顔の下部に、口らしきものが三つ付いていた。「眷属」と同様、体液を吸うことに特化しているのか、中から長い管のようなものが突き出している。あの大群の眷属から、食べることで魔法粒子(イリューン)を採取するなら、三つもなければ到底足りないのだろう。いや、これでもまだ不足しているかもしれない。

 同じものが、腹部にさらに二対付いていた。それだけで、もう十分に醜悪だった。

 その顎の下から長い触手が幾本も生え、空をつかむように蠢いていた。おそらく「眷属を食う」時に、その体に巻き付いて固定するために使うのだろう。赤い色と質感が、まるで何かの舌のように見えるのが不気味だった。節の目立つ足も三対、胸部にちゃんと付いている。

 奇妙につぎはぎされた姿。巨狼(ワーグ)と同じだ。

 だが、その動きは奇妙だった。まだ羽をぶるぶると震わせているが、高度を保つことができないようだ。滅茶苦茶な動きで四方に体を振りまわしている。まるで何かを体から振り落とそうとしているようだ。

 女王が急降下する。

 その背中に将聖がつかまっているのが、俺の目に飛び込んできた。

「――っ!」

 俺は声を失った。

 将聖は女王と戦っていた。いや、戦っているというよりも、ただ取りすがっているだけという感じだった。この魔物は地球世界(アルウィンディア)にいる蜜蜂よりも背中が広く、羽と羽との間に距離がある。だから辛うじて捕まっていられるということだろう。将聖はその激しく打ち振られる羽に時折体を打たれながらも、しがみついて離れない。

 いや、手を離したら、そこで一巻の終わりだ。地面に激突して命を失うだろう。

 何をしている。一体何を。

 ――将聖……っ!

 凍り付いて動けなくなった俺の目の前で、女王が急上昇と急降下を繰り返す。将聖が取りついているせいで、エリュースト卿の騎士たちも矢を射かけることができない。

 ぎゃあああああっ。

 ぎゃあああああっ。

 しわがれた叫び声が聞こえた。老人の呻きのような声だ。それが女王の声だと気づくまで、俺にはやや時間がかかった。正直、将聖が叫んでいると思ったのだ。将聖も何か仕掛けているのだろうか。それとも飛行を妨げる邪魔者への、ただの怒りの声なのか。

 女王は激しく抵抗している。将聖を振り落とそうと、降下の勢いを利用しながらジグザグに飛び回る。将聖が何をしているのかは、俺の目にはとてもとらえ切れなかった。

 俺はただ、顔の前で組み合わせた両手の指を噛みしめて、将聖が女王から振り落とされないようにと祈り続けることしかできなかった。

 女王が(きり)もみ状に回転しながら天空へ駆け上がる。

 将聖が女王の背に顔を伏せるようにして(こら)えている。胸部と腹部の境目のくびれに引っ掛けていた脚が外れ、その体が泳ぐ。

 脚が外れたことに気づいた女王が、降下へ一気に反転する。将聖の体が跳ね上がる。

 女王が、ぐんっ、と加速した。

 腕の力だけで、辛うじて将聖はつかまり続けていた。その体は、女王の背中からいつ振り落とされてもおかしくはない。

「……っ。 ――っ!」

 俺の悲鳴は、声にならなかった。頭が真っ白になり、背中を冷たいものが駆け抜けた。

 ……そんな光景が、どれだけ続いたのか。

 ぎょあっ。

 中空で、女王が体を痙攣させた。一瞬すべての動きが止まり、それから思い出したようにまた羽ばたきが起こる。だが羽の動きは断続的で、ゆっくりゆっくりと女王は降下してきた。

 その背中に、まだ将聖は乗っている。

 地上三メートルほどの高さで最後のホバリングをした後、女王は地面に落ちた。「ガシャン!」と余りにも生き物らしからぬ音を立てる。だが地面に近かったせいか、落下の衝撃はほとんどなかったようだった。

