021_収穫祭(前)
霜暦九七六九年 レクセイオンの月(※1)
夏が過ぎ、また秋がやって来た。
俺と将聖にとって、イザナリアでの最初の一年が過ぎたことになる。
俺たちにとって、この一年はまさに怒涛のような日々だった。一度死んで生き返った。それだけで驚天動地の出来事だが、それは何というか、本人としてみれば、よく実感の湧かない絵空事に近かった。「死んだ状態」には実感が伴わないのだから仕方がないのかもしれない。「本当に俺、死んだのか?」と疑わしいくらいなのだから、「転生」を「移住」と表現した将聖の気持ちのほうがよく分かる。
それよりも、この異世界で「普通に暮らす」ということのほうが、俺にとってはずっと重く、衝撃的な現実だった。俺たちは、今まで「日常」や「常識」として享受していた便利さや合理性をほとんど奪われて、過酷な労働と不条理の中で生きるようになった。それはロデオの馬や牛のように激しく暴れるジェットコースターに乗せられて、引きずり回されるくらいの変化と驚きと、喜びや悲しみを俺たちに与えていた。
それは俺が勝手に想像していた、「勝ち組確約の異世界転生」とは似ても似つかぬ日々だった。
まあいい。それでも俺たちは何とか生きている。
実のところ、俺はイザナリアに来て、自分が不幸になったのかどうか分からなかった。体のことは、確かに不本意もいいところだった。十七年間の記憶がほんの一年で上書きされることなどあろうはずもなく、俺はいまだにフォーリミナを恨み続けている。
それに、お袋や親父と永遠に会えなくなったことも悲しかった。時々二人の夢を見て、はっと目覚める夜がある。そんな時はもう自分が抑えられなくて、ベッドの中で声を殺して泣いた。胸の中に固くて厚い板が入っているようで、苦しくて仕方なかった。
でも、泣いているとレニオラかリーシャが必ず起きてきて、俺を抱きしめてくれるのだ。そして子守唄を歌ってくれたり、不思議な物語を聞かせてくれたりする。最初俺は、このことにひどく驚いたが、イザナリアではそれが当たり前のことなのだった。
シュレガのおばさんも、あの日以来、何かのタガが外れたように俺にお節介を焼いてくるようになった。これまで食堂で働いている間は、俺は無我夢中で野菜に向かっていたので目の前のことしか見えていなかったのだが、実はシュレガのおばさんが、ずいぶん以前から俺の様子をちょくちょく見に来てくれていたようなのである。最近は通りを歩いている時も、すれ違うと必ず捕まって、曲がったエプロンを直されたり、後れ毛を撫でつけられたりする。そして「ちゃんと食べてるのかい? みんなに遠慮してるんじゃないだろうね」と俺を叱りつけながら、俺のエプロンのポケットに炒り豆や干し芋を突っ込んで去っていくのだ。
おばさんが当初、俺に対して態度が辛辣だったのも、俺の言葉遣いが荒かったせいだと分かってきた。「リーシャの命の恩人」であることにかこつけて、マチアさんの家にガラの悪い相手が上がりこんでしまったと思ったらしい。人生、何が災いするか分からない。
まあ、俺が神殿でダイガンの奥方の仕草を横目で見ながら、必死にその真似をしているのを、レドナス様やマチアさんと一緒になって、うんうん頷きながら見られているのにはやや抵抗を感じてしまうのであるが。
俺の新しい裁縫用の針と糸切ばさみをくれたのはターニャさんだった。俺が自分の生活用品を何一つ所持していないと知って、自分の婚礼道具の一丁を譲ってくれたのである。そんな大切なものは貰えないと言ったのだが、自分には祖母の形見があるからいいと押し切られてしまった。シュレガのおばさんが、シュレガさん特製の綺麗なつづれ織りの端切れをくれたので、俺はこのはさみを入れるためのはさみサックと巾着袋を作った。何だか女子みたいなことをしているが、いつも家庭科準備室や教室の隅でチクチクと手作りに勤しんでいた手芸部の連中の気持ちが、最近分かるようになってきた気がする。俺はこんな小さな贈り物が、これほど嬉しいものだとは思わなかったのだ。
地球世界では文明が進んで、食べ物も着る物も、簡単に手に入った。単純なものから複雑なもの、小さなものから大きなものまで、労働を軽減する道具や機械がたくさん生み出され、使われていたし、移動も通信もどんどん技術が進んで、それに必要な時間が短くなっていた。多くの病気が克服され、人々は長生きになったし、教育水準も向上して誰もが当たり前のように読み書きし、たくさんの人々が新たなツールを利用して自分を発信してもいた。
