015_始動(後)
その晩、街の人たちはみな眠れぬ夜を過ごした。こんな物々しい雰囲気に包まれた市内を見るのは初めてだった。一晩中松明を持った男たちが表を走り回っていたが、足音ばかりでその声はほとんど聞こえなかった。女子供、老人たちも声を潜めて家の中へ閉じこもり、市壁の外に家を持つ者は神殿の中に集められた。
静かすぎる。まるで空襲におびえる戦時下の街のようだ。
そう思ってから、これは戦争なのだと俺は気づいた。
魔物と人間の、生き残りを懸けた戦い。
そんな戦いの渦中に、将聖は引きずり込まれてしまった。しかも、その戦いはまだ始まったばかりなのだ。
俺はフォーリミナに祈りたくはなかった。そもそも、こんなことに将聖を引き込んだのはあの女神なのだ。俺は自分に起こったことへの恨み節も込めて、祈りの集会に参加しても、実際に祈りを捧げたことは一度もなかった。むしろ、こっそり腹の中で「今俺に起きている厄介事は、全部てめえのせいだからな」とこぼしていることのほうが多かったのだ。
だがあの夜、マチアさんが低く捧げる祈りの言葉を聞きながら、俺もいつの間にか胸の前で両手を組んでいた。そして心の中で繰り返し、同じ言葉をつぶやいていた。
「『おまけ』でついて来た俺より先に、あいつに何かあるワケないよな…?」
翌日、だいぶ日が昇った頃に自警団の人々が帰ってきた。出て行った時と同様に、北門からの帰還だった。サティシュ川の向こう岸から渡ることができず、昨夜は市内に帰れなかった人々や、冷たく動かなくなってしまった人々も、荷馬車に乗せられて帰ってきた。市門周辺では一時、安堵に満たされた歓声と悲しみにすすり泣く痛切な声が、同時にあちらこちらで沸き上がった。
俺とマチアさん、レニオラとリーシャも、市門が解放されたという連絡を受けるとすぐに、家を出て市門の前で待っていた。一刻も早く将聖とハノスさんの元気な姿を目にしたかったのだ。俺たちは横一列に並び、互いにしっかりと腕を組んで待ち続けていた。
呼子の代わりに、中央広場で市が立つときなどに吹き鳴らされるラッパの音が聞こえてくると、市門前の広場が活気づいた。次に現れた一隊はみな元気に手を振っており、楽し気に冗談を言い合いながら歩いてくるのが分かったからである。何か大きな荷を乗せた荷馬車を囲み、疲れ切った足取りではあったが、大怪我をしている者、自分では歩けず荷馬車の端に腰かけている者などは一人もいなかった。
ふと、数人の男たちが中の一人を捕まえると、無理矢理その荷馬車の上に登らせて、口笛を吹き始めた。俺は目を丸くした。乗せられたのは将聖で、荷馬車に乗せられていた巨大な魔物の死骸の上に、困ったように座り込んでいたからだった。すぐ傍にはハノスさんがいて、頭を掻く将聖を見上げて嬉しそうに笑っている。
「あ、父さんっ。父さーん!」
真っ先にレニオラが歓声を上げると、荷馬車を目がけて走り出した。
「あっ、ずるい! あたしも行く!」
リーシャもひと声叫ぶと、レニオラの後を追って走り出す。
俺もレニオラやリーシャのように荷馬車に駆け付けたかったが、胸が一杯、といった様子で涙ぐんだまま、呆然と立っているマチアさんの肩を抱いて、その場で待っていた。
「お前、何やってんだよ。」
荷馬車が目の前まで近づくのを待って、俺は将聖に声をかけた。将聖は荷台の上から降りるに降りられないでいた。鍛冶屋組合が組織する鋼鉄自警団の、イカつい顔をしたおっさんたちの呆れたような視線を気持ちよさそうに見返しながら、はしばみ自警団のおっさんたちは荷馬車の周りをがっちりと固め、ほかの者が近づくことも、将聖がそこから降りることも頑強に阻んでいたからだった。
「ユークか。」
