010_鬱屈(後)
「おかえり、将聖。」
「あ、うん…。」
午後の仕事を終え、夕方の水汲みをしていると、将聖が仕事から帰ってきた。俺はいつもできるだけ明るい笑顔で、元気よく声をかけることにしているが、最近の将聖は俯きがちで、ほとんど口も利かなくなっていた。
俺もなかなかきつい日々を送っていたのだが、将聖もまた、イザナリアの現実に直面し元気をなくしていた。
将聖は今、日雇い労働者として働いている。農閑期なので、収穫した穀物や材木などの運搬や、畑を区切る石垣の補修、肥溜め用の穴掘りなど、雑多できつい業務が多い。
手に職がない上、商売の元手になるような資本もツテも持ち合わせていないのだからこの選択肢しかなかったわけだが、日雇いとはいえ、その仕事がただ体力任せで済むわけもなく、将聖は慣れない肉体労働に苦しめられていた。時に求められる経験と知識の不足、地球世界の技術には到底及ばない使い勝手の悪い道具での作業に手こずり、自分でも不甲斐ない思いを抱いているらしい。地球世界では未成年という扱いだったし、普通高校の生徒だったのだから何事もすぐにできなくて当然なのだが、子供も働くイザナリアでそんな考えは通用せず、「怠けるな!」「お前は馬鹿か!」と日々罵倒されてはふさぎ込んでいた。本来なら県内でもかなり上位の進学校にあってトップクラスの成績だったのだから、あのまま日本にいられれば、将来的には就職先に不安を抱くこともなかったはずなのだが、今の将聖は明らかに余所者であるハイランダー族の外見をしているために仕事をもらえないことも多く、その落ち込みに拍車をかけていた。
優希の分まで飯代を稼ぐ。
将聖はそれを自分に課している。しかも世話になっているハノスさんへも恩返しをしたいと思っていて、だからこそ慣れない労働にもがむしゃらに従事していた。
それでも信頼が得られず、仕事がもらえないという事実に将聖は打ちのめされていた。
仕事がない日は食事さえも喉を通らない。稼ぎもない自分が食っていいのかと、そこまで思い詰めてしまう。
俺はといえば、そうやって自分を責めてしまう将聖に励ましの言葉をかけることさえ躊躇われて、ただ黙って見ているだけだ。
本人は「俺、真面目に素振りやっててよかったわ」と言っていたが、竹刀ダコの上からも分かる手のひらの肉刺が、その業務の過酷さを物語る。メドーシェン市に着いてからのこの短い期間の間に、将聖の眼は落ちくぼみ、頬が削げて十七歳とは思えないほど老け込んで見えた。
俺はどうすればいいんだ?
毎日疲れ切り、笑顔さえなくして帰ってくる将聖を見るたびそう思う。
日雇いとはいえ、将聖はまだもらえる仕事があった。体力では男に及ばない上に、家事さえ満足にできない俺には、外で得られる仕事はない。
最近の俺にできることといえば、こいつの表情がますます曇らないように、いつもヘラヘラ笑っていることくらいだった。
ラノベなら転生者は大抵冒険者になるものだし、魔狩人という職業の人々もいるので、将聖もそれで稼いでいけないだろうかと考えたことがあった。あのモップの化け物の討伐に、それなりの報酬が出たせいもある。
だが、今の魔狩人業界に、将聖の入り込む余地はなかった。イザナリアはそこまで魔物が多いわけでもなければ、そんな風に討伐に金をかけられるほど人々が裕福というわけでもなかったからだ。報酬を積んででも魔狩人を雇うのは、普通、それこそ手に負えないほどの大群か、強力な魔物が相手の場合に限られているらしい。メドーシェン市は地勢的に魔物が多いが、そんな剣呑な状況には程遠く、むしろ魔狩人の割合は、現在飽和状態にあるといってよかった。
それでも余所の街とは違い、メドーシェン市では魔物を狩った者に報酬を支払っている。報酬の出る魔物の種類は限られているものの、これはオリエディレン地方におけるメドーシェン市の特異な役割のためだった。
このため、この地域には魔狩人がちらほらと集まってくる。市の近郊で倒したことを示すために新鮮であることが求められるが、魔物の死体の一部さえあれば討伐した場所までは問われないので、巨大樹の森で会った連中のように、本来は魔物の駆除が不要な場所まで赴いて狩りをするような魔狩人もその中にはいるそうだ。だが、そんな本末転倒なことをしても、リスクに見合うだけの報酬が安定的に手に入るわけではないらしい。
