03 不如帰の鳴く夜
自室に戻った私は、書類封筒を窓辺に置かれている机の引出しに片付けた。
夕食の時間まではベッドに腰掛けて状況を整理したいものの、次から次に聞かされる難題に頭が痛くなるばかりで、何から手を付けて良いのかわからない。
問題は大きく二つであり、一つは少佐が政信に招待された三泊四日の蓼科旅行が、じつは殺害予告を送りつけた容疑者を集めた犯人探しの機会であったこと、二つは容疑者を集めた表向きの訳合いが、私と彩子の婚約発表だったことだ。
貴族である貴院議員の婚約祝いに招待されたのに、訳合いもなく断れば角が立つし、断れば容疑が深まると知っている犯人であれば招待を受けざるを得ない。
犯人を炙り出すには、なかなかのアイディアだと思う。
しかし私は屋敷に滞在中、被害者の事情聴取や捜査で犯人を特定して警察に身柄を引渡せば良いと考えていたのだが、よりにもよって殺害予告されている被害者は、自分の命を囮に容疑者を集めて犯人探しを画策していた。
これは、極めて厄介な話である。
殺害予告した容疑者がいずれとも名士や身内であれば『人の口に戸は立てられぬ』と言うし、人を雇って身代わりに殺させる可能性が低い。
そもそも犯人が金で殺し屋を雇うつもりならば、山奥で養生している被害者を挑発するような、回りくどい手を使うはずがない。
ここまでは、犯人の思惑通りだと考えられる。
「さて、そろそろ開場時間だな」
政信の執務室に呼ばれてから、半時を待たず日がとっぷり暮れている。
榊原夫妻と入れ替わりに寅吉と車で出かけた甚平が、大きな声で恵子を呼ぶのが玄関ホールから聞こえてくるので、また新たな容疑者が到着したらしい。
政信が招待した容疑者は兼久、榊原夫妻、それに二名を加えた五人と言うことだから、招待客は私を入れて六人なのだろうか。
そんなことを考えながらドアを引いたとき、部屋の前を通り過ぎようとした恰幅が良い口髭の男と目が合う。
「おっと失礼しました」
「いや、こちらこそ」
英国紳士風の男が立ち止まり帽子を脱いで頭を下げたので、私も思わず謙遜してしまったが、お互い非礼があったわけではないし、何を詫びているのか尋ねる。
すると彼は玄関ホールの動静を横目にしながら、部屋を出ようとした私を両手で押し戻した。
「私は、市警察で署長を務めている近藤貞治と申します。田舎育ちなので、このような無作法をお許しください」
私を部屋に留めた貞治が何度も頭を下げるので、顔を上げるように伝えて腰に手を当てた。
姿勢を低くしながら相手の顔を覗く紳士は、腹に一物ある場合があり、警察署長の身分であれば言葉通り卑下しているとも限らない。
「この度は、彩子様との婚約おめでとうございます。少佐とお嬢さんは歳が二回り違うとお聞きしていたのですが、なかなかお若く見えますな」
「童顔で威厳がないと、部下にもからかわれます」
上司の見た目は実際、十歳以上若い私と並んでも遜色ないので、少佐の噂を聞きかじる程度の相手ならば、その点を疑われても申し開きができる。
「祝宴の席では、話しづらいことがありまして、黒羽少佐には、お披露目の前にお耳に入れておこうかとお待ちしてました」
貞治は、私の着ている軍服で少佐だと見抜いたようだ。
南諏訪の警察署から市営バスと徒歩で屋敷に到着した署長は、主賓の私に挨拶しようと部屋を訪ねていたらしい。
私はシャワーを浴びて仮眠していたと告げると、彼に話しの続きを促した。
「この祝宴に招待された者は、高平政信氏に殺害予告を送りつけた疑いがあるのです。政信氏が、娘の結婚相手に招待した少佐を疑っているわけではありませんよ」
目の前にいる貞治が地元の市警察署長であれば当然、政信から身辺警護を依頼されているだろうし、この催しの裏事情に精通していても不思議はない。
ただ警察署長が直接乗り込んで身辺警護と言うには、三つ揃いのベストをぽっこりさせている腹や、古狸のような容姿の初老の男が適任とは思えなかった。