そんな豊かな世界とは比べ物にもならないはずなのに、俺はイザナリアで過ごす日々が長くなればなるほど、この世界で生きる苦しみや辛さ、面倒臭さを感じなくなっていた。もちろん、水汲みをするよりは水道があったほうがずっと楽だ。洗濯は全自動洗濯機に委ねてしまいたい。
それでも少ないものを分け合ったり共有したりする生活や、電話もメールもない代わりにその足で伝言を運んでくれる少年たち、写真代わりに家の柱に刻まれる小さな傷、農事歴の代わりに口伝されていく物語。そんなものに囲まれているうちに、俺は「豊かさ」の形は一つではないんだと気づいてきていた。いろいろなことが地球世界ほど便利ではないし、時間もかかる。だが水汲みも洗濯もいつかは終わっているし、その時得られる達成感はもっとずっと大きくて、自分の自信にさえ繋がっている気がする。
そしてまた、イザナリアには地球世界がどこかで置き忘れてきた人と人のつながりが、まだ普通に息づいている世界でもあったのだ。
俺たちを受け入れてくれたハノスさん一家や、お節介なシュレガのおばさんは、決して特別な人々というわけではない。経済的にとても豊かであるというわけでもないし、人道主義とか博愛精神とかいうような主義主張を持っているわけでもない。そんな言葉すら知らないだろう。
ハノスさんたちも、シュレガのおばさんも、ただ「そうしたい」という気持ちがあるだけだ。俺の陰口をいう女たちも、そうしたいからやっている。それと同じだ。
分かってくれ。俺は、地球世界がイザナリアよりも劣っているとか、そういうことを言いたいんじゃない。
ただ、例えば日本では、時々善意がそのまま善意として認められない場合がある。小さな子供が迷子になって道端で泣いていたとして、うちに連れて帰ったりしたら誘拐犯にされてしまう。俺や将聖だって、日本なら未成年だ。未成年がその辺をほっつき歩いていたら、まずは警察に連れて行かれる。帰る家がないのならそれなりの施設に連れていかれ、その後の身の振りようは市町村の担当部署に委ねられるだろう。俺も詳しくは分からない。
つまり、日本では「善意」よりも先に「制度」がある、ということだ。それが人々を守っているということも理解している。やんちゃ共から「お触り」の洗礼を受けている俺くらい、その「制度」のありがたみを理解している人間は、現在のイザナリアにはいないのではないかとさえ思う。ちゃんとした「制度」があったら、俺は絶対に、「あんたが可愛いと思ってるからやってるんだろ?」などとほざくあの連中をその筋へ通報して、手痛い教訓を叩きつけてやらなければ気が済まないと思っているからだ。
けれども地球世界では、イザナリアとは比べ物にならないほど社会制度が発展しているせいで、心がどこかへ置き忘れられていたんじゃないか、と思うことがあるのだ。「衣食足りて礼節を知る」の言葉通り、人々は礼儀正しくなり、感情よりも理性が重んじられるようになって、一人一人が、自分の気持ちよりも周囲との調和を大切にするようになっている。人前で感情を見せるのは恥ずかしいことになり、みんな笑顔の裏に本心を隠して、いろいろな感情を飲み込んで生きていた。俺もその一人だった。いや、今でも一番大切な感情こそ、表に出せなくて後悔することがある。
だがイザナリアはまだ、素朴な世界なのだ。
だから、感情を剥き出しにしても許される。俺が堪え切れなくなって声を上げて泣いても許されたし、レニオラやリーシャがそんな俺をぎゅっと抱きしめても、幼児のようにあやしても、それは恥ずかしいことでも何でもないのだった。
俺はまだ、いろいろなことが分かっていないと思う。
世界はとても複雑で、何が正しくて何が間違っているとか、何が幸せで何が不幸せなのかも分かっていない。俺はようやく俺の目に映る範囲の中だけで世界を見て、それを学び始めているところだ。
だけどイザナリアという世界は、俺の中で少しずつ、暖かくて涼やかで、柔らかくて手応えがあって、美味しくて色鮮やかな世界になってきている。泥まみれの汗まみれになっても最高な気分だったり、見映えはよくなくても途轍もなく光って見えたりするような事が、俺にもちゃんと起こってくれているのだ。
やっぱり、「生きる」って素晴らしいことなんだ。そう思う。
だから、俺は、将聖やみんなに感謝している。俺がこうして生きていられるように、支えてくれているみんなに感謝している。
フォーリミナにだって…。
