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俺たちは勇者じゃない  作者: 陶子
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012_焦燥

霜暦九七六九年 皇帝ルドリオンの月(※1)


「ユーク! そんなに無理しないで! ユークったら!」

 レニオラの声が追いかけてきた。俺はセロト芋の籠を食堂の裏口まで運び、厨房の戸口に静かに下ろしてから振り返った。

「大丈夫だよ。大分体も慣れてきたし。」

 俺は肩で息をしながらも、レニオラに笑いかけた。レニオラは俺が運んできたものよりも、さらに大きな籠に葉物野菜や根菜類を山積みにして、後を追いかけてくる。

 いつもなら、俺はリーシャと水汲みに行っていた頃合いだった。この食堂への道中も、水桶を下げて井戸へ向かう近所のかみさん数人とすれ違っている。

 だが、徐々に体が力仕事に慣れてきたのと、昨夜からの雪が結構な量となって降り積もり、足場が悪くてレニオラの負担が大きそうだったため、今日の俺は野菜運びを手伝うことにしたのだった。

 今朝のイザナリアは深い雪に覆われていた。

 今が一年で一番冷え込みの厳しい季節だという。俺は川面すら凍るような寒波を体験したことがなかった。畑から持ってきた野菜も、しっかりと包んで外気から守り、大急ぎで運ばなければ、途中で凍り付いてしまうような気温なのだ。

 ハウスもないイザナリアのこの時期に、店に卸せる野菜などなさそうに思えるのだが、芋類や人参そっくりのオレコという根菜は、収穫してから畑の端にある小屋の中に収納して土をかぶせておけば、春まで保存が可能なのだという。園芸農家のハノスさんは、そういった長く保存のきく野菜を主に育てて、仕入れに気を遣う食堂から信頼されていた。一方で白菜に似た小ぶりのワイモルや、生のままで食べられる葉物野菜のルリフダーナは、うまくやればこんな時期でも収穫が可能で、ハノスさんはそういった季節野菜も栽培して卸している。

 ハノスさんは魔石を使った園芸農業が得意なのだ。

「レニオラこそ、大丈夫か?」

 俺は痛む手のひらをさすりながら声をかけた。ただでさえ荷物が多いのに、雪がスカートの裾に張り付いて、レニオラはなかなか食堂にたどり着くことができずにいたのだ。俺は引き返し、野菜籠の片方の持ち手を受け取って、二人で最後の坂道を登り切った。

「ありがとう、ユーク。」

 レニオラが、両手を膝について肩で息をしながらも、笑顔で俺を見上げた。まだ降り続く雪が解けて、その額に髪の毛が張り付いている。俺の額にも汗と雪が混じりあい、前髪が張り付いていた。俺が手の甲で乱暴に拭うと、レニオラは「そうやって、いつも泥だらけにしちゃうのよね」と笑いながら、エプロンの端で俺の額をこすってくれた。

 俺は、レニオラの笑顔は世界最強だと思っている。その瞳には、星か、あるいは太陽の光が閉じ込められているんじゃないかと本気で疑ってしまうくらいだ。将聖とも違う青い瞳が、いつも明るくきらめいている。日本にいた頃街で見かけた女の子のような、手入れの行き届いたなめらかな指や爪でもなければ、洗練された服装でもない。それでもこんなに可愛い女の子と、俺は今まで会ったことがなかった。

