12:ご心配には及びませんので
「おはようございます」
と言って昼のためのサンドイッチを入れたバスケットを手渡してくれたクラギの顔色は、眠っていないときの顔だった。
ナナカも三か月ほどこの宿に逗留したので、だいぶ彼の顔つきからいろいろ察するようになってきた。やはりひとりで回しているから仕事が多いのだろう、彼は週に三度は眠らない日がある。昨日がちょうどその日だったらしい。
「疲れてるなら無理しなくてもよかったのに」
「いえ。少し手紙をしたためるなどの作業もあったもので」
「手紙?」
「さあ、ゼルトラ様が待っておられますよ」
大したことではないという風に首を振って、クラギはナナカにうながした。
言われるままその場を離れ、ナナカは玄関ホールで煙草を喫んでいたゼルトラに近づく。彼はマントの下からもぞりと出した手に地図を握っており、にやっと笑ってそれを広げた。
「おはよう、ナナカ嬢ちゃん。クラギも」
「おはよー」
「おはようございます」
少しナナカに対してよりも硬い感じで応じたクラギは、彼にもバスケットを差し出した。
「なんだ? 昼飯か。いいのに、べつに。森でなんか採るから」
「放っておくと私がとっておいた茸や野草の群生地を荒らされる恐れがありますので。こちらで腹を満たして注意を逸らせればと思いまして」
「獣相手みたいな扱いするなよな」
「頭の回る獣だと評価しているがゆえの対応です」
「あまり誉めるなよ」
はっはと笑って受け取っていた。
それから近くにあったテーブルへ地図を広げ、ゼルトラは昨日話した内容を詰めていく。
「さて。今回の一件、魔物化した獣が狼、鳥、熊と三種いたわけだが。こういう場合の魔力溜まり捜索は、やみくもに辺りを動き回るばかりじゃあいけない」
「耳が痛い……」
「経験はこれからいくらでも補えるさ。それに、こうも連続するってのはなかなか無い事例だしな。で、こういう場合の探し方だが。要はこの三種の獣の生息域を重ねていく」
地図の上に細く削った木炭を走らせ、キガラ大森林の中に丸をつけていった。
イジュフ山方面、崖の多い場所。ここは崖下に巣をつくるサンザメキ――霊鳥の元の住処。
麓の里方面、沼地を抜けた先。ここは狼が縄張りをつくり獲物を待つ――魔狼の元の住処。
そしてこの近辺、起伏に富んだ冬眠場所も多い地形は熊たちが住まう。
「……バラバラよね、住んでる場所」
「塒と生息域はちとちがうぞ、嬢ちゃん」
「ですね」
クラギもゼルトラに賛同し、指先で地図に大きく円を描いた。三種の獣の住処をすべてそれで囲い込み――その中へさらにもうひとつ、今度はぎゅっと縮こまったちいさな円を描いた。
「この辺りかと」
「だな」
「え? え? なに、二人だけで通じ合った感じで」
「ま、付き合いが長いからな」
「認めたくはありませんが」
息の合った様子の二人にちょっと疎外感を覚えながら、ナナカはその辺りをじっと見つめる。
起伏に富んだ大森林の中で、ここは等高線の間隔が広い。
そして、川が流れている。
「……もしかして、水と、餌?」
「正解」「ご明察」
示し合わせたように同時に言われたのでなんだかそれにもあー、と言いたくなる気分だった。
「等高線の間隔が広い。平地ってことだな。獣が食える植物が生える。熊や狼からすりゃ、その餌を狙ってくる奴を仕留める猟場だ」
「加えて水は生存に不可欠。つまりその二つが重なる領域は、彼ら三種が共通して使う地点となりえるわけです。まあ、細かい理由を挙げるならもう少しいろいろあるのですが」
「その辺は実地で覚えた方がいい。ってなわけで、そろそろ行くかナナカ嬢ちゃん」
「あ、はい! じゃあ二手に分かれて……まずあたし上流行くから」
「俺は下流だな」
「ああ、下流の方なら道の途中に山小屋がありますので。そちらで休憩されるとよろしいですよ」
「おう。そうしとくわ」
それじゃ、と手を振ってゼルトラが扉を押し開く。
「夕食までには戻っておいでですか?」
「そう願いたいがね」
「日が落ちたら野営するかも。そのときは夕食はいいから」
後ろ手を振って、ナナカもつづく。クラギはいつもの通りの真顔で「承知しました」と返し、深々と一礼していた。
表に出て大森林までの道を歩きながら、ナナカはゼルトラに話しかける。
「宿屋さんと、長く旅してたんだよね」
「ああ、それなりにな。伝説の主である俺ほどじゃあないが、奴も腕は立つから旅の間は何度も背を預け合ったよ。いや、武術ではないから腕が立つというのは変か?」
「接客、だものね」
「なにが接客だよって感じだがな。まあ、しかし。奴が宿をやりたいという執念の下に磨き上げた技だ」
「執念?」
「……聞いてないか? なら語るのはやめておこう」
言葉をつぐみ、ゼルトラはくわえていた煙草を握り消して吸い殻を撒いた。
「どんなにありふれた過去でも、当人以外が語っていい過去は伝説だけだ」
含みのある表情で、ゼルトラは後ろで結った髪をぎゅっぎゅと引いた。
……過去。
それは、クラギが強いとバレたくない、もとい領分をわきまえていたい、と語ったことに通ずるのだろうか?