俺はあの女神にだって、自分を生かしてくれたことには、感謝しているのだ。
魔物がしばしば現れているにもかかわらず、この秋の収穫祭は盛大に催された。むしろ今がそういう状況だからこそ盛り上げてやろうという人々の気概が感じられるような祭りになった。
俺とレニオラも、びっくりするほど飾り立てられることになった。レニオラはともかく、俺は関係ないだろうと思っていたのに、マチアさんは母親である自分よりも俺を着飾らせることにこだわった。いつの間にか俺はレニオラの「付き人」という役を仰せつかることになっていて、レニオラと一緒に、女神さまへの捧げ物を積んだ山車の後をついて、街を練り歩くことにまでなっていた。
「あ、あのさ、もう、適当でいいから…。」
「そういう訳にはいかないのっ!」
早朝からたたき起こされた俺は、台所の片隅でレニオラに髪を結いあげられていた。一年間伸ばし続けた俺の髪は、ようやく鎖骨あたりに届くようになっていたのだが、それをなんとかいい感じにまとめ上げようと、レニオラは気が済むまでいじくり回していた。
「ああっ、もう! もうちょっと長ければ全然違うのに…。」
レニオラが俺の髪をほぐしながら舌打ちした。俺の目が吊り上がりそうなほどきりきり引き上げて固く編み上げたところから、今度は房を引き出して、頭を取り巻く髪飾りのように膨らませようとしている。理髪店の鏡が目の前にあるわけでもない俺は、何が起こっているのかも分からぬまま目だけをきょろきょろさせて、レニオラに「動かないでってば!」などと叱られ続けていた。
正直なところ、レニオラがああでもない、こうでもないとぶつぶつ呟きながら、徐々に殺気立っていくのを見ているのは怖かった。だが、俺が「レニオラ…。もうそろそろ、自分の支度をしたほうがいいんじゃない…?」と声をかけても、「これをどうにかしないうちはダメでしょっ?」とぴしゃりと言い返されるだけなので、俺はただ黙って、成すに任せるよりほかなかったのである。
しかし、本当の修羅場はそこからだった。
「レニオラ! 何やってるんだい!」
ようやく納得のいく感じに仕上がったのか、レニオラが満足げに俺の周囲をぐるぐる回りながら出来栄えを見ていると、悲鳴のような声を上げてシュレガのおばさんが勝手口から飛び込んできた。
「いいからこっちへ来るんだよ!」
シュレガのおばさんは誰も逆らえない口調でそう言い、有無を言わさずレニオラをマチアさんたちの寝室へ連行していった。俺たちに台所を占領されて、そこに隠れているしかなかったハノスさんと将聖が、今度は庭にたたき出されてしょんぼりと石段の端に腰かけている。
「ユーク。あなたもそろそろいいかしら?」
リーシャの支度を手伝っていたマチアさんが、俺に声をかけてきた。マチアさんも、いつもと変わらぬ柔らかな口調ながら、いつもとは違うただならぬ気配を漂わせていた。躊躇はしたものの、逃げるわけにもいかない俺は、マチアさんの後をついて恐る恐る二階の寝室へ上がっていくしかなかった。
いつも寝起きをしている寝室で、リーシャと入れ替わりに、俺はマチアさんにシュレガのおばさんから借りることになったあの晴れ着を着せてもらった。もちろん、着るだけなら一人でもできる。だが、マチアさんが手伝いに来たのは、俺の胸紐を目一杯締め上げるためだった。それはまさに、親の仇か押し込み強盗でも縛り上げるような勢いだった。
「きっ、昨日はこんな着方、しませんでしたよねっ?」
俺が息も絶え絶えになりながら尋ねた。この晴れ着は昨日のうちには届けられていて、一度は試着も済ませていたのである。
…だが、どう考えても、今日は全く別の拘束具を着けさせられている気がする。
「あ…たり前でしょっ? ただの試着、なん、だからっ。」
マチアさんも息を上げながら答えた。
「れ、レニオラのとこには、行ってやらなくて、いいんですか…っ?」
「こういうのはねっ。母親よりもっ、他人にやってもらうのが、一番いいのよっ。」
イザナリアの成人女性の着る服は、肌着兼寝巻にもなっている白い丈長のブラウスの上に、しっかりと固く縫われたベストを重ねて、さらに上からスカートを巻き付けるという仕様になっている。だから本当は上下が分かれた服なのだが、同じ布で作られていることが多いため、最初の頃俺は、それを全部で一着のワンピースだと思っていたのだった。俺が着ていた「お祖母ちゃんの服」は、ベストではなく袖の長い上着で、狭い肩幅の割には腰回りがゆったりしていたし、スカートは上着の下に巻き付けていたせいもある。