「おはよう、お嬢さんたち。二人ともご苦労様。」

「おはようございます。」

 ようやく荷を厨房の中へ運び込むと、食堂の店主、ライナルさんの奥さんのミアさんが声をかけてきた。ライナルさんご自慢の、きっぷのいい金髪美人である。

「ユーク。あんたも今日はおろしの手伝いかい?」

「はい。今日は雪が深いので、水汲みよりも先に、こっちを手伝ったほうがいいかと思いまして。」

 俺はミアさんが座れるように、椅子を引き出しながら答えた。ミアさんは二か月後にお産を控えているのだ。今も膨らみの目立つ腹を支えるように、両手を当てて押さえている。

「じゃあ、この後は市場のほうへも行くのかしら?」

「いえ、リーシャが一人で水汲みをしているので、もう行かないと…。でも、何か御用があるなら伺いますが。」

「あら、特に用事はないけれど…。ただ今日は市場に旅芸人の一座が来ているみたいよ。後であんたも見てきたら?」

「ありがとうございます。時間があったら、行くつもりです。」

 俺はミアさんに挨拶をして、厨房の外へ出た。

「もう少し休んでいったら?」

 食堂を後にしようとする俺に、市場へ行くレニオラが声をかけた。まださまざまな仕事に慣れず、すぐに疲れてしまう俺を気遣ってのことだろう。

「平気だって。それに、こんな寒い朝に一人で行かせるのは、リーシャが可哀想だ。」

「そう。でも、あんまり無理しないでね。」

「分かった。」

 俺はまだ雪が踏み固められていない食堂の裏道から、レニオラに軽く手を振った。

 俺が家にたどり着いてみると、リーシャが水桶から台所の大甕おおがめに水を移し替えているところだった。

「リーシャ。もうこんなに汲んじまったのか。」

「ユーク! 一人でできたのに!」

 大甕おおがめをいっぱいにするのに、リーシャは家と井戸の間を数往復する。今朝は新雪で足元が悪いため、時間がかかると思っていたのだが、予想以上に頑張っていたようだ。

「あと二往復くらいだな。俺が行く。リーシャは床を掃除してろよ。」

「ユークが掃除しなよ。水は冷たいよ。」

「なら、なおさら俺が行かなきゃな。リーシャはもう十分頑張ったんだから。」

 俺が水桶を受け取り、「真っ赤だぞ」と鼻先を軽くつまむと、リーシャは声を上げて笑い、「いってらっしゃい」と俺に手を振ってくれた。

 俺はしんしんと降る雪に向かい、サビの部分しか知らない冬のヒット・ソングを歌いながら井戸まで歩いた。俺にとって、井戸への往復はいつの間にか短い距離になっていた。わずかずつではあるが、自分の体がイザナリアの空気に馴染んできているのを感じる。目に見えるほどではないが、徐々に労働筋ろうどうきんが育ってきているという実感も生まれていた。



 俺は今、ライナルさんの食堂で働いている。主な仕事は調理する野菜の下準備だった。

 ライナルさんの食堂は、労働者向けの軽食が売りである。普段は昼飯時に店の前のテラスに屋台を出し、一皿で肉も野菜も炭水化物も摂取できるような、パスタの入った煮込み料理や一種のラップサンドなどを売っていた。店の評判は上々で、一番の人気商品、香料をたっぷり効かせたタコミートのような具入りのラップサンドなどは、屋台の店頭に並べた直後には売り切れてしまうほどだ。

 夕方からは店内に客を入れて料理の品数を増やし、食事に酒も出していた。冒険者がたむろしていてもおかしくないような、地元になくてはならない店といった風情で、いつも常連客で賑わっている。

 俺の仕事は、遅くまで店を開けて働いているライナルさんが起きだしてくる時間までに、野菜の下準備を終えておくことだった。早朝から午前の中頃までの数時間ほどで、さほど過酷な労働でもない。

 ただし俺がもらっている給料は、ほんの雀の涙ほどだった。「最低賃金」などという基準が法で定められているわけではないイザナリアでも「相場」というものは存在する。それと引き比べても低い部類に入るのだ。

「本当に、こんな薄給でいいわけ? うちは低賃金でも遠慮なくこき使うわよ。」

「え? え、えーっとですね…。」

 自分で持ち掛けておきながら、ミアさんが呆れたような表情かおをしていたのを覚えている。何と答えたらいいか分からなくて、俺は作り笑いするしかなかった。

「雇ってもらえるだけでありがたいです。俺、ちゃんと役に立てるかどうか分からないんで…。」

「大丈夫よ。うちで一日働けば、セロト芋の皮剥きの達人になれるわ。」

 ミアさんはきっぱりと請け合ってくれ、その瞬間、俺は自分の選択は間違っていたんじゃなかろうかと深く深く自問した。

「働きます。」

 それでも、俺はミアさんのそう答えていた。ようやく覚えたばかりのこの包丁さばきで雇ってくれるような就業先があること自体が奇跡のようだったからだ。出産を控えて安月給でも喜んで働いてくれる従業員を探していたミアさんと俺の双方の利害が一致して、俺の就職は実現したのである。

 その低賃金には理由があることも、俺は知っていた。

 メドーシェン市には、将聖のほかにも日雇いで働いている貧しい労働者が大勢いる。ハノスさんに迎え入れてもらった俺たちはかなり恵まれているほうだが、そんな労働者の中には、日々の食事を満足に摂ることさえ難しい者もいた。ライナルさんはそんな人々に向けて、可能な限り安い金額で料理を提供し続けているのである。