「ああ、私に期待しても、犯人逮捕なんて無理ですよ。ちょっと走るだけで、息が上がってしまいます」
私は『でしょうね』と、言いかけて言葉を飲んだ。
「招待客の名簿を確認したところ、帝国議会の議員や有力者ばかりでした。確かに政信氏には何かしらの恨みを持つ者なのですが、彼らが自分の地位を投げ出して人殺しなんかする訳が無いと思うのです」
「署長は、殺害予告が単なる悪戯だとお考えなのですか?」
「まあ端的に申せば、そのとおりですな」
「だから、署長ご自身が参加された」
「政信氏から『予告状のことは内密に調べてほしい』と依頼されておりますし、黒羽少佐は優秀な憲兵だと聞いております」
「私の能力を過信されては困ります」
「しかし政信氏は私ども警察より、荒事は軍人の少佐を頼りになさっておられる。お調べになりたいことがあれば、私ども警察が協力いたします」
私の軍刀に視線を落とした貞治は『何も起きなければ良し』と、言いたいことを言い終えた様子で頷いた。
署長が事情を聞かされているならば、あと二人の容疑者というのは別人だろう。
招待客は、私と彼を加えた七人なのか。
「では、さっそく聞きたいことがあります。今夜の招待客は貴院議員の兼久と浪人中の榊原夫妻、他の招待客も貴族院の絡みなのですか?」
「いいえ。今しがた到着した飯田良夫は地元の実業家で、移築した古城をホテルにしたいと長男の和政くんに持ち掛けている男です。政信氏は、いくら金を積まれても人手に渡さないと断っています」
「政信氏が亡くなれば、遺産を引継ぐのは和政さんですね」
「話を通した和政くんは、売却に前向きですからな。長男は政治よりも金儲けに興味があると……、まあ商いに興味があるようです」
貞治は私が高平家の身内になると考えているので、言葉尻を濁して頭を掻いた。
署長の話では、蓼科一帯の土地を所有する飯田良夫は、三叉槍と呼ばれる異国の城をホテルに改装して観光の目玉に、所有する土地を避暑の別荘地として一儲け企んでいる。
邪魔な政信を殺害すれば、既に了解している長男の同意を得られる算段だ。
「良夫の先代は、鉄道院中央本線を敷くのに尽力しましたが、その折で儲けた金で、ここらの山林を二束三文で買い叩いた土地成金です。しかし彼は裏家業とも通じている悪党ですから、政信氏を殺すなら金で解決するんじゃありませんか」
貞治の言うとおりならば、俗っぽい動機である。
「政信氏の話では、あと一人いますね」
「それは、あり得ませんな。残りの招待客は、長女の恵子さんが女学校時代からお付き合いのある永岡優馬くんです」
「お付き合いとは、恋人と言うことですね」
「優馬くんは、もともと政信氏の本宅で書生をやっていたそうです。政信氏は、ゆくゆく帝大の彼を政治秘書に考えていたらしいのですが……、娘と恋仲になった彼に激怒して家を追い出してしまいました」
「それは、なぜですか? 帝国大学の書生でいずれ政治秘書となれば、将来有望な人材だと思いますが――」
「永岡の家柄でしょうな」
唇に人差し指を当てた貞治は、私の話に割り込むと、声を潜めて訳合いを続けた。
「優馬くんは頭も良いし、なかなかの好青年です。ですが彼の出自には、ちょっと問題があるのですな。まあ彼のことは政信氏の逆鱗に触れるので、あまり話題に出さない方が良いですぞ」
私は到着するなり、つっけんどんな態度で武器を取り上げた恵子に良い印象がない。
玄関ホールで招待客を待ち構えている様子からすれば、彼女が妹の婚約発表を名目にした祝宴の仕切りを任されているのはわかる。
しかし重責の気負いはさておき、彼女の応対には身分に対する蔑みが含まれているように感じた。
そんな鼻持ちならない貴族のお嬢様に、家柄に問題を抱えた恋人がいるとは軽い驚きがある。
「恵子さんは存外、妹の結婚話に嫉妬しているのかもしれませんね」