 将聖も無事だった。女王の背中から身を起こす。その右手が女王の首筋に穿たれた穴からゆっくりと引き出されるのを俺たちは見た。

 将聖の右手は青く燃えていた。その内側に、大人のこぶし大の塊を握っている。その魔石も将聖の手のように青白く光っていた。

 将聖が引きちぎるようにして魔石をつかみ出した。その勢いで、右手が天に向かって突き出される。

 すでに女王はぴくりとも動かなかった。地に落ちる前に、絶命していたのだろう。

 誰も、何も言わなかった。

 胸壁に並ぶ騎士たちはただ呆然と、巨大な羽虫の死骸と、その傍に座り込む細い人影を見下ろしていた。みな、今目の前で起きたことをどう理解し、判断していいのか分からない様子だった。

 将聖もさすがに無理をしたのか、肩を押さえてうずくまっていた。大きく揺れる背中が、乱れた呼吸が収まらないことを示している。

 俺の背後で歓声が沸き起こった。市街地のほうからだった。

「これはこれは……。」

 何が起こったのか分からずに、キョロキョロする俺の隣でザインさんが言った。

魔刃蜂(ビシュパズ)の群れが、死骸になって落ちてきます。」

 俺とエリュースト卿は、同時に空を見上げた。

 上空で打ち振られる悪意の旗のように飛び回っていた羽虫が、動きを止めて降ってくる。女王がいなければその外形を保つことすら難しいのか、落下しながらぼろぼろとその体は千切れていた。首が外れ、羽が抜け、足の関節同士も力尽きたようにその繋がりを手放していく。

 そして、まだわずかに立ち昇る海獣(かいじゅう)の油の煙に触れた途端、燃え落ちた灰のようにその断片も崩れ、風に吹きはらわれていった。俺や周囲の騎士たちはその(ちり)を吸い込まないように手で口を覆ったが、まるで空気に溶け込んだように、羽虫の姿は跡形もなく消え去ってしまっていた。

 あれほど猛威を振るったものが、こんなにも脆く消えていくことが信じられなかった。メドーシェン市の上空には、まるで何事もなかったかのように、曇りのない晴れ渡った青空が戻ってきている。

「やはり、あれは女王の分身か何かだったようですね。」

 ザインさんがまだ上空を見上げながら言った。

魔刃蜂(ビシュパズ)を撃退する手がかりはつかめたと見ていいでしょうか。あそこにいる彼のように戦うのは難しいですが……。」

「そうだな……。」

 エリュースト卿が、どこか上の空でザインさんに応えた。続いて、呆れたように呟く。

「それにしても、今ここで起こったことは何だったのだろうな? ……こんな事が、たった一人の魔狩人(シーカー)にできることなのか?」

 女王が落ちてから、すでにずいぶん時間が経過していたが、いまだに誰も何も言おうとはしなかった。胸壁に並ぶ騎士たちのほとんどが、エリュースト卿の方に目をやっている。今の戦いについて、エリュースト卿がどのように判断するのか、それを待っているという様子だ。

 そしてエリュースト卿も、どう評価すべきか考えがまとまらない様子だった。俺はゲームやアニメ、漫画の世界の中での出来事ではあるが、「圧巻そのもの」といった戦い方を知っている。それと比べると、今の将聖の戦いにはスマートさの欠片も見当たらなかった。ただの力に任せた泥試合で、どうにか勝ったにせよ、その結果も運頼みのところがある。

 それでも今の将聖の戦いぶりを見て、エリュースト卿が将聖を「脅威」と見做すのではないかという危惧を、俺は抱かずにはいられなかった。周囲のこの沈黙が、俺の不安にさらに拍車をかけてくる。ゲームの序盤で、ありあわせの武器を使って「いつか死ぬだろう」とスライムをぶん殴り続けるのとは訳が違う。一体どうやって女王に取りついたのか想像もつかないが、将聖は的確に倒すべき相手を見定めて行動し、巨狼(ワーグ)よりも攻め難い相手を自分と互角の勝負に持ち込み、事実上たった一人で、メドーシェン市の上空を覆いつくすほどの魔物の群れを撃退したことになるのだ。