しかし、俺に返事を返したのはオルグさんだった。農夫というよりも、ダンディなメンズ・モデルとでも名乗ったほうがしっくりくるオルグさんが、髪も乱れに乱れ、すっかり汚れ切って立っていた。くたびれ切った様子だが、髭の間から白い歯をひらめかせた笑顔はいつも通りの破壊力で、汚れくらいでこのおっさんの色気が目減りする心配はしなくてもよさそうだった。むしろいつものこざっぱりとしたオルグさんよりも、今の少しワイルドな気配を漂わせたオルグさんのほうが、何やら毒が濃いように思われる。
「昨夜のショーセは大活躍だった。お前にも見せたかったよ。」
「そうですか。」
やっぱり、そうか。
予想はしていたことだったが、オルグさんにはっきりとそう言われて、俺も顔がにやけるのを抑えることができなかった。
「昨夜の魔物狩りの第一功労者はショーセだ。今日の主役はこいつだな。その手柄をみんなで讃えてやりたいと思う。だがな。」
オルグさんは荷台の上の将聖を見上げて、笑顔のまま続けた。
「覚悟しておけよ。無茶しやがって。お前は後で説教だ。こってり搾り上げてやるからな。」
恥ずかしそうな、嬉しそうな笑顔のまま、将聖は小さく肩をすくめて見せた。
その日、中央広場では「メドーシェン市にもこれほど大勢いたのか」と驚愕するほどの数の若い娘が、群れを成して将聖を取り囲んだ。中学最後の卒業式を知っている俺ですら、あの熱狂ぶりには驚いた。もしかしたら、将聖はもうずいぶん以前からあの女子どもに目をつけられていたのかもしれない。それまでは「裏切り者」という噂話に牽制されて近寄りがたかったのだろうが、簡易バリケードを破られ、防御を崩された男たちが次々となぎ倒されていった中、小石を入れた長靴下(!)と山刀一丁で、弓手たちが体勢を立て直すまで、たった一人で巨狼と対峙して持ちこたえたという武勇伝は瞬く間に市内に広がり、そんな中傷をどこかへ吹き飛ばしてしまったのである。
俺は将聖がみんなに褒められているのが嬉しくて、どうにもそわそわと落ち着かなかった。大勢に囲まれて照れ臭そうに笑っている将聖の姿を見るのを、俺はどんなに待ち望んでいたことだろう。
俺は神殿に駆け込むと、献金箱にコインを入れて小さな蝋燭を一本取り、火をつけた。
「これは俺のじゃねえ。将聖のだからな。」
俺はそう呟きながら、蝋燭を献灯用の燭台の針に突き刺した。
ミニバンほどの大きさもある巨狼の死骸は、メドーシェン市の市内まで運び込まれた。魔狩人を優遇するこの市であっても、市街地への魔物の死骸の持ち込みで許されるのは一部のみ、換金目的に応じるためであって、それ以外は原則禁止事項とされている。この時運び込まれたのはその巨体を直に見せることで、人々にその危険を知ってもらうためだったのだそうだ。街の人々で巨狼の脅威を知るものは、ごくごく一部の高齢者のみだ。若い世代は俺を含め、神殿に残る記録の絵でしかその姿を見たことがなかった。
目にして、俺は頭がくらくらした。大きいだけならまだどうということはない。だが、あの禍々しい姿や、死骸になってなお消えることのない異様な気配を、俺はどう受け止めたらいいのか分からなかったのだ。それは魔鼠のような小型の魔物さえも発している、うまく言葉にはできない薄気味悪さだった。
おそらく、自然界にあのように歪んだ存在は造れない。
だが、それは悪趣味なオブジェでも、特撮映画のために作られたクリーテャーの着ぐるみでもないのだった。流れ出る黒い血や凄まじい異臭は、目の前にあるものが、つい昨夜まで生きて動いていたことを生々しく周囲に告げていた。
ぞっとするほどに発達した筋肉。あまりにも猛々しく盛り上がっているせいで、なぜか生命力以上に死の暴虐を感じさせる。
櫛の歯のように牙が並ぶ、極端に裂けた顎。そのエラの張った巨大な下顎はまるでティラノだ。一方で、「巨狼」という名が示す通り、その全身像はイヌ科の動物に近い。毛足の長い体毛に覆われた体は一般的なネコ科の動物よりも寒さに強いことを示し、平らな背骨は長距離の走行が可能であることを見せつけている。それなのに、前足にはまるでネコ科の動物のような鋭い鉤爪が生えており、後ろ足は一部に毛がなく雄鶏のような蹴爪が付いているのだ。