初めてまともにその若い女の服を着せられて気づいたのだが、このベストというのが、厄介な曲者なのだった。なにしろ前身ごろの幅が狭くて左右を重ね合わせることもできないのだが、その間に板状の胸当てを押し込んで(スニーカーなら『舌』に相当するやつだ)、その上から編み上げになった紐で縛るという作りになっている。要するに、きちんと胸紐を結んでしまうと、初めから実際の体よりもやや細身になるような作りになっているのだ。
こんな形状になっていれば、身に着けたときに中に着ているブラウスが体に密着するため、かさばる布地に仕事を邪魔されることがない。胸元が揺れたりはだけてしまったりして恥ずかしい思いをする危険もないし、太ったり痩せたりして多少体型が変わっても、ちゃんと体に合わせることもできるのである。
そういった機能性を考えて、こういう風に作ってあるのだろうということは、俺にも理解できなくもなかった。
だが今、マチアさんはその胸紐をこれでもかとばかりに力一杯締め上げている。つまり、もう一つの役割として、この晴れ着のベストには可能な限りウエストを細く見せる効果が期待されているということなのだ。こうして着せるのにも「母親よりも他人の手を借りたほうがいい」というのは、それくらいの「情け容赦のなさ」が求められるということらしい。
シュレガのおばさんに同じ目に遭わされているレニオラは、今頃どんな状態になっているのだろうか。
「ほら、もっと息を吐いてっ! 一、二、三っ!」
「はひっ(はいっ)。」
マチアさんがあまりにもぎゅうぎゅう締め付けてくるので、俺は心臓やら胃袋やらが全部口から溢れ出てしまうのではないかと思った。そうでなくても、二度と空気を吸い込めずに窒息死してしまうかもしれない。
そんな危機感さえ抱いてしまったが、最終的には、地上二階で溺死するなどという悲劇に見舞われないうちに、マチアさんは手を止めてくれた。
「まあ、こんなもんでしょう。」
マチアさんは諦めたようにつぶやく。なにやらがっかりさせてしまったようで申し訳ないのだが、俺の体はすでに死後硬直のように真っ直ぐに伸びたまま、折り曲げることさえままならない状態になっていた。
「…そろそろ朝御飯の準備をしないといけないわね。」
マチアさんが、ようやく嬉しい台詞を口にしたので、そうですね、と俺は相槌を打った。しかしマチアさんは「ユークは手伝わなくていいのよ」と何やら厳しい口調で言い、さっさと階段を下りて行ってしまった。
俺もいつもの倍はかさ張るスカートの裾を抱えて、狭くて急な階段をどうにか下りて台所へ入ると、リーシャがその艶やかなクルミ色の髪に編み込んだ組み紐を不安そうに撫でていた。俺が選んで、将聖が買ってやった組み紐だった。
「ねえ。これ、変じゃない?」
リーシャがその可愛い眉間に、縦皺を一本寄せて言う。編み込まれた組み紐は、淡いピンクの地の中に、真紅と濃い緑の糸が織り込んであって、その愛らしい雰囲気だけでもリーシャによく似合っていた。さらにマチアさんがその技量の限りを尽くして髪に編み込み、耳の後ろでまとめた二つのお団子から蝶のように垂れ下がるように仕上げたので、リーシャはこれまで見たこともないくらい華やかな姿になっている。俺と同じく台所に戻っていたハノスさんと将聖が、口々に「可愛い、可愛い」と褒めているのだが、普段はこんなにお洒落をしたことのないリーシャは落ち着かない様子で、心配そうに何度も水を張った盥の中を覗き込んでいた。
「うわお、リーシャ! メッチャ可愛いじゃん!」
俺はリーシャに飛びつくようにして声を上げた。
「良かった! 似合うよ、その組み紐。やっぱりこれ選んで良かったぜ!」
「ホント?」
リーシャがはにかんだ笑顔を見せる。その頬がようやく嬉しそうに赤く染まった。
「うん、うん。リーシャはまつげが長くて女の子らしい顔立ちだから、絶対そういう色が似合うって思っていたんだ。」
リーシャの表情が、ぱあっと明るくなった。俺の言葉を確かめるように、また盥の中を覗き込む。その隙に、俺は「何やってんだ」というように将聖をギロッと睨みつけた。「これっくらい褒めてやらなきゃダメだろ」という意味だった。将聖も「やったよ」というように睨み返してくるが、俺は「足りねえんだよっ!」と広げた両手を振り回した。
「ねえねえ、ユーク。どうしたの?」
俺と将聖のジェスチャー・トークに気づいたらしいリーシャが盥から顔を上げた。
