013_侮蔑
霜暦九七六九年 ジェンタクスの月(※1)
「何生意気な口利いてやがるっ!」
それは俺がミアさんから買い出しを頼まれて、レニオラやリーシャと一緒に市場へ出かけた帰り道のことだった。
「お前、仲間を裏切ったんだろ? そんな奴が、よくも払いが足りないとか言い出せたもんだな?」
最初は何が起こっているのか分からなかった。
「そもそも、ハイランダーどもはみんなお高く留まってるよな。自分たちの縄張りには人間族を寄せ付けねえくせに、俺たちの土地にはずかずか踏み込んできやがる。どうせ俺たちの金が目当てなんだろ?」
「雇ってもらえるだけ感謝しろよ。お前みたいな臆病者は、袋叩きにされたって文句は言えねえんだよっ。」
そんな声と共に、屋根から雪が落ちるような、ドスン、という音が響いてきた。
次の瞬間、俺の目に、雪道に叩きつけられるように倒れこむ将聖の姿が飛び込んできた。
一瞬の思考停止の後、俺の心臓が跳ね上がった。駆け寄ろうとしたが、そばにいたレニオラとリーシャが両側から腕をつかんで、俺を物陰へと引きずり込んだ。
――今のは本当に、将聖だったのか?
日本にいた頃、将聖に絡んできたり、喧嘩を吹っかけてきたりするような馬鹿は一人もいなかった。何よりも女子に人気があったし、学校の先生にしろ、俺の両親を始めとするご近所さんにしろ、これだけ周囲の大人に愛されている優等生に下手な因縁をつけてみたところで、何の得にもならないということをみんなよく分かっていたからだ。
もちろん、そもそも誰に対しても態度を変えないフラットな将聖を嫌う奴がいたかどうかすら分からない。
だから将聖に手を上げようとする奴がいるということ自体、俺には信じられないことだったのだ。
どっどっどっどっ…。
心拍数が跳ね上がり、耳の奥がばくばくと鳴った。しばらくはうるさくて、周囲の音さえ聞こえなかったほどだ。
将聖が殴られた。
なぜかそれは、俺自身が殴られたような衝撃と混乱を俺にもたらした。
俺は、「暴力」をほとんど知らない。
アクション映画や格ゲーで、スクリーン越しに「鑑賞」したことはある。もちろん、将聖の試合の応援で、武道を「観戦」したことだってあった。
だが、俺は日本で、本当の意味で「暴力」を振るわれたことは一度もなかった。悪戯が過ぎてお袋に尻を叩かれたことや、ガキの頃に他愛もない理由で友達とつかみ合いをしたことなど「暴力」と呼べるようなものではない。
そういえばイザナリアに来てからは、一度だけ、巨大樹の森で襲われたことがある。記憶から完全に消し去ってしまいたい経験だが、あれもほんの一瞬の出来事だった。しかも、将聖が相応の返り討ちにしてくれたお陰か、俺の中の痛みはだいぶ薄らいでいる。
しかし今、俺の目の前で、その将聖が集団からの暴力を受けている。
目にして、背中を冷たいものが走った。膝ががくがくする。森で魔物に襲われた時よりも激しい何かが、全身を駆け抜けていった。
それは凄まじい恐怖だった。
将聖は痩せた背を丸め、腕で体を抱き肩で息をしていた。腹を殴られたものらしい。
地面に転がったのは、誰かが首のあたりをつかんで強引に引きずり倒したためらしかった。
それでも素早く身を翻したお陰で、別の誰かが蹴り上げた足からは身をかわすことができたようだが、数人の男たちが周囲に立ち塞がったために、その細い体は俺からは見えなくなってしまった。
「俺の働きが悪いというなら、賃金が低いのは受け入れます。」
将聖の声が聞こえた。息は乱れていたが、静かな、ひやりとするような声だった。
「だが、今日のは違う。俺は頼まれて荷物を卸しに来ただけだ。あんたらは、荷主にちゃんと支払う義務がある。」
「何だ、こいつ。ずいぶん気取ったしゃべり方だな。」
「田舎者が、偉そうに。」
せせら笑うような声が聞こえてくる。将聖を囲んでいたのは、メドーシェン市でも一、二を争う金持ちといわれる、ダイガンという商人の家の下男たちだった。将聖に打ち明けたことは一度もないが、俺も時々体を触られることがあって、いけ好かない連中だと思っていたのだ。
「そもそもお前、よくものうのうと表通りを歩けるよなあ。自分の一族に対して、恥ずかしいとは思わねえのか?」
リーダー格のカルヒクの声が聞こえた。わざと周囲に届くように声を張り上げているのが分かる。こいつが引き連れているのは、チンピラ家業が下男の本務だと勘違いしている、頭のいかれた奴らばかりだ。
ダイガン自身は普通の商人だった。林業や建築関係の手堅い商売を好むと聞いている。神殿への寄進も多く、イクシマールへ続く街道の補修を無償で請け負うなど、慈善家としても知られていた。
だが、イザナリアは綺麗ごとばかりで商売が回るようなお気楽な世界ではない。一方でダイガンは自分の商売の物流を守るために、「護衛」と称してカルヒクのような荒くれ者を雇っていた。彼らの本務はネハール侯爵領の中央都市イクシマールや、帝都ティオキリアスとメドーシェン市の間を結ぶ交易路において、ダイガンの隊商の安全を確保することである。だが、ダイガンは時々その護衛たちの腕力を、商売敵に嫌がらせをしたり、理不尽な取引を押し通したりするといった非合法な手段にも利用していると聞いたことがあった。