「嵌合体だ…!」
俺は将聖に向かって囁いた。嫌悪の浮かんだ表情で、将聖も頷く。吐き気に襲われて、俺は手で口を覆った。
「優希。気持ち悪いだろうけど、こっちも見ておいてくれ。」
将聖が指し示したものを目にして、俺は小さく悲鳴を上げてしまった。
大きく開けたら顔が裏返ってしまいそうなほど裂けた上顎と下顎の間から、だらりと長く舌が伸びている。血液の色のせいか舌は青黒くぬらついていて、それはまるで一匹の巨大な蛭だった。
その舌の先端に、本当に蛭そのもののような吸盤状の口がついている。円を描くように、小さな無数の牙まで生えていた。
「おそらくこれが、巨狼の本当の『口』なんだと思う。」
将聖が言った。やはり気分が悪いのか、将聖も握りこぶしで口元を押さえていた。
この巨体を支えるエネルギーを摂取するのが、こんなに小さな器官だとは。
俺は巨大樹の森で見かけた大ムカデを思い出した。巨大なダンゴムシを次々と襲い、死骸の山を築いているのに、その体には見向きもしないあの姿だ。蝶が花の蜜を吸うように、ほんの一部を吸い上げると、もう用済みとばかりに打ち捨てていた。魔法粒子は循環する力なので、動物の場合、その体液に多く含まれると言われている。巨狼のような大型の魔物であっても、おそらく必要としているのはそれだけなのだろう。
それを効率よく摂取できる造りになっているのだと、そう割り切って考えることなどできなかった。身近に存在するごく普通の生き物と部分的に似通っているせいで、ますますその「異常性」が際立って、不快感を増幅させる。
「…この体の造りは、絶対に、人為的な何かだよな。」
将聖が押し殺した声で言う。俺の背中にぞわぞわと虫酸が走った。
ともあれ、この一件があってから、将聖に対する周囲の評価は大きく変わった。以前は陰で、俺の代わりに「翼の姫君」と呼ばれていたこともあったらしいが、今は魔物が現れるたびに呼び出され、魔物狩りになくてはならない存在になりつつある。
聞くに、魔物と対峙した時のあいつの戦闘センスは、ちょっとほかの連中には真似できないのだそうだ。将聖自身にも説明できないらしいし、自警団の連中に聞いても「両手と両足がそれぞれ別な魔物と戦っている感じ」という、およそあり得ない説明しか返ってこない。まさかブレイク・ダンスみたいに、背中で走って手足を振り回しているのだろうかと思ってそう尋ねたら、俺のことを余程馬鹿だと思ったらしく、呆れ果てた目で見返してきたので、それ以上追及することもできなかった。
だが俺だって、広葉樹の森でリーシャと尾鞭虫に襲われた時から、魔物との戦闘など未経験であるはずのあいつがあそこまで戦えたことに驚いていたのだ。もしやとは思っていたが、やはり経験を積んだ一般的な魔狩人と比べてさえも、将聖のほうが遥かに早く、軽く、そして勘が冴えているらしい。
ついに、来た。
いや、来てしまった。
俺にとっては、そんな感じだった。将聖はどう思っていたのだろう。あいつはちゃんと心の準備をして待っていたような印象だった。望んでいたわけではないだろうが、決して慌てることなく、いつもの畑の畝起こしの手伝いにでも行くような顔で出かけていく。以前と変わったことといえば、持ち歩く山刀が二丁になったことくらいだ。いつの間にか、将聖は二刀遣いになっていた。
一方俺はといえば、こうなることを将聖から散々聞かされていたのも関わらず、すっかりうろたえて落ち着かない日々を過ごしている。マチアさんやリーシャの手前、平気そうな顔を表面上は取り繕っても、あいつに何かあったらと思うと、それだけで胸のあたりの気分が悪くなった。
「ちゃんと横になってね?」
寝室の中、ハノスさんの好意で二台に増えたベッドの端に座っていると、レニオラが俺に声をかけた。