やばい。俺はにっこり笑って振り返り、「将聖も、その紐を選んで良かったってさ」と急いで応えた。一応念を押しておくが、これは嘘ではない。先日一緒に市に行った際、将聖もこの組み紐を見て一番いいと言っていたのだから。
えへへ…、と照れたように笑ってから、リーシャは俺の腕をそっと突いた。
「あのね。ユークもすごく似合ってるよ。」
俺を真っ直ぐ見上げて、リーシャは言った。
「その服。すごく綺麗だよ。やっぱりユークって、本当にお姫様なんだなあ。」
うわ…。
俺の体は、時間が止まってしまったかのように動かなくなってしまった。
頬に一気に血が上った。そのせいで、耳の辺りや首筋がぞわぞわする。胸の中を何かがぴょこんと跳ね、そしてそのまま、くるくる走り回った。
だが、それは嫌な感覚ではなかった。
――嬉しい。
俺はそれを否定することができなかった。リーシャの言葉は、胸がきゅうっと締め付けられて痛くなるほど俺の心を揺さぶった。
どうしよう。嬉しい。ものすごく、嬉しい。
実のところ、俺は昨夜、シュレガのおばさんがこの晴れ着を持ってきた時から心が浮き立って仕方がなかった。この晴れ着は、くすんだ水色の生地の上に、淡いベージュの糸で素晴らしく手の込んだ刺繍が入れられている。色使いは控えめながら、むしろとても洗練された印象で、シュレガのおばさんが長い間大切にしまってきたのも頷けた。メドーシェンに来たばかりの頃の俺は「男物の服を着ていたい」とハノスさんに食い下がっていたはずなのに、この晴れ着のすっきりとしたたたずまいや、大きく広がるスカートの襞をもう一度まじまじと見た途端、早く着てみたいという気持ちを抑えられなかったのだ。
その上、今リーシャに「似合う」と言われた。この清楚な美しさが印象的な晴れ着が、俺に「似合う」なんて。
こんな風に褒められて、俺は嬉しくて嬉しくて、もうどうしようもなかった。何だか照れくさくて、でも誇らしくて、勝手に手足が踊りだしてしまいそうになる。
女の服を着せられて、女のように着飾らせられたことが、こんなに嬉しいなんて。
祈りの集会で神殿に行くたびに、フォーリミナに「絶対許さないぞ」と吐き捨てていたのに、どうしてこんなに気持ちが舞い上がってしまうのだろう。
「あ、ありがと。…ありがとう。」
俺はどもりながら礼を言った。そういえば、やたらメイクが上手でお洒落な女子服が様になる、滅茶苦茶可愛い「野郎」が日本には存在していたが(そしてたびたび俺の淡い恋心を打ち砕いてくれたが)、あの「男の娘」とかいう連中も、こんな思いでいるのだろうか。
「お、来たぞ。」
将聖が言った。マチアさんたちの寝室の扉が開く音がして、同時に「ほら、裾に気をつけな」というシュレガのおばさんの小言が聞こえてくる。俺はもう、シュレガのおばさんの不機嫌な声を聴いても笑みを漏らすことしかできなくなっていた。
レニオラが台所に入ってきた。
「うわあ…。」
俺もリーシャも、うっとりとレニオラを眺めた。
レニオラはとても、とても綺麗だった。
レニオラの晴れ着には、そのクルミ色の髪と明るい青い瞳が引き立つように、淡いパステルグリーンの布地の上に、青い刺繍糸で渦巻く花や葉の模様が縫い込んであった。こんなに綺麗な布地は、メドーシェン市内では滅多に目にできるものではなく、ダイガン商会に出入りしている、中央都市から来た行商人たちの商品の中から、マチアさんが選び抜いて購入したものである。普段は手に触れることすらあまりない高価な布地なので、裁縫にかけては果断なマチアさんが、これを裁つ時は緊張しきって何度も何度も深呼吸をしたくらいだった。
髪の上げ具合も良かった。シュレガのおばさんが結い上げたレニオラの髪は、幾本もの三つ編みが折り重なって、そのたっぷりとした量や艶やかさが強調された大きな髷になっていた。
マチアさんの話によると、シュレガのおばさんはシュレガさんに嫁ぐ前、仕立て屋だったお父さんの縫製作業を手伝いながら、店に来る若い女性たちのヘア・アレンジを手伝ったり、コーディネートのアドバイスをしたりするような仕事もしていたのだそうだ。もちろん現代日本と違って、それを専門職にすることはできなかったようだが、中央都市へもたびたび足を運ぶほど勉強熱心だったシュレガのおばさんの手腕のお陰で店は大繁盛し、弟さんが引き継いだ今でも、メドーシェンでも有数の人気店になっている。それはシュレガのおばさんが、マチアさんを始めとする店のお針子たちにも惜しみなく自分の知識を伝授したためで、「気分が上がる、今っぽい」装いをしたければ「まずはザイデルの店を覗いてみよ?」というのがメドーシェン市の若い娘たちの合言葉のようになっているからだ。
