011_無能者
霜暦九七六八年 勇者の月(※1)
「わっ、た、たっ!」
スカートの裾につまづいて、俺は前のめりに倒れ込み、地面に両手をついた。運んでいた水桶がひっくり返り、俺の膝にざぶりと水がかかる。
大声を上げるつもりはなかったのに、気付けば朝の水汲みに来ていたご近所のかみさん連中が、俺を遠巻きにして眺めていた。「また、あの子よ」という密やかな声と、低いくすくす笑いが俺の耳に届いてくる。
もう何度、このスカートの裾に転ばされたことだろう。俺は唇を噛んで、黙って立ち上がった。以前、癇癪を起して泣き喚いてしまったことがあるのだが、その後数日は近所のガキにまで付け回されて馬鹿にされたので、こういう時は黙っているのが一番いいのだと学習したのである。ガキどもは数日で俺の物真似にも飽きてしまったが、女どもはいまだにあの事件を笑いものにしていて、俺がさらなる失敗を重ねるたびに、陰で蒸し返しては喜んでいるらしかった。
「ユーク! 大丈夫?」
先に立って水を運んでいたリーシャが慌ててすっ飛んできた。リーシャはこんなことで、俺を見殺しにしたりはしない。その優しさに救われて、ようやく俺は俯いていた顔を上げることができた。
「悪い、リーシャ。大丈夫だ。」
答えると、俺は水桶に残った水で擦りむいた手から泥を洗い流した。スカートについた泥も払い落とす。こんなことは俺以外の人間にだって起こり得ることだ。
そう自分に言い聞かせたが、女どもの嘲笑は執拗だった。
「あんなみっともない子が『翼の姫君』ですって。何かの冗談でしょう?」
「何なの、あの髪。もしかしてあの子、髪もまともに生えないの?」
「言葉遣いなんてもっとすごいわよ。山育ち丸出し。うちの旦那だってあんな乱暴なしゃべり方しないわ。」
女どもの悪口が聞こえてきた。わざと聞こえよがしに言っているのが分かる。リーシャは怯えたような表情になり、上目遣いに俺を見上げたが、俺は「気にしてなんかいないさ」というように、にっこりと笑って見せた。
こんな優しい女の子の前で暗い顔をして、辛い思いはさせられないだろ。それが漢気ってもんだ。
もちろん内心は、女どもに中指突き立てていたけどな。
るっせーわ性悪ババアどもっ!
だったらおめーら、自転車乗ったり、スマホ使ったりできんのかよ?
「三平方の定理」って何だか知ってっか?
俺は煮えくり返る腹の中で怒鳴りまくったが、あくまで笑顔を顔面に張り付けたまま、もう一度井戸の順番を待つために、かみさん連中の列の後ろに並び直した。
もう季節はすっかり冬だった。
まず風が強くなり、それに粉雪が混じり始めると、木々からは葉がすっかり落ちていった。早朝の牧草地は霜で真っ白になり、十日ほど前からは表通りの石畳に夜明け前に降った雪がうっすらと積もるようになっている。本格的な雪の季節はもう少し先とのことだが、冬至が近い今のオリエディレン地方の日照時間は六時間ほどしかなく、午後の日差しにも溶けなかった残雪が、日陰で次第に層を厚くしていた。囲いの中へ呼び戻されたのか、放牧されていた家畜は見られなくなり、一日中働いている人々の姿があった市門の外の畑も今は閑散としている。この時期になると地面が凍り、外での仕事が制限されるため、農家の仕事は脱穀や麻打ちなど、屋内での作業にシフトするのだそうだ。一方で街の肉屋の周辺は豚や牛を潰したり、その肉を塩漬けやソーセージに加工したりといった仕事が始まって、人々が集まり活気づいている。
井戸の順番を待っている間中、俺の歯はがちがちと鳴って止めることができなかった。マチアさんから借りた大判のストールを首に巻いていたが、ディフリューガル山脈から吹き降ろすこの地方独特の木枯らしは、体温をすっかり奪い去ってしまう。
俺は濡れたスカートが肌に触れないよう、軽く摘まみ上げた。気化熱のせいで、氷のように冷たくなっていたからだ。
俺と将聖がイザナリアに来て、二か月近くが経っていた。まだ二か月というのが信じられないほど、長い長い日々だったように感じる。
俺は日本での生活が恋しかった。
蛇口をひねれば水が出る、整備された上水道や、置いてきてしまったダウンコート、フリース素材の裏打ちのついた手袋を取りに行きたい。スイッチ一つでファンヒーターから温風が噴き出す世界で、学校と家を往復するだけの怠惰な日常を取り戻したかった。