そういった悪事が表沙汰にならないのは、相手の弱みにうまくつけ込んでいるからだとも耳にしたことがある。
「『大鷲の一族』は、女神様にウィクタ・ノファダを死ぬまで守るとかいう誓いを立てたんだってなあ? だから仲間はみんな死んじまったんだってなあ? なのに何でお前は生きているんだ?」
カルヒクの笑い声と一緒に、胸糞の悪くなるような音が聞こえてきた。
リンチの音。
堪えても吐き出される、将聖の呻き声。
――行かなきゃ。
そんなつぶやきが頭の中で聞こえた。だが、それはひどく微かな遠い声だった。
ここで将聖の加勢に行かなきゃ、男じゃない。
将聖はいつも俺をかばってくれる。体を張ってかばってくれている。なら、あいつがピンチの時に、俺が見て見ぬふりをするなんて許されないはずだ。
俺は自分を叱咤した。
だが、俺の膝は震えて言うことを聞かなかった。わけも分からず魔物に突っ込んでいった時とはまったく状況が違う。周囲の露店の男たちまで、遠巻きに見ているだけだ。
その時、俺の耳に信じられない言葉が飛び込んできた。
「この裏切り者が。最低だなあ、お前っ!」
「仲間を捨てて、自分たちだけ逃げてきたんだろ?」
「ゲスが。お前らに生きる資格なんかねえよ!」
初めは、自分の耳に何が注ぎ込まれたのか分からなかった。
一瞬の、空白。
ひと呼吸して、俺はそれがニトロ並みの破壊力を持った可燃物だということに気が付いた。
俺の手足に火が付いた。
怒りが恐怖を凌駕した瞬間だった。俺は絶対に、将聖を裏切り者呼ばわりした奴を許すことはできなかった。俺がそれを許すなんてことを、この世の誰が受け入れるだろうか。
あの細い体で、あいつは支払い続けている。
肉刺だらけの汚れた手で、あいつは支払い続けている。
俺を生かした代償を。
「ふざけんじゃねえよっ! あの野郎、将聖に何てこと言いやがるっ!」
俺は飛び出した。いや、飛び出そうとして、レニオラとリーシャに引きずり戻された。だが、この二人にすら簡単に抑え込まれてしまう現実も、俺の目には入らなかった。
「落ち着いて、ユーク!」
「今出ちゃダメだよ!」
「…放せっ! 放せよ、レニオラっ!」
俺は自分が水桶さえ思うように運べなくなった体になってしまったことも忘れ、レニオラとリーシャの腕の中で暴れた。カルヒクたちの脇腹に一発、この拳をねじ込んでやりたかった。
あいつは今まで、誰かを救ったことこそあれ、裏切ったことなど一度もない。そのことを、ほかの誰よりも俺が一番よく知っている。
それどころか、あいつは一体誰のために転生したと思っているのだろう。
「余所者」の将聖が、人一倍の苦労を強いられるたびに、そう思ってきた。
将聖は神様に見放されたんじゃない。選ばれた奴なのだ。
その事実を、誰も知らない。誰も知らないことが、悔しくて仕方がない。
虎の威を借る狐よろしく、将聖の立場を笠に着て、俺が勝手に驕るつもりはなかった。一緒にイザナリアに来たからといって、俺自身も特別だなどと自惚れるつもりもない。
だが、そんな俺にすら、将聖が転生した理由と、今の将聖の境遇との落差には我慢できかねるところがあったのだ。
創造主に見放されたのは、イザナリアの人間だ。イザナリアの人々が傲慢に生物を作り替えたせいで、ここは魔物だらけの歪んだ世界になってしまったのだ。しかも現在は、「世界の均衡」とやらまで崩れかけてしまっている。魔王を倒しながら辛い生涯を余儀なくされ、死の直前に行方をくらませてしまったという四十三代勇者の存在も、何か影響しているのかもしれない。
俺も将聖も、「均衡がとれた世界」というのがどんなものなのか、どうすればそこに到達できるのかなど知りもしない。そんなよく分からないものを正すために、あいつは巻き込まれてしまったのだ。何の関係もない将聖が、何故かそんな役目を押し付けられてしまったのだ。
それなのに、この上なぜ「余所者」や「裏切り者」というレッテルのもとに、人々から蔑まれ、踏み付けにまでされなければならないというのだろう。
このところ将聖に回ってくるのは大概、この過酷な季節にあってさえ屋外で従事しなければならない、誰よりもきつい肉体労働ばかりだった。賃金さえも誰よりも低い。そんな仕事にも決して手を抜かない性格だと分かっているだけに、俺はますます悔しい思いを抑えきれなかった。
もちろん果樹農家のオストさんのように、将聖を正当に扱ってくれる雇い主もいる。嫁ぎ先から手伝いに来る娘さんを頼りに、小さな果樹園を経営する老夫婦にとっては、真面目な将聖は大のお気に入りの助っ人だった。この季節の果樹農家には、突発的に、果樹の枝に厚く積もった雪を落とす作業が発生するが、そんな時は必ず将聖に声がかかるし、支払いだって悪くない。時折土産に焼き菓子やジャムを持たされることもあって、あいつがどれだけ重宝されているかもよく分かった。オストさんが長期間、使用人を雇用できるような大農家だったら、きっと将聖を手放さなかったことだろうと思う。