レニオラが代官屋敷へ奉公に出たがったのも、このシュレガのおばさんの影響によるところが大きかったためだという。そんなセンスの持ち主のシュレガのおばさんが結い上げたお陰で、レニオラはまるで神殿の女神像のように優雅で大人びていながら、華やかで目を奪うような姿になっていた。
しかし、今レニオラが輝いているのは、その髪型や布地のためばかりではなかった。
「みんな、ありがとう。本当に、あり、ありがとう、ね…。」
レニオラがそう言いながら、涙をこぼす。幸せそうに頬を上気させながら目元を拭っているレニオラを見て、不覚にも、俺も涙をこぼしそうになった。
それは、俺たちがみんなで縫った晴れ着だった。刺繍のひと針ひと針にも、俺たちの思いが詰まっている。この布地を買うために、ハノスさんは例年にないほど畑仕事に精を出し、マチアさんもいつになく針仕事をたくさん引き受けたのだそうだ。レニオラ自身もずっとそんなハノスさんやマチアさんを支えて働き続けていたし、リーシャも本当によく家の仕事を手伝っていた。
優しいレニオラには、その晴れ着に込められたみんなの気持ちが、ちゃんと伝わっているのだった。感謝の涙を流しながら嬉しそうに微笑んでいるレニオラは、だから、俺たちも胸を打たれるほど満ち足りて、美しかった。
ハノスさんがひどく緊張した面持ちでレニオラを見ている。もう、言葉が見つからない様子だった。レニオラはまずそのハノスさんの手を取り、「父さん、ありがとう。本当にありがとう」と言ってから、次にマチアさん、シュレガのおばさん、と次々にお礼の言葉を伝えていった。
リーシャ、将聖と来て、俺が最後になった。「なんだ大取かよ」となんだか照れくさいような、気後れするような気分で待ち構えていると、レニオラは俺の前に立ち、ちょっと厳しい表情をして、言った。
「ユークには『ありがとう』は言わないわ」
「えええー…。な、何で?」
俺何かしたか、と焦りながらレニオラを見返すと、レニオラはにっこり笑って俺を抱きしめた。
「次はユークよ。ユークの晴れ着は、あたしが縫ってあげる。」
「レニオラ~。」
俺はレニオラを抱き返しながら、もう一度、俺は自分が何かしただろうか、と自問する羽目になった。レニオラは何故、こんなにも俺を好きでいてくれるんだろう。俺はただの居候に過ぎないのに、レニオラたちには良くしてもらうばかりで、何かでお返しをしたことなど一度もないのに、まるで本当の姉弟のように、ずっと苦楽を共にしてきた戦友のように、俺を丸ごと愛してくれる。
レニオラの晴れ着に涙をこぼさないように、上を向いて鼻水をすすり上げていると、ようやくレニオラは俺の体を放して、悪戯っぽく俺に笑いかけた。
「いい? 今日はあたしたちでこのお祭りを乗っ取るわよ。心の準備しといて。」
「お、おう。」
「じゃ、腹ごしらえしましょ。あたし、お腹がすいちゃった。」
レニオラは意気揚々と食卓に向かって振り返ったが、今日の朝飯はお預けだとマチアさんにきつく言い渡されると、ほかのみんなが朝食を済ませるまで、俺と一緒にしょんぼりと(しかし背筋はシャキーンと伸びたまま)、マチアさんの寝室のベッドの端に腰かけていた。
表が騒がしくなってきた。
この祭りでレニオラが婚約発表することを、ご近所さんはみな知っている。きっともう一人の祭りの主役が現れたのだろう。レニオラがさっと顔を赤らめながらそわそわし始め、俺はそんなレニオラの横顔を、わずかに切なさを感じながら見つめた。「花嫁の父」の気持ちってこんなものなのだろうか、とふと思った。
「レニオラ!」
婚約者のティルファンさんは、玄関に続く表通りから、ただそう呼びかけただけだった。レニオラは鳥が飛び立つように立ち上がり、廊下を駆け抜けてティルファンさんの腕の中に飛び込んだ。
レニオラの婚約者のティルファンさんは、ひと言で表現するなら「かっこいい」である。
初めて紹介されたときは、正にびっくり仰天だった。ハリウッド映画の主演男優みたいなカリスマ男子が婚約者なんて、レニオラってどういう女子なんだろう、と改めて驚かされたものだ。
真顔がまず、とてつもなくハンサムだった。感じがいいとかお洒落が上手とかいう「雰囲気加算」など、まるで必要がないのだ。もう、ただそこに立っているだけでサマになるという容姿である。このまま石膏像になっても、間違いなく美術室の花形になれるだろう。その整った素顔が、笑うと一気にくしゃりと潰れ、気さくな様子に代わるところも得点が高かった。