気にはなったが、ゼルトラに語る気はなさそうだ。
「じゃあな。俺はこちらの方へ行く。見つかれば夕刻宿で落ち合ったときに教えるよ」
「ありがと。それじゃ」
道が別れ、二人はそれぞれの場所で捜索する。
茂みに分け入り谷を越え、少しずつ傾斜のきつくなる道のりを行くナナカは川を辿って山間に臨んでいった。
途中幾度か休憩を挟み、クラギにもらったサンドイッチを食べ、もくもくと歩きつづける。
しかしどうにも魔力溜まりは見つからない。
魔力溜まりは、空気が滞留して少しひずんだ空間になっている。熱もないのに陽炎ができている、という感じだろうか。
大抵は窪地や少し周りから沈んだ場所になっていて、小さい規模のもので十から二十、大きい場合百以上もの魔力溜まりが発生する。雨後の水たまりのような感じだ。
要はくぼみに、地底から吹いた魔力が沈滞している。多くの魔物はそこを塒にすることで恒常的に魔力を浴び、肉体が変化するのである。
「見つからないなぁ……」
大聖堂から依頼を受けて一か月ほど、ナナカだって捜索していたのだ。それで見つからなかったのだから、探しはじめはこんなものかもしれないが……。
――結局その日は魔力溜まりに行きつくことはなく、ナナカはあきらめて宿に戻ることにした。
なんとなく、クラギとゼルトラという凄腕二人が示した場所なのだからすぐ見つかるのでは、と思っていた自分に気づく。そうそううまく運ぶことばかりではない、と当たり前のことを自分に言い聞かせた。
宿につづく道へ帰り着くと、ちょうどゼルトラも森の中から戻ったところだった。
「ゼルトラさん」
「おお、ナナカ嬢ちゃん。あいにくだがこっちは見当たらなくてな……そっちもか」
「うん。今日のとこは見つからなかったかな」
「はじめたばかりだ、気長にやろうや」
かははと豪快に笑い、ゼルトラは宿の扉を開いた。
ホールには、夕食のワゴンを個室で食事摂る客へ運ぶ途中のクラギがいた。
「お戻りですか」
「うん。というわけで、お風呂あがったら夕ご飯はお願い」
「承知いたしました。ゼルトラ様も夕食でよろしいですか」
「ん? あーそうだな」
「左様で。……そういえば、山小屋の方には寄りましたか?」
「ああ、一応な」
「昼食は?」
「そこで摂らせてもらったよ。バスケット、返しておくぞ」
「お粗末さまでございました」
受け取ってワゴンの下部に載せつつ、クラギはその場を歩き去りながら「湯あみが済みましたら食堂でお待ちください。すぐに用意しますので」と言い残していった。
なんとなく足早な感じがして、少し違和感があった。
「急ぎで夕飯運ばないといけないお客さんかな」
「ひとりで回してるんだから、単純に忙しいんだろう」
「ふうん……?」
そのような様子を見せたことは、これまで一度もなかったものだが。
不思議に思うナナカを後目にゼルトラは男用の湯殿へ向かい、泥を落としにいった。ナナカもつづいて湯殿に向かい、ひとまず今日の泥と汗を落とすことにした。
+
夕食も終えて夜半になり、なんとなく目が冴えてしまったナナカは部屋の外に出た。
乾いた冷たい空気が廊下にしみ込むようだった。
ガウンの上から腕を巻き付け、身震いしながらナナカは歩む。一階の書架で少し本でも借りて、読んでいるうちにまどろみに落ちればいいなと思いついた。
きしきしと音を立てる階段を降りて、一階へ。
昼にはそこらに満ちているひとの気配が一切感じられない中、暗いホールを抜けてひたひたと歩いた。
書架のある図書室へ――と、足を向けた先で。
「あれ」
「ナナカ様」
廊下に置かれたソファに腰かけ、紅茶をすするクラギを見つけた。
ランプの下で帳簿を開いており、なにやら仕事をしている。
「昨晩も寝てないんじゃないの?」
