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開店の準備が出来た。
今日のおススメはザッハトルテとピザトーストだ。
小さな黒板に白いチョークでメニューを書き、外に飾る。
営業時間は朝九時から夜六時。私も仕事があるので、開けられるのは週に二日程。
それでもお客さんは来てくれるからありがたい。
「パパぁ! 開けますよぉ」
入口の前でまだかまだかと心待ちにしている娘。
「はい、お願いします」
――カランカランカラン
「お待たせいたしました。どうぞ、いらっしゃいませ」
○
妻が亡くなってから少しの期間この店は休業していたが、
色々あってまた再開しようと決めた。
営業再開初日、待っていたかのように常連客であろう人たちが入ってきたことを、
今でも割とはっきり覚えている。
常連客は口々に私に喋りかけてくれた。
「優香ちゃんはいなくなってしまったけど、これからも来させてもらうよ」
「この店に来ると、温かい気持ちになる」
「無くならなくて本当に良かった。再開してくれてありがとう」
「元気出しなよ。あたしらがついてるからさ」
「何かあったら言ってね、手伝うから」
ここに住む人々は、やはり温かい心を持っている。
前の自分だったらこんな言葉をかけられても、その心の裏に何らかの思いがあり、
必ず見返りを求めてくるに違いないと常に皮肉に疑っていたと思う。
今は違う。
何より人とこんなに接して、楽しく喋ることが出来る日が来るなんて思ってもみなかった。
これもきっと妻のお陰かな。
さらに驚いたこと。それは、
常連客の中には、妖精の存在を知っている人がいたということだった。
それを知ったのは、ある晴れた日の営業日、昼の時間だった。
「あいつら面白いよねぇ。あたしはここで産まれ育ってずっと生活しているけれど、
遠い昔の昔は、人間ではなくあの妖精たちの町だったんだってさ」
店内からは見えない厨房に目線をやりながら、
ひとりの老婆がそう私に声をかけ教えてくれた。
「お客さん、見えるんですか?」
「妖精たちのことかい? あぁ見えるとも。
ただ一度だけ見えなくなってしまったこともあったがね」
「それ、は、なぜ」
「心かねぇ。自分の心が純粋に他人を思えなくなってねぇ、
心を無くしてしまった時があったんじゃよ。
大我が無くなってしまったのさ」
大我? なんだ、そりゃ。
「見返りを求めない、大きな無償の気持ちだよ。人間がそれを持つのも大変じゃがね」
聞けば妖精はちゃんと心の中を見通しているらしい。そして、妖精の存在を受け入れる気持ちを持っている人。
自分の為にだけ動く人間は決して助けないし、姿も見せない。
だが、他人の為に動く人間や、自分や他人を信じて前向きに人生を送る者には手を貸してくれるという。
当時の私は妖精のことを認識したばかりで、まだ何も分からずに生活していたから、
この話はとても新鮮で勉強になった。
確かに私も、昔は他人も自分も信用せず、妻が話していた妖精は童話の世界にしか存在しない空想上の生き物だとずっと思い込んでいた。そして、自分のことばかり考えていた。
今だったら、愛する娘の為なら、たとえ自分を犠牲にしたって構わないし、
困っている人がいればすぐに手を差し伸べて助けたい。
なんか妻に似てきたなと思う自分がいま存在している。
この町に来てから、昔よりも心の余裕を持つことが出来たからかもしれない。
「でも頑張りすぎちゃいかんよ。自分がやれる範囲でやっていかんと。
重い荷物を持ちすぎると、自分自身が壊れてしまうからねぇ」
老婆は、ただのおせっかい婆の戯言じゃよと言って微笑み、
それからコーヒーを一杯飲んで帰っていった。
あの日の老婆の言葉は、今も僕の胸にちゃんと残っている。
確かにそうだ。自分が持つ能力以上のことは、神様でもない限り不可能だ。
そんなことをぼーっと思い出していると、誰かが私の肩をポンと叩いた。
「大切なことは、相手も自分も大事にし、見返りを求めんことじゃ。
理想も大事じゃが、まずは現実を受け止めて、しっかりと人生を歩んでいくことだな。
頑張れ若造」
カウンターの上で横になり、せんべいをぼりぼり食べながらヒロシがそう言ってきた。
ここは西洋のはずなのに、コントに出てきそうな、何とも昭和の日本のお父さんみたいな出で立ちだ。
「びっくりした。そんな恰好で言われても説得力無いですよ、ヒロシさん」
「寝観音像みたいじゃろ。な、ほら」
ふぉっふぉっふぉと笑っていたが、すぐにトシコさんに首根っこを掴まれながら連れて行かれてしまった。
なんか熟年夫婦みたいだな。そう見ながら思った。
妻と妖精のお陰で、自分は肩の力を抜いて仕事をすることができ、たくさんの人と接する機会をもらえて、人間がどう生きていくべきなのかを勉強できている気がする。
あの時、妻と出会っていなかったら、こんな幸せな生活を送ってはいなかっただろうな。
私はまた、物思いにふけっていく。