「ショーセは大丈夫よ。すごく強いし、一人じゃないんだから。」
「…うん。分かってる。」
俺は笑顔で答えようとしたが、気が張り詰めていて、頬がうまく動かなかった。
クソッ。こんなじゃだめだ。
俺は狼狽しきっている自分に気づいて叱咤した。いつまでも動揺していたら、俺はまた、どこかであいつの足手まといになってしまうだろう。真面目な将聖にとって、誰かが足を引っ張るのが一番あいつの命取りになる。
俺はアルカイック・スマイルにならないように気を付けて、しっかりと笑顔を作った。
「将聖はちゃんとやる。俺が一番それを知ってる。それに、あいつにはオルグさんもハノスさんも、ほかのみんなも付いているもんな。」
「それに、ユークもここにいるんだから。」
そう言うと、レニオラは自分のベッドから手を伸ばし、俺の髪を撫でた。硬くてうねりの強い俺の髪は、この半年でだいぶ伸び、いつもあらゆる方向へ爆発している。
俺は笑顔のまま肩をすくめた。今の将聖の目に、俺のことなど映っていないだろう。
水汲みから始まる一日が今日も始まった。朝仕事を終え、朝食を摂ると、俺とリーシャはいつも通り、粗朶集めをするために家を出た。
今日の行先は、将聖たちが魔物の駆除を行っている東の森ではなく、より安全と思われる市の西側の森である。魔物が現れるようになったからといって、日本のように災害支援物資が届くわけでもないイザナリアの社会情勢では、こんな時でも危険を冒して森に入る必要があったのだ。
ただし、やはり最低限の安全確保は必要で、俺たちは一人ひとり、全員呼子を持たされるようになった。粗朶集めも時間を決めてみんなで連れ立っていくことが義務付けられ、はしばみ自警団や、鋼鉄自警団、工房地区の職人たちで形成される革靴自警団などのメンバーが、必ず二人以上は持ち回りで同行している。
とはいえ西の森は市から遠く、あまり広くもないため、こんな努力を払っても十分な粗朶の量を確保するのは困難な状況になっていた。
このほか、魔物の気配に敏感といわれるテュカリアという鳥も、籠に入れて連れていく。
テュカリアははしばみ自警団団長のオルグさんほか、牧羊を営むハーゲンさん、食堂の店主のライナルさんも飼っている。主にその鳴き声で愛されているが、ぷっくりとした体形と黄色の襟巻をしているような姿が癒し系で、メドーシェン市周辺で魔物が増える以前からペットとしても人気があったらしい。
俺はライナルさんのテュカリアを借りに行くため、少し遠回りをした。リーシャは少し年上の友達に任せて、先に送り出している。
「よう、ユーク。お前も森へ行くのか?」
最近すっかり馴染みになった声に呼び止められて、俺は振り返った。
「バレルド。お前、ここで何してるんだよ。」
思わず声が高くなった。バレルドはプロの魔狩人だ。しかも、最近は将聖と同じはしばみ自警団の一員にもなっていた。このところの魔物の増加のせいで、自警団の活動がボランティアに終わることはほぼなくなった上、宿を取るよりも農家の手伝いをしながらその家に泊めてもらったほうが金も節約できるため(しかも家によってはタダ飯が食える)、こんな風に余所からメドーシェン市にやってきては、はしばみ自警団に入ってくる魔狩人が最近増えてきているのである。
もちろん相手の能力や人柄にもよるが、自警団の活動に時間と体力を取られて、本業の畑仕事に支障をきたしている農家の人々にとっても、家の仕事を手伝ってくれる魔狩人の存在は有益だった。このため、持ちつ持たれつの関係で互いにうまくやっているらしい。
だからバレルドも、今頃は将聖たちと一緒に監視塔のある広葉樹の森へ行っていなければならないはずなのだった。
「お前ね。イスカミロ様(※1)の祭りの日からこっち、ずっと『境界域』で魔狼の群れを見張っていたのは誰だと思ってるんだ?」
「…あ。」