「断続的に数瞬意識を落としたことを除けば、そうですね」
「その仕事、お急ぎ?」
「では、ないですね」
「じゃあ後回しで眠ってもいいでしょ。無理したら体に毒だよ」
「まあ必要なことなのです。眠気覚ましといいましょうか」
ナナカなら数字と首っ引きなどするとすぐに眠りに落ちてしまいそうだが、どうやらクラギは頭を働かせている方が起きていられるらしい。ひとによっていろいろだなと思いながらも、彼女は彼の横に腰を落ち着ける。
「な、なんです」
少し身じろぎして距離を空けられる。ちょっと傷ついた。
「な、なにその態度」
「いえ……夜着で迫られたものですから」
「そ、そういうんじゃないし!」
「ではいったい」
「あーもう! なんか考え事か抱えてるのか知らないけど、気になる態度取るから話聞こうって、横に座っただけじゃない!」
一気にまくしたてると、クラギはきょとんとしていた。
次いで、いや、と首を横に振る。
「心配いただくほどのことではありませんし、ナナカ様のお手をわずらわせることはございませんよ」
「じゃあちゃんとして。ちゃんと休んでちゃんとしてなきゃ、心配するから」
「宿の人間がお客様を心配することはあっても、逆のことをしていただく必要はありませんよ」
静かに打ち切るように目を逸らし、帳簿の上に視線を置く。
やんわりとたしなめるような物言いではあったが、少しかちんときた。
「もうあたしっていう客に心配させてる時点で、宿屋さんの落ち度じゃないの?」
「……それは。申し開きができませんね」
「わかったらもう休む。明日できることは明日やるべきことよ」
「そう、ですかね」
帳簿を閉じたクラギの背をぱんぱんと叩くようにして、ナナカは宿の最奥にある部屋――クラギが寝起きしている小部屋だ――へと、彼を追い込んだ。困ったような顔をしていた彼だが、さすがにベッドまで追い立てられてはあきらめた様子だった。
静かに布団の中に身を横たえ、けれどナナカに一言だけ返す。
「……今回は私の落ち度ゆえなのでなにも言えないのですが、異性の寝室へ夜半にやってきて、あまつさえベッドまで追い立てるのは、淑女としてどうかと」
「こういう状況でなきゃしないから! おやすみ!」
ばたんと勢いよく扉を閉める。
興奮でゆだっていた頭から次第に血が降りて来て、けれど頬や首には赤みとして残っているのが鏡を見なくてもわかる。そんな火照りを感じた。
「……はぁー」
扉を背にずるずると床に身体を下ろしていき、背後の室内の気配を確かめる。
ちゃんと布団の中に居ることを察して、ふうともうひとつため息をついた。
「お世話になってるんだから、こっちだって単なるお客として接するばかりじゃないって、思わないのかな……」
ひとりごちて、立ち上がり。とぼとぼと歩き出す。
途中で前庭の方を見ると、月明かりを見上げながらゼルトラが煙草をふかしているのが見えた。
こんな夜中にわざわざ外に出なくとも、とは思ったが、以前に西方で一時的な戦団を組んだ喫煙者の戦士が「冬場の寒さの中で喫む乾いた煙草がうまい」と言っていたのを思い出し、そんなものかと納得しておいた。
+
翌朝。
宿の裏手にある伝書鳩の小屋で遭遇したクラギは、まったく目の下のくまが取れていなかった。
あれだけ言って布団にまで押し込んだというのに、結局眠っていなかったらしい。呆れ果ててものが言えず、ナナカは彼を無視して出て行こうとした。
しかし回り込まれ、バスケットを渡される。
「こちら、お昼にと。つくっておきましたので」
「……ありがと、う」
差し出されるサンドイッチを受け取りつつも、どうにも対応はつっけんどんになってしまう。
そんな二人をおかしそうに眺めるゼルトラは、地図を取り出して昨日回った地点に木炭で斜線を入れていた。
「さて、今日はどう捜索したものだろうな」