だが一方で、身寄りも後ろ盾もない「難民」という立場の将聖に、つけ込む連中もメドーシェンにはいるのだった。むしろ支払いには困らないだろうと思うような奴らに限って、足元を見るように将聖を使い回した。
先月末から今月の頭にかけて、将聖はダイガンが持っている森の間伐材を運搬する作業に従事した。かなりの重労働だったようだが、雇用期間は十日以上に及び、まとまった金が入るとあいつも喜んでいた。
だが、いざ作業が終わってみると、その支払いは子供のお使いの駄賃程度の金額だった。雇われる時点ではまっとうな金額を提示されていたというのに、それを根拠に抗議しても、まったく取り合ってはもらえなかったのだそうだ。「嫌なら余所で働くんだな」と切り捨てられ、将聖はその場を立ち去るしかなかったのだという。
「なんつーブラック野郎だよっ。恥を知れよ! 貧乏人から巻き上げるんじゃねえ!」
俺は憤り、散々罵ったが将聖は堪えていた。こんな辺境のメドーシェン市で将聖が働ける場所などたかが知れている。それを分かっているからこそ足元を見られているわけだが、それでも将聖にとっては大切な就業先であり、収入源なのだ。
将聖が耐えるというのなら、俺が口を挟むわけにはいかない。
俺は何十歩も、何百歩も譲って、何も言うまいと自分に言い聞かせてきたのだ。
――だからって、「裏切り者」とまで言われて許せるか。
俺の頭に急速に血が上り、そのせいで首筋や頬の辺りまでぞわぞわした。感情が高ぶりすぎて、眩暈さえするほどだった。
「あのクソ野郎がっ! 街の人に手を挙げるクズはそっちじゃねえか!」
俺は唸った。このキンキン声が悲しかった。
レニオラとリーシャは俺の腕をがっちりとつかんで離さなかった。
「しっ。しゃべっちゃダメ、ユーク!」
「今出ていったら、何されても自分の責任にされてしまうわよ!」
レニオラもリーシャも、俺のためを思って引き留めてくれているのだということは分かっていた。だが俺は、何が何でもあのカルヒクに一矢報いてやりたくて、駄々っ子のように足を踏み鳴らした。
「普通に生きろ」なんて言われて、何も知らない異世界にただ放り出されたんだぞ! 勇者の称号もチートスキルも与えられず、それでも自分で仕事探して懸命に働いて、真っ当に生きているんだぞ! お前らにそんなことができんのか? 生まれた世界でさえまともな仕事に就こうとしないクズどもが、たった今、地球世界に放り込まれて生きて行けんのかよっ?
俺は声に出せない怒りの言葉を腹の中で喚き散らした。その間にも「がっ」という将聖の悲鳴が聞こえてくる。
悪夢のような時間は、だが、そう長くは続かなかった。
「おい。」
「あ、ああ。」
中央通りに面したダイガンの屋敷の表門の周辺が騒がしくなる。中央都市から来たのだろうか、メドーシェン市では見かけない商人と思われる数人の客とともに、ダイガンが姿を現した。客たちもダイガンもみな機嫌がいいところを見ると、それぞれに満足のいく有意義な話し合いができたのだろう。馬車が引かれてくるまでの間、ダイガンは一人一人の客の手を取り、肩を抱いて親しげにその出発を見送っていた。
カルヒクたちが目配せを交わした。今ここであまりやり過ぎると、来客の見送りをしているダイガンの体面にも関わると判断したのだろう。それをダイガンが喜ぶとは思えない。
カルヒクは、フンと鼻を鳴らすと、まるで「自分は生まれてこのかた間違ったことなどしたこともない」とでも言うような面で、将聖に向かってやれやれと肩をすくめて見せた。
「ほかのハイランダー族に見つかったら、何て言われんだろうな。どうけじめをつけられるか楽しみだ。きっといい見世物になるぜ。」
「どっちが見世物だ、群れなきゃ喧嘩もできねえサルどもがっ。」
俺は完全にブチ切れて怒鳴った。この際、俺の啖呵にご近所連中がどんな顔をしようが、もう知ったことではなかった。
「お前こそ、バックや三下がいなけきゃ何もできねえ臆病者のくせに、偉そうな口利いてんじゃねえっ! 一対一でかかって来いや、このクソ野郎っ!」
「ユークっ!」
レニオラが悲鳴を上げ、カルヒクが振り返った。ようやく俺の声が耳に入ったらしい。さすがにむっとしたのか、その顔からは笑みが消えていた。
だがカルヒクは、もみ合っているがただの女三人だと気づくと、また余裕のある笑みに戻った。チラリとダイガン屋敷の表門のほうへ目をやるが、その周辺が騒がしく、距離もあるため俺の声は届いていないことを確認すると、俺のほうへ意味ありげな視線を送ってから、また将聖のほうへ近づいて行った。
カルヒクは、どこか下卑た表情を浮かべて将聖に何かを言った。
将聖は真っ青になってさっと顔を上げた。大きく目を見張り、唖然とした表情でカルヒクを見返している。だが、すぐに口を真一文字に引き結ぶと、よろめきながらも立ち上がった。ポケットからつかみ出したものを地面に叩きつけると、俺のほうへ歩いてくる。途中で下男の一人に唾を吐きかけられたが、見向きもしなかった。
「ここで何してる。帰れ、優希。」
将聖が言った。俺の茹った頭を一瞬にして冷やすような、氷のような声だった。