そうだった。バレルドもまた将聖と同じように、魔物の気配を察知する感覚が人並外れて強いのだ。バレルドはその能力を活かして、数日前まで監視塔のさらに東を移動する魔狼の群れを、十日以上もかけて追い続けていたのである。幸いその群れは再び東域の奥深くへ姿を消したとのことだが、依然森の中は騒がしく不穏な状態が続いているため、いつまた現れてもおかしくはない状況であることに変わりはないと聞いていた。
そうはいうものの、一昨日帰ってきたばかりのこの男を、今朝のあの時間からまた魔物狩りに駆り出すほど、オルグさんはブラックな団長ではない。
バレルドは、この索敵能力の高さのおかげで魔狩人の中でも一目置かれた存在になっている。これまでも所有地に現れた魔物の駆除を必要とする金持ちや、メドーシェン市のように自警団の活動が発達していない小さな町に雇われて、凄腕として認められてきたらしい。士官の道を進められたことも一度や二度ではないと聞くが、こいつはそんな勤め人生活は願い下げらしく、魔物の脅威が去った土地に長居することもなく、旅芸人のように転々とあちらこちらの土地に移り住んでいるという。
その巷の評判を鼻にかけるでもなく、どこかすっとぼけたようなこの飾らない性格のせいか、メドーシェン市の農夫たちともすこぶるうまくやっている。街のかみさん連中の受けも良く、将聖とも仲が良かった。
俺は将聖がどんなふうに戦っているのか、詳しいところが知りたかった。ほぼ魔狩人職一本で飯を食っているバレルドなら、農業の合間を縫って魔物と戦うほかのメンバーよりも、もう少し分かりやすく説明してくれそうな気がする。「将聖は迷惑をかけていないか?」と水を向けると、バレルドは何を今さら、という表情で俺を見た。
「あいつは心配いらんだろ。お前が一番よく知っているだろうが。」
そうは言われても、と俺は首を横に振った。
「俺は将聖が魔物と戦っているところはほとんど見たことがないんだ。」
巨大樹の森を越えてきた時も、武器を持たなかったので隠れてやり過ごすことを最優先にしていた。それを告げると「あー。ユークも一緒じゃそうなるか」と、奴も納得した様子で頷いた。
「あいつのスゴイところはさ、魔物の気配がほぼ全方位で分かっちまうってことなんだよな。」
バレルドは考え深げに無精ひげの伸びた顎を撫でた。索敵能力の高いバレルドにそう言われると、もう分り切った事実であるにもかかわらず、改めて将聖の能力の非凡さを伺い知ることができる。何せバレルドは、剣の腕前もなかなかとのことだが、数キロ離れた場所からでも巨狼の群れの数を言い当てたり、魔鼠が移動している方向を正確に見抜いたりすることができることで有名な男なのだ。
「背中に目がついているみたいなもんだ。目の前の魔物とあの鉈でやりあいながら、後ろから襲ってきた奴に足が飛ぶ。ま、思った通りに体が動いてくれなきゃ話にならないんだが、あいつにはそれができるんだよ。体も柔らかいよな。初めはあんなに細くて戦えるのかと思ったが、なんのなんの。リスみてえに木の枝に駆け上がって上から飛び掛かるわ、走ってくる巨狼の腹の下に滑り込むわ、ありゃ魔狩人としちゃ相当体と才能に恵まれてるぜ?」
なるほど。「両手と両足がそれぞれ別な魔物と戦っている感じ」とはそういうことだったのか。
俺は頷いた。
はしばみ自警団団員の本職は農夫だ。自分たちの土地や家族を守るため、剣術の訓練をしたり、射的の腕を磨いたりはしているが、だからといって戦闘の知識や体術を本格的に学んでいるわけではない。俺も接近戦については映画やバトル・ゲーム程度の知識しか持たないが、経験だけが頼りの彼らは、もしかすると、その俺よりもその実際を目にした機会は少ないのかもしれないのだ。
それならば、見ている連中が将聖に度肝を抜かれるのは当然のことだろう。
そう思いながらも、俺は自分の表情が強張っていくのを感じた。
――「走ってくる巨狼の腹の下に滑り込む」だと?
