{第6章} Instant Egoist (後編)
「お兄さん、お待たせしました」
その声で振り向くと、肩出しの淡いブルーのワンピースにサンダル姿の由良が立っていた。
すぐにいつもと雰囲気が違うことに気づいた。
香水をつけているのか、彼女からいつもとは違う匂いが漂っている。
「今日は、お前にあの時の返事をしようと思ってきたんだけど」
俺が話を始めると由良はにっこり笑う。
しかし、その笑顔も今まで俺に何回も見せてきた屈託のない笑顔とは違い、どこか寂寥を感じさせるものに見える。
もしかしたら由良も、もう全て分かっているのかもしれない。
「お兄さん、その前にせっかく遊園地に来たんですから少し遊びませんか?」
由良が待ち合わせに選んだのは後楽園遊園地だった。
これから修羅場と化す二人にとって遊園地は最も無縁な場所であるはずなのに、由良はなぜかここを選んだ。
俺はまだその理由がわからなかった。
「……じゃあ、そうするか」
俺と一緒に遊んで、辛くならないのか。
それだけが気がかりだったが由良がそうしたいと言うのなら俺は従うしかない。
「じゃあ、まずはこれに乗りましょう」
由良は俺の手を握り、前を歩いていく。
こうやって手を繋ぐことにまだドキドキしてしまう自分がいる。
由良も何か思っているのか、列の最後尾に並ぶとそわそわした様子でいる。
「並んでいる間暇なのでお兄さん何かお話してくださいよ」
「急な無茶振りだな。何かって……」
「そうですね。お兄さんがなんで私たちのマネージャーになったのか、とか。以前ちぃねぇと何か約束したって言っていませんでしたか?」
「あぁ、昔まだ俺と千歳が小学校くらいの時の話だな。その頃からあいつ芸能界に憧れていて、テレビの前に張り付くように好きなアイドルや女優を見ていたんだ。子供ながらの約束だよ。千歳が『私、絶対にアイドルになる』って言ったから、『じゃあ俺はお前の一番近くでお前を応援する』って。まさか本当にこうなるとは思わなかったよ。まぁバイトのマネージャーなんだけどね」
「でもちぃねぇはきっと嬉しかったと思いますよ」
「でも、実際に二人暮らししてみると、家事は俺が全部やるし、休日はマネージャーだし、機嫌損ねたら直すの大変だしで結構骨が折れるよ」
いかん。
由良といるのに話していることが全部千歳のことばっかりだ。
「……でも、お兄さんはちぃねぇのこと、好きなんですよね」
由良が少し悲しそうな顔で遠くを見つめている。
視線の先には俺と『3LDK』がはじめて会った場所、東京ドームがあった。
「お兄さん覚えてますか? 初めて会った時のこと。私、初めてお兄さんに会った時、『全然似てない』って言ったんですよ」
由良がクスクスと笑う。
「覚えてるよ、生意気なガキだなって思ったよ」
「それから、はるねぇに首絞められるし、ちぃねぇに振り回されているしで、はっきり言って使えない人だなって思ったんですよ」
「おい」
なんか俺の評価最悪じゃないか?
こいつ、本当に俺のこと好きなのかと疑ってしまいそうになる。
「でも、あのバンジージャンプの時、お兄さんが真剣に私たちのこと考えてくれて嬉しかった。青山とスタッフと私たちの間で板挟みになりながらもずっと交渉してくれて、あぁ私たちのためにこんなに一生懸命思ってくれている人がすぐ近くでいるんだなって。多分その時初めて私、この人のこと好きなんだって感じたんです。優しくてすぐパシれる年上のお兄ちゃんから、一人の男の子として、私のことも好きになってほしいなって初めてそう思ったんです」
いつの間にか由良の目には涙が溜まっていた。
普段はいつも俺のことをからかってばかりですごく馴れ馴れしいのに、今は隣にいる由良との間に距離を感じる。
由良が振り返り俺に背中を見せた。
「でもやっぱりダメでしたね。初恋は99.999%叶わないっていうジンクスは本当だったようです」
上ずった声でそう言うと由良はこちらに振り返った。
「だから、最後くらいとびきりのおしゃれをして楽しもうと決めたんです」
俺はその時の由良の顔を忘れることはないだろう。
彼女の笑顔は、初めて見たあの時のように輝いていたのだから。
忘れられるわけがない。
「由良、ごめん。お前の気持ちに応えてやれなくて」
奥歯に力を入れないと崩れてしまいそうになる。
「お兄さん私のこと好きでしたよね? だから今泣いているんですよね」
