04 盗まれた黄金銃
「少佐は、こちらへ」
淡い黄色のドレスに着替えた彩子は、祝宴を主催した政信が座る上座の隣に腰掛けるように手招きしている。
彼女は貴賓室の中央に置かれた大きなテーブルに私と向い合せに座ると、肘をついて手に顎を乗せた。
何処の馬の骨とも知れない軍人に嫁ぐと言うのに、彼女は全く気にする様子がない。
それどころか食台に手を付いて私に目配せしたのを父親に窘められると、『未来の旦那様には、お転婆の私を知って頂きたいわ』と、片瞬きする始末だった。
「彩子さん、黒羽さんが困っていらっしゃるわ。この娘は箱入りで育ったから、少佐に会えてはしゃいでいるんですよ。普段は女の子とばかりと遊んで、殿方が出てくると人の背に隠れるような娘なんです」
「お母様、そんなこと少佐に告口しないでよ……恥ずかしいわ」
「強がりは、照れ隠しなのね」
母親の節子にテーブルから手を退けられた彩子は、両手を膝に揃えて頬を赤らめる。
仮初めの縁だと知っている政信は、母娘のやり取りに気不味い顔をしているが、母親は私と次女の縁談に前向きな様子だった。
満州で上司に呼び出されたとき、自分だって独身の上司が『そろそろ身を固めてはどうか?』と、事有り顔で笑った訳合いに思い当たる。
彼は私用で呼びつけた議員が、娘の縁談話を餌に使えば後々困窮すると心得て、何のアドバイスもしなかったのだろう。
ついでに生意気な口を叩く部下が、降って湧いた縁談話の難局を、どんな顔で乗り切るのか楽しんでいる。
巻き込まれた私にとっては面白くない状況だが、じつに彼らしいお茶目な意趣晴らしだ。
「本当に、あの人は食えない男だ」
私はぽつりと呟くと、口元を拳で隠して失笑した。
席次は次のとおり、上座には政信、左手から順に次女の彩子、母親の節子、榊原三徳と朱美が並んで座り、長男の和政、長女の恵子の身内が左右に別れて入口に近い下座に腰を下ろした。
右手は私から順に警察署長の貞治、貴院議員の兼久、実業家の良夫、優馬であり、右手の下座に座る恵子は恋人と隣り合わせで満更でもない表情を浮かべている。
妹の婚約を妬む長女が、わざわざ段取りを買って出た訳合いは、席次を自由にしたい事情だったかと微笑ましく思った。
「少佐の身内は、誰も招待に応じなかったのか? 彩子さんの婚約祝いと言うから、もっと大勢いるかと思った」
兼久は前菜が並ぶのを待って、主催者の政信に問いかける。
もともと教会の礼拝堂を改築した貴賓室は、十二人の座る大きな食台を置いても充分に空きがあり、三徳も『人数を集めて盛大に祝えば良かった』と続いた。
彼らが今回を好機と考える犯人ならば、容疑者となる招待客が多いほど、自分が疑われる可能性が低くなる。
そう考えれば、彼らの発言は疑わしい。
「客室は全部で八部屋なのですが、今のままでも部屋にベッドを二台置けば倍の客を呼べますね」
屋敷の購入を企む良夫も、兼久や三徳の意見に同調しているが、それは自分が屋敷のオーナーだったら、との意味合いが多分に含まれている。
地元の実業家は、そろばん勘定が得意な守銭奴らしい意見を披露した。
疑えば目に鬼を見ると言うが、この場には一癖も二癖もある人物ばかり集まっている。
私が思いをめぐらしていると、政信が食前酒に出された空のグラスをフォークの切っ先で叩き、衆目を集めて掌を高く掲げた。
「君たちも既にご存知だろうが、ここに招待した君たちとは、私と少なからず因縁がある。この披露宴を機会にして、確執を取り払って和解することが出来ればと考えているのだよ。週明けまでの限られた期間だが、お互いに腹を割って語らおうではないか」
各々が顔を見合わすと政信の言い放った言葉に苦笑して、兼久は『私は政治の話に興味がない』と、席に深く腰掛けて皿のチーズにフォークを突き立てる。
「私だって、落選を高平議員のせいだと恨んじゃいないよ。長男の和政くんは二十五歳なんだし、手堅い票は地盤固めに必要だろう」
三徳は、重鎮の政信におもねっているのだろう。
