第二章00 夢から覚めてみれば
関東都督府は欧州大戦(第一次世界大戦)が終結した大正八年、軍政から民政への移行などを定めた関東庁官制が公布されると、関東州と南満州鉄道の附属地を警備する軍部を関東軍、民政を司る政治行政を関東庁に分離される。
関東都督府から独立した関東軍は当初、独立守備隊6個大隊と内地から派遣される駐剳1個師団で編成されており、同年五月には関東都督府遼陽陸軍軍法会議を関東軍遼陽陸軍軍法会議と改称して関東軍憲兵隊も配置された。
関東軍は大正から昭和になると、外交安全保障戦略を当地の高級指揮官が判断するようになり、日本の支援を受けていた奉天軍閥の指導者だった張 作霖を暗殺した満洲某重大事件や、南満州鉄道の線路が爆破された柳条湖事件に端を発した満州事変を独断で決行している。
満洲事変での越境における軍事行動は陸軍省の国防政策からも逸脱しており、明確な軍規違反であったにも拘わらず、関東軍が中華民国との武力紛争に勝利して満州全土を占領した功績もあり、首謀者は処罰どころか出世した。
関東軍憲兵隊の黒羽武少佐は当時、満州事変を首謀した参謀陣に、柳条湖事件を越境における軍事行動の口実とするための陰謀劇であると、事実の公表を迫り詰め寄ったと聞いている。
しかし私の上司は、その事実を内地の参謀本部や陸軍省など陸軍中央に報告せず、自らも満州事変で銃を手に軍事行動に参加すると、戦場で功績を挙げて憲兵隊での地位を確固たるものにした。
彼曰く『大局観に立てば、必要なこともある』と、すかした顔をしており、憲兵隊はとどのつまり関東軍に隷属した組織だと達観している様子だ。
上司の性格を鑑みれば、長いものに巻かれる人間では決してないので、柳条湖事件の真実を言い当てたことが、中華民国との戦場に送られた訳合いだったのだろう。
少佐とは転んでもただでは起きない人物で、彼の立てた軍功はそういった手柄である。
余談ではあるが、満州事変を首謀した関東軍作戦主任参謀と対峙した上司は、満州事変に繋がる一連の事件を指南した人物が背後にいると見抜いたようだ。
そいつは『全てを知る未来からきた』などと、世迷い事を口にする人物で、日本の命運を左右する作戦主任参謀たる大物が、血生臭い予言者の口車に乗っているのが恐ろしいと口走ったことがある。
この予言者の特定は、いずれ私にお鉢が回ってくるのだが、話せば長くなるので別の機会にしよう。
※ ※ ※
私が新京の関東軍司令部に召集されたのは、高平家の屋敷を訪ねる三週間前だったと記憶している。
主として民間企業の内偵捜査に従事している私を呼び出した少佐は、その日に限って軍服を着用してくるように指定した。
彼は入室するなり、私の両肩に手を置いて頭の先から爪先まで舐めるように見ると、今度は一歩後ろに下がって顎に拳を当てて頷いている。
私に男色の趣味がないのは勿論だが、目を細めてこちらを見ている女顔の優男がそうではないと言い切れない。
親愛なる上司に、軍服を着せた小姓を弄ぶ秘密の趣味がないことを祈るばかりだ。
「君は、黒羽家に仕えて何年になる?」
「私が貴方の父親に拾われたのが五つか六つですから、兵役してからも含めれば十七年ですかね」
「君ね、犬や猫じゃないんだから『拾われた』なんて卑屈になるなよ」
肩をすくめて戯けた黒羽武は、孤児だった私を引き取ってくれた黒羽家の嫡子であり、歳は親子ほど離れているが気心の知れた間柄だった。
とはいえ上司が仕えていた家の嫡子で、一方の私は十六歳の折、軍属に転身した元使用人で部下の立場であれば、その関係は今以て主人と召使いである。
「君の背格好はまずまず、面構えも私に似て訳知り顔だな。まあ私の代役には心細いが、幼い頃より私と過ごしていた君なら為人も心得ているだろう。どうせ軍服を着てしまえば、みな同じに見える」
「少佐の代役とは、潜入捜査でしょうか?」
総司令部に呼び出した目的は、新たな任務が少佐に変装しての諜報活動なのだろうか。
