第2話
私の兄は、昔から過保護で有名だった。
過保護、というのは控え目に見積もって聞き覚えの良い言葉での表現である。
中学時代の口の悪い友人に言わせれば、
「こころのお兄さんって、見た目はカッコイイんだけどシスコンだからなあ」
とのことである。
ここまではまだ冗談の範囲だと思っていたのだが、
「実はさ、私中学一年のクリスマス前にユウトさんに告白したんだけど、」
中学の卒業式の日、友人達と女子中学生最後の放課後ファミレスお喋り大会を繰り広げていたその最中に飛び出した友人の一人の衝撃の告白が、
「俺はこころ一筋だから誰とも付き合えないって断られたんだよね。……その時は、断るにしてももうちょっと言い方とかあるんじゃないのって落ち込んでたけどさ。でも今にして思えばさ、あれって本気だったんだなって」
それまで、兄が私に向ける目や感情を不思議とも何とも思っていなかったのだが、この話を聞いて以降、
「……あれ、もしかして私のお兄ちゃんって、ヤバい……?」
思わず呟いたその言葉に、友人達が深く頷くのを見て、ようやく私は世間の評価という言葉で表現されるであろう現実を認識したのだった。
そこからの一年、つまりは私が高校一年生である間は、私に対する屈折した何らかの感情を抱く兄との闘いの日々でもあった。
その闘争の日々が終わりを告げたのは、兄の大学卒業、つまり就職であり、兄が家を出ることになったからである。
私の高校一年の間に何があったか、それを多く語ることはしないが、まあ日常的に私が兄を殴るような出来事が割とあった、とだけ言っておこう。
中学までは、休日は一緒に出掛けることが多かったし、夜は私の部屋のベッドで一緒に寝ていたし、お風呂も一緒に入っていた。
だが、あの友人の衝撃の告白以降、兄をそういう目で見てしまい、故にそれらの全てを拒絶した。
兄は傷付いたような表情を見せてはいたが、すぐに立ち直り、むしろ前より酷くなった。
休日は私が着いてくるなと言っても絶対に着いてくるし、夜は私が寝入った後に兄が部屋に来ていたようだったし、だがお風呂が別々というのだけは何とか押し通した。
兄のこれらの態度というか言動も含めたこれらを、私はむしろ嫌悪に近い悪感情でもって相対していた一年ではあったのだけれど。
……でもそれは私の勘違いというか、被害妄想みたいなものだったのかも。
兄が家を出た後、やや静かで寂しくなった自室で、たまにはそんなことを思ってみたりもした。
言動がややもすれば過激で、兄妹の域を超えているような節がないこともなかったのだけれど、でも。
兄はいつだって私を見守っていてくれた。
兄はいつだって、私を大切にしてくれていた。
今日だって、そうだ。
私が風邪を引いたというただそれだけのことで、兄は居ても立っても居られずに駆けつけてくれたのだ。
そう思えば、うん、その、なんだ、
「――やっぱりお兄ちゃんは、私のことが大好きで、だから私もお兄ちゃんのことが大好きだよ」
「……あ゛のざあ、お兄ぢゃん、何言っでんの?」
「うわこころ、起きてたのか!? ……いや何、こころの心の声を代弁してみただけで、」
私が横になっているベッドの横、兄が穏やかな微笑みを浮かべて不穏な独り言を繰り返していれば、そりゃ起きるよ。
「……うーん、こころのそのジト目も案外良いものだな。……じゃなくて、お粥作ってあるんだけど食べるか?」
私の抗議の視線も、兄にはかけらほどの効果もないようですらある。私は溜息混じりに、兄の問いに頷く。
「そっか。すぐ持ってくるからな」
部屋を出ていく兄の背を見送って、私はベッドに横になったままぼんやりと天井を見上げる。
面倒くさいところもあるけれども、でも看病をしてくれている兄には素直に感謝すべきだと心ではわかっている。
だけれどもそれが出来ないのは、
「待たせたな、こころ。……さあ食べさせてやるから目を閉じるんだ」
ほんのり湯気の立つお粥を持ってきた、までは良かった。
だが兄よ、何故私に食べさせるのではなく自分の口に入れたのだ?
そして、何故に私の方に顔を近付けてくるのか?
「……なんだ、こころ? そう恥ずかしがることはないぞ? 兄妹なんだし、口移しで食べさせるくらいなんてことはない、大丈夫だ」
いや大丈夫ではないし、というかそもそも普通に食べさせて欲しいっていうかお粥くらい自分で食べられるから!
むしろ、反射的に殴りそうになって、けれどもそれを自制した私を褒めて欲しい、というまである。
今の兄は、お粥を口いっぱいに詰めており、それを殴ると、その、私の部屋が汚れるかもしれないから。
あくまでも兄を気遣った訳ではなく、それが嫌だったのだと、そういう話である。
***
夕方近くになり、ようやっと兄からスマホを奪い返すことに成功し、アプリを開いて彼氏に事の次第を連絡する。
スマホを取り返すに当たって、兄は最初は渋っていたが、上目遣いでついでに瞳に涙を湛えてお願いしてみたら、案外上手くいった。
ちょろい、とか楽勝、とかそんな言葉が頭を過ぎったが、まあそんなものである。
アプリを開いて、風邪を引いてしまってデートに行けなかったことの謝罪と、とりあえず朝からの頭のおかしい発言は全て兄が勝手にやったことだとチャットに入力する。
その後にチャットの履歴をざっと流し読みするも、朝見た以降、彼氏からの返事がないのがやや気になった。
しかし悩んだり考え込んだりしていても仕方がないので、それ以上考えないことにする。
むしろ、何故か兄がニコニコとした笑顔で私のすることを見ているのが気になる。
「……なに?」
だから、端的に質問をする。朝より多少はマシになったとはいえ、まだ喉が痛く長文を喋るのはツライ、というのもあるが。
「別に、何も。……こころに付いてる悪い虫なんて居なかったんだ、大丈夫だよ」
「……虫? 蚊でもいたの?」
「そんなところだ。さっき見つけた蚊は完膚無きまでに叩きのめしておいたから安心していい」
私は確かに虫は嫌いではあるが、蚊なんて一発叩けばペシャンコなんだから、兄の言い方は大袈裟だとすら思うが、
「まあ、そうだよね。それでこそお兄ちゃんというか、」
「こころが泣くのは見たくないからな」
この過保護が、むしろ懐かしく、愛おしくすらある。
「……なんて思うのも、私が風邪引いてちょっと弱ってるからなのかな」
「うん? 何だって?」
「なんでもないよ、お兄ちゃん」
それだけを告げて、私はベッドに改めて横になって目を閉じる。
「寝るのか?」
「うん、おやすみお兄ちゃん」
「じゃあ、添い寝してやろう。うん、それが良い」
がさごそと、何やら衣擦れの音がすぐ脇から聞こえてきて、
「ちょっと! 何で服脱いでるの!?」
「……ん? そりゃ、風邪の時はこうやって裸で温めるのが良いってどこぞのアニメだったか? そんな話があったから実践しようと、」
「ちょっと! 私のパジャマを脱がそうとかしないで! あと服着て、服! もー!」
「うわ、ちょっと、やめろこころ、落ち着け! 落ち着くんだ!?」
枕を振り回して、最後には兄の顔面めがけて投げつけて、ようやっと兄を部屋から追い出すことに成功する。
全くもう、ちょっと気を許すとこれだから。おちおち眠ることも出来やしない。
独りになって静かになった部屋で、私はやっと眠りに就くのだった。