1:ご休憩ですか?ご宿泊ですか?
ドンドン、と扉をノックする音でクラギは目を覚ます。
大雨が降る深夜の訪問者は――ずぶ濡れの少女だった。
館の玄関口で彼女を迎えたクラギが固まっていると、少女は口を開く。
「夜中に突然、ごめんなさい。森の中で怪我して……手当する間、少しここを借りてもいい?」
クラギよりもだいぶ背の低い少女は、一束に結った赤い髪を垂らして頭を下げた。
足元に剣を置いている。敵意が無いことを示すためだろう。
身に帯びているのは動きやすそうな鎧だ。
だが手甲の隙間、肩当の間など至るところから出血しており、とくに左前腕の裂傷は深い。
いまもまだ、ぽたぽたと血が垂れつづけている。
「……ひどい怪我ではありませんか。部屋の方へどうぞ」
クラギは扉を手前に開き、雨の森を駆けてきたという少女を招いた。
しかし彼女は首を横に振る。
「いい。そこまで迷惑かけらんないし」
「しかし」
「いいから、いいから。ちょっと火を使えるところがほしかっただけなの」
少女は腰を下ろすと肩にかけていた背嚢を下ろし、中身をてきぱき並べる。
酒瓶、革袋、ナイフ、硬パン、薬草の束、包帯、ランプ。
「よいしょっと……『火蜥蜴の牙打ち鳴らし、灯れ』」
まず呪文を唱え、少女はナイフの先端に火を宿した。
これをランプへ移して明かりを確保した少女は、酒瓶に手を伸ばす。
ふたを開けて中身を口に含んだ少女は、右手で革袋を探ると針と糸を取り出した。
次に糸を通してから「ブッ」と口に含んだ液――きつい酒だ――を左腕の傷口に吹きかける。
……しばらく、ぶるぶると震えた。
痛みが引いたのか顔を上げた彼女は、
針の先をきらりと光らせた。
「さーて……がまん、我慢……っ、つぅ! ……痛っ……」
それから、ぶるっと震え、息を吐き、ぶるっと震え、息を吐き……
何度もそんな反応を繰り返し自分で傷口を縫い合わせた。
最後に薬草を酒と共にしばらく噛んで、ドロッとしたところで縫い痕に塗り込む。包帯を巻き終えると、残った薬草をほかの細かい傷にも塗る。
作業の終わりに挟み込むように、クラギは彼女にカップを差し出した。
「どうぞ」
「え? あーうん。いいの? ……ありがと」
作業をずっと見ているだけでは申し訳ない気がしたクラギは、せめて温かいものをと思って紅茶を淹れていた。
少女は右手でカップを受け取り、香りを鼻に通す。
「いい匂い。これ、あなたが?」
「はい。雨に濡れてさぞ冷えていることと存じましたので……せめて温まって頂ければと。あとこちら、拭織物です」
暖炉の前で少し温めておいた拭織物を手に広げ、少女の赤い髪とうなじを覆うように渡す。
「そこまでしてもらわなくてもいいんだけどなぁ」
言いながら、くすぐったそうに彼女は薄く笑った。
それから紅茶に口をつけ、こくんと嚥下する。
沈黙が落ちて、雨の降る音だけが二人の間に満ちていった。
「……よし、それじゃ」
飲み終えたカップを脇に置き、少女は荷物をまとめはじめる。
「もう出立するというのですか」
「うん。これ以上迷惑、かけらんないから」
「迷惑とは申しますが……別段私は、構いませんよ」
「どうして」
「どうしてもなにも。失礼ながら、ここをどこだとお思いですか?」
クラギは扉の横にかかっていた看板を、こんこんとノックして示した。
少女は橙色の目を細めて、ランプを持ち上げながらそこをにらむ。
「……『旅人の宿 木の洞』?」
「はい。私この宿屋の主人を務めております、クラギと申します」
読み上げてもらったところで微笑み、深々とお辞儀をしてみせる。
「この大雨、しかも深夜、このような森の奥深くで。深手を負った状態の方を外に放り出すほど、薄情なつもりはございません。部屋は空いております、どうぞご宿泊を」
「あー……あはは。気持ちはありがたいんだけど、あたしの方にもやむにやまれぬジジョーってのがあってね。宿屋さんを巻き込むわけにはいかないの」
苦笑いしながら頬を掻いた少女は、足元に置いていた剣を腰に括りつける。
左手を、握っては開く。どうも力が入りづらいらしく動きはぎこちない。
「だってあたし――じつは、」
言いかけたところで、彼女は目つきを鋭くした。
ばっと振り向き、後方に広がる森を見やる。
大雨で視界がけぶる向こうに、枝葉がざわざわと揺れていた。
その動きに、
雨風によるものでない揺れが混じる。
ぬう――と。
大きな影が、茂みを掻き分けて近づいていた。
黄色く濁った双つの光。それのまなこが、こちらをにらんでいる。
一対、二対、三対、四対……全部で、八対。
八体の魔狼が、獣らしい関節を持った後ろ足二本で人間のように立ち上がり、こちらへ近づいていた。
そのうち一体の片腕は、血に濡れている。
少女は左腕をかばうように、右半身になった。