怒った将聖は怖い。この時、将聖は怒っていた。
俺に対して、怒っていた。
「なぜ言い返さない、将聖っ!」
俺はようやくレニオラとリーシャの腕から逃れると、将聖に向かって怒鳴った。将聖の圧力に屈して、黙っているわけにはいかなかった。
…どんなに将聖が怖くても、俺にだって譲れないことはある。
「本当のこと言っちまえよっ! お前、こんな目に遭うためにイザナリアに来たんじゃねえだろっ!」
「黙れ。」
「お前は選ばれたんだぞ! 何百人って人間の中から、たった一人選ばれたんだぞっ。あんな野郎に、分かったような御託を聞かされる筋合いはねえっ!」
「黙れ、優希っ!」
「黙るかっ! 何で黙ってなきゃいけないんだ! 本当のことだろがっ。」
「俺は黙れと言っているっ!」
将聖はあっという間に俺に詰め寄った。気が付くと、俺は将聖に両腕をつかまれて、宙に吊り上げられていた。
「何で俺が怒られてんだよ。お前何で俺に怒ってんの?」
俺は将聖に吊り上げられたまま、じたばたと体を振り回した。地面を求めて足を掻き、その爪先が時折将聖の向う脛を蹴り上げたが、将聖は眉さえ動かさなかった。
俺は将聖を蹴りたくなかった。今これ以上こいつを傷つけたくない。目の前の将聖は、石のように固い真顔で、涙も見せずにギャン泣きしているように見える。
だが、先に決壊してしまったのは俺のほうだった。
「お前が殴られてるとこ見たら、俺だって痛えだろがっ!」
俺は怒鳴った。いや、怒鳴ったつもりが、出たのはどうしようもなく情けない声だった。
裏返ったみじめな声で叫んで、途端に涙腺が崩壊する。
俺は抵抗を止めた。いつもいつも、堪えているのにどうして涙が出てしまうんだろう。泣くなんて卑怯だと思うのに、噴き出すと止まらなくて、それと一緒に全身の力まで流れ出てしまうような気がする。
俺は屠殺後の血抜き処理をされている豚みたいにぶらんと吊り下がったまま、ぱたぱたとアホみたいに涙をこぼした。
俺が無抵抗になったのを見て、ようやく将聖は俺を地面に立たせた。
「レニオラ。悪いけど、こいつ頼む。」
将聖は俺の肩をつかんでレニオラのほうへ押しやった。
何を物の分かった、兄貴みたいな声出してやがる。
急に憤りが込み上げてきたが、レニオラも「そうね。連れて行くわ」と落ち着いた声で答え、「さ、もう行きましょう?」と俺の手を取ろうとしたので、ますます俺は憤慨した。
結局、ガキなのは俺だけかよ。
俺は思った。レニオラも将聖もちゃんと大人の対応ができるのに、俺だけが一人、癇癪を起して泣き喚いている。
俺はレニオラから手を引っ込めると、腕を振り回して将聖の手を振り払った。
もうたくさんだ。やってられるか。
俺は「お祖母ちゃんの服」の袖でぐいっと目を拭った。
俺は少し離れたところに置きっぱなしにしていた籠をぐいっと肩に担ぐと、レニオラもリーシャも置き去りに、ぐんぐん歩き始めた。先ほどまでレニオラと二人掛かりで運んでいた荷物が肩に食い込んだが、俺は意地でも歩調を緩めたくはなかった。
「ちょ、ちょっと待ってよ、ユーク!」
レニオラの声が追いかけてくる。
しっかり拭ったはずなのに、俺の顎からぽつりと水滴が落ちた。それはすぐに壊れた蛇口のようになって、俺の服の胸元を濡らした。
夕方、手早く自分の仕事を済ませると、俺はマチアさんにことわってから神殿へと走った。基本的な炊事の方法を教わっていた頃は俺も夕食の支度を手伝っていたのだが、今はライナルさんの店でも働いていたし、レニオラやリーシャもいて台所がいっぱいになってしまうので、夕方の水汲みを終えたら、そのあとの時間は自由にしてもいいことになっていたのである。
特に今日は、俺はレニオラともリーシャとも口を利かないまま午後を過ごしていた。二人と仲直りするには、俺にはもう少し時間が必要だった。
イザナリアの人々は、神殿の鐘の音を時計代わりに生活している。メドーシェン市も同様で、食事も「御前様」こと神官長のギルフォン様や、「富澤先生」こと神官のレドナス様たちが摂る時間に合わせて食べることになっていた。だから夕餐の鐘が鳴るころに帰宅すれば、俺がハノスさんたちに迷惑をかけることはない。
その短いひと時の間、俺は神殿でイザナリアの文字を勉強して過ごしていた。『勇者アイダに関する覚書』という書物を読解するためだった。
「大陸の盾」として、生涯最後の砦を守り抜く。
これは勇者だった相田さんが、一族に託した遺言とされている。だが俺も将聖も、最初にハノスさんから聞かされた時から、この言葉の意味が気になっていた。
聞こえはいい。まるで騎士か王子様の忠誠の誓いのようだ。
だがそれは、ひとたび大陸が魔物の脅威に襲われたなら、一族が最後の一人までウィクタ・ノファダに留まり、魔物と戦い続けるという意味にも取れてしまう。いや、実際そういう意味だったのかもしれないが、ウィクタ・ノファダのハイランダー族は、本当にそんなことをフォーリミナに誓ったのだろうか、というのが俺たちの疑問なのだった。
しかもそれは、勇者である相田さんが命じたことなのか?