水汲みは現在、俺とリーシャの日課になっていた。水は炊事にも、洗顔や清拭などの身仕舞にも必要だが、竈で火を使うために、水瓶の中を空にはできないのだ。花火で遊ぶ時だって、事前に水を準備するだろ? それと同じだ。朝夕二回汲みに行くことになっているが、七日に一度、みんなで代わる代わる行水をするときには、さらにまた数回行く必要があった。
「ただいま。」
「ユーク! 大丈夫だった?」
俺がもう一度水桶をいっぱいにして帰宅すると、リーシャが心配そうに出迎えてくれた。俺と一緒に、よく聞こえる陰口の矢面に立たせるには忍びなくて、先に帰らせていたのだ。
「平気だよ。リーシャこそ、大丈夫だったか?」
むしろ優しすぎるリーシャのほうが、俺への悪口を聞いて傷ついているように見えたので、俺はそう訊いてみた。だがリーシャは首を振り、「もう掃除は終わっちゃったよ?」とちょっと得意気に胸を張って見せた。
水汲み後の床掃除も、俺とリーシャの大切な日課だった。水汲みでどうしても零れ落ちてしまう水滴と一緒に、前日みんなの靴から落ちた砂埃や泥をモップで拭いて取り除くのである。毎日掃除しないと砂に削られて、よく歩く部分から床がすり減ってしまうからだった。そうなった後では、木の床はささくれだってますます掃除が困難になり、やすりをかけてさらにへこませるか、床板を張り替えなければならなくなる。
「ホントか? 悪い、ありがとな。」
俺が頭を撫でてやると、リーシャはえへへ、と嬉しそうに笑顔の頬を上気させた。
「母さん。ただいま。」
俺が水汲み用の桶を拭いて片付けていると、市場からレニオラも帰ってきた。
レニオラはリーシャの姉だ。リーシャと同様働き者で、毎朝暗いうちからハノスさんと一緒に市壁の外にある畑へ作業に行っていた。野菜の収穫を手伝った後、それを籠へ載せ、いつも野菜を卸している食堂へ運んでいるのである。野菜を運び終わると、その足で朝市へ行く。卸した野菜の代金の中から、毎日その日食べる分のパンや肉や牛乳、自分たちが作っていない野菜などを買ってくるのだ。冷蔵庫のない世界なのだから、毎日こまめに買い物に行ったほうが、無駄がなくていいらしい。食堂が引き取らない余った野菜があったら、それも朝市で売ってくる。ハノスさんの野菜には定評があり、持って行けば大概はすぐに捌けるのだそうだ。
初めて会った時から、レニオラは俺にとって「安心できる存在」だった。まともに働くこともできない俺を嗤いも怒りもせず、いつも笑顔で傍にいてくれる。無視されたり、背後からこっそり小石や果物の皮を投げつけられたりしている今の俺にとって、その優しさがどれだけ慰めになっているか分からない。
初めてハノスさんの家に案内された日、俺はすぐに奥の台所まで連れていかれた。台所では若い女性が料理の真っ最中だったが、ハノスさんから「傷の手当をして、着替えさせてやってくれ」と俺を預けられると、緊張した面持ちでその手を止め、俺に向かって振り返った。
「リーシャから聞きました。あなたは大鷲の一族の姫君でいらっしゃるとか。」
「あー…。いえ違います。それは大きな誤解です。」
どうしてあの時あんな口の利き方をしたのか、自分でもよく分からない。だが俺は、気が付くと将聖や学校の友達に向けるような口調で女性の言葉に応えていた。そして女性が目を丸くしたのを見て、大急ぎで付け加えた。
「俺は…、えーと、その、単に転生者の血筋にある者というだけです。姫君とか、そういうのとは全然違います。こんな口の利き方するお姫様なんていないと思いますし。」
女性は俺をまじまじと見つめ、ふーっと深いため息をついた。緊張がほどけたらしく、人を惹きつけるような笑顔になる。その屈託のない表情に、俺にもなぜか深い安堵が押し寄せてきた。
女性は洗った手をエプロンでごしごしと拭うと、俺の両手を取って強く握りしめた。
「良かった。お姫様相手に、どんな風にお話ししたらいいかなんて分からなかったもの。リーシャを助けてくれたんですってね。本当にありがとう。」
「いえ。それはほんの行きがかりで…。」
「行きがかりで尾鞭虫に立ち向かっちゃうの? 勇気あるわね。」
「いや、その、あれは俺の漢気というか、沽券にかかわることだったんですよ。」
「おとこぎ?」
女性は面白そうに笑った。