 もしハノスさんに出会っていなかったなら、俺や将聖も常連になっていたかもしれない。

 そんな食堂だけに、将聖には済まないと思いながらも、さすがに「もう少し給料を上げてくれ」と俺は口に出すことができなかったのだ。

 それにライナルさんもミアさんも、長く店に野菜を卸しているハノスさんの家に余所者の居候いそうろうが転がり込んでいることや、その居候がまだ満足に裁縫もできないくせに、外に仕事を探しているということを聞き知っていたのだろうと思う。「何とかしてやりたい」という気持ちからの申し出であることも、何となく感じ取れた。実際、早く仕事に慣れるようにと、ミアさんがまだ動けるうちから働かせてもらっている。慣れない作業を言いつけられてはどやされている将聖と比べても、格段に好待遇だろう。

 この厚意に応えなければ男じゃない。

 そう思っている。

 だが今のところ、俺はセロト芋の皮をむくだけで精一杯だった。今はミアさんも働いているので問題ないが、ミアさんが出産のため店で働けなくなる前に、もう少し作業効率を上げる必要があるだろう。

 そんなわけで、俺はこのところ、目が回るほど忙しい日々を送っていた。

 俺の毎日の仕事はこればかりではない。水汲みもあるし、店の仕事が終わったらリーシャと二人で森へ粗朶そだ集めにも行かなければならなかった。まきは値段が高いので、さほど雪が深くないうちは、どこの家でも森で集めた粗朶をその代用品として使っているのである。

 この季節の粗朶集めは、日が高いうちに済ませておく必要があった。雪の重みで折れた枝は簡単に見つかるが、冬の天気は変わりやすく、地面が凍り付いて魔物が現れてもすぐには逃げられないため、日の高い数時間しか森へは入れなかったからだ。

 いったん家に戻って昼食をとった後は、レニオラと川へ洗濯に行ったり、マチアさんの料理の手伝いをしたりして過ごす。そういう仕事の合間に、自分や将聖の下着や靴下を縫ったりもしている。

 最近の俺は、マチアさんに教わりながら、少し手のかかる方法で将聖の上着を縫っていた。将聖と俺の二人分の制服をほどいて、将聖が着る一着の上着へと仕立て直していたのである。一応将聖の制服はその持ち主の体にちゃんと合っていたのだが、そのかっちりとした肩や細い袖は、肉体労働向きではないためだった。とても良い生地なので、長持ちするよう丁寧に仕上げたほうがいいだろうという勧めに従い、俺はこのところ、時間さえあれば裁縫にかかりきりだった。

 こんなに忙しい日々を、俺は経験したことがなかった。昼間も時間が短く感じられるが、それは夜も同様なのだ。ベッドにもぐり込んで目を閉じると、もう翌朝になっている。

 それでも働くことは楽しく、充実感があった。

 ――ようやく、俺も外で働けるようになったんだ…。

 それがどんなに嬉しいことか、言葉ではとても言い表せない。賃金は低いが、将聖一人に働かせていた頃の悔しさや自己嫌悪は数段減少していた。

 今朝はレニオラだって、喜んでいたよな?

 俺の頬が勝手ににやけた。水を汲む手をいったん止め、かじかむ指先に息を吹きかけると、白い湯気が周囲に大きく広がって消えていく。

 レニオラが俺にしてくれていることを思うと、まだまだ何も返せていない気がする。でもいつかきっと、俺もレニオラやマチアさんたちのために何かできる日が来るはずだ。

 いつか、必ず。

 俺は願わずにはいられなかった。

 ほんの数日のつもりだった居候生活も、始まってからもうだいぶ長く経つ。ハノスさんもマチアさんも、森の中で出会ったあの日からこちら、まったく変わらない親切さで俺たちに接してくれてはいるが、いつまでもそれに甘えてはいられないと思うのは、将聖一人だけではない。

 だが、俺は今日、もう一つやりたいことがあった。

「実は今朝、将聖の上着が仕上がったんだ。」

 朝食の席で、俺は上ずった声を上げた。まだ日照時間の短い季節で、今の「早朝」とは空に星が見えるほど暗い時間帯だったが、この数日あまり、ハノスさんと将聖の弁当を作っているマチアさんに手伝わないことを詫びて、湯沸かしをしている竈の火の明かりを頼りに、俺はずっと裁縫をさせてもらっていたのである。

「だから、今日は店の下準備が終わったらさ、森に行く前に、旅芸人の見物に行きたいんだ。レニオラ、一緒に行かないか。リーシャも行くよな?」

「行く。行きたい!」

 リーシャが弾んだ声で答えた。

「なら、今日はあたしも食堂の手伝いに行くわ。」

 レニオラが言い出したので、俺は慌てて首を振った。

「いいよ。そんなつもりで誘ったんじゃ…。」

「いいから気にしないで。本当は今朝、父さんにも『今日くらいユークを市場見物に連れて行ってやれ』って言われていたの。少しお小遣いも貰っちゃったし、畑仕事の手伝いもお休みしていいって言われているし。せっかくだから、いろいろお店を覗いてみない?」