 ふと目をやると、ルグフリートが市門を挟んだ向こう側の胸壁の上から身を乗り出すようにして将聖を見ていた。いつもと変わらぬ笑顔だったが、その瞳が強く輝いていた。

 そして俺の視線に気づいたのか、振り向いた目が合った。なかなかすごい表情だった。まるで、火が付いたような感じだ。

 ルグフリートが将聖に向かって拳を突き出した。

敬意を(エル・ケージュ)!」

 ルグフリートは叫び、その拳で自分の胸を二回叩いてから、また将聖へと突き出した。

 将聖が驚いたように顔を上げた。市壁の上に集まっていたほかの騎士たちも呆気にとられている。だが周囲にいる、いつもルグフリートとつるんでいる騎士たちはニヤリと笑った。

敬意を(エル・ケージュ)!」

 ルグフリートに呼応するように、仲間の騎士たちが将聖に敬礼した。

 将聖が真っ赤になった。どう反応していいか分からなかったらしく、立ち上がってぺこぺことお辞儀を繰り返している。

「は!」

 エリュースト卿が楽しそうに白い歯を見せた。その将聖を見る眼差しに、神殿で見せた温かさが戻ってきていた。

 目の前の将聖は、ただただ若かった。戸惑いを含んだお辞儀に大人の貫禄はなく、恥ずかしそうな仕草はただただぎこちなかった。顔にはまだ幼さが残り、長い手足もひょろりと細い体も、胸壁に並ぶ騎士たちのがっしりとした体に比べ、余りにも未完成だった。

 そこにいるのは、自分がどれだけ危険なことをしてしまったかということにさえ気づいていない、ただの無謀な若者だった。おそらく何らかの方法で女王に飛びかかった時、将聖は自分が上空に連れ去られたら、どうやって地上に戻ったらいいのかなど考えもしなかったのだろう。

 パチ、パチ、パチ……。

 エリュースト卿が両手を打ち鳴らし始めた。すぐにザインさんも応じ、それに胸壁に並ぶ騎士たちも続いた。

「見事だ。」

 エリュースト卿が将聖に言い、それから、ルグフリートに向かって笑顔で言った。

敬意を(エル・ケージュ)!」

 うおおおおっ、と大きな声が上がった。将聖を称賛する声だが、そこにはルグフリートへの賛辞も混じっていた。ルグフリートは将聖に敬意を表すことで、むしろ騎士の誇りを示したと言えるのかもしれない。

 ようやく俺の膝が笑い始め、まともに立っていられなくなった。俺は胸壁の横木にしがみつき、安堵の溜息をつきながら座り込みそうになる体を支えた。

 だらしなく胸壁に抱き着いたお陰で、将聖が俺を見つけた。将聖はどこかほっとした表情で俺に向かって手を振った。

「優希~。」

 将聖は、困った表情(かお)をしていた。見知らぬ騎士たちに拍手をされて、居心地が悪かったのかもしれない。だが、それだけではなさそうだった。心なしか顔色が青ざめている。見たところ大きな怪我は見られなかったが、どこか骨折でもしただろうかと俺は震え上がった。

「どうしたっ、将聖! 大丈夫か?」

 血相を変えた俺に、弱々しい声で将聖が言った。

「ねー……、ちょっとこっち来て……。俺乗り物酔いしたわ……。」

 俺のこめかみ辺りで、何かがブチリと切れた。胸壁から身を乗り出して、俺は叫んだ。

「この大馬鹿野郎! 死にてえのか、てめえは!」



 本ページにお立ち寄りくださいました皆様、ありがとうございます。

 英雄様、ご感想をありがとうございました。このところ、なかなか思うように筆が進まずにいたのですが、また新たな力をいただきました。まだまだ力不足ではありますが、今後も精進してまいりたいと思います。


 諸事情あり、2月の末にまた引っ越ししました。職場では4月から新しい部署に移ります。2月中は荷造りに、3月は引継ぎ資料の作成や住所変更の手続きに追われ、投稿を断念いたしました。本当に申し訳ありませんでした。

 個人的な事情を言い訳にしてはいけないのですが、現在このような状況にあり、5月の投稿の目途が立っておりません……。大変申し訳ありませんが、5月の投稿は「努力目標」とさせてください。

 皆様がこのページに訪問してくださることが、何よりも励みになっております。今後も応援を賜りますようよろしくお願い申し上げます。


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