「あなた、本当に面白いしゃべり方するのね。私はレニオラ。リーシャの姉よ。」
これが俺とレニオラの初めての会話だった。リーシャと同じ、艶やかなクルミ色の髪の美人だったが、大らかな笑顔がハノスさんに似て、もっと開けっ広げな性格のように思える。
レニオラの朗らかさに引き込まれて、俺もだいぶリラックスした気分になれた。
「俺は優希っていいます。」
俺も自分の名前を言ってから、急いで付け加えた。
「この言葉遣いは気にしないでもらえませんか? 俺、子供のころからずっと男として育てられたんですよ。」
そう言うと、へええ…、とレニオラは興味深そうに俺の顔を見た。
「俺、いつもこんな調子だったんで、レニオラさんみたいに丁寧な話し方もできないんで…。」
俺が上目遣いでそう言うと、「やだ。あたしの話し方が『丁寧』なんて」とレニオラはくすくす笑った。
「まあね。あたし、ちょっとだけ代官様のお嬢様のところへ奉公に出たこともあるのよ。」
ほんの一瞬だけ、レニオラはドヤ顔になった。
「でも、こんな田舎は嫌だって、イクシマールのお屋敷に帰られてしまったから、ほんの半年足らずのことだったけどね。もう礼儀作法だって忘れちゃったわ。だからユークも気にしないで。」
優希という名前はレニオラには発音が難しいらしく、俺の耳には「ユーク」と聞こえた。でも何となく優希という名前よりも男らしく聞こえて、俺はそのまま呼ばせることにした。
俺は質素な寝室に案内され、レニオラのものらしいゆったりとした肌着に着替えさせられた。俺がシャツを前後逆に着ていたことや、そのシャツの前が裂けていたことなどは、魔物から受けた被害だと思ったのか、何も訊かれなかった。
見事に腫れ上がった俺の腕を見ると、レニオラはすぐに手当てに取り掛かった。
「ひどそうね。でも、ごめんなさい。打ち身に効く軟膏はあるけど、痛み止めの薬はないの。高いから…。」
「いえ。軟膏をいただけるだけでも十分です。」
そう答えると、敬語は止めなさいよ、とレニオラは笑った。敬語などで話しかけられたりしたら、身の置き場所がなくなってしまうのだそうだ。
俺たちはレニオラとリーシャが二人で一緒に使っている、一台しかないベッドの端に並んで腰を下ろしていた。女の子の部屋に足を踏み入れただけで罪悪感が募るのに、こんなことをしていいのかな、と俺は少しどきどきした。
「それにしても、女の子を男として育てるというのは、ハイランダー族の風習なの?」
俺の腕に包帯を巻きながら、レニオラは俺に尋ねた。俺の髪が女にしては極端に短いことも、レニオラの目には驚異的に映っているらしい。
「い、いや。多分、俺だけ、特別に…。」
俺は返答に窮して咳き込んでしまった。ハイランダー族の慣習なんぞ分からないし、さりとて勝手なことも言えない。どう答えたらいいものかと、その瞬間脳がフルスピードで迷走した。
思うに、可能な限り正直に言ったほうがいい。俺はメドーシェン市に着くまでの道中のことを思い出し、しどろもどろになりながら慎重に答えた。
「俺はあまり友達がいなかったから、ほかにも男として育てられた女や、女として育てられた男がいたかどうかは分からないんだ。」
「じゃあ、なんで男として育てられたの?」
「それは…。た、多分、親父やお袋が、男の子が欲しかったからじゃないかな?」
「ユーク、知らないの?」
「あ、うん。俺もついこの間まで、自分のこと完全に男だって思っていたし。」
「え、ホントに?」
レニオラの声のトーンがやや高くなった。
「誰もユークは女の子だって教えてくれなかったの?」
「…い、いやあ、その…、気付かなかったんじゃないか?」
「すごいわね。そんなことってあるのかしら。」
レニオラは俺の顔をつくづくと眺めた。
「こんなに綺麗な女の子なのに、誰も気付かないなんて。」
俺は面食らってしまった。
着替えを説得された時も、ハノスさんに似たようなことを言われた。ハノスさんの場合、俺をその気にさせるためのリップ・サービスだと思ったのだが、レニオラの口調は断定的で、だからこそ俺を戸惑わせたのである。
「…あのさ、レニオラ。」
俺はレニオラを遮った。
「何ていうか、その、勇者の血筋とかそういうのがあると、無理に褒めなきゃいけないとか、そういうルールでもあるの? 俺ホントにお姫様とかじゃないから、そんなに気を使わなくてもいいって。つか、俺、自分が綺麗じゃないって知ってるから。レニオラから見たら、ハイランダー族の顔ってエキゾチックっていうか、変わって見えるのかもしれないけど。」