「魔物狩りの報酬は、魔物の死体と引き換えなんだ?」
「うん。市の税金から即金で支払われる。こういうとこだけ、ちょっとラノベっぽいよな。」
少し元気がいいときは、俺は将聖からいろいろな話を聞き出すことができた。将聖は愚痴をこぼすタイプではないが、こうして話を聞いてやっているうちに、辛かった一日を忘れていくことが多い。
「市が『冒険者ギルド』の窓口みたいなことをしているってことか?」
「まあ、そんな感じ。ただ、こんなことをしているのは、この辺りではメドーシェン市だけだ。ほかは地域によって魔物が頻繁に現れるところとそうでないところがあるから、普通は魔物が現れたら、その都度その町や村の住民で自警団を組織しているみたいだよ。ボランティアだから猟友会みたいなもんかな。」
この手の情報は、将聖が仕事中に同じ現場で働いている人々や、荷運びの道中たまたま道連れになった人々から聞き出したものである。俺はそれをさらに将聖からまた聞きする形で、イザナリアのことを学習していた。
「それに、メドーシェン市も『冒険者ギルド』みたいな斡旋業まではしていない。討伐された魔物に対して金を支払うだけだ。多分、イザナリアのどこにも『冒険者ギルド』みたいな業者は存在しないんじゃないかな。」
こういった事柄を話し合うのは、主に帰宅した将聖が裏通りに面した狭い庭先で顔を洗う時だった。イザナリアでは毎日風呂に入れるわけではないが、朝夕の洗顔時に湯で体も拭う、その名も「セーシキ(清拭)」という文化が存在するのである。どう考えても何代目かの勇者が持ち込み、定着させたものとしか思えないのだが、この習慣のお陰で、仕事から帰った後も将聖やハノスさんはここで靴の泥汚れを落としたり、顔や手足を洗ったりしてから家の中へ入ってくるのだった。
なので、夕刻に将聖が一日の汚れを落としている間、俺は薬缶や盥を運んだり、こいつの服や洗顔用の麻布を持ってやったりしながら、つかの間、こいつと二人だけで会話をすることにしていた。ここなら余計なことを口にしてしまうのでは、と気遣う必要がなく、「みんなの常識、俺たちの非常識」について、思う存分語り合うことができる。
「メドーシェン市が魔物狩りに金を払うのには理由がある。このイザナリアで一番規模が大きくて、最も危険な魔界域は『フィナン・ジディ魔界域』って呼ばれているんだけど、ここはネハール侯爵領の中で最もフィナン・ジディ魔界域に近い場所に建設された市らしいんだ。つまり、最初から防衛ラインのために『前哨基地』の目的で作られたってことだな。だからここでは魔物を狩ると報酬が出るし、貢献度が上がれば市税が減免されるとか、いろいろ特典も用意されている。そうやって、腕の立つ魔狩人を集めているんだ。」
広場を見ただろ、と言って、将聖はくいっと頭を傾けた。その方向にあるメドーシェン市の中央広場は、この辺境の街には不釣り合いなほど広く、整備されている。魔王が現れたり、何らかの理由で「均衡」が崩れたりすると、メドーシェン市は対魔物戦の最前線となり、中央都市イクシマールほか侯爵領の至る地域から潤沢な防衛資金が投入されることになるのだそうだ。そして市内を闊歩する羽振りの良い魔狩人のために、食料に武器に酒に娼婦、そのほか小金を持っている人間が欲しがりそうなものすべてが、帝国中からこの市の中央広場へ集まってくるのだという。
「でもな、『メドーシェンに行けば、魔物狩りで金がもらえる』っていうのはかなり魅力らしいけど、ネハール侯爵も魔物対策のために代官と兵士をここに置いているんだし、この街にだって自警団はあるんだから、冒険者みたいなのがふらっと現れて、すぐに一山当てるってわけにはいかないみたいだよ。」
そう言って将聖は、「俺も少し期待しすぎちゃったしな」と自虐的に肩をすくめて見せた。
将聖は先日の尾鞭虫討伐の後に出された報酬を、今携帯している山刀の支払いの一部に換えたのだった。いつか魔狩人として働く時のための唯一の商売道具として購入したのだが、今のところ全くといっていいほど出番はなく、すでに手に入れたことを後悔しているように見えた。