 マチアさんも頷いた。

「今日は年に一度のダナファティアさまのいちの日だから、綺麗な織物がたくさん出ているはずよ。みんなで見ていらっしゃい。粗朶集めも洗濯も、今日はお休みにしましょう。」

 イザナリアでは年に数回、聖人の記念日がある。ほぼ月に一度は必ずあって、その月の聖人にちなんでいることが多い。今月は建国記念日があるため「皇帝ルドリオンの月」とされているが、今日は紡績や織物職人の守護聖人ダナファティアの記念日となっているのだ。

「じゃあね、じゃあね、あたしはおうちのことやっておく! ケーコにはあたしが餌をやるし、ユークとショーセのベッドには、あたしが風を通しておくね!」

 リーシャが嬉しそうにそう宣言する。俺が口を開く前に、「ありがと。じゃ、よろしくね」とレニオラがリーシャの頭に手を置いたので、引き留めることもできなかった。

 もちろん嬉しかったが、俺は少しばかり複雑な気分だった。

 本当は、旅芸人見物に誘い出した後、もらったばかりの給料で何かおやつを買って、レニオラとリーシャにプレゼントするつもりだった。俺が二人をエスコートするつもりだったのに、気が付くと、俺のための日になってしまっていた。

 どうしたらこの人たちの親切に恩返しすることができるんだろう。

 俺の心がうずいた。

 いつか、ちゃんと返したい。言葉よりももっと、ずっと確かなもので、俺はハノスさん一家のこの恩に報いたかった。

 仕事に出かける支度をしながら、俺はもう一人、感謝しなければならない顔を思い出して溜息をついた。

「…あいつも市場に連れて行ってやりたいんだけどな。」

「ショーセのこと?」

 俺の口からぽつりとこぼれた言葉を、レニオラが拾い上げた。

「今日はどこで働いているんだっけ? 声、かけてみる?」

「いや。いいよ。俺はどうやったらあいつの仕事の手を止めさせて、市場に引っ張ってこられるか分からねえ。」

「…大丈夫よ。ショーセは旅芸人とか、あまり興味なさそうだし。」

 レニオラが慰めるように俺の腕に手を置いたので、だな、と俺は頷いた。

 だが、もっと気持ちに余裕があれば、将聖だって、俺たちと一緒に旅芸人や市場の様子を楽しむだろうと内心では思っていた。日本にいた頃から「俺、生まれ変わったらさむらいになりたい」などと言って、かなり禁欲的ストイックな生活を送ってはいたけれども、それでも将聖は夏の花火大会の見物には毎年欠かさず行っていたし、機会があれば地元のプロ野球チームの試合観戦にも行き、アクション映画も好きなら、文化祭や体育祭などの学校行事も喜んで参加するような、ごくごく普通の高校生だったからである。

 しかし今の将聖は、俺が知っている限り、初めてメドーシェン市に足を踏み入れた翌日から仕事探しに奔走し、早朝から夕方遅くまで働き詰めに働いている仕事中毒者ワーカホリックだった。「正月ぐらい休んだっていいだろうに」と俺が勧めた時も「仕事が来なくなると嫌だから」と言って譲らず、自警団の見回りに出かけて行った。これほど働いて、よく体を壊さないと思うほどだ。

 今日も将聖は、俺が起きたすぐ後には起床して、暗いうちから家を出ている。

 手に職を持っているわけではない将聖は、職人ギルドから仕事をもらうことができない。どこかに弟子入りしたら住み込みで技術を学ぶことはできるが、慣れるまで数年は給料がもらえなくなるので、将聖はそれを諦めている。…それは俺という存在を抱えているためだ。

 そんな将聖を雇ってくれるのは、たいてい羽振りのいい商人か大きな農地を持つ大農家で、最近は湖での氷の切り出しや、まだ凍り付いている畑への犂入れの仕事が多い。石垣の補修や麦踏むぎふみや、果物の圧搾あっさくといった仕事も、実地で学びながらなんとかこなしているようだった。

 農業経験のなかった将聖も、最近ようやく農具の使い方や畑仕事に慣れてきたと言っていた。あいつの両手はあかぎれと肉刺まめだらけで、全身の関節からきしんでいる音が聞こえてきそうなほど疲れ果て、汚れ切って帰ってくる。緯度の高いオリエディレン地方の屋外の寒気に一日中さらされているせいで、唇はひび割れ、耳たぶや足の指先はしもやけで赤く腫れあがっていた。