「あちゃー……雨で臭いもだいぶ薄れてると思ったのに。ままならないや」
どさりと背嚢を下ろした少女は剣を抜く。
抜き放たれた瞬間に、辺りの大気がすぅっと斬り裂かれていくような印象があった。
刃渡りは少女の片腕ほど。片刃の剣は、彼女が右片手で振るうと雨の幕を断ち切った。
途端、ぼうっと薄い金の光が剣身をまとう。
「巻き込んでごめんね。でも、大丈夫」
玄関ポーチの下を出て雨に濡れる。
構えて、剣を掲げた。魔狼の群れが彼女に近づく。
距離は十歩というところだ。左右に広がった陣形で魔狼は包囲を狭めていく。
「だってあたしは、ナナカ・ローワン――――魔物を倒す、《勇者》だから」
ナナカと名乗った少女は身体を震わせる。
痛みによるものではない。
力を発するための予備動作だ。
彼女の全身から絞り出すように、金色の光が流れ出した。
逆立ち巻き上がる赤い髪を、首を振ることで払う。
炉のような輝きを宿した彼女の目が、魔狼の群れを射抜く。
「さあ……少し休んで《聖気》も多少戻ったよ。ここから、一気に――」「失礼」
クラギは飛び掛かろうとしたナナカの膝裏を蹴って、カックンと姿勢を崩す。
襟首をひっつかんで腕を取り、そのまま崩しの勢いに載せてポーンと後ろに投げる。
呆気に取られた顔の彼女は、けれどさすがに勇者だけあるのか。一瞬の受け身で立ち直った。
「ちょ……ちょっと!? な、いきなりなにを?!」
「そんな怪我をしている方を戦わせるわけにはまいりません」
「いやそんなこと言っても! あなた、宿屋でしょ?!」
「はい」
「なにができるっていうの! ……あ。もしかして、冒険者あがりで魔術とか武術の達人なの?」
ちょっとだけ期待を込めた目で彼女はクラギを見る。
即座に彼は首を横に振った。
「いえ。どちらも経験はございません。私にできるのは最高の接客だけです」
「ホラだめじゃない!」
「しかし私は宿屋です。休むべき方を戦地に放っておくわけにはまいりません」
「でも接客しかできないんでしょ!」
「接客ではありません。『最高の』接客です」
訂正を入れると、ナナカは呆れ果てた様子だった。
と、みるみるうちに目を見開いて叫ぶ。
「後ろ! あぶないっ!」
がつ、っと強く蹴りつけた音。つづいて風切り迫る音が、クラギの元へ迫る。
振り向けば、右腕を振り上げた魔狼の一体が大地を踏みしめ肉薄していた。
さっとクラギは身を横にかわす。
振り抜かれた長い腕は彼の身をかすめて地面に落ち――硬く踏みしめられた地表を、深く抉って爆散させた。
大樹の幹すら削り取るこの膂力。加えてひと蹴りで間合いを詰める剛脚。
人間などでは到底相手にならない、圧倒的な暴力がそこにあった。
だが。
クラギは慌てることもない。
いままた彼を引き裂かんと伸ばされた爪を、冷静ににらんだ。
「――いまは深夜です」
踏み込んだ足から渦巻くように。
身を翻し、クラギは魔狼の右腕を取った。
背負って投げ飛ばす。その先には玄関ポーチを支える円柱がある。
腰から叩きつけられた魔狼は、舌を出して悲鳴をあげた。すかさずクラギは左の掌打を腹部へ叩き込む。
円柱と掌打の間に挟まれ、ごきんと鈍い音。腰椎を砕いたのだ。
まさに瞬殺。
間と呼吸をつかんだ業だった。
「お静かに願いますよ」
どさりと落ちた魔狼を後目に、クラギは次へ向かう。
一体目が瞬時に倒されたことで警戒したか、魔狼の群れはわずかにあとずさった。
そしてあとずさったのは、ナナカも同じだった。
「え、え、えええええ……?! うぇ、魔狼を、一撃で……!」
「大したことではございません」
「そんなわけないでしょ! 魔狼なんて単独で倒すの、勇者ならともかくも勲章持ちの職種でもなきゃふつう無理だよ! あなた接客しかできないとか言って、全然そんなことないじゃない!」
「いいえ。これも接客です」
両手をぱんぱんと打ち鳴らして、クラギは残る魔狼たちへ歩む。
「最高の接客を行うには、お客様がなにを思っているかを読み取り、欲するところを成す必要があります」
雨にぬかるむ地面を踏みしめ、クラギは近づく。
「そしてお客様がなにを欲するか、なにをしてほしいのかを読み取れるなら――その逆を行うこともまた、可能ということです」
最高の接客は最強の観察眼に通ずる。
その眼は、相手のもっともしてほしくないことをも読み取る武器と化す。
相手の苦手な機で、相手のいてほしくない間合いで相手の嫌がることを成す。
接客術の裏返し――《裏接客術》とでも呼ぶべきものだ。
クラギは雨中に足を止め、魔狼たちに一礼してみせる。
「さて、はじめましょうか。そしてすぐに終わらせます。……このあとも接客業務が控えておりますので、ね」
不敵に笑んで、彼はナナカの方をかえりみた。