レニオラは目を見開いて黙り込んだ。しばらくそのまま奇妙な顔をして俺を見ていたが、壁に作り付けになっている戸棚を開くと、中から大切そうに両手を添えて、布の包みを取り出した。
「ハイランダー族にとっては、ユークは綺麗じゃないのかしら。あたし、ハイランダー族の好みってよく分からないけど。」
レニオラが差し出す包みを押し開くと、そこには鏡が入っていた。
小さな手鏡。
もしかすると、レニオラにとって一番の宝物かもしれない。
だが、そんなことに気を取られている場合ではなかった。俺は手が震えるのを必死に抑えて、鏡の中に見入った。
――俺だ。
そう、思った。そこに映っていたのは、紛れもなく俺の顔だった。何度も確かめたが、俺の顔に大きな変化は見られなかった。将聖がそうだったように、ちゃんと昔の面影が残っている。親父やお袋からもらった、藤枝優希の顔が俺を見返していた。
――なのに、そこに映っていたのは、同時にものすごい美少女だった。
アイドルやアニメのヒロインのような、甘やかな雰囲気はない。むしろその、固く、厳しい表情に俺は驚いていた。
こんな表情もできたんだ、俺。
俺は自分の顔に、日本にいた頃は存在しなかったものを認めて、それからしばらく目を離すことができなかった。
悲しみ。そして、意志。
あの時鏡に映った「意志」は、俺のどの気持ちを表していたのだろう。慣れない新しい体のことで、将聖の前では二度と泣かないと決めた、あの誓いのことだろうか。あいつの足枷として、ただぶら下がったまま生きていたくはないという願望のことか。それとも、この先どんな困難が待ち構えているか分からないとしても、イザナリアでまた生き直すことを受けいれた、あの希望とも絶望ともつかない、よく分からない感情のことだろうか。
あの時俺は初めて、人の顔は「意志」が造るのだと知ったのだった。
ただぼんやり生きてきた男子高校生はもういなかった。たとえそれが誰にも理解されないものであったとしても、俺だけの誇りにすがって生きていこうと決めた、意志を宿した顔があった。それは見たこともない、猛々しい目をした生き物だった。
フォーリミナの手が加わっていると思われるのは、雪のように白く染み一つない肌と、淡い水色の瞳、男だった頃よりもすんなりと丸みを帯びた輪郭だけだった。さらに強いて言うなら、顔立ちが最もよく見えるような肌質や肉付きにはなっているように思う。
だが左右非対称の目の大きさや、やや右に曲がった鼻には、何の修正も加わっていなかった。
こうしてみると、美しさというのは「見る」ものではなく「感じる」ものらしい。
――美人って、やっぱり自分が美人だってこと分かっているもんなんだな。
俺は何の感情も抱かずにそう思った。
まるで初めて自分の顔を見たみたいね、とレニオラが言うので、故郷にいた頃とは別人みたいだから、と答えると、彼女はそれ以上俺を追求しないでいてくれた。
「お帰りなさい。みんなお疲れ様。朝御飯にしましょう。」
エプロンで手を拭きながら、マチアさんが戸口で俺たちを出迎えた。レニオラから買い物籠を受け取り、肩や袖の土埃を払ってやる。それから今度は俺の手を取り、水汲みですっかりかじかんだ指をしばらくじっと握りしめてくれた。
このところ、毎朝水汲みが終わるたびに、マチアさんは俺とリーシャの手を握ってくれる。俺は何度それをされても胸がきゅっと締め付けられて、少しの間無口になった。
手のひらから、マチアさんのぬくもりが伝わってくる。
だが、隠すつもりだったのに「痛っ」と俺は声をあげてしまい、親指の付け根あたりから血が出ていることをマチアさんに気付かれてしまった。
「これ、どうしたの?」
「さっき、転んでしまって…。」
「あらまあ…。じゃあ、軟膏を出しておくわ。」
そう言って、マチアさんは別の何かにも気付いた様子で俺の短い前髪をかき上げた。額にこびりついていた小さな泥の塊を払い落とす。これも転んだ時につけてしまったものらしい。
「ユークは朝御飯の前に、もう一度顔を洗ったほうがいいわね。」
「あ。」
マチアさんは優しく笑い、俺のために薬缶から盥へ湯を取り分けてくれた。