「それですが」
横から口を挟むクラギが、ゼルトラから木炭を奪って線を引く。
それは昨日ナナカが半ばまで歩んでいた、山脈へとつづく道だ。その向こうへとずーっと線を引いていき、開けた平野部をとんとんと指す。
「昨日の捜索でうまく見つからなかったということから、少し考えまして。ここじゃないかと」
「そこになにがあるというんだ?」
「いまは、ないですね」
「……いまは?」
ええ、と言葉を切り、クラギは足下の地面を爪先で軽く掘った。
「ここの平野部は、水はけの悪い土地なのですよ」
「?」
「いまはこの周囲取り巻く空気を感じればわかる通り、冬の乾季に入って非常に乾燥しておりますが……数か月前、雨季の頃は水が溜まる土地になっていたはずです」
「あ。それって」
「ええ。魔物化のためには恒常的に魔力を浴びるよう、そこに長居する必要がありますが。そのときはこの地点に一時的な水場ができます。つまり川でなくここを獣たちが利用していた可能性もあるのでは、と」
半ばまで確信した表情で、クラギは言った。
……もしかして。
帳簿を見て眠らないようにしていたのも、こうした魔力溜まりについての推察を重ねるためのものだったのでは――とナナカは思い至った。だとしたら昨晩の仕打ちはあまりにも雑な対応だったかもしれない。
「あ、あの。宿屋さ」
「とはいえまだ推論の域を出ません。実際にここがそういった土地になっているかは、ナナカ様たちに確認いただかねば」
言葉を遮り、けれどふっと笑う。
働きで返してくれればいいとでも言うかのような表情だった。
「……わかった」
「となりゃ、ちと距離があるな。一泊の野営を挟むことを考えねばならんだろ」
「ですね。それにこの平野部も二通りの道がありますので、お二方それぞれで向かっていただいた方がよろしいかと」
「ふむ。じゃ、用意済ませていくとするか」
ゼルトラとナナカは宿の中から野営のための装備を一式借用し(クラギはゼルトラに「返してくださいよ」と念を押した)、背嚢に加えて背負いあげるとそれぞれで道を選んだ。
「俺は森から」
「あたしは昨日の道のつづきから」
「お二人とも、お気をつけて」
クラギに見送られ、ゼルトラが森へ。ナナカは川を遡上した先へ。
別れて向かい、ナナカは頭上の枝葉の切れ目からのぞく、遠い山脈へと目を細めた。
その頂には、すでに白く雪がかかっている。寒くなる時期だ、とまだ歩き始めで鈍い体を震わせた。
「上の方であったかいお茶とか沸かす方がいいかな。サンドイッチも焼き――って、あ」
ぴたりと足を止める。
受け取ったサンドイッチのバスケットを忘れてしまった。
まだ道を歩きはじめたばかりでよかった、とすたすた引き返すナナカ。
ついでに、顔を合わせるのだからもう一度ちゃんとクラギに謝っておこうと思い、しかし謝罪は受け入れてくれない気もしたので「案を考えていてくれてありがとう」と伝えることにした。
軽い足取りでナナカは元来た道を行く。
が、その途上で。
「……あれ?」
宿の入り口でナナカたちを見送ったはずのクラギが、森へ入っていくのを見た。
野草や茸を採集に来たのか? それにしては籠もなにも持たず手ぶらだったが。
気になって、脇道に行った彼の背を追う。
道はすぐに獣道へ逸れて、枝や蜘蛛の巣が行く手を阻んだ。なぜこんな道なき道を、と思いながら、足元へわずかに残る彼の足跡をたどろうとする。
そこで、足跡が二重に残っていることに気づく。
「……え?」
そして。
気づいたときに、向こうから激しい踏み込みと打撃音とが弾けるのを、耳にした。
「――――かっはっは」
次いで、野太い声。
藪を漕いで音の元へと、ナナカは歩み寄って行って……、二人の対峙を、木々の隙間からのぞくこととなった。