「ユーク。口を開けて。」

 突然レニオラが手を差し出してきた。指先に、白く粉を吹いたような平たいものをつまんでいる。

「ま、待ってくれ。」

 俺は手を出してそれを受け取った。レニオラは時々、朝市へ行ったついでに自分の小遣いでリカタロという果物の干したものを買ってきて、俺やリーシャにも食べさせてくれるのだ。干し柿と干しリンゴを足して二で割ったような味で、生でも美味いが干すと甘みが凝縮されて、俺たちのいいおやつになっている。

 俺は「ありがと」と言い、端を少し齧ってからポケットにしまった。「お祖母ばあちゃんの服」のポケットの中には、制服から切り取ったポケットの裏地を巾着に縫いなおしたものが入っている。レニオラには「内緒よ」と言われていたが、俺はいつももらった干しリカタロをその中に入れ、こっそり将聖にもとっておいていた。



「お邪魔します。」

「あら、今日はレニオラも手伝ってくれるの?」

「はい、ちょっとだけ。仕事が終わったらユークと市場に行きたいんです。連れて行ってもいいですよね?」

「なるほど。いいわよ。ちゃんと今日の分を終わらせてくれるんなら、いつ連れて行ったって構わないわ。」

「ありがとうございます!」

 レニオラはミアさんに声をかけると、上着を脱いで、エプロンの紐を結んだ。日本なら、早退のために家族や友人が職場に手伝いに来るなど受け入れてはもらえないことだと思うのだが、イザナリアではその辺りはとても融通が利く。俺もエプロンを着け、袖をまくり上げると、いつも使っている三脚の前にセロト芋の籠と皿洗い用のたらいを並べた。

「皮剥きは俺に任せてくれ。」

 俺はレニオラに言った。下準備の作業の中でも、セロト芋の皮剥きが一番面倒できつい仕事なのだ。セロト芋は癖のない味でぬめりもなく、地球世界アルウィンディアのジャガイモによく似ている。だが、里芋のような繊維質の皮に包まれていて、これをきれいに取り除くのが意外に難しいのだった。しかも、冷え切ったセロト芋は握っているだけで体温が奪われて、数個も下処理しているだけで、指先がうまく動かなくなってしまう。籠に山積みになったセロト芋の皮剥きは、凍えて痛む指先に何度も息を吹きかけては行う、忍耐と根気のいる作業だった。

 こんなきつい仕事を、さすがにレニオラにやらせるわけにはいかない。

「ふふっ。じゃ、お願いね。」

 俺の意図を見抜いているのかいないのか、レニオラが笑顔で頷く。レニオラは幾度もかんなをかけられて、すっかり薄くなったまな板に丁寧に水を注いだ。

 レニオラも、この食堂では何度も下準備の手伝いをした経験がある。これまでだってミナさんが忙しくて店に出られないこともあったし、ライナルさんが風邪をひいたり、腰痛を起こして長く店に立てなくなったりすることもあったからだ。そんな時は助っ人として、レニオラに声がかかるのだ。だから今も慣れた手つきで壁にかかった籠を下すと、その上に野菜を取り分けていった。

 葉物野菜は洗いなおす必要がなかった。ここへ運び込む前に、すべて市壁の外の川でしっかり洗い、土を落としてきている。レニオラは白菜ワイモルの株を取り出すと、そのまままな板の上に載せて食べやすい大きさに刻んでいった。

 次にレニオラが取り出したのは、縄で縛った人参オレコの束だった。レニオラはサラダに使う人参オレコを、まるで針金のように細かく千切りにしていく。しかもそのスピードたるや、俺の手がセロト芋を相手にのどかに『春の海』の冒頭を奏でている時に、まな板をドラム代わりにハードロックを炸裂させる勢いなのだ。

「おはよう。」

 俺とレニオラがそれぞれの仕事に勤しんでいると、ライナルさんが厨房に入ってきた。店の夜の部でも働くライナルさんは、調理の下準備はミアさんに任せ、昼近くになってから店に現れるのだ。ライナルさんは裏庭に積んである薪をいくつか両脇に抱え、器用に足で厨房のドアを開けて入ってくると、レニオラを見てひょいと眉を上げた。

「お、今日はレニオラも手伝ってくれるのか?」

「この子はユークをさらいに来たのよ。早く終わらせたら、市場へ見物に連れて行くんですって。」

 ミアさんの返事に、ライナルさんは「ははは。そういうことかい」と腹を揺すった。そして自分も作業に入るため、手を洗いにいったん表へ出て行った。

 レニオラは人参オレコの千切りを終え、ライナルさんが用意していたマショワという葱の一種をみじん切りにし始めていた。マショワはひき肉と一緒に炒めた後、白かぶ(ディシャル)と細かく切り刻んだロジューラ茸と一緒に、鶏の骨から取っただし汁に入れてじっくりと煮込むことになる。