そんなことを一族全体に命じたとすれば、あまりにも度が過ぎるという気がする。相田さんは、老人や子供、体の弱い戦闘不能な人々にまで徒に命を捨てさせることを望んだということなのだろうか。だからウィクタ・ノファダは壊滅してしまったのか? いくら自分の子孫であろうと、勇者がその一族に、まるで集団自決を強いるような命令を下すなどあろうはずがない、と俺たちは思っていた。
相田さんはフォーリミナが選んだ勇者なのだ。しかも、地球世界の日本から来た転生者が、そんなことを望むはずがない。
だが、俺たちも確信は持てなかった。国民精神総動員の時代に生まれた狂信的な愛国者ということだってあり得る。「進め、一億火の玉だ」とばかりに、一族すべてが一丸となって破滅の道へ突き進むことを望んだのかもしれないのだ。
俺たちは相田さんの意図が知りたかった。しかし、将聖がフォーリミナから教えられたイザナリアの予備知識の中にも、相田さんのことはおろか、「女神への誓い」や「大鷲の一族」といった言葉さえ含まれていなかったのだそうだ。だから俺たちは依然として、それらについて何一つ知らないままでいる。その「大鷲の一族」というのが俺たちの出自ということになっているから、誰かに質問することさえ安易にはできないのだ。
だから、メドーシェン神殿の書庫に『勇者アイダに関する覚書』の写本が所蔵されているのを知ったとき、俺たちはすぐ、その内容を調べさせてほしいとギルフォン様に願い出たのだった。
『覚書』はイザナリアの人間族文字で書かれている。魔王を倒した後、ハイランダー族の生き方に魅せられてその地へ去ったという相田さんは、自身の手で手記を残さなかったからだ。相田さんの記録は一緒に戦った人間族の仲間によって書かれ、『覚書』として残されたが、そのため俺たちには読むことができず、当初はレドナス様に読み上げてもらうくらいしか内容を知る手立てがなかった。
だが、ただ聞いているだけでは細かなニュアンスまではつかみきれなかったし、神官としての務めに忙しいレドナス様を長時間、俺たちの個人的な興味関心につき合わせるわけにもいかなかった。だから今は、「神聖文字」と人間族文字の対訳になっているほかの書物を参考にしながら、自力で読み進める方法を採っている。
今のところ、俺たちが知り得たのは魔王討伐に協力した当時の領主や騎士たちから見た相田さんの人柄や行状と、戦いの経過についてのひどく大雑把な記録だけだった。文章自体が国語の教科書に載っている古文の抜粋のようで、主語が曖昧だったり、一文が長すぎて何が言いたいのか分からなかったりする。主観を口語で散文的にまとめたものでしかないため、正直なところ、俺にはこの『覚書』から相田さん本人の思いまでつかみ取る自信はなかった。
だが、それでも諦めることはできなかった。将聖があんな目に遭っているなら、なおさらだ。
――昼間見たあの光景はおそらく、将聖にとっては初めてのことではないのだろう。
午後中ずっと誰とも口を利かずにいて、ようやく、俺はそのことに思い至った。
将聖の受け取る賃金が低いのは、仕事に慣れていないとか、種族が違うとか、まだ若い上に頼れる身寄りもいないため、足元を見られているせいだろうとばかり思っていた。俺は「いつか将聖が仕事に慣れて、どんな人間か理解もされれば、待遇だって改善されるさ」などと暢気に考えていたのだが、そんな生易しいものではなかったのだ。
――まるで赤穂浪士の寺坂信行か、白虎隊士の飯沼貞吉だな。
俺は思った。俺と将聖はこの二人と同じ、「生き残った」という罪で断罪され、蔑まれることになった重罪人らしい。
だが、生き残りたくて生き残ったわけでもないこの二人とは違い、俺自身には誰かを裏切った後ろめたさなどあろうはずもなかった。俺も将聖も相田さんの子孫ではないし、申し訳ないが、亡くなった人々の顔さえも知らないのだ。
むしろ俺は、将聖に対して、自分自身が情けなかった。
――あのクソ野郎。俺にずっと黙っていやがって。
おそらく将聖は、この「裏切り者」扱いで、俺が知るよりもはるかに多くの差別に遭い、嫌がらせを受けてきたはずなのだ。
それに今日、あいつはカルヒクに金を渡していた。あれは俺をかばうためだった。いくら俺が大馬鹿野郎でも、それくらいは分かる。カルヒクの野郎が俺を出汁に何かゲスなことを言い、それに青ざめた将聖は、金を置いて去ったのだ。
答えが欲しい。
俺は『覚書』に必死に目を走らせた。
何か、将聖の立場が救われる答えが欲しい。
――だが、それを俺に見つけられるだろうか。
俺たちにとって慰めになったのは、相田さんに関する伝承が、実際の記録とは異なっている場合があるということくらいだった。ハノスさんは相田さんのことを「大鷲の一族の出身者」と言っていたが、実際の相田さんは人間族として転生していた。ハイランダー族に帰化し、その一族の女性と結婚したので、後世に背が低く耳の丸い子供たちが残ったのだ。