確かに長男の和政は貴族院の互選に出馬できる年齢になっているが、本人に政治を志す意志がないのは、地元の市警察署長ですら耳にしている。
政信が榊原夫妻を冷遇しているのは、彼もまた政治的野心に乏しく、目指すところの健全な二院制を支えるのに似つかわしくないと烙印を押されたことだ。
屋敷の主人は、挙国一致の現内閣に反旗を翻すような気概のある朋友を欲しており、三徳のような日和見の議員では力不足である。
「まあまあ今回集まって頂いたのは、妹の彩子と黒羽少佐の初顔合わせの立会い人です。妹が少佐に見初めて頂けたときは、改めて盛大に祝いましょう」
長男の和政は隣の明美にワインを注ぐと、歌劇団時代の話題を振って場を和ませた。
祝宴は殺伐とした雰囲気で始まったものの、長男の機転で取り繕われた気がする。
署長の貞治は長男を政治家向きではないと評価しているようだが、年長者を前にした立回りを見る限りでは、政治家の素質もありそうだ。
もちろん、そうした配慮は商才にも通じるのだが、彼が商いを世襲議員の逃げ道としていないのはわかる。
「これから四日このような贅沢な食事に有り付けるのは、お嬢さんと少佐の見届け人に呼ばれた役得ですな」
署長の貞治は、ナフキンを首にかけて運ばれてくる料理に舌鼓を打ちながら、ナイフとフォークを忙しなく動かしていた。
署長が周囲を気に留める様子がないのは、殺害予告を悪戯だと端から決めつけているからだ。
私だって今夜からの四日間、何事もなく過ぎてくれるに越したことはないのだが、不穏な空気を感じて食事が喉を通らない。
もともと私の食が細いのもあるが、隣に座る大食漢の署長と比べると、婦人の節子に『お口に合いませんか?』と心配されるほどだった。
「いいえ、そんなことはありません。ただ洋食のテーブルマナーに不心得なので、緊張しているだけです」
「あら、明日からは和食を用意させますわ。私も苦手なのよ」
節子は辞を低くしているが、夫人のテーブルマナーは完璧であり、私の言い訳に言葉尻を合わせてくれている。
「ところで少佐は、主人みたいな政治家をどう思われます」
「お母様、何を突然?」
「少佐は、貴女の旦那様になる人なのよ。政治家の娘を娶るのなら、お考えを聞いておいて損はないでしょう」
節子の問いかけに、横に並んだ兼久議員と三徳の様子に目配せした。
外地の暮らしが長いせいか、彼らのような国内の政局で右往左往する政治家にとんと興味が失せている。
それに政信が軍部の政治介入を快く思わないならば、私みたいな憲兵が政治の話題に口を挟むのも面白くないだろう。
「私は現役軍人なので、政治不関与と心得ています」
「あらそう? でも軍部大臣現役武官制が施行されてからは、兵部省だった大臣は陸軍と海軍大将だわ。軍部の政治不関与は、建前でしょう」
節子が言うと、政信が声を出して笑ってワイングラスを飲み干した。
「妻は彩子の嫁ぐ先が、私みたいな政治家では困ると考えているんだ。制服嫌いの私が娘婿に黒羽少佐を呼んだのだから、その辺りは無用な心配だよ」
上司なら鼻で笑ったところだろう。
なぜなら彼は、戦場に身を置いて世界を動かすのに執心するような根っからの軍人であり、机上で物事を動かす政治家に殊更興味がないからだ。
内地の陸軍省から文官の声がかかった折、行政事務を取り扱う官吏は性に合わないと、断る言い訳に頭を悩ます男だった。
「節子夫人、私は政治と最も遠い男です。彩子さんと結婚の暁には、神戸の実家に身を寄せようと考えています」
「少佐は、神戸の生まれなのですか? 神戸は、とてもモダンな街並みと聞いておりますわ」
私が頷くと彩子が目を輝かせているが、正確を期すれば私ではなく、上司の実家なのだ。
嫁ぎ先が神戸と聞いて喜ぶ彼女の私服を思い出せば、ずいぶん西洋かぶれだと気付かされる。
モダン、モダンと度々口にする甚平は、屋敷のお嬢様に話題を合わせていたのだろう。
「高平のお嬢さんを娶る少佐は、本当に羨ましい。彩子さんは、節子夫人の若い頃に瓜二つの美人ですからね」
ワインを燻らす兼久は、斜向かいに座る節子を見ながらニヤニヤとしている。