「お初にお目にかかります。リーシャの母のマチアでございます。」
初めて会ったマチアさんは、胸の前に両手を組んでレニオラとリーシャの寝室の戸口に立っていた。俺が振り返ると居住まいを正して、深々と頭を下げた。
「このたびは娘の命を助けていただきましてありがとうございます…。」
「母さん。やめてよ。ユークが恐縮しすぎて固まっちゃってる。」
レニオラはそう言って笑い、気さくな様子で俺たちを引き合わせてくれた。だが、俺はマチアさんを前にして、動揺を抑えることができなかった。
ふっくらとした頬。優しげな口元。色褪せた栗色の髪を丁寧にまとめていて、清潔感がある。目鼻立ちが整い、静けさのある大きな瞳が澄んでいて、傍にいる者を安心させるような穏やかな空気を持った人だった。
それだけではなかった。
――お袋に似ている。
俺はマチアさんを凝視した。
顔も声も、別人だった。控えめな言葉遣いといい慎ましい態度といい、物腰は似ても似つかない。俺のお袋はもっと活発な人だった。奥ゆかしいマチアさんとは見た目も中身も全然違う。
なのに、俺は真っ先にお袋を思い出した。
「娘を逃がすために、腕に怪我をされたと聞きました。本当に、何とお礼を言ったらいいのか…。」
マチアさんはまだ感謝の念に堪えないという表情で、そっと俺の両手を取った。
ああ…。
俺はマチアの手の中にある自分の両手を見て、何故お袋を思い出したのか、理解した。
包み込まれるこの感じ。自分ではない誰かを心配する、深い深い感情。
俺は自分を止められなかった。マチアさんの手を握り返すと、俺の両目からばたばたと涙が零れ落ちた。
――母さん。
今どうしている? どんな気持ちでいる?
ごめん。突然、こんなことになって。
抑えようとしても無駄だった。俺はひっくひっくとしゃくりあげながらすすり泣いた。
出来の悪い息子だった。成績も運動も今一つ。目立たなくてつまらなくて、自分でも嫌になっちゃうような、ありきたりの高校生だった。親孝行どころか、喜ばせるようなこともできなかったのに、それでもいつも励ましてくれた。
心配してくれた。認めてくれた。
母さん。もう一度会いたい。会って、せめて「ありがとう」と言いたい。
俺を生んで、育ててくれて。
ああ、もう一つあったな、と俺は思い起こして胸が張り裂けそうになった。
…ごめん。本当にごめん。
多分、悲しませている。どうしようもなく、悲しませているはずだ。
「…うちに、帰りたい…っ。」
ぐちゃぐちゃのかすれ声で思わずつぶやいた言葉を聞き逃さないでくれたのか、マチアさんが俺をそっと抱き寄せてくれた。
「本当に、辛い思いをしたのね。大変だったわね…。」
マチアさんは俺たちを難民と勘違いしている。こんないい人に嘘をついているのが辛いが、本当のことを言うわけにもいかない。
俺は抱きしめてくれるマチアさんの肩に額を預け、体を震わせて泣いた。
マチアさんが優しく、いつまでも背中を撫でてくれたので、俺は気が済むまでそのまま泣いた。
あの日から、マチアさんは俺にとって特別な女性になっている。
「さ、ユークもたくさん食べてね。」
朝食の席に着くと、マチアさんがパンの皿を回してくれた。
イザナリアでは、夕食以外の食事は冷やし肉や新鮮な野菜のサラダなど、火を使わない簡単なメニューで済ませることがほとんどだ。薄く切った雑穀入りのパンとチーズ、果物などが皿に並ぶ。一緒に出される熱いお茶に、マチアさんはいつもたっぷりの蜂蜜と、自分で作ったルカ桃酒を小さじで一杯入れてくれた。花から作る自家製の薬草茶は少々いがらっぽい味がするが、蜂蜜を入れると飲みやすくなり、ルカ桃酒が体の中から温めてくれた。
マチアさんは俺の「女のふるまい」の師匠であり、究極の目標でもあった。
毎朝誰よりも早く起きて竈の火を熾し、湯を沸かし、朝食の準備をして、ハノスさんと将聖の弁当を作っている。湯はお茶を淹れるばかりでなく、例の清拭のためにも必要なのだ。それがほかの家族が起きる頃には大きな薬缶いっぱいに用意されており、いつもどれだけ早起きをしているんだろうと思ってしまう。
朝食を終え、皿洗いを済ませると、ベッドの藁に風を通し、鶏に餌をやり、卵を集める。ベッドメイキングは大切な仕事で、これを疎かにすると藁が寝汗で腐ったり、虫が湧いたりしてしまうのだそうだ。