こいつはフィナン・ジディ魔界域に近い東の森で働くことが多いので、それを買ったところで俺には何ら異存はなかった。丸腰でいられたほうが余程気分が悪かったろうと思うのだが、将聖は「勝手に使っちゃってごめん」と何故か俺に謝ってきた。メドーシェン市に来てまだ二か月にも満たない将聖が、それを分割払いで購入できたのは、相当腕と人柄を見込まれていたからだと知ったのは、ずっと後になってからのことである。
また将聖は、魔狩人にはならなかったが街の自警団には入っている。ハノスさんのたっての希望もあり、また将聖の噂を聞きつけたはしばみ自警団団長のオルグさんからもスカウトされたからだった。
メドーシェン市には複数の自警団が存在するが、それらはさまざまな職業ごとに、ギルド単位で構成されている。このためその規模にも大小があり、その活動への思い入れにも温度差があるようだった。
もっとも人数が多く、その活動に力を入れているのは農民の自警団だった。魔物の出現に直接的な被害を受けるのは、圧倒的に農民に多いからだ。はしばみ自警団はハノスさんも所属する、農民中心に組織された自警団である。将聖の戦いぶりを知っているハノスさんは、どうしてもこいつの才能を他の自警団へ渡したくなかったのだろう。
自警団の活動は無料奉仕なので、日雇いで働く将聖にとっては負担が大きいのだが、こいつもまた、参加を進んで引き受けた。魔物と戦うことはフォーリミナとの約束を果たすことでもあったからだ。
――俺は将聖とフォーリミナの間で、実際にどんな約束が交わされたのか、具体的なことは何一つ教えられていない。
しかしこのため将聖は、時折仕事に行く代わりに、市近郊の森や牧草地に魔物の侵入がないか見回りをしたり、先日のきのこ狩りの人々を警護していた男たちのように、粗朶集めや材木の運搬のために森へ入る人々への付き添いをしたりしている。もちろんみんなも将聖の生活事情を知っているので、そんな無償の労働にこいつを頻繁に駆り出そうはしなかったが、イザナリアに来た途端に次々と大きな義務がのしかかり、疲れ果てている将聖を見ていることが俺にはとても辛かった。
「オストさんの果樹園の剪定作業は今日で終わったんだ。」
今夜は珍しく、将聖が自分から口を開いた。
「これで安心して冬を越せるからって、少し多めに支払ってくれた。全部マチアさんに渡すけど、いいか?」
「いいかも何も、お前の金だろ。好きにしろ。」
久しぶりの明るい話題だというのに、俺の声は少しきつくなってしまった。将聖ときたら、この期に及んで俺の小遣いの心配までしているのだ。「優希が文無しなのは心配だから」と、少しでも稼ぎが多いとその一部を俺に握らせようとする。「何かあったらどうするんだよ。医療費だって三割負担じゃ済まないんだぞ」と、そんな時の将聖は、お袋の実家の祖母ちゃんよりも強引だった。
何かあったら。何かあったら。
最近、将聖はこれが口癖になってしまったようだ。将聖は親父さんのことがトラウマで、おばさんやまりあちゃんのことばかり考えていたことを思い出す。
「お前がちゃんと勤め上げたから多めに支払ってもらえたんだろ。良かったじゃねえか。」
先程の口調を後悔して言い添えても、将聖は虚ろな表情で項垂れたままだった。
「いい加減、明日の給料の心配は終わりにしたいんだけれどな。」
「…リーマンじゃねえんだから、仕方ねえって。」
「うん。これが成果主義なんだよな。分かってはいるんだけど…。」
今夜の将聖は、あまり話したくない気分のようだ。俺も無理に話しかけるのをやめ、将聖から麻布と汚れた靴下を受け取ると、風邪をひかないよう早く屋内へ入るように促した。
食卓についても、将聖はなかなかスプーンを取ろうとはしなかった。親切なマチアさんは俺たちにいつもたっぷりと食べさせてくれる。その夜も肉と野菜のたくさん入ったシチューに、厚く切ったチーズ、ハム、ゆで卵、マチアさん特製のジャムに丸パンが一つという、心づくしの食事が並んでいたが、将聖はそれさえも一向に進まない様子だった。本当に、相当疲れているようだ。
将聖の帰りが一番遅かったので、ハノスさん一家も俺も、先に食事を済ませていた。暗い表情の将聖の脇に、手をこまねいている俺がくっついているのを見て遠慮してくれたのか、レニオラとリーシャは寝室へ行き、マチアさんは地下の食糧庫へ、来客のあったハノスさんは玄関口へ姿を消して、一時台所は俺たち二人きりになっていた。
「食えよ。鶏子の卵、うまいぞ。」