将聖の奴、なんて危ない戦い方をしてやがる。
心の声がダダ洩れだったのか、バレルドは俺を宥めるように言葉を続けた。
「あんまり心配するなって。あいつは団長の秘蔵っ子だからよ。団長は、今下手に突っ込ませて怪我させるより、三年後、五年後を考えて使ってる。まあ、見てな。あと数年後には、あいつは帝都までだって名を馳せるだろうからよ。」
「…ありがとう。」
俺は礼を言った。将聖が褒められたのだから、もっと喜ぶべきだ。そう思っているのに、なぜか周囲の空気が薄くなったように感じる。こうして才能を認められれば認められるほど、将聖は危険な場所へ遠ざかっていくような気がした。
「おーい。つまんねえなあ、ユーク。それだけか?」
バレルドがにやりと笑って、ずい、と目の前に立ちはだかった。しまった、と思うよりも早く、俺の腰に腕を回して顔を近づけてくる。その唇を突き出すように尖らせてちゅむちゅむと動かしているあたり、本気でないのは分かるのだが、俺にとってはどんな理由であれ、そうそう我慢できることではなかった。
「何しやがるっ!」」
俺は両手を使ってどうにかバレルドを突き放すと、腕を突き出したまま叫んだ。
「ふ、ふざけんじゃねえぞ、てめえっ! 本気で後ろから刺すからな、どっかの夜道で。それが嫌なら近づくなっ!」
「おいおい、そんなに怒るなって。」
バレルドは俺の脅し文句にも、ただ面白そうに眉を吊り上げるばかりだった。「冗談だよ、冗談」と手を振るが、俺はこいつが十分に離れるまで身構えた姿勢を崩せなかった。
こいつにはもう四、五回ほどキスをされている。素早く唇にしてくるものだから、俺は警戒心を緩めることができないのだ。
こんなことは恥ずかしくて、将聖にも言えない。次から次へとよくもまあ、俺の人生に苦労を持ち込んでくれるものだと、フォーリミナの元へお礼参りに行きたいくらいだ。
「お前もつれないねー。も少し愛想よくして、その格好を何とかすりゃあ、メドーシェン中の男どもがお前の歩いた地面を拝んで歩くだろうに。」
「結構だ。俺はむさ苦しい男に付きまとわれるより、むさ苦しい男になりてえんだよっ!」
「…ったく、その顔が泣くぜ? こんなに男をがっかりさせる奴がいるとはなあ。」
俺の言い草に、唖然と俺の顔を見やってからバレルドは言った。言いながら、何かがツボに入ったのか、くっくっく、と笑い出す。俺も「まいったな」と表情が緩んでしまい、不機嫌面をキープできなかった。
「…元気は出た。ありがとな。」
俺は笑顔でバレルドに言った。こいつのキスは半分以上おふざけだ。女好きでスケベで、そのことを隠しもしないが、陽気で気のいい男なので、本気で嫌う奴は一人もいないだろう。面倒見がよく、存外真面目なことも俺は知っている。そうでなければ生真面目過ぎる将聖を、ここまで気遣ってはくれないだろうからだ。
「じゃあな、ユーク。」
バレルドも俺をからかうのは潮時だと思ったのか、軽く手を振って俺に背を向けた。おそらくここで会ったのは、俺とは行き違いに今からライナルさんの食堂へ行って、遅い朝食を買い込むためだろう。
だが、二、三歩行くとバレルドはすぐに振り返った。また唇をちゅっちゅっと鳴らしてから俺に言う。
「次会ったときは、もう少しお熱いあいさつを期待してるぜ。」
俺は笑顔の顔面をぴくりと引きつらせた。
…なら熱湯沸かして待ってるわ。
夕方の水汲みをしていると、家のほうからリーシャの嬉しそうな声が聞こえてきた。このところ、神殿で文字の勉強をするために夕食の準備の手伝いは完全免除にしてもらっていたので、代わりに夕方の水汲みは俺が一人で担当していたのだ。
その笑い声の意味に気が付いて急いで角を曲がると、裏通りに面した狭い庭先で、リーシャが運んだ湯でハノスさんが体を拭いていた。将聖も別な盥に張った水を、ばしゃばしゃと顔にはねかけている。
「おかえりなさい! お疲れ様です。ハノスさん、将聖。」
「おお、ユーク。お前さんも、ご苦労さん。」
「ただいま。」
俺が声をかけると、二人は顔を上げた。将聖は濡れた前髪から落ちる水滴を手で乱暴に払うと、俺に白い歯を見せる。今日の自分の働きに自分でも満足しているらしく、まだ少し興奮しているようだった。一方ハノスさんのほうは、さすがに疲れ切った様子だった。俺には笑顔を向けてくれたが、清拭が済むと使った湯を捨てるのも大儀な様子で石段に座り込み、深く溜息をついている。
リーシャがハノスさんの着替えを持って奥から駆け出してきた。俺も水汲みの仕事を中断して急いで中に入ると、将聖の衣類を入れている籠を開いた。