それらの朝仕事を終えると、マチアさんは窓辺にある椅子に座って、休む間もなく仕立ての仕事に取り掛かるのだった。
イザナリアにはまだ「既製服」が存在しない。アパレル産業がすべて手作業のためだが、だから基本、衣服を手に入れるには、自分で縫うか、仕立屋に仕立ててもらわなくてはならないのだそうだ。マチアさんは若い頃から仕立屋の下でお針子として働いていたそうで、ハノスさんと結婚した後も副収入のために続けているのだという。自分の仕事を持ちながら、夏場は畑に行き、ハノスさんの手伝いもしているそうだ。
そのほかにも、家族みんなの服を縫ったり、繕い物をしたり、日持ちの良い焼き菓子を焼いたり、保存食となる酢漬けや砂糖漬けを作ったりと、マチアさんは日がな一日働いている。そして夕方には疲れ切って帰ってくる家族のために、暖かい食事を作り、居心地よく部屋を整えて待っているのだ。
お袋だって、パートタイムの仕事をしながら俺や親父の世話をしてくれた。毎日俺の弁当を作ってくれたし、掃除も洗濯も全部一人でやっていた。俺は皿洗いさえしなかったし、忙しい親父にできるのは朝のごみ捨てくらいだったので、一人で何もかも抱えて本当に大変だったろうと思う。
しかし、白物家電はおろか、水道や光熱のインフラさえ満足に整っていないイザナリアでは、主婦をやっていくのは、それさえも比較にならないほどの重労働なのだった。今はリーシャが一手に引き受けている水汲みや粗朶集めも、レニオラが代わりに行っている畑仕事の手伝いや市場への買い物も、以前はマチアさんが一人でこなしていた仕事だったのだそうだ。
料理や裁縫も不慣れなら、力仕事も思うようにできなくなってしまった今の俺にとって、マチアさんは主婦の鑑であると同時に、決してたどり着くことのできない雲の上の存在のように思えてしまうのだった。
――それにマチアさんは、ほかのかみさん連中とはどこか違うんだよな。
俺は食卓に着いたレニオラとリーシャに、薬草茶を注いだ茶碗を回すマチアさんを目で追いながら思った。何というか、マチアさんは近所のかみさん連中よりも、淑やかで品がよく感じられるのだ。マチアさんが他人を笑い者にしたり、声を荒げたりするところなど一度も見たことがない。いつも穏やかで慎ましやかで、それでいて芯の強さを感じさせる。不思議な女性だ、と俺は思った。
「ユーク。どうしたの?」
取り分けてもらったサラダの皿を手にしたまま動かなくなってしまった俺を見て、レニオラが声をかけた。
「ユークは燻製肉、何枚食べる? 五枚くらいはいけるわよね?」
ようやく俺は我に返り、三枚もあれば十分だから、と急いで答えた。ハノスさんの家の朝食で出される燻製肉は、日本のものとは比べ物にならないくらい大きくて分厚いのだ。三枚も食べている時点で、かなり大食らいの部類に入ってしまう。
自分でも驚いているのだが、この体になってから燃費が悪くなったのか、俺は以前よりも大量に飯を食うようになってしまっていた。体つきは一回り小さくなったというのに、食う量のほうは一・五倍から二倍ほどに増えてしまっている。
にもかかわらず、俺の体が太る気配はまるでなかった。やはり毎日の肉体労働で消費されるエネルギー量が以前とは比較にならないからなのだろう。
レニオラやマチアさんは、俺が太らないのは三度の飯を遠慮しているせいだと思っているらしく、いつももっと食べるようにと勧めてくれた。こんな食い意地の張った食客を迷惑がりもせず、好きなだけ食わせてくれるのには感謝してもし足りないくらいだ。
「ちょいと、ごめんなさいよ。マチアはいるかい?」
朝食を取っていると、玄関から声がした。ご近所のかみさん連中の一人だろうか。台所の戸口に一番近い場所に座っていたのは俺だったので、扉を開いて顔を出し、「お待ちください」と声をかけると、立っていた知らないかみさんの顔がさっと曇った。
俺も自分の顔が強張るのを感じた。知らないかみさんだが、この顔は今朝、共同井戸の傍で見かけている。俺のことをどんな風に思っているのか、おおよそのところは想像できた。
俺の脇をすり抜けて、マチアさんが急いで出迎えた。
「おはようございます。今朝も冷えますね。」
「あの居候、まだいたの? あんたも大変だねえ。」
よく通るかみさんの声が、台所まで響いてきた。
「神官長から押し付けられたんだろ? いくら勇者様の血筋とか言ったって…。」