 俺は自分の手に目を落とした。籠いっぱいのセロト芋の皮剥きをしているうちに、冷えて疲れた指先が痛くなってきていた。灰汁あくで指先が黒く染まり、痒みも広がる。

 せめて、セロト芋の皮剥きくらいは一人で終わらせないと。

 レニオラの仕事ぶりが冴えているせいで、かえって俺は焦っていた。このままでは俺の仕事のほとんどをレニオラにやらせることになってしまう。賃金をもらって働いているのは俺なのだ。せめて一番大変な部分だけは、一人でやり遂げてしまいたい。

 クソ。

 俺は必死に手を動かした。

 …だが、俺は間に合わなかった。

 レニオラは三脚を抱えてくると、セロト芋の籠を挟んで俺の斜め向かいにポンと座り込んだ。籠の底に残った芋を一つ取り上げて、くるくると皮をむいていく。レニオラは「ふふっ」と俺に笑いかけたが、俺は「あーあ。負けちまったな」と小さく答えるのが精一杯だった。

「競争じゃないでしょ。何気にしてるのよ、ユーク。」

 レニオラは少し呆れた声を出した。

「だって俺、皮剥きぐらいは一人で終わらせるつもりだったのに。」

「あら。セロト芋はでこぼこしているから、皮剥きは大変なのよ。ここまでやったんだから十分じゃ…。」

「だとしても、だよ。俺も将聖みたいに、ちゃんと外で働いて自立できるようになりたいんだ。だったらレニオラのスピードにも、追いつけなきゃ話にならないだろ。いつまでも役立たずのままでレニオラんちのみんなの世話になるわけにはいかないんだから。」

「ユークは役に立っているわよ。母さんが、いつも助かってるって言ってるじゃない。それにいつもショーセから、家賃と食事代だってずいぶんお礼されてるって聞いたわ。そんなこと、しなくていいのに。」

「それは将聖がやっていることだろ。俺はそれとは関係ないし。」

 俺は唇を尖らせた。ガキっぽいと分かっていても、ねた気分になるのはどうしようもない。

「俺は、いつかはちゃんと、あいつからも自立したいんだよ。あいつにいつまでも子守してもらっているわけにはいかないだろ? 俺たちは同い年で、俺はあいつの弟でもなんでもないんだから。」

「ちょ、ちょっと、ユークったら。」

 レニオラが慌てて俺を制した。俺と将聖がただの幼馴染で、本当は夫婦でも何でもないということは、レニオラ達には居候を始めた最初の半月でバレていた。俺が初潮に動揺して大泣きしてしまったのだから仕方がない。

 だからといって、それは周囲に吹聴して回るようなことでもなかった。むしろ「ルカ桃の種みたいに、口をしっかり閉じて、隠しておきなさい」と、レニオラからもマチアさんからも、俺はきつく言い渡されていたのである。

「おーい、レニオラ。すまないが、油漬けのかめをこっちへ回してくれないか。」

 鍋を見ながら作業をしていたライナルさんがレニオラに声をかけた。「はーい」と慌ててレニオラが立ち上がったので、俺たちの会話は中断されてしまった。



「ご苦労さん。」

 下準備が終わると、ライナルさんは改めてねぎらいの声をかけてきた。

「ずいぶん早く終わったじゃないか。これから二人で市場に行くなら、一緒にこれを持っていくといい。」

 ライナルさんは素揚げにしたフィロサ芋にシロップを絡めたものを、ビールのジョッキに入れて俺に手渡した。イザナリアには醤油がないので味わいは異なるが、見た目は日本の大学芋だいがくいもにそっくりの菓子だ。フィロサ芋はセロト芋よりずっと糖度が高いので、甘く味付けされて子供のおやつになることが多い。

 俺とレニオラは家にリーシャを迎えに行ってから、三人で市場へ向かった。

 市場には綱を張り渡した簡単な舞台が準備されていた。今は休み時間らしく誰もいなかったが、幌馬車の後ろのほうから心が躍るような音楽が流れてくる。次の出し物の開演はもうすぐだという合図だ。まだ旅芸人の出し物をあまり見たことがなく、楽しみにしているリーシャが嬉しそうな顔をしている。

 レニオラとリーシャは、市場を見回りながら揚げ芋をつまんだ。俺は「まだ腹は空いてないから」と言って手を付けなかった。シロップはべたつくので、こっそりポケットにしまうわけにはいかなかったのだ。