容姿を褒められた夫人だが、眉根を寄せて視線を逸したので、酔っ払いにからかわれたと不快に感じたようだ。
「兼久様は、だいぶ酔われているご様子ね」
「いやいや、まだ宵の口ですよ。三徳くんの奥方も元歌劇団の大女優、朱美嬢じゃありませんか。男寡婦は、妻に先立たれた私だけです」
「兼久氏、それはどうでしょうな」
「署長は、ご結婚されているんでしょう? 独り身と言うのは、けっこう不自由なものです。私は、彼らが羨ましい」
兼久は来賓を見渡すと、男衆と目を合わせて自分ばかりが独り身じゃないことに気付いて咳払いで誤魔化した。
実業家の良夫が既婚かはともかく、恵子との恋仲を認められない優馬や、長男の和政、私だって未婚であれば、彼の無粋に傷口を抉られる者もいる。
もっとも彼の眼中には、初対面である私たちが見えておらず、美しい夫人を従えた高平夫妻と榊原夫妻を文字通り羨んで口にしたのだろう。
「さて、そろそろお酒を飲まれない方は応接室に移動して、お茶にしませんか」
節子は話題を変えようとしたのか立上り、貴賓室の隣にある応接室の引戸を開ける。
応接室に通じる出入口はそこだけのようで、給仕が食事を終える頃合いを見て、ティーポットやケーキを運び入れていた。
私が椅子の背もたれに腕を回して振り向けば、応接セットのテーブルには紅茶とケーキが並べられており、向い合せに置かれた革張りの黒いソファ、洋書の並んだキャビネットの書棚、キャビネットの上には宗教的な絵画や彫刻が飾られている。
そして貴賓室から突き当りの壁には上げ下げ窓が三枚あり、視線の先に部屋から漏れた灯りに照らされる木々が見えた。
「少佐も、こちらへいらしてください」
彩子に手を引かれるまま応接室に移動した私は、部屋の柱時計など調度品や飾られた美術品を一望すると、ガラスケースに置かれた黄金の回転式拳銃と七つの弾丸に目を留める。
部屋に飾られている絵画や彫刻は、どれも受胎告知や天使や悪魔などキリスト教の聖書に描かれる場面をモチーフにしたものばかりで、けばけばしい輝きを放つ黄金の装飾銃と弾丸を異質に感じたからだ。
「この部屋に飾られている美術品は、城を移築する際に教会から譲られたものだ。どれも西ヨーロッパのキリスト教諸教派のカテキズムに影響された作品で、その黄金銃も七つの死に至る罪『七つの罪源』を題材にしたものらしい」
私の背後から話しかけてきた政信は、腰をかがめてガラスケースに手を置いた。
「七つの罪源と言えば、弾丸は暴食、色欲、強欲、憤怒、怠惰、傲慢、嫉妬の戒めですか」
「私は宗教に疎くてね。譲り受けた蔵書にも、ほとんど目を通してないのだよ。興味があるならば、部屋に持ち帰って読んでみてはどうだね」
「そこまでは及びません」
政信は私が断ると、ソファの座面を手で叩いて隣に座れと催促する彩子に首を横に振った。
彼は『少佐には、酒宴に付き合ってもらう』と、私の背中を押して部屋を後にした。
応接室では高平の母娘と朱美の女性陣が、それに下戸の良夫が加わって談笑している。
屋敷の売却を持ちかけている実業家は、金も実力もある鼻筋の通った伊達男のようで、地元の話など面白おかしく聞かせて話題の中心になっていた。
私は『将を射んと欲すれば先ず馬を射よかな』と、席を詰めて横にきた長男の和政に小声で問いかける。
「良夫さんには学ぶことが多いです。頑固な母を口説き落として、父が屋敷を手放すなら大したものですよ」
良夫とつるんでいる和政が商いで身を立てたいというのは、どうやら真実のようだ。
※ ※ ※
その日の深夜、なかなか寝付けない私が殺害予告に貼られた活字と、持ち込んだ新聞の活字を見比べていた頃である。
恵子に鳴き声が不気味だと言われた不如帰が、窓の外枠にとまって姿を現した。
夜に鳴く鳥が首を傾げてこちらを見ているので、目頭を指で押さえた私は、部屋の灯りを落としてベッドに横になる。
暗くなった部屋から外を眺めれば、鳥が何かを察したのか遠くに飛び去った先で鳴き始めた。
一発の銃声が屋敷に鳴り響いたのは、その直後だったと記憶している。