「ユーク。座りなさいよ。」
レニオラが片手で俺の肩をテーブルのほうへ引き寄せると、もう一方の手で台所の扉を閉めた。
「まだ全然食べてないじゃない。ユークは細いから、もう少し食べて。」
「だ、大丈夫。もう十分だよ。」
俺は無理に笑顔を作った。実際、喉の奥に塊がつかえているような感じがして、食欲は消えてなくなっていた。
もうちょっとだけ、とレニオラは食い下がった。
「チーズがいいわ。体力がつくから。」
「あたし、もうお腹一杯。この卵はユークが食べて。」
リーシャが半分食べかけの自分のゆで卵を俺の皿に移している。その目が真っ直ぐ俺に向けられ、本当に食べて欲しそうにしているので、俺はテーブルに戻り、リーシャにありがとう、と笑いかけるしかなかった。
俺はいまだにご近所のかみさん連中から嫌われ続けていた。
どこの世界でも流民や難民、貧乏人は嫌われる。学校では教わらなかったが、それを日本では映画やアニメで見聞きして、イザナリアで痛感した。こんな人々を相手にしたところで、得られるものはほとんどないからなのだろう。
まして食費も馬鹿にならない居候になって長居をされたら、どれほどの迷惑となるのだろうか。ハノスさん一家がそれほど裕福な家庭でないことは、俺や将聖も気づいていた。ハノスさんは腕のいい園芸農家として、マチアさんは仕事の丁寧なお針子として、それぞれ高い評価を受けてはいる。だが、それでもメドーシェン市の多くの市民と同様、家族みんなで一日中働くことで日々の糧を得、少ない衣類をやりくりしながら暮らしているのだ。
そこへ見ず知らずの一文無しが突然二人も転がり込んだのだ。誰も何も言わないが、経済的な負担はどれだけ重荷となっていることだろう。俺はレニオラとリーシャの「お祖母ちゃん」の服を借りているが、将聖はハノスさんの服では丈が合わず、新しいものをマチアさんに作ってもらっている。下着類の生地の購入費もすべて、ハノスさんが立て替えてくれていた。
いくら俺が「リーシャの命の恩人」という扱いになっているとしても、普通なら「魚も客も三日目には鼻につく」ものなのだ。これほど出費のかかる「客」など、食事のたびに迷惑顔をされたとしても、追い出されたとしても文句を言うことはできない。
むしろ、マチアさんやハノスさんがここまで俺たちに良くしてくれることのほうが不思議だった。その理由が分かぬまま、申し訳なさばかりが心を覆う。
だが、今俺が嫌われているのは金がないせいばかりではなかった。長期にわたる居候のせいでも、食い過ぎのせいでもない。その理由は俺自身にあった。
俺は「何もできない人間」なのだ。
日本にいたときは、自分で自分の食事の準備さえしたことがなかった。電磁調理器や電子レンジなど便利なツールがあり、食材も調味料も簡単に手に入ったにもかかわらず、である。掃除機があっても自分の部屋の掃除もせず、もう洗濯の済んだ自分の服すら満足に畳んだこともなかった。
そして、それが許されてきた。
男というのは案外気楽な生き物だ。自分自身の身の回りの世話を他人に押し付けても、仕事があるとか、宿題があるとか、それに準じた言い訳があれば許された。やらなくても、できなくても許された。だから俺はそれを平然とお袋に押し付けていた。
だが、本当は「許されてきたから」というのが言い訳になるはずはないのだ。
「何もできない人間」など、イザナリアでは許されない。
今、この体になってみて、余計にそれを痛感する。
本当は、年齢も性別も立場も関係なく、自分のことくらい自分でできなければならないのだ。当たり前のことだ。
将聖は、今でこそ俺に洗濯や裁縫を任せているが、日本にいたときには、週末になると必ず何かしら料理をしていた。鍋とかカレーといった簡単なものばかりだったが、それでもクラスの女子から「だし巻き卵をきれいに焼ける男子」と褒められて(恐れられて?)いたくらいだ。普段はパートの仕事を掛け持ちするおばさんや、自分の学費をアルバイトで稼ぎ出しているまりあちゃんが台所へ立っていたが、そんな二人に何もかもやらせっぱなしにするのが自分に許せなかったのだろう。洗濯も自分でしていたし、制服のズボンのすそが落ちたり、ワイシャツのボタンが取れたりすると、自分で繕い物もした。もちろん朝のゴミ出しも、風呂の掃除も将聖の仕事だった。