長身の将聖よりもさらに背が高く、細身だが胸幅はしっかりとあって、形がよく力強い手足をしている。瞳は灰色がかった緑で、柔らかにウェーブする赤い長髪を後ろで一つに束ねていた。
「い、いつ知り合ったの?」
話には聞いていたものの、本人を初めて見た時の衝撃は大きく、俺は二人きりになるやいなやレニオラに詰め寄った。
「ずいぶん昔よ。」
「昔って? 二、三年前ってこと?」
「ううん。もっともっと、ずーっと前。」
聞けば、レニオラはほんの七、八歳くらいの頃からティルファンさんのお嫁さんになることが夢だったのだそうだ。
「そ、その頃のティルファンさんって、幾つだったの?」
「うーん…。今のショーセと同じぐらいかしら。」
「うひゃああ…。」
ティルファンさんは現在二十八歳。俺とは丸々十歳違いで、レニオラとも九歳離れている。俺は指折り数えて溜息をついた。
俺が考えていたのは、将聖のことだった。今のリーシャよりも幼い女子があいつを見初めたとして、十年後に嫁になるということだってあり得るわけだ。まあ、あいつだったらそういうことがあってもおかしくはないだろうが。
「じ、じゃあさ、レニオラが告白したの? 結婚してください、って?」
「まさか! そんなことできるわけないじゃない。…ちゃんと申し込んでもらったわよ…。」
レニオラが真っ赤になって俯きながら言った。滅茶苦茶照れてしまって、俺の頭がどうにかなりそうなほど可愛い表情だった。
イザナリアの結婚事情は、おそらく地球世界とほぼ変わりない。親同士が決めることもあれば、なんだかんだで普通に自由恋愛をして結ばれる男女もいる。金持ちや貴族の場合、家の体面や政治的な思惑なども絡んでくるからかえって不自由しているようだが、一般庶民にはそこまで厳しい制約があるわけではない。
しかしもちろん、自由恋愛とはいっても、本人同士の意思さえあれば勝手に入籍することだって可能な現代日本のようにはいかないようだ。ちゃんと親の許しも必要であるし、どちらかが貧乏人や流れ者のためにコミュニティから認められず、結ばれないケースだってあるらしい。境遇に邪魔されて婚期を逃してしまう女もいるようだし、結果、望まぬ相手との結婚を余儀なくされる場合もあるとは聞いている。
とはいえ結婚相手によってその後の人生が大きく左右される女にとっては、相手選びは重大な関心事であろうし、その本人の願いとは裏腹に、周囲の思惑だけを強制した結婚などさせても幸せになれるはずもないことは、イザナリアの人々も十分すぎるほどに理解している事柄らしかった。だから祭りの日に若い男女がこっそりどこかへ姿を消してしまっても咎める者はいないし、そうやって今年の夏至祭りの後にも、親も公認する新しいカップルが何組か誕生している。娘の結婚相手に頑として首を縦に振らない頑固な親父には、組合の顔役が説得に行っているなどという話も耳にしたことがあった。
「ティルから申し込まれたのも、祭りの夜よ。三年前の、夏至祭り。」
レニオラが言った。寝苦しい夜に二人で寝室を抜け出して、鶏小屋の陰でイファの月を見上げながらおしゃべりした、最高に楽しかった夜のことだ。
「ずっと普通に、いつもみたいにおしゃべりしていたのよ? そしたら急に、改まった口調で『そろそろ一緒に暮らさないか』って言われた。でも唐突だったから、あまり深く考えないまま『いいわよ』って言ったら、初めてキスされたの。すごく驚いた。ティルも、自分で驚いていたみたい。」
レニオラは膝を抱えて俯いたまま、なかなか顔を上げられない風情だった。肌着兼寝間着兼ブラウスの裾からはみ出たつま先も、ずっと交互に反対側の親指を踏みつけていた。
「それから、『君の父さんに申し込みに行ってもいいかい?』って聞かれた。ずっとずっと夢見てたから、きっと今も夢を見ているんだと思っていたわ。それで『うん』と答えて、そのままティルを置き去りにして、ふらふら家に帰って寝ちゃったの。」
その時のティルファンさんの気持ちはどうだったんだろう。なんだか、本人に聞いてみたい気がする。
「それで、次の日になって、ティルが潰した牛をまるまる一頭、荷馬車に積んで現れたときは、もう何のことだか分らなかったの。だから『何があったの?』って訊いちゃった。ティルはショックを受けてたわ。」
「…それは衝撃的だわ…。」