齢四十代半ばにして一回り若く見えるボンボンの上司と、苦労が祟って眉間に深いシワが刻まれた私であれば、遠目にならば歳頃の違いに気付かれないかもしれないが、代役としての適任者は他にもいよう。
「いやいや。任務なんて堅苦しいものではなく、私の名代で内地に出向いてほしい」
「その名代は、少佐の個人的な依頼ではないでしょうね」
私が片眉を吊り上げると、慌てた少佐は『もちろん任務の一環ではある』と付け加える。
上司の話を要約すれば、以下のとおりだった。
現政局において大連立に応じない貴院議員の中心的な存在である高平政信に、新聞記事を切り貼りした殺害予告を送りつけた犯人がいる。
信州蓼科高原で知られる長野・茅野市横谷峡にある同議員の屋敷に赴いて、現地にて滞在期間中の身辺警護と予告状を送りつけた犯人を見つけ出してほしい。
なお内地渡航による身分は、関東軍司令部付の黒羽武少佐として偽り、これを見破られぬように細心の注意を払うこと。
「任務の内容はわかりましたが、なぜ私の素性を隠す必要があるのでしょうか。貴院議員の政信氏とは、少佐と同席した覚えがあります」
政信が同席した一兵卒の人相を覚えてなくても、私が少佐でないことくらい呆気なく見抜くだろう。
「政信は、私じゃないと気付くだろう。しかし関東軍の捜査権限が及ばない内地でも、それが私であれば融通が効くからね」
「つまり、少佐の威光を笠に着ろと仰るのですか」
「一介の憲兵では、内地の連中が手を貸さない」
「わかりました」
少佐は疑いを掛けられたら『恩賜の刀を翳して黙らせろ』と、軍功で拝領した菊花の御紋入り軍刀を惜しげもなく投げて寄越した。
こんな軍刀を杖代わりにして居丈高に振舞う罰当たりは、上司において他になく、彼の軍刀を腰に下げている限り相手だって無闇矢鱈に疑えない。
それに抜刀術に長けている私であれば、天下御免の軍刀が何よりも心強い。
「では、さっそく政信氏の周辺を調べましょう」
「あ、そうだ」
少佐は部屋を後にしようとした私を呼び止めたが、何を言うのかと思えばたわい無い一言だった。
「そろそろ身を固めてはどうか?」
少佐が事有り顔で言うので、私は『冗談でしょう』と鼻で笑った。
※ ※ ※
今にして思えば、少佐はあのとき既に、政信氏が自分と次女の婚約発表をでっち上げて、殺害予告を送りつけた容疑者を一堂に会した祝宴を開くと知っていた。
そして抜け目のない上司は、その容疑者の一人に自らも含まれていると考えて、私を名代に狂気の宴に送り込んだのだろう。
上司と政信は旧交があるとはいえ、関東軍の自作自演だった柳条湖事件で口を閉ざした憲兵隊の隊長と、現内閣の反勢力にある貴院議員が良好な関係だと思えない。
なぜなら彼にとって現内閣の後ろ盾になっている軍部の武力行使に臆した元老西園寺公望と、軍部主流派の横暴に黙して語らなかった上司は同じ穴の貉なのである。
「もう朝か……、しかし夢見が悪い」
初夏の日の出は早く、私が寝てから三時間ばかりで室内は朝日に照らされた。
私は長かったようで短い夜を過ごしたベッドを整えると、まだ夜が明けたばかりの窓の外を運転助手の甚平が、屋敷二階を手庇で覗いているのを見つける。
運転助手から招待客の世話、事件捜査も彼の仕事なのだろうか。
朝早くから黒い詰襟を着ている彼は、ずいぶん早起きで働き者である。
「少佐、昨夜のこと聞きましたよ。人は見かけによやらないって言うけどさぁ、兼久議員が予告状の犯人だったんですかね」
甚平は窓ガラス越しに目が合うと、臆面もなく話しかけてきた。
「甚平くんは、どうして庭を調べているんだい?」
「兼久議員の部屋は、少佐の真上だろう。署長さんが今朝、残りの鉄砲弾が見つかってないって言うからさ、庭に落ちてないかと思って……あっ、俺が鉄砲弾を探しているのは、内緒にしてくださいよ」
「そうか、甚平くんは黄金の弾丸をくすねるつもりなのか」
「いやいやいやっ、鉄砲弾を見つけたら、ちゃんと警察に届けますよ!」
甚平が両手を顔の前で振りながら否定するので、滑稽な様に思わず笑ってしまったが、これが諜者の演技ならば見事である。