その言葉に俺はハッとして自分の頰に触れてみた。
指先に湿り気を感じる。
「今日ここに来たのは、お兄さんの気持ちの整理をつけて欲しくて。どっち付かずな気持ちでちぃねぇと付き合っちゃダメ。ちゃんと私のことを綺麗に片付けないと、きっとちぃねぇを悲しませてしまう」
きっと辛いだろうに、今誰よりも傷ついている15歳の少女は最後の最後まで健気で、他人思いだった。
列が進み、いつの間にか俺たちが先頭で待っていた。
「最後は笑顔で楽しみましょ」
由良がそう言って、手を差し出してきた。
今回は自分から握りに行くのではなく、俺に握ってほしそうに手のひらを上に向けて待っている。
そっと手を重ねる。
まるでダンスフロアへ向かうように手を繋いで俺たちはメリーゴーランドに乗り込んだ。
「じゃあ、お兄さん。また今度」
「また現場でな」
別れ際、お互い決して“さよなら”は口にしなかった。
俺は由良の姿が見えなくなるまで遊園地の入り口で見送った。
彼女は一度もこちらには振り返らなかった。
ただ等速で進み、やがて行き交う人の流れに飲み込まれていった。
****
「どうしたの? こんな時間に」
玄関のチャイムが鳴り、扉を開けると涙で顔をぐしゃぐしゃにした由良が立っていた。
「…はる、ねぇ……」
「とりあえず、中に入りなさい」
まずは気持ちを落ちつかせないと。
「これ飲んで落ち着きなさい」
「ありがと、はるねぇ……」
丁寧にマグカップを両手で抱える由良は少し口にすると、はぁと小さくため息をついた。
なんのことかは大体見当がついている。
大和のことだろう。
「千歳も由良も、同じ男のことで悩んで、逃げ込む場所も同じなのね」
「ちぃねぇもここに来たの?」
「あなたと大和が福岡に行く前の日にね。喧嘩したらしくて同じように泣きながら駆け込んできたわ」
「そっか……」
由良はその話を聞くと少し顔をうつむかせた。
「ねぇ、はるねぇ。私、ちぃねぇとまだ友達で居られるかな? ちぃねぇのことも、はるねぇのことも大好きだから、でもそれと同じくらい……」
由良はそこまで言うと、再び涙を零した。
私はそっと由良を抱きしめる、千歳の時と同じように。
「私たちだけでも二人のこと祝福してあげましょう。友達として。大丈夫、辛いのはあなただけじゃないわ」
いつの間にか、私の目も涙で濡れていた。
「はるねぇ……はるねぇもお兄さんのこと……」
誰にも知られないでいい。
目の前の千歳と由良に自分が敵うはずがない。
そう捻くれていた私の気持ちを、ゆっくりと解くように由良が私の頭を撫でてくる。
「はるねぇは強いね、ほんと」
いつの間にか私が由良に慰められる形になっていた。
由良、ありがとう。
それを伝えようと私は由良を抱く腕に力を込めて、そして二人泣いた。
****
「お兄さん、おはようございます」
それからも俺と由良の関係は変わらなかった。
あいつはトップアイドルで、俺はバイトのマネージャー。
でも、一つだけ今までとは違うことがあった。
「由良、この後ゲストでバラエティ収録が二本あるから」
そう、明らかに由良個人の仕事量が増えている。
青山さんにそのことを聞いてみたのだが、本人の希望だと言うことで詳しいことを話してはくれなかった。
「由良、あまり無理するなよ」
中学三年生にまだそんなに体力があるとは思えない。
特に由良のように小柄で華奢の子がこの後ぶっ通しで6時間も仕事ができるのか心配になった。
「お兄さん、優しいですね。ありがとうございます」
由良はにっこり笑い、そう言うと青山さんに連れられてスタジオの方に向かった。
「千歳、やっぱり由良のやつ、少し働きすぎじゃないか?」
隣でスウェット姿のままスマホをいじっている千歳に聞く。
こいつのズボラな格好はあれ以降も変わらない。
「由良はもともとバラエティーから結構オファー来ていたらしいよ。なんか今まではあえてセーブしていたらしいけど、きっと気持ちの整理が付いたんだろうね」
そういえば千歳は由良と一言も話していなかったような気が。
「そっか、まぁぶっ倒れなきゃいいんだけど」
「私たちも早く行かないと会議遅れるよ」
「そうだな」
俺たちもその場を後にした。
この時の俺の懸念が現実のものになったのはそれから1週間も立たなかったある日のことである。
――由良が収録中の現場で突然倒れた。