将聖に何とか飯を食わせようとして、俺の声は裏返ってしまった。こいつが沈んでいると、俺は逆に変に浮かれてハイになってしまうのだ。ちなみに「鶏子」というのはマチアさんが飼っている雌鶏の一羽のことである。小柄で元気もないので名前を付けて気にかけてやっていたら、このところメキメキと丈夫になり、黄身がぷりぷりに盛り上がった卵を産むようになったのだ。
――あの元気にあやかれるように、「将美」とか「聖子」という名前にしておけばよかったかもな。
内心俺は、そんなことまで思っていた。
「なんだかあいつ、最近絶好調なんだよ。すげえ餌食うし、俺のこと突きまくるし。」
「お前に一番懐いてるもんな。」
ようやく将聖が言葉を返した。ただそれだけのことなのに、俺は勢いづいた。
「ありゃ懐いてるって言うのかよ。餌やりながら、こいつ俺も食う気なんじゃねえかってヒヤヒヤするわ。」
「そう。…気をつけろよ。」
反応は鈍かった。
「明日からの仕事、どうしようかな…。」
将聖はまた深い溜息とともに俯いた。そういえば、オストさんの果樹園の仕事が済んだので、将聖は明日からの予定が何も入っていなかった。
そういうことか、と俺は腑に落ちた。将聖に食欲がないのは、疲労ばかりでなく、余計な心配事まで抱えているせいだ。
「いいから明日は休め。村の若者二百八十六号。」
俺は将聖の頭にぽん、と手を置いた。
「そんなにがつがつ焦ってんじゃねえよ。俺たちは勇者じゃねえ。お前、自分でそう言っただろ。俺たちはただのモブなんだ。モブにしちゃ、お前はよくやっているほうだと思うぞ。」
「…そっか。モブか。」
聞きようによっては「俺たちはつまらない、見捨てられた存在なんだ」と言っているようなものだが、将聖はそんなひねくれた受け取り方はしなかった。
「…うん。そうだよな。ありがと、優希。」
「いいからとっとと食って寝ろ。明日の朝になったら、どこかから何か仕事を頼まれるかもしれないじゃねえか。今のうちに休んどけ。『明日は明日の風邪をひく』って言うだろ。」
「『風が吹く』な。」
そう言って、将聖はようやく笑顔になり、目を細めて俺を見た。
最近、こいつはそんな変な顔で俺を見ることが多い。まぶしそうな表情をするので、余程俺をお気楽な奴だと思っているのか、このくだらないギャグをそれなりに喜んでいるのか、それとももっと別な感情なのか、時々俺は分からなくなっていた。
「ショーセ。今、いいか?」
そこへ台所の扉が開いて、ハノスさんが顔を出した。
「今来ているブルセルなんだが、明日、農場周りの用水路の修繕をするために人手を探しているらしい。ちょいときつい仕事だが、お前さん、行くか?」
「行きます!」
将聖が弾んだ声を上げた。久しぶりに十七歳の声だった。
おう、行くとよう、とハノスさんは玄関に向けて声をかけると、「じゃあ、明日の朝、連れて行くから」とだけ将聖に告げて、すぐに引っ込んでしまった。
「大変だ。早く食って寝なきゃ。」
しおれた花が水をもらって息を吹き返すように、将聖は輝くような表情になった。少し慌てたらしく、かきこんだシチューが口の端からこぼれて俺に苦笑いを見せる。すっかりいたずらっ子の顔つきで、俺もやれやれと笑い返すしかなかった。
ああ、ハノスさんありがとうございます。
俺は心の中で、ハノスさんの消えた戸口に両手を合わせた。もう、拝まずにはいられなかった。
将聖は十七歳で突然社会人になってしまった。しかも俺という足枷付き。右も左も分からない異世界で、慣れない肉体労働に従事している。その労働を軽減してくれる機械もマニュアルも社会制度も、どこにも存在してはいない。
今この世で将聖を救えるのは、ハノスさんただ一人。この大らかで人の好い、陽気な笑顔の人だけなのだ。
ハノスさんに出会えて良かった。
俺は心から感謝せずにはいられなかった。
また☆をいただきました。ありがとうございます。
みなさまのお陰で、少しずつ宝物が増えていっています。とても嬉しいです。
このコロナ禍の中、みなさまも制約の多い日々をお過ごしのことと思います。私も連日雪かきに追われておりますが、この大雪にご苦労されている方もいらっしゃることでしょう。
どうか1日も早く日常を取り戻せますよう、暖かい春が巡ってきますよう。
またみなさまにも、私がいただいた☆に負けないくらい嬉しい贈り物がありますよう、心から願っております。