 最近の将聖は、いつもひどく腹を空かせていた。甘いものにも飢えているらしく、俺が渡す干しリカタロの端っこや、一さじ程度のセイハのジャムを、本当に嬉しそうに口に運ぶ。この揚げ芋は甘いうえにもありそうだ。あいつが喜ぶだろう。

「ユーク。口を開けて。」

 突然レニオラが言った。俺が身を引くよりも早く、俺の頭をわしっと掴むと、揚げ芋を口の中に無理矢理突っ込んだ。耳の下が痛くなるほどの甘みが、口の中いっぱいに広がっていく。

「ユーク。あたしのもあげる。」

 リーシャも俺に揚げ芋を一つ差し出した。ずっと差し上げているので、俺はレニオラがくれた揚げ芋を飲み込むと、急いでそれを口で受け取った。

「あとは、ショーセの分ね?」

 リーシャが笑顔で言う。俺は何と答えていいか、分からなかった。

「ねえ。何をそんなに焦っているの?」

 リーシャに小遣いを持たせて好きなものを買いに行かせると、そっと俺の頬をつついて、レニオラが訊いた。

「まだ働き始めたばかりなんだから、そんなに急いで何もかもできるようにならなくてもいいじゃない。そのうちあたしよりもずっと慣れちゃうわよ。」

「いや、そういうんじゃなくて…。」

 俺は俯いた。

 今の俺の望みは、ライナルさんやミアさんの厚意を考えるとずいぶんと恩知らずな願望だという気がする。自分の実力を考えると、不遜な高望みのようにも思われた。

 それでも俺は思いを胸にしまっておくことができなくて、それを口に出していた。

「俺…、本当は、もっと金になる仕事をしたいんだ。…金が欲しい。だから、もっと使える奴になりたいんだ。」

「それだけ? そんなの、あたしだって思っているわよ。誰だってそうじゃない?」

 レニオラは率直だった。レニオラはいつも俺の話を肯定的に聞いてくれる。こんな理解者は、本当はとても得難いものなのかもしれない。

「ユークはちゃんと頑張っているわよ。頑張りすぎているから心配なの。すごく無理してる。」

 俺は首を横に振った。頑張っているのは、俺じゃない。レニオラはすぐそばで見ているから、俺への採点が甘くなっているだけだ。

 俺は、将聖一人に二人分の生活を背負わせたくはないのだ。

 それは、フォーリミナへの俺なりの反撃でもあった。俺は絶対に、あいつの思い通りにはなりたくなかった。誰かの足枷あしかせとなったままで生きて行くなんて、男として屈辱的ですらある。

 自立すること。それは俺の「男の意地」でもあった。

 仕事自体は「女の仕事」で構わない。というより、「男の仕事」に就くのはもう諦めていた。俺は外見上は女にしか見えないし、この体では男のように働くこともほぼ不可能だからだ。

 だからこそ、俺は「女として」手に職を付けなければならないと思っていた。低賃金でもライナルさんの店で下準備の仕事をしたり、寝る間も惜しんで将聖の上着を縫ったりしているのは、こうしたことがマチアさんのようなお針子になったり、もっといい店で働いたりするような未来につながっていることを願っているからに他ならない。

 何もかも、俺が自分を「男」と認識していることに端を発している。

 この気持ちを、どうやってレニオラに伝えることができるのだろう。

 言葉に詰まって、俺はもう一つの理由を口にした。

「レニオラだって最近、マチアさんとずっと仕立て直しの内職をしてるじゃないか。朝は畑でハノスさんの手伝いだってしているのに…。それって、俺たちが居候しているからだろ?」

 俺が上目遣いに見上げると、レニオラは困ったように目を逸らした。

「将聖の稼ぎ程度じゃ飯代にだって足りないのに、ハノスさんには下着用の生地代とか、将聖の靴代まで出してもらってるもんな。俺が多少家のことを手伝ったところで、その金が入ってくるわけでもないし。レニオラはそれでいいのかよ。こんな揚げ芋少しで、割に合わないとか思わないか?」

 俺は揚げ芋のジョッキを揺すって見せた。冗談めかして言うつもりだったのに、口元が勝手に歪んで、うまくいかなかった。

「でも父さんや母さんは、ユークにもショーセにも、うちにいて欲しいって本気で思っているのよ? そこはちゃんと分かってくれてるわよね?」

「分かってる。分かってるよ。」

 今度は俺が目を逸らす番だった。ハノスさんもマチアさんも、まるで俺たちが本当の子供であるかのように受け入れてくれている。なぜそこまでしてくれるのか、その理由は分からなくても、その好意を疑うことはできなかった。

