第28話『悪魔の沼』
目の前にいる男はまともではない。
異端の怪物。だからどうした。
「やってみな。あんたの血でこの手を染めてやる!」
怒りで声が震える。それでいい。恐怖を怒りで塗りつぶせ。
誘拐? 傷付けるな? もうそんなこと知らない。
こいつをメチャクチャにして他の目撃者は全員殺す。故に、
「刻む!」
拓馬が動くより先に攻める。
鋭角化した指先を揃えて突き刺す。
それを半身になることで躱し、すれ違い様に拳を打ち込まれた。
「ぐふっ」
衝撃で息が漏れた。でもまだ耐えたれる。
広げた指で顔を切り裂いて……その手は空を切り、膝が腹部にめり込む。
内臓がひっくり返ったような衝撃。追撃の拳を顔にもらいふっ飛ばされた。
「なぜ!?」
スピードなら勝っている。動きも見えている。
俊敏に動いているようには見えないのに、小さな動きで攻撃は躱されて、反撃が避けられない。
しかも打撃がさっきより更に重く、体の芯に響いた。
拓馬が迫る。その前に落とし子達が襲いかかった。
「無駄だ」
拳が叩き込まれ、黒い塊は壁にぶつかり潰れたトマトのように破裂して、ずり落ちながら光に変わった。
一撃一殺。
兵士達を容易く殺し、セシルですらあれだけ苦戦した落とし子ですら瞬殺せしめる力。これがジョブドライバーか。
次々に倒され僅かな時間稼ぎ程度にしかならない。
それでいい。
その間に、アンヌは影に潜った。
影潜り。
一度影に潜ってしまえば、立場は変わる。
影の中は深さ二メートル程で、全身に緩い抵抗を与える黒い液状の空間だ。
通常の水中と違うのは、影の外全てが水面となり、穏やかな揺らぎから外の景観が視認できる。
側面でも、真下でも、外と通じればそこは水面となって世界を繋ぐ。
影の世界とは次元の境界。
この世界に侵入できるのは己だけ。
闇に身を揺蕩え脚を畳む。
身を倒して方向を定めると、蹴り込むように脚を放ち加速を入れ、闇の中を突き進む。
地上において発揮される速度は、影の中でも損なわれない。
胸を反らし追加で加速して、水面を突き破る。
表の世界では背後を見せる拓馬がいた。
こちらの表出を察して振り向くが、その時には下から上へと肩の装甲を削って抜けている。
「くっ」
突貫した先から影に潜る。
突入時の勢いを殺さず、軌道を調節して旋回。
先程とは異なる位置から水面を突き抜け、拓馬の脚を裂く手応えを感じて、装甲表面の魔力を火花と変えた。
速度と鋭さがそのまま威力となる。
そして攻めこられたと認識すると同時に、敵は己の姿を見失う。
影の中。認知不能の領域を泳ぐ。
速度を乗せて外界を突き抜け、切り裂き、影へ。
繰り返しを、繰り返す。一連の流れをこう名付けた。
――無形の射出。
次は右から飛び出て切り裂く。
鎧を纏っていても衝撃はその内部へと伝わり、苦悶の声が聞こえた。
影の中にいる時間も僅かだが、外の出来事は全てが刹那だ。
できるだけ外に身を晒す時間を減らす。
攻撃は単純な斬撃。その連続。
一撃で致命を与えるのは難しいが、その分反撃の隙も与えない。
思考すれば、その隙間にあの男は入り込んでくる。
駆け引きは捨て、刹那に徹する。
裂。
離脱。
それだけでいい。
繰り返しはすれ、偏りと規則は作らない。
どの方角から何度切り付けたかは記憶している。
ただ速く、精密に、確実にループで追い詰めていく。
このまま削り続けて、肉体を直接切り裂いてやる。
「クアドラ、剣だ」
≪Load Job. Imitation blade.≫
影の中から様子を窺う。剣を生成して握ったけれど、それだけ。
状況は何も変わってない。数瞬の斬撃、認識した時にはもう影の中。
次の狙いは右側の死角だ。
――見切るなんて
「不可能と思ったかい?」
緋色の刃が纏う落とし子ごと、体を走り抜けた。
「あぐうううう!」
傷が深く失速し、影に潜れず床へと倒れる。
何故だ。思考がその一言で埋まる。
こんなの心を読みでもしない限り回避できないはず。
「あぐぅ! ぎゃあっ!」
立ち上がり、下がろうとする引き脚を蹴りぬかれた。
牽制の爪は届かず体の傷が十字になり、衝撃で舞った体が無様に転がる。
「動くなっ」
倒れた近くにいた召喚師を引き寄せ、爪の先端を首筋に当てる。
「子供は守るのでしょう?」
力で敵わないなら、召喚師を盾にして拓馬を元の姿に戻させる。
心が読めるのなら、こちらが本気だともわかるはずだ。
「覚悟はできているね、セシル」
「はい。もう魔力も底をついていますから」
「余計なことを言うな!」
「ぐうっ、やってください!」
髪を掴み指先を押し付けると、先端が食い込み血が滴り落ちる。
「チャージ」
拓馬の剣が赤く光り刀身が伸びた。
それは盾を無力化し、人質ごとお前を切り裂くという意思表示。アンヌの本気に対する切り返しだった。
「クソッ!」
拓馬が振りかぶると同時、人質の召喚師を押し出して間合いから逃げる。
振り抜かれた刃は、けれど光を失い元に戻って空振るだけ。
幼子はそのまま拓馬の腕に収まった。
「返却どうも」
――またやられた!
口惜しいが、今は回復するための時間が必要だ。少しでも距離を取ろうとアンヌは足を引きずりながら逃走する。
振り向くと、剣は刀身が傾き即座に形状が変化。長身のバレルが展開された。
そして引き金が引かれ、緋の魔弾が連続して射出される。
「ギアアァ!」
アンヌの背を容赦なく撃ち抜いた。
切り裂く仕掛けはフェイク。即座に切り替わる駆動での追撃こそが本筋だった。
全てが裏目に出る。やはり、心を読まれている。それが拓馬の能力なのか。
召喚師を離した彼が再び距離を詰めて回し蹴り。
激突した壁を粉砕してアンヌは瓦礫と共に地面を転がる。
全身が痛む。うまく体が動かせない。
立って歩くことすらままらずに這う。まるで手足が底なしの沼に沈んでいくようだ。
そして目の前の影が濃くなり、視界の先には、
「タクマァァァァァァッ!」
赤い悪魔がアンヌの肩に足をかけた。
何かをやるつもりなのはわかる。
けれど無理に動くと激痛が邪魔をする。
「仕留める」
≪Favorite job. Swindler.≫
「い、いや……まだ、まだよ!」
足に魔力が集中してくるのがわかる。
これで踏み抜かれたらどうなるか。
上半身が吹き飛ぶ。
死ぬ。
死んじゃう。
私が、殺される?
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ!
「死んで、死んでたまるものですか……!」
こんなところで、こんな奴に。
殺されたくない死にたくない。
私は奪う側。
殺す側だった。
いつだって、そうだったでしょ!
ずっと、ずっとそうだった。
これからもそうでなくてはいけないの。
こんな狂人に殺されてたまるものですか。
考えろ。考えろ。
私はそうやって生き残ってきたでしょう。
考えろ考えるの考えなさい考えろと考えるのをやめなさい死にたくないなら生き残る手段を考えて考えないと殺されるまた余計な考えを考えて生きる生きるの私は生きたい暗闇何も見えな





