02 容疑者たちの宴
「少佐、起きているなら旦那がお呼びです」
ドアをノックする甚平の声に上体を起こせば、目に鮮やかだった新緑の森が燃えるような夕日に染まっている。
枕元に置かれた時計は十八時、夕食は招待客の集まる十九時頃と聞いているので、目を覚ますのに早すぎることはなかった。
彼に了承した旨を伝えると、髪型を整えて肩章のある立折襟の軍服に着替えた。
「飾帯は、さすがに堅苦しいか」
礼装に袖を通した私は革つばの軍帽を目深に被ると、甚平の案内で恵子に立ち入りを禁じられた左手二階にある政信の執務室を訪れるために、中央塔の吹抜け階段がある玄関ホールを通り抜ける。
私が寝ている間に到着したのか、塔の内壁に沿って螺旋を描く階段脇のソファには、背広の上着を脱いで寛ぐ中年男性が踏ん反り返っていた。
彼は横を通り過ぎる私と視線を交わすと、読んでいた本を閉じて立ち上がり、私を値踏みするかの如く爪先から視線を見上げる。
「貴方が、黒羽武少佐ですか。私は貴院の大坪田兼久と申します」
「何処かでお会いしましたか?」
自己紹介しているので初対面なのは明らかなのだが、貴族院の議員であれば帝国議会議事堂や華族会館(旧鹿鳴館)に出入りしていたとき、素顔の私と出くわしているかもしれない。
それに私の記憶では、兼久という貴院議員は統制派の会合に顔を出しており、軍部主流派とも深い繋がりがある。
私の素性はともかく、顔に見覚えのある可能性が否定できない。
「いいえ、少佐と会うのは初めてですが、噂はかねがね聞いております。少佐には、満州での功績に爵位を与えるとの話が出ているのでしょう」
「そのような噂は、あまり当てになさらない方がよろしい」
「まあまあ、貴院は互選ですからな。爵位を授与された暁には、大坪田兼久に清き一票を宜しくお願いします」
私が鼻で笑うと、上目遣いの兼久も含みのある笑顔を返した。
貴族院議長だった近衛文麿の現政権を支える軍部主流派との付き合いがある兼久も、政信に招かれた招待客の一人なのだろう。
「高平の旦那は、どうして兼久様を呼びなさったのか。お二人は、水と油なんですよ。いわゆる政敵ってやつです」
甚平は、ゆっくり階段を上がる私に肩を貸しながら耳打ちする。
彼曰く、政党政治に見切りをつけた兼久は、軍部主導の議会運営に異を唱える議員に大連立を呼びかけており、政党内閣を是とする政信と袂を分かっていた。
貴院議員は帝都不祥事件後、彼のようにクーデターを鎮圧した統制派の軍門