「もう気づかれるとは思ってなかったよ。クラギ」
左半身の姿勢で、拳を繰り出した直後のゼルトラと。
彼に殴り飛ばされ、口の端から血を流すクラギがそこに居た。
「どこから気づいてた?」
「どこからだと思います?」
手の甲で口許の血をぬぐい、立ち尽くして。
クラギは吐き捨てるように問いを返す。懐から出した封筒を、地面に落とした。
蝋で封をなされた封筒は、教会の印章が入っている。
「そも、目の前の出来事が面白いかどうかだけで動くはずの貴方が、魔力溜まりの捜索などという面倒事を引き受けるとは思いません。大聖堂まではさすがに遠かったので近くの教会に伝書鳩で確認を取りましたが、いま貴方宛てのアザレア様からの命などは、なにも無いとのことでした」
「それはもう俺にアタリをつけてからの裏取りだろ? 俺が聞きたいのはそれ以前だ」
「……言わなければわかりませんか? 最初。我が宿の扉を開けた瞬間ですよ。貴方、私を見たときにきょとんとしましたね? そのくせ私を訪ねてきたなどと白々しい嘘をつく。地図を見て狼の住処をナナカ様が指したときに、案内役がいなければ踏み入れないような奥地にもかかわらず『沼地か』とすぐに察したことも不自然でした。この辺りの下調べをしていた証左でしょう。加えて貴方、昨日私がすすめた山小屋で昼食をとったと言いましたね」
「ああ」
「あそこは私が山で狩ったイノシシなどの獣を解体し、肉を吊るしておく場所です。いかに貴方が無神経でがさつで粗野で情緒を解さない愚か者でも、あの血まみれの場所を見れば食事の休憩をとろうとは思いませんよ。……すぐに露見するようなウソをついて、その間貴方がなにをしていたか」
ざり、とクラギは足下を蹴りで払うようにした。
ひとが一人寝転がっていたように、下草が払われている。
木々の間を視線で抜けば、ちょうど宿屋を見張ることができる位置だった。
「私の観察、ですね。……最初は、ナナカ様を狙ってきたのかと思いましたが」
「夜を徹しての見張りでそれはない、と踏んだわけだな」
ナナカは胸が締め付けられるような気がした。
クラギの無茶は……自分のためだったのだ。
そして、ゼルトラは完全に己の行動が読まれていたことをすべて明らかにされて。
愉快そうに、大笑いした。
「宿屋の観察眼。くくかははは、相変わらずだなぁクラギ。お前だけは敵に回したくないと常々思っていたよ」
「それなのに、この行動ですか」
「ああ。俺にとってやりたくないことってのはな、後回しにしたいことって意味に過ぎん」
つまりは、だ。
言葉を切って、ゼルトラは左足で草を踏みにじるように前に進む。
足幅を広く開き、重心を深く落とす。東邦の拳法の構えで、マントを払い歯列を剥き出しにした。
「最後にとっておきたい、とっておきの相手だと思ってたんだよ。クラギ。……お前この間、裏の術士の奴をぶっ飛ばしたろ。俺はそいつらに『ここの宿の主人を消せ』と命を受けてきたんだ」
「裏の術士?」
「覚えちゃいないか。サフランって魔術士をけしかけた奴だそうだがな」
「ああ、左様でございますか」
「大して感慨もなさそうだな」
「実際うろ覚えですので。それでは、依頼によって私と戦うと」
「そのつもりだ」
クラギはこれに対し静かに、右足をわずか前に進めて五指を開き、両手を低い位置に置いた。
普通の立ち姿からほとんど変わりない、しかし天に伸びあがるような芯の通った姿勢だ。
「でしたら。お望み通りに」
「いいのか?」
「貴方も、お客様ですからね。ご要望にはお答えしましょう……ただし」
言葉を切って、クラギがゆっくりと右手を視線の高さに上げる。
それだけで威圧感が増し、戦意が膨れ上がった。
「宿の中を乱す貴方にはもう加減をしません。ここからは私の手番です」