「あたしだってそうよ。別に、ユークに何かしてもらいたくてやってるわけじゃないの。でももちろん気持ちは嬉しいし、実際やってもらってるとも思っているし。ユークが来てから、リーシャはよくしゃべるようになったわ。うちの中も、なんだか前より明るくなったと思う。…それがうちにとってどれだけ大切なことか、ユークには分からないかもしれないけど。」

 レニオラは言いながら、すぐそばにある誰かが作った雪だるまの鼻をつついた。ハノスさんの作った人参オレコでないのを確かめるようにじっと眺めているが、本当は俺に何と言葉をかけようかと必死に考えてくれているのが分かった。

「ショーセだってユークに頼っているとこ、たくさんあるでしょ? 上着だって縫ってあげたんだし。絶対嬉しいと思っているはずよ?」

「そんなの、気休めだろ?」

 俺は声にいら立ちが混じるのを隠すことができなかった。レニオラの言葉は嬉しかったが、根本的なところは解決していない。俺という食い扶持がいなければ、将聖は自分の金で仕立て屋に上着を仕立てさせることだってできたし、そうすればもっと出来のいい上着を手に入れていたはずなのだ。

 今の俺がやっていることなど、所詮しょせん他の誰かがやってもいいことを、もっと稚拙な方法で肩代わりしているにすぎない。

「もし将聖が二人分の飯代のことを心配する必要がなくなったら、もっと楽に生きられたはずなんだ。もっといい仕事に就けたかもしれないし、そこで仲間を作って、もっと毎日を楽しんでいたかもしれない。今日だって、少しくらい市場見物に来て、うまいものを食っていたかもしれないだろ。なのに多分あいつは今も、自分の体に鞭打って働いている。すごく疲れているのに。」

 本当は、こんな愚痴を言うつもりではなかった。男は泣き言を言ったり、言い訳したりするべきではない。

 なのに、いったん口に出してしまうと、俺は自分を止められなかった。

「ホントは、あいつは一人でだって、ちゃんと生きていけたんだ。俺なんかいなくたって、あいつはちゃんとやれたんだ。中途半端なのは俺だけだろ。一人じゃ何もできなくて、誰かに助けてもらわないと生きていけないのは、いつも、俺だけだ。」

「ユークは、本当に、偉いわよね。」

 レニオラが突然言い出したので、俺は口をつぐんだ。そんな風に言われて、なんと応じたらいいのか分からなかったのだ。

「ユークがどんな境遇で暮らしてきたか、何となく分かるの。あたし、代官様のお嬢様のお世話係をしたことがあるから。ユークは読み書きができるし、時々ショーセと難しい話をしているし、お金の使い方は知らないのに、算術は得意よね。最近は人間族あたしたちの文字の勉強をしていることも知ってるわ。それにこの間、代官様のお屋敷の楽士に、こっそりリュートを弾かせてもらっていたでしょう? このあたりに住んでいる女の人たちの中で、リュートなんか弾けるのはユークしかいないわ。きっと、あたしたちとは全然違う生活を送ってきたのよね?」

 レニオラは俺の手を取って撫でた。

 俺のつるりと柔らかい手に比べ、…レニオラの手は荒れて、硬かった。

「たくさんの物を無くして、知らない土地へきて、今までとは全然違う生活する羽目になって…。なのに誰も恨まないで、あたしやショーセの心配ばかりしているのよね?」

 レニオラはくすりと笑った。

 レニオラの目が、俺の目をじっと見つめている。俺はレニオラが何を言いたかったのかが分かり、なぜ褒められたのかに気が付いた。レニオラは俺を本当にお姫様だと思っている。そしてそのことによって、俺の無能ぶりを肯定的に受け入れてくれている。たとえ「できない」としても「努力している」ことに、結果ではなくその過程に目を向けてくれている。

 そういえば、俺がイザナリアで初めて買い物をしたときも、硬貨の種類も分からず店の亭主に呆れられたが、レニオラは決して笑わなかった。

「レニオラ。」

 俺は離れかけたレニオラの手を握りなおした。歯を食いしばって堪えたが、俺の目から涙があふれ出す。

 またか。

 俺は思った。まったく、最近の俺の涙腺は一体どうしちまったんだろう。

 俺はしばらく空を見上げてから、ようやく言った。

「ありがとう、レニオラ。本当にありがとう。…俺、こんな奴だけど、これからも助けて欲しい。頼む。」

「いいわよ。」

 俺に手を握られて、少しレニオラははにかんだ表情になった。

「実はね、あたし、代官様のお嬢様のお世話係はあまりうまくいかなかったの。イクシマールに帰られて、悲しかった。ユークでやり直してみるのもいいかもしれないわね。」


(※1: 地球世界アルウィンディアの二月。)



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