「今日もご精が出ますね、姫。」
声をかけられて、俺は振り返った。閲覧室の入り口に、神官のレドナス様が笑顔で立っていた。
「ずいぶん真剣に目を通しておられるので、しばらく声をかけられませんでしたよ。」
「ご、ご挨拶もせず失礼しました。」
俺は急いで椅子から立ち上がり、お辞儀を返した。敬虔な女神の信者であるハノスさんの手前、ギルフォン様やレドナス様に対して疎かな態度はとれなかったからだった。まして、俺よりもずっと年上のはずのこの神殿の聖職者たちは、神殿で行われる特別な行事には必ず俺と将聖を招待するうえに、二人とも常に敬語と最敬礼で俺に接してくるのである。ピグマリオン効果とでも言おうか、俺を貴婦人と信じて疑わない好々爺然としたギルフォン様と、時折見え隠れするボロに目聡く気づきながらも、素知らぬ振りをしている(ように見える)レドナス様から受けるプレッシャーは半端なく、俺は(マチアさんからの指導も受けながら)神殿でお嬢様な作法をせっせと磨く羽目になっていた。
両手を胸の上で重ね合わせながら頭を垂れるイザナリア式の女性のお辞儀も、メドーシェン市に来て最初に参加した祈りの集会の日に覚えてしまったものだ。隣でレニオラがしているのを完コピしただけだが、あの時全身から噴き出した汗と震えあがるような感覚は、今でも忘れようがない。
「もう夕餐の鐘は鳴らしました。帰らなくてもいいのですか?」
「あ…。」
全然気づかなかった。早く帰らなければ、ハノスさんを迎えに来させることになってしまい、迷惑をかけることになる。急いで写本を片付けようとしたが、レドナス様が「どうぞそのままで。私がしまっておきましょう」と言ったので、俺は自分で持参したちびた蝋燭だけを吹き消して握り、足早に廊下へ出た。
レドナス様はそのまま、神殿の入り口まで出てきて俺を見送った。夕食時とはいえまだ市内にはわずかな人通りもあり、神殿とハノスさんの家はさほど離れてもいなかったが、夕刻の女の一人歩きは、イザナリアではあまり好ましいとはされていないからだ。
本当なら、俺はここからハノスさんの家まで、一直線に走って帰るべきだった。レドナス様はきっとしばらくの間、俺が無事に帰りつくことを確認するために、戸口に立ったまま耳を澄ませていることだろうし、その間、ギルフォン様も食事を摂らず、レドナス様が席に着くのを待っているはずだからだ。
だが、俺はレドナス様を見上げると、その時胸につかえていた疑問を口に出していた。
「その、レドナス様は、どう思われますか? …わたしと将聖が、ウィクタ・ノファダを出たことを。」
レドナス様は笑顔のまま、どういう意味かと問うように首を傾げて見せた。確かに突飛な質問だ。きちんと説明しなければと思いながらも、俺は先を急ぐように質問を重ねた。
「正しいことだと思われますか?」
ああ、というようにレドナス様は頷いた。この神殿の神官たちは、ほとんど外出もしないくせに、市内で起こったことをよく知っている。昼間将聖がカルヒクに絡まれたことや、その理由についても、レドナス様はすでに街の人たちから聞き知っているようだった。
「いずれ、アイダ様の本心が分かる時も来るでしょう。」
レドナス様はそう言った。
「でも、私は、お二人が生きていてくださって嬉しいと思いますよ。」
その夜も、将聖の帰りは遅かった。マチアさんの許可はもらっていたので、俺は勝手口から靴を履いたままの将聖を迎え入れると、俺たちしかいない台所の中で着替えさせた。春が近いというのに外は吹雪いてきており、将聖の体が冷え切っていることは分かっていたからだ。
将聖は壁に作り付けになったベンチの上に、疲れ切った様子で座り込んだ。俺は黙って将聖に足湯を使わせた。昼間の件でまだ不貞腐れた気分だったので、明るく振る舞うことなどできなかったのだ。だが、疲れ切った将聖から汚れ物を受け取ったり、乾いたばかりの着替えを渡してやったりするのはまた別の話だった。あんな辛い思いをしてまで俺の飯代のために働く将聖を、ちゃんと出迎えて休ませることは俺の義務ですらある。
俺はこいつの口に早く温かいものを入れてやりたくて、多めにルカ桃酒を入れた薬草茶の茶碗を差し出した。将聖はごにょごにょと、口の中で礼の言葉のようなものをつぶやいたが、俺はそれをガン無視した。とにかく、今は会話をしたい気分ではなかった。
今日縫い上がったばかりの新しい靴下をその胸に押し付け、頭の上にタオル代わりの麻布をバサリと被せる。靴下に目を注いだまま、身動ぎさえしない将聖を置き去りに、顔をそむけたまま俺は立ち上がった。
将聖が引き留めるように俺の腕をつかんだので、俺は驚いた。昼間のような場合はともかく、普段の将聖は、この体になってからの俺に触れることを極力避けていたからだ。
「…お前さ、本当に良かったのか?」
ぽつりと将聖がつぶやいた。
――どういう意味だ?
