3:少々仕事を手伝っていただけますか?
クラギの一日は夜明け前、宿の中の掃除からはじまる。
全体を大まかに掃除し、途中で備品の状態や汚れのある箇所を確認。
細かく手を入れなければならない場所はあとから集中的に行うとして、日がのぼった辺りで次は湯殿の準備だ。
宿の最奥にあるその部屋は、岩をクラギの腰丈ほどの高さに組んで水防堰のように形作ってある。勝手口から外に出、水を張った岩の下部にあたる炉に薪をくべ火を入れ、あとは沸くのを待つだけになるとその場をあとにした。
「さあ、朝食の支度です」
湯殿につづく扉を出ると、玄関ホールだ。開放感のある吹き抜けがあり、大階段から連なる回廊状の二階廊下がうかがえるつくりで、こつこつと足音を反響させるホールの天井からは鉄製のシャンデリアがぶら下がっている。
ここを横切った先にある食堂で、クラギは支度をはじめた。
長い机の上に洗濯したばかりの白いクロスを掛け、燭台に明かりを灯し、花のブーケを置く。
机に食器類と、グラスとカップをそれぞれ並べる。デキャンタには汲んできた湧水を、ポットには茶葉を入れた。
朝食のパンとスープとサラダを手早く厨房で用意すると、鍋に湯を沸かして竈の火に魔石を放り込む。これで昼くらいまでは熱を保ってくれるのだ。
支度ができたら、あとはお客様へのお声がけだった。
ナナカの宿泊する部屋へ向かい、ネクタイを締め直し、ジャケットの襟を正した。
一階の角部屋にあたるナナカの部屋。
扉の前で喉の調子を整え、クラギは二度ノックする。
「ナナカ様。おはようございます。湯殿と朝食の準備ができましたのでお声がけにまいりました」
返事はない。まあいつものことだった。
やがて紙巻き煙草を一本喫むかどうかくらいの時間が過ぎたところで、のそっとした動きで扉がぎぃ……と開く。これもいつものことだった。
「……おはよぉ」
寝起きの低い声と共に、勇者ナナカ・ローワンはクラギを見上げた。
炉の中を思わせる橙色の瞳に、燃えるような赤毛。一束に結わえられたそれは彼女の背に沿って伸びて、腰まで届いていた。
さすがに宿泊している間は鎧を着こむようなこともなく、服装は鎖骨がのぞくほど襟ぐりが広く身幅もゆるい白の貫頭衣に、太腿が出るくらい丈の短い脚衣。動きやすそうで、かつ彼女にはよく似合う服装だった。
つっかけ履きでぺたこんぺたこんと出てきて、ナナカはむにゃむにゃと唇を震わせる。
「朝ごはん……」
「本日は白パンとメナシイモのスープ、それにクラシバナとマキネヅルの田舎風根菜サラダでございます。掃除やシーツの取り換えはご入用ですか?」
「シーツだけあとで出す……掃除はいい。自分でやるから」
「左様でございますか」
「左様です」
ぺたこんぺたこん、廊下を歩いてナナカは玄関ホールへ出る。突っ切って食堂に入り、机の近くに立った。クラギはさっと椅子を引いてナナカに腰かけてもらう。
ナナカがナプキンを用意している間にワゴンに載せた食事を運んできて、傍らについて給仕をする。皿に載せたパンをお出しし、横にバターとナイフを添える。湯気立つスープとしゃきりと冷えたサラダを並べる。
もくもくと食べ進める間も横に立ちつづけ、水がなくなればデキャンタからグラスに注いだ。フォークを落とせば厨房に戻って取り換えた。
食事を終えたのを見計らって、魔石によって保温していた鍋からポットへ湯を注ぎお茶を淹れる。
「湯殿の準備もできておりますので、ご利用される際はお申し付けください。湯加減をあらためてまいりますので」
「うん」
「あと、午後の食事までの間にお時間あるようでしたら、いくらか書籍や古文書などを書架に置いております。ご興味がありましたらどうぞ」
「うん……」
「夕食の準備のため、昼食のあと私は少々出かけます。昨日仕留めたコブイノシシの肉を山小屋の方へ取りに行きますので」
「うん…………」
「ほか、なにかお困りの際はお申し付けくださいませ」
そこで蒸らしが終わったので、ポットを傾けた。
ととと、とクラギがカップに注いだお茶を静かにナナカはすすり、ほうとため息をついた。
それからクラギに視線をやって、
「……いやダメだよねこれっ! ダメになるよねっ!!」