俺はそう言うしかなかった。キスされたことを忘れ果てていたレニオラよりもむしろ、牛を一頭引っ提げて現れたというティルファンさんに呆れるしかなかった。男前すぎる。
「んもうっ。ユークったら! …仕方ないでしょ。初めてだったのよ…?」
「いや、そういう意味で言ったんじゃねえって。」
レニオラが真っ赤になって睨みつけるので、俺は思わず笑ってしまった。
「それで、それで? ハノスさんは何て?」
俺はレニオラに先を促した。女子の恋バナを本人の口から直接聞けるなんて、以前の俺なら考えられなかったことだったからだ。しかも、ファースト・キスの話まで聞けるとは。
俺が身を乗り出してレニオラを急かすと、レニオラはジト目で少し唇を尖らせた。
「何よ。ずいぶん食い下がってくるわね。」
「だ、だってさ、ハノスさんがどんな反応したのかとかさ、そういうこと知りたいじゃん! 『お前ごときに、俺の娘は渡さーん!』とか、言わなかった?」
「父さんは普通だったわよ。」
思わず大声になった俺をしーっと制してから、レニオラはあっさりと答えた。
「ずっとずっと、あたしがティルを好きなことを知っていたもの。ティルが牛を持って現れた時も、『やっと腹が据わって、俺に言う気になったか』とか何とか言ってたわ。牛一頭なんて、ティルだってかなり気を張ったほうだと思うんだけど、『うちの娘をこんだけ待たせて、一頭で済むと思っているのか』なんて言っちゃって。でも、その夜はティルと一緒に、遅くまでずっとお酒を飲んでたわ。最後はぐでんぐでんに酔っぱらって寝ちゃったけどね。父さんがあんなに喜んでくれるとは思わなくて、あたしも嬉しかった。」
ハノスさんは下戸ではないが、普段はほとんど酒を飲まない。翌日の仕事に響くし、何より、そんな贅沢をする余裕がないからだ。そのハノスさんが酔いつぶれるとは、確かに余程嬉しかったのだろう。
「すごいね、ハノスさん。レニオラが好きな人のこと、ちゃんと知っていたのか。」
俺が言うと、うん、と頷いて、レニオラは俺の顔を見つめた。
「…だってあたし、父さんの畑仕事の手伝いに行く前に、毎朝ティルの牧場まで会いに行っているんだもの。ユークは気づかなかった?」
俺は驚いてレニオラの顔を見つめ返した。レニオラは微笑んでいた。月明かりがレニオラの額に落ちて、その優しい顔を輝かせていた。
胸を打たれる、というのはこういうことを言うのだろうか。
「…そうか。じゃあ、レニオラは本当に、本当に大好きな人と、幸せになるんだな。」
俺は言った。そう言った途端、俺の胸に、不思議な感動がぶわっと込み上げてきた。
確かにレニオラは、ティルファンさんと幸せになる資格がある。そう、思った。
レニオラは俺の手を握ろうとしたが、俺はその手をひったくって、レニオラの肩に回した。ぐいっと強く引き寄せてその肩に顔を埋めると、レニオラもその頭を俺の頭にこつんとぶつけた。
「ありがと、ユーク。」
聞こえるか聞こえないか、というほどの低い声でレニオラが囁く。何も言わなくても、レニオラは俺の気持ちを全部分かってくれていた。誰よりも幸せになってほしい、と俺は思った。
それから、ちょっとだけ「残念だな」とも思った。今なら俺に向かって、将聖へ告白したいから自分をうまく売り込んでくれだの、文化祭で将聖と二人きりになりたいから適当に段取りして、途中で消えてくれなどと言っていた学校の女子どもに「修行が足りねえよ」と言い返してやることができるのに。
思いを伝えるのは、簡単なことではない。
でも、心を込めて伝え続ければ、実る恋だってあるのだ。
(※1: 地球世界の十月。レクセイオンは神学、哲学、文学、歴史学など、学問の守護聖人。)
ID:1209971様から、誤字のご指摘をいただきました。ありがとうございます。修正いたしました。
ほかにも誤字脱字、消し忘れ等、文章内にお見苦しい箇所が多々あろうかと思います。自分でも気づくことがあり、都度修正すればよいのですが、物語を先に進めることを最優先に、後回しにしているところです。本当に申し訳ありません。
どうか筆者の怠惰さにはお目こぼしをいただきつつ、お気づきになりました際には遠慮なくご指摘いただければと思います。どうぞよろしくお願い申し上げます。
今月の投稿が大変遅くなりました件につきましても、お詫び申し上げます。至らない筆者ではありますが、これからも精進してまいりますので、今後も応援を賜りますようよろしくお願い申し上げます。