俺は黙ったまま将聖を睨み返した。昼間の件なら、俺の不満が爆発寸前であることは、こいつもよく知っているはずなのに。
「転生して、良かったって思っているか?」
胡乱げな俺の目つきをまっすぐに見返して、将聖は言った。多分俺には一生できないだろう、澄んだ悲しい眼差しだった。
俺はその場に立ち尽くした。
「イザナリアに来てからこっち、お前、働き詰めだろ。」
将聖の声はわずかに震えていた。
「こんな苦労させるために連れてきたわけじゃないのに、俺の世話ばっかりさせているし。俺がまともな稼ぎもできねえから、外でまで働かせているだろ。結局俺、お前のこと利用しちゃってるよな。俺が使えねえ奴だから、しわ寄せが全部そっちに行っちゃって…。ごめん。いろいろやらせちゃって。」
俺はとっさに声が出なかった。
働き詰めなのは将聖のほうだ。どうしてそれに気づかないのだろう。こいつには「自分を労わる」という気持ちはないのだろうか。
「それは俺の台詞だろが。」
ようやく俺の唇が動いた。あんまり驚いたせいで俺の声は裏返っていた。
「俺の生活費稼いでるのはお前だろ。俺だって、お前に苦労させてるだろが。」
「いや、それは自分のためだし。…お前にまで働かせたり、俺の世話焼かせたりするつもりはなかった。」
将聖は言った。その生真面目な口調に、こいつが本気でそう思っていたことが察せられた。
俺は先刻までの将聖への怒りを失いたくなくて、必死に腹の中を探った。だがその時にはもう、それはどこかへ霧散してしまっていた。
しれっとしてこいつは、すごいこと言うよな。
涙を見せたくない俺は、今のこの状況を何とか冗談にしてしまおうと、心の中でつぶやいた。すでにまた、喉の奥に塊がつかえ始めていた。
こいつ、俺の命を救っただけでなく、王宮にでも住まわせるつもりでいたんだろうか。
「は? 何だよそれ。イザナリア来てからお前が働くのは当然で、俺が働くのは別って何?」
俺は大声で言った。腹に力を込めないと、簡単に声がかすれてしまいそうだった。
「だってお前は、俺の母ちゃんでも姉ちゃんでもないのにさ…。」
「お前だって、俺の親父でも兄貴でもねえだろがっ。」
俺は手を伸ばして、将聖の髪をぐしゃぐしゃにした。
「将聖君。お前昭和の生まれなの? 男は外で働いて、女はうちにいなくちゃダメって、そんなシャンソン歌手みたいなことまだ言ってるの?」
「…もしかして、それ『男尊女卑』のこと?」
将聖がぐっと喉を鳴らしてから、はにかむような声を出した。俺にぐりぐりと頭を撫でられたせいだろうか、中学生みたいな声になっている。
「うっせーわっ。いらん突っ込み入れんじゃねえ!」
俺が唸ると、将聖は「困ったな」という苦笑いを小さく浮かべた。突っ込まなかったら突っ込まなかったで「ちゃんと突っ込めよっ。大怪我すんだろがっ」と言ってやるつもりでいたので、将聖もそれに気づいていたのかもしれない。
「イテテテ。痛えよ、優希っ。ちょっと待て!」
「へへへへーん。シャンソン野郎。ちったあ反省しな。」
かいぐりついでに将聖にヘッドロックをかけながら、俺は密かに先刻の動揺を腹の中に飲み込んでいた。
――将聖が俺に感じている負い目が、こんなにも重かったとは。
俺だって、将聖を一人外で働かせるのは辛かった。だから気持ちは分かる。だが将聖は、俺が働く姿に引け目以上のものを感じて、苦しんでさえいるように見えた。
どうしてこう、一人で背負い込もうとするかなあ。
俺は呆れたが、すぐにそれが将聖なのだと思い返した。そういえば、こいつが地殻変動とマグマの熱によって形成された変成岩並みの義理堅さを持った男だということを、ついうっかり忘れてしまっていた。この俺でさえ、他人の世話になりっぱなしで生きるのは嫌なのだ。ましてやこの将聖が、イザナリアへの転生に無理矢理俺を巻き込んだ挙句、勝ち組には程遠い生活をさせて何も感じないなど、あり得るわけがない。
クソったれが。いつも変なことばかり考えやがって。
急に俺はどうしても、こいつを笑わせたくなった。もう暗い表情ばかりしているこいつの面は見たくない。俺はようやく将聖を開放すると、にんまりと質の悪い笑みを浮かべてその顔を見た。
「でも、良かったわ。お前、俺に使用済みの下着洗わせてること、ちゃんと気にしてくれていたんだな。」
「え?」
「まあ、変な染みがついていたりしたら『自分で洗え』って突き返してやるつもりだったけどさ。」
今度は将聖が絶句する番だった。俺はわざと意味深な目でたっぷりと睨んでやった。将聖はしばらく口をパクパクさせていたが、「何チェックしてんだよっ!」と真っ赤になってつかみかかってきたので、内心俺は小躍りした。
俺はスローモーションの右フックで応戦し、将聖のブロッキングから打ち込んできたジャブをパーリングして、フットワークで距離を取った。しばらくは互いに緩慢なジャブとストレートを打ち合って、「ば、し、いいいっ」とか「ど、ご、おおおっ」といった口から発せられる奇妙な効果音が台所にこだましていたが、最後は将聖からの右のアッパーをまともに食らって、俺は大きくのけぞり返った。
「きらりーん。」
「…どこまで飛んでいく気だよ。」
「成層圏。帰ってきたら、キャッチしてくれ。」
「できるか。死ぬわ。」
俺は噴き出した。つられたように、将聖も笑った。将聖の笑い声を聞くのは、いつ以来だったろう。こんなやり取りは本当に久しぶりだった。
俺は将聖の隣にどさりと座り込み、弾む息を整えた。
「あのさ、将聖。」
「うん?」
「…今日は、ごめん。」
「…いいよ、もう。」
「良くない。俺のせいだろ? お前があいつらに金を渡したの。」
「…。」
将聖は何も言わずに俯いたが、それだけで俺には十分な答えになっていた。俺も俯いたままもう一つの質問を口にしたが、口の中がカラカラになってうまく舌が動かなかった。
「…荷主さんに、お前が代わりに弁償しろとか、言われなかったか?」
「ああ、それなんだけど…。」