カップを置いてダンッ、と机に両拳を叩きつけた。
「どうされました。お加減でも悪くされたので?」
「ちがうの……そうじゃなくて……! ちょっとだけ滞在してすぐに仕事でお金返してまた旅に出るつもりだったのに……気づいたらもう週が三度めぐってる! あんまりにも至れり尽くせりだからぜんぜんここ出られない! ダメになる!」
「ダメになりますか」
「というか三週もここにいるけど、あたしの宿泊費ってどうなってるの?!」
「まあ……それなりに」
「それなりって?」
「正確に言うならば銀貨で十二、金貨で四といったところですね」
「うあぁぁ……はたらく! もう腕の怪我も癒えてるし、あたし働いて返すから!」
いたたまれなくなっていたのか、椅子から立ち上がったナナカは必死だった。
いずれこうなるだろうということがわかっていたので、クラギは冷静にこれを見つめながらまあまあ、と肩を軽く叩いて彼女を席に戻す。
「そこまで気にせずともよいのですが」
「よくない!」
「よくないですか」
「申し訳なくて爆発しそう! だからお願い、なにか、仕事……!」
すがりつくように言われる。
クラギは内心でしめた、と思った。
そう、こうなるだろうことはわかっていた。
勇者などという因果な職種に就いてしまった彼女だ。魔狼との一件で巻き込むまいとしたところから責任感も強そうな人間に見えたし、ずっと世話になっていれば次第に申し訳なさが勝るのは自明。
そうなったところで、仕事を頼もうと思っていたのだ。
「では、ひとつ提案なのですが」
「なに?」
「魔物を倒していただけないかな、と」
「任せてよ! それこそ本職なんだから!」
二つ返事で詳細もきかずにナナカは請け負ってくれた。
しめしめ、とクラギは思ったが表面的には微笑を浮かべて「助かります」と言うに留めた。
+
霊鳥。
暖かな雨季に差し掛かるこの頃、『木の洞』が建つキガラ大森林を裾野に広げたイジュフ山の頂に居を構えに来た、大怪鳥だ。
「先日からやってきているようでして」
「どうしてわかるの」
「近隣の牧場で牛が三頭いなくなりました。ちかくにあった泉の水位が少々下がっておりました」
「……え、食べて、飲んだってこと?」
「なにせ奴が翼を広げると、丘を越える間くらいなら雨に濡れずに済むとまで言われる大怪鳥ですので」
もちろん言い伝えは誇張が混じるが、それにしたところで大きい。
鶏の肉垂のようにとぐろを巻いて畳まれた首は獲物を見つければぎゅんと伸び、巨大な円匙のごとき嘴で地面ごと抉り取って丸のみにする。
大きめの牧舎ほどの幅がある両翼は、広げれば冬の夜の訪れを思わせるほどに速く暗く黒く天を覆う。
盛り上がった鳩胸が膨らめば、喉奥から発した地鳴りのような声は山二つ先まで轟く。
魔力溜まりで生活するうち魔物と化した、鳥の王。
それが霊鳥だ。
「私が里へ降りたとき、あちらでみなさん困っておられるのを拝見いたしまして。ただ私はあいにくとただの宿屋主人、どうすることもできず歯がゆい思いで山頂を見つめておりました」
「いや、『ただの』っていうのは認めない。ただの宿屋主人は魔狼を素手でボコボコにしない」
「これは失礼をば。ただの、鍛えている、宿屋主人でございます」
「『鍛えてる』の一言では済むもんじゃないと思う……ていうか、あなたなら霊鳥だってなんとかできそうな気がしちゃうけど」
「私、膂力や身体能力は人並でして。先日の魔狼のように人型ならば相手の力を利用して投げ飛ばすなりできますが、大型の魔物とは戦いたくありません。ですから、お願いしたいのです」
クラギはナナカの横に立ったまま、頭を下げた。
冷めたお茶のカップに手をつけるナナカは、どうしたものかと言いたげに首をかしげる。
「まあ、身体も復調したし。《聖気》で戦えば空飛ぶ相手でもなんとかできるけど……」
「やっていただけるのですか」
「それはもう。こんだけお世話になってるんだし」
ぐっぱ、ぐっぱ、と左の掌を開閉する。
魔狼につけられた傷も癒えて、身体に不調はないようだった。
「いつ行こう。早い方がいいよね」
「そうですね。では持ち歩ける昼食をつくりますので、その準備ができましたら」