だから将聖にとっては生活費のために働くことも当たり前で、しかも事情が事情のせいで、俺の分まで稼ぎを出すことすら当然のように思っている。他人の親切心にも付け込まず、何らかの形で返していこうと夢中になって働くから、こいつを叱る奴はいても、嫌う奴はいないのだ。
一方の俺は生活費を将聖に頼り、住まいや家財道具をハノスさんに頼り、食事や衣類をマチアさんに頼って生きている。マチアさんには振舞い方や作法の伝授まで頼り切っていた。女として自信をもってできることは何一つなく、「男の矜持を守りたい」などと言いながら、男らしいことさえも、何もできることがない。外で働くことはおろか、重い荷物を持てるとか、高い場所にある物に手が届くとか、そんな些細なことですら、もうまるでできないのだ。
将聖がおらず、ハノスさんが受け入れてくれなければ、とっくの昔に野垂れ死んでいたか、それこそ娼婦にでもなっていたかもしれない。
――本当に、俺は足枷なんだな。
俺の脳裏に、あの青い空間が蘇った。
今の俺は将聖だけでなく、ハノスさん一家にとっても足枷だった。無駄飯食いの役立たずであるばかりでなく、マチアさんの世間体さえ傷つけているような気がする。
「ね。ほら、ユーク。これ食べて。」
レニオラがチーズを厚く切り分けて、俺の皿にのせてくれた。俺はそれを口に運んだが、うまく咀嚼できず、咳き込んでしまった。
フォーリミナも、中途半端なことをしてくれる。
俺はまた、フォーリミナに向かって恨み言をこぼしていた。
俺をこんな目に遭わせるなら、せめて「女の予備知識」を初めからオプションでつけてくれたっていいだろうに。
正直、何もかも「女らしく」することには抵抗があった。周囲が呆気に取られているらしいこの言葉遣いや、およそ女らしくない「ガサツな」振舞いを俺は捨て切ることができないでいる。男として生きてきた十七年間の記憶も、経験も、俺は手放す気にはなれなかったし、今でも「本当の自分」は男だと思っているからだ。
それでも、「女として」努力していることはあった。
もっとこの体に慣れ、スカートにも慣れて、家事をこなせるようになろう。
もう少し足早に、たくさん森を歩いて粗朶を集めよう。もっと包丁に慣れて、素早く下準備ができるようになろう。
もう一つ野菜の名前を憶えて、裁縫中に居眠りなどしないようにしよう。
もっともっと働けるようになって、せめて、俺のせいでマチアさんがご近所の前で恥ずかしい思いをするなどということがないようにしたい。
――そう思って、努力しているつもりなんだけどな。
俺の鼻の奥がつん、と痛くなった。目の前の景色が滲む。
「まあ。ユーク。全然食べていないじゃないの。」
台所に戻ってくるなり、マチアさんはレニオラと同じことを言った。少し気遣わし気な表情で俺を見ているのは、さっきの知らないかみさんの言った言葉を気にしているせいだろう。
「少しは太らないと、体力がつかないわ。もっと頑張って食べないと。リーシャ、ユークのパンにもう少しジャムを塗ってあげて。」
マチアさんの許しを得て、リーシャは俺のパンの上に、思い切りたっぷりとセイハのジャムを乗せた。セイハは地球世界のラズベリーに似た黒い実だ。
「これ、おいしいよ? 私が夏にいっぱい摘んで、母さんとジャムにしたの。」
リーシャが精一杯の笑顔で俺を見上げる。その気持ちが痛いくらい伝わってくる笑顔だ。「頑張ったのよ、この子」とレニオラも隣でリーシャに加勢した。
「そう言われちゃ、食べないわけにはいかないな。」
俺は大げさに眉を吊り上げて見せた。
クソ。これが俺の漢気だ。俺は男なんだ。
「はんむっ。」
俺はレニオラが注ぎ足してくれた薬草茶で軽く口を潤すと、パンに大きくかぶりついた。パンはほぼ一口で、俺の口の中に消えていく。
レニオラもリーシャも、マチアさんまで俺のこの下品さには意表を突かれたようで、驚きながらも大笑いした。
(※1: 地球世界の十二月。)
2月1日(月)に引っ越しました。いろいろ手続きが追い付かず、今月の投稿はこのように遅くなってしまいました。本当に申し訳ありません。
今後も投稿日が不規則になりそうです。大変申し訳ありませんが、なにとぞご理解くださいますようお願い申し上げます。
寒い日々が続きますが、体調を崩されませんようご自愛ください。