将聖の口調が柔らかくなった。
「荷主のガイゼさんが文句を言いに行ったら、すぐに全額払ってもらえたみたいだよ。あちらさんが言うには、何か不都合があったら困るから、直接渡したかったんだと。」
「ふざけやがって。」
俺は吐き捨てたが、まあまあ、と言うように、将聖は俺の頭をぽんぽんと叩いた。
「何にせよ、良かっただろ。俺の給料もちゃんと払ってもらえたし。」
「良くねーよ。こんなアザこさえてるくせに。」
俺が手を伸ばすと、一瞬将聖はびくりと頬を震わせたが、目を閉じて俺が触れるに任せた。
将聖の右の頬骨のあたりと、左の下唇が裂けている。血はすでに止まっていたがどちらも痛々しく、熱を持って腫れ上がっていた。
俺はじっと将聖の顔を見た。ハノスさん一家はみなそれぞれの寝室に引っ込んでしまったので、これ以上暖炉に新しい薪をくべることはできない。燃え落ちる寸前の最後の薪炉火の明かりの中で、将聖の横顔は人を超えた何かの彫像のようだった。
「…俺、このままメドーシェンでは暮らしていけないかもな。」
ふと、目を閉じたまま将聖が言った。
「俺はこんな外見だから、どこに行っても同じかもしれないけど。でもウィクタ・ノファダから来たことになってる話を知らない土地に行けば、もう少し何とかなるかもしれない。」
「…メドーシェンから離れたいのか?」
「分からない。メドーシェンにいたから食べてこられたのかもしれないだろ。余所へ行ったら飢え死にするかもしれない。でも、それってさ…。」
「ハノスさんが食べさせてくれたからだよな。」
俺は頷いた。今の将聖の気持ちは、俺にもよく分かった。
「ハノスさんには食べさせてもらって、こうして屋根の下で暮らさせてもらって、俺が仕事をもらえるように、あちこち声掛けまでしてもらって…。感謝してもしきれない。このままただ出て行くなんて、できない。許されない気がする。何とかして返したい、何とかしてお礼したいってずっとずっと思ってるんだけど…。」
「うん。俺も、マチアさんやレニオラや、リーシャにも、すごく良くしてもらってる。良くしてもらい過ぎて、なんだか辛い。」
「…うん。」
ごくりとつばを飲み込んでから、将聖は言葉を続けた。
「でもさ、俺は、このまま行ったらずっとハノスさん家のお荷物だよな。」
将聖は目を開くと、天井を見上げた。何度も瞬きをしている。かすれた声が震えるのを、こいつは隠すことができなかった。
「出ていくべきなんだろうな、とは思う。だけど何の礼もしないで、どんな顔して『俺は余所へ行きます』って言えばいいんだろうな。俺全然分かんねえわ。」
「将聖。なんなら、夜逃げしようぜ。」
俺は言った。
「もし本当にダメだと思ったらさ、有り金全部おいて、夜逃げしよう。そしたら俺ら、もう自由民にはなれないけど、乞食でも旅芸人でもやって生きりゃいい。俺はどこかでギターかっぱらってきて弾くからさ、お前、歌って踊ってバク転しろよ。ユニット名は『空色クローバーM』!」
親切な俺は「M」と言いながらウッキーポーズをして見せた。もちろんこのMは「おサル」のMである。
将聖は俺の顔をじっと見た。結構長いこと、じっと見ていた。
それから、くすくす笑いだした。
「あ、有り金全部おいてってお前…。」
「え、そこ?」
思わず声が大きくなってしまった。「空色クローバーM」は会心のギャグのつもりだったのに。
「いやあ、お前、すげえ男前だと思ってさ。俺今ちょっと、カウント取られたわ。」
「だ、だって、それ相応に世話にはなったろ。」
俺は言い返したが、しどろもどろの弁解になってしまった。やばい。カッコつけすぎたか。将聖のくすくす笑いが大きくなった。
「うん。そうだな。ありがと、優希。」
まあいいか。俺は思った。将聖にまた笑顔が戻ってきたのなら、それでいい。してやったりと俺もドヤ顔になった。
「分かってくれたかー、将聖。」
「うん、分かった。もし、本当にダメだと思ったら、二人で夜逃げしよう。これ以上迷惑かけるより、そのほうがいいかもしれない。」
「な。悪くないだろ?」
「…うん。…でもさ、もう少し頑張ってみる。俺、もう少し頑張ってみるから…。」
また俯き加減になって、将聖は言った。自信のなさそうな、躊躇いがちな声の裏に、頑固な意地が滲んでいる。
やはり、そう来るか。
予想を裏切らない将聖の答えに、俺は笑顔のまま小さく溜息をついた。
「うん。お前、将聖だもんな。」
俺はそう言って、喝を入れるためにその頬にこぶしをグリグリと押し付けてやった。
こいつは真面目過ぎてすぐに落ち込むが、不屈の闘志で再び立ち上がる男でもある。
立ち上がれ、立ち上がれ。
俺は顔が勝手ににやついていくのを抑えることができなかった。
立て。何度リングに沈められても、また立つんだ、ジョー。
将聖は俺のこぶしを笑顔で受けて、「ふぐぉっ」と言いながら顔を歪めてみせた。片目を閉じたり鼻にしわを寄せたりして、無理矢理崩壊した顔面を作ろうとする。
「『ふぐぉっ』じゃねえだろ、『ひでぶっ』だろ。」
俺が言うと、将聖は声も出さずに腹を揺すった。
…そして、突然片手で顔を覆うと、もう一方の手で俺を力一杯抱き締めた。
俺は心底びっくりして、茫然とされるがままになっていた。
将聖が泣いている。将聖が泣くところは何度も見た。イザナリアに来たばかりの時は、もっと大泣きしていた。ヒステリックにギャン泣きしているところも見た。だから慣れているはずなのに、まるで初めて見たような衝撃を受けた。
こいつには、俺がついていてやらなきゃ。
そんな風に思ったのは初めてだった。いつも俺より大人なはずの将聖の、無防備な部分が泣いている。
俺は将聖の背中に腕を回した。男同士の抱擁は恥ずかしかったが、今なら許されると思った。将聖の腕の力があまりにも強すぎて、体が軋みそうなほど痛かったが、俺たちはしばらくそのまま、何も言わずに抱き合っていた。
(※1: 地球世界の三月。ジェンタクスは騎士の守護聖人。)