ちょっとした遠足気分のようなことを言い、クラギは頭を下げた。
……だが内心では、しめしめと思っていた。
霊鳥。その被害が増えつつあり、人々の注目が集まっているいま、それを勇者が倒したとなれば。
さらにその滞在先がこの宿だと知れれば。それなりの宣伝が見込めるだろう、と思っていた。
長い滞在をこちらから進んで受け入れたのは、そもそもこれが目的だったのだ。
勇者逗留の地として名を上げ、今後に繋げる……。
「……霊鳥の頭を剥製にして飾ってもいいかもしれませんね」
「え、どこに」
「いえ。記念になるかなと思ったのみですよ。ナナカ様逗留の」
「記念ねぇ。べつにいいと思うけど……それにしても、魔狼が出たり霊鳥が出たり忙しい土地よねここ。なんでこんな周りに人里もない危険で辺鄙なところに宿なんて建てたの?」
「競合のない場所がよかった、と申しますか……たいした理由はございませんよ。だれも建てないだろう場所に建てたかった、そこが第一です」
「ふうん?」
と、そこでどんどん、と玄関扉を叩く音が聞こえた。失礼しますと声をかけ、クラギはナナカの傍を離れる。
ホールを横切って扉につくと、鍵を外して開けた先にいたのは幌馬車を牽いた隊商だった。
髭面の、この隊の長と思しき男が目の前に立っており、驚いた様子でクラギを見ている。
「あれ、鍵かかってると思ったら、なんだよ。ここひとがいたのか? ずっと空き家だったはずなんだが」
「つい先日から宿を開業しておりまして。当館の主人、クラギと申します」
「へえ? こんな辺鄙な土地に物好きだな……まあ、これもなんかの縁か。よろしく、俺はピトスィ。行商をしてる」
ピトスィはヤニで黄ばんだ歯を見せてニカっと笑った。差し出された手と握手をかわし、クラギは彼の後ろの隊にさりげなく目をやる。
人数は十人。剣と槍と鍛えた肉体で武装した戦士が七名、杖をつき髪を長く伸ばして魔力をその身に編み込んでいる魔術士が三名。隊の護衛なのだろう。
魔術士は全員、疲弊しているようで顔が白く息が荒い。魔術を行使したあとによく見受けられる消耗状態だ。
またピトスィを含めだれもが身なりはぼろぼろで、幌も一部が裂けている。車輪のがたつきは悪路を無理に走って逃げたためだろうし、慣れない場所だろうに脚を折って休んでいる馬の様子から、彼らがかなり急がせたことも読み取れた。
「……なにかありましたか?」
「ああ、まあ。霊鳥の野郎が出没してるのは知ってんだろ? 奴がこの先の道で斜面を掘り返して、土砂崩れを引き起こしてやがったのさ。俺らの隊も襲われて、命からがらここまで逃げてきたってとこよ」
空き家だった頃に何度か休憩に利用させてもらってたんでね、と正直に述べ、ピトスィはがしがしと茶色い縮れ毛の頭を掻いてふけを散らした。
見たところ、護衛に連れている人々の練度は低くない。それでも逃げ切るのが精いっぱいだった、ということである。
「魔術士どもはずいぶん腕が立つ様子で自信満々だったんだがね……」
クラギの視線に気づいたのか、ピトスィは少し呆れたように三名をじろんと見据えた。
「《緋の矢》と《紫電箭》と、ずいぶん撃ち込んでたんだが。いくら当てても倒せなくてな」
「あんな巨大な魔物に通用するか!」「もっと小さいと思っていた」「俺たちの腕じゃ狩れてもヒクイワシ程度だ……」
聴こえていたのか、自分たちの術だろうにずいぶんと魔術の評価を貶めるようなことを叫ぶ魔術士たちだった。
「苦労されたようで。心中お察しいたします」
クラギが言うと、隊商の隊長を務める髭面の男は肩をすくめてみせた。
「まったく商売あがったりさ。んで、向こうに持ってく予定だった食い物とかが一部ダメになりそうなんだが。お前さん宿屋ってぇなら、なんか買わねぇか?」
「ふむ。なにがあります?」
「ホムラドリの姿煮と卵」
「足が早いものですねぇ」
「大丈夫だろうと高をくくってたんだよ。で、どうだ?」
「そうですね……でも、鳥ですか」
「鳥ダメか?」
「いえ。ダメではないのですが」
クラギは手をひさしのようにして、遠く、イジュフ山の方を見据えた。
「いまから鳥、取ってくる予定だったもので」
なんとも言えず、苦笑を浮かべるクラギであった。