「少佐は、なんで他人事なんですか。彩子さんの結婚相手は、あんたじゃないですか」
「そうでしたね」
「呑気なお方ですな」
私は貞治と連れ立って玄関ホールに向かうと、市バスの停留所から良夫と優馬を車に乗せてきた甚平が、血相を変えて駆け寄ってきた。
彼が首に手を回して耳打ちするので、私は署長に聞かれないように手を煽って人払いする。
「少佐も人が悪い」
「ん? 私は、甚平くんに何かしたかね」
「高平の旦那が優馬さんを招待して婚約発表するなんて言うから、俺らてっきり恵子様の婚約祝いだと勘違いしたじゃありませんか。少佐が彩子さんの婚約相手だったら、そうと言ってくれたら良かったのに……。さっき迎えの車中で、優馬さんに笑われてしまいましたよ」
「そのことか。じつは甚平くん、私も先ほど政信氏に聞かされたばかりなのだよ」
「えーっ、そうなんですか」
私に彩子を口説くなと忠告した甚平は、バス停から屋敷までの道すがら優馬との世間話で自分の勘違いに気付いたようだ。
しかし私が高平家と縁戚を結ぶと知ってなお、馴れ馴れしく肩を組んでくるとは、なかなか図太い神経の持ち主である。
彼は地元出身と言うことだが、中央政治の情勢にも明るく、何処か隅に置けない人物にも思えた。
「まさかね」
「少佐、まさかって何ですか?」
甚平の人たらしの才能には、諜報員の素質が見て取れる。
政信が現内閣や政党と敵対していれば、何処ぞの組織に送り込まれて、屋敷の潜入調査をしているのかもしれない。
これは私の穿った見方ではあるが、黒い詰襟を着た運転助手が、そうした間者独特の雰囲気すら殺しているのならば、かなりの手練である。
「甚平くんは政治の話にも明るいし、招待客の人なりもよく存じているね。先々を考えれば彼らに失礼がないように、滞在中の話し相手になってもらおうか」
「そりゃ、俺は構いませんが」
甚平の素性を詮索するのは後回しにして、招待客や政信の身内の素性に詳しい彼の情報を利用しない手はない。
「では、よろしく頼むよ」
私は甚平の肩をポンと叩くと、玄関ホールに待機している招待客の顔を見渡した。
大坪田兼久は、統制派に迎合して現内閣の支持に回った貴院議員であり、政党政治を是として現内閣の抵抗勢力となった政信とは犬猿の仲である。
榊原三徳と妻の朱美は前回の貴族院互選で夫が落選しており、落選事由を旧交のある政信が集票に応じなかったと、夫婦共々恨み節を吹聴している。
飯田良夫は地元の実業家で、長男の和政とつるんで屋敷の購入を企んでいる。署長の話では、金に目がない裏家業とも繋がりがある守銭奴らしい。
永岡優馬は、頭脳明晰にして政治家を志す青年で、長女の恵子と恋仲にも拘らず、家柄を訳合いに書生をしていた高平家を追い出された。
貞治は好青年に見える優馬の犯行は『あり得ない』と、断言しているが、彼が長女との結婚を許されない身となれば、結婚に反対している父親の殺害を目論んだとしても不思議がない。
そして招待客は私と市警察署長の貞治を加えた七名、主人が招待した容疑者と言うのは、前出の五名で間違いなさそうだ。
「また、あの鳥の鳴き声だわ。夜に鳴くなんて不気味な鳥ね」
貴賓室から出てきた恵子は、暗い森から聞こえるキョキョキョ、キョキョキョと鳴く不如帰の声を不快に感じている様子だ。
夜に甲高い声で鳴く鳥は耳障りだが、それが習性とあれば仕方ない。
「不如帰は、ああして夜通し鳴いて縄張りを誇示しているのです。雄が縄張りを誇示するのは、雌への求愛行動でもあるのです」
「優馬さん、あの鳴き声は求愛なの?」
優馬は恵子に歩み寄ろうとしたものの、妻の高平節子を伴って螺旋階段を下りてくる政信を目端に捉えて距離を取った。
「ええ恵子さん、雌が鶯の巣に托卵が終わる頃には、不如帰の鳴き声も静まりましょう」
恵子と恋仲にある優馬は優しげに笑うと、もうしばらくの辛抱だと言った。