「お疲れさん。ほら、使えよ。」
俺が洗顔用の麻布を手渡すと、将聖は「サンキュ」と受け取って、顔を突っ込んだ。
俺は将聖の背中を見た。
将聖は何も言わない。だが、その背中は傷だらけだった。
突き出す小枝や下生えの間を駆け抜け、砂利や尖った岩肌の上に滑り込む。そんなことをしていれば当然、その体には必要以上の無理がかかり、避けられない傷を負うことになる。
将聖の体のあちこちに刻まれる擦過創に俺ができることといえば、砂や小石が中に残らないようにその傷を洗い、マチアさんからもらった軟膏を塗ってやることくらいだ。
「なあ、将聖。今日の相手は一体…。」
「すまねえな、ショーセ。今日俺は休ませてもらっちまってよ。」
俺は今日の魔物狩りについて知りたかったが、背後からかけられた声に遮られてしまった。振り向くと、将聖と同じはしばみ自警団の団員ヴェニマンさんが、裏通りと庭を仕切る囲いの向こうに立っていた。
「ヴェニマンさん! お疲れ様です。どうですか、追跡調査の疲れは取れました?」
将聖が明るい声を出して駆け寄った。ヴェニマンさんもまた、バレルドと一緒に魔狼の群れを追いかけていた団員の一人だった。本当は農民にとって、仕事を休み、十日以上も留守にするということがどれほど家計の負担となり、家業に支障をきたすのかは計り知れないほどだ。頼りになる息子と弟夫婦に支えられ、自警団の一員として働くヴェニマンさんは、ほかの団員からの人望も厚く、そのほかの人々からも深く尊敬されている。
「いやあ、全然。最近ちっとも抜けなくてなあ。ちょいと靴の踵の調子が良くないんで修理に出しているんだが、あれが仕上がるまで、しばらく無理は控えようかと思っている。」
ヴェニマンさんはのんびりとした口調で言った。このヴェニマンさんもまた周囲の評判には無頓着な性格で、確かによく見ると両足とも裸足だった。一日中そのまま働いていたのか、踝まで泥がついている。
「で、お前さん、来週あたり空いていないか? うちのほうの仕事を手伝ってもらいたいんだが…。」
「ありがとうございます。行きます! 明日と明後日は野菜の苗の植え付けの仕事が入っていますが、その後は空いています。早いほうがいいですか、それとも来週まで待ったほうがいいですか?」
初夏は冬場よりも格段に忙しい季節だ。将聖は冬場にあれほど頑張って働いたことが認められたのか、この頃はわざわざハノスさんの家まで仕事の依頼に来る相手が増えていた。「メドーシェンではもう暮らしていけないかもしれない」などと心配していた頃が嘘のようだ。夕食も喉を通らないほどに疲れ切って帰ってくるということもなくなっている。
「早いほうがいいなあ。じゃあ、三日後ということで。」
「あの、自警団の仕事が入ったら行けなくなりますが…。」
「んなことは分かってるさ。お前さん、最近はあちこちの用事で引っ張られているんだろ? だから早いうちに予約しておこうと思ってな。」
言いながら、ヴェニマンさんは腹を揺すって笑った。ヴェニマンさんは雄牛のように体の大きな人だ。声も牛のように太く、その笑い声は小気味好いほどにこちらの腹に響く。
二人は仕事内容や日数、報酬についての話を詰めている。将聖は自警団での活躍のせいか、日雇いのほうの仕事も格段にいい報酬がもらえるようになってきていた。
まだまだ長くかかりそうだ。今日も将聖とゆっくり話すことはできないらしい。
そう思って俺が立ち去りかけると、将聖が急いで俺を呼び止めた。
「悪い、優希。これ、洗濯頼んでいいか?」
将聖がその日着ていたシャツを丸めて、靴下と一緒に俺に投げてよこした。
俺は目を細めて将聖を睨んだ。先日繕ったばかりの靴下が、もう「おはよう靴下」になっている。
将聖は「ごめん」と言うように両手を合わせながら、おどけたようににやりと笑った。
「後で下着も渡したいんだけど…。」
まったく、最近の将聖には遠慮がない。
「じゃあ、そっちもよこせよ。一緒に縫っておくから。」
俺は将聖の上着も取り上げた。
地球世界から持ち込めた数少ない持ち物である制服を仕立て直した将聖の上着に、剣道着のような強度はない。魔物狩りなどという激しい労働のせいで、すでにあちらこちらに穴が開いている。
中に入る前に一度だけ、俺は将聖を振り返った。だが将聖はヴェニマンさんとの話に夢中で、俺の視線に気づくことはなかった。
(※1: イスカミロは牧人の守護聖人。林業や狩猟なども司る。地球世界の五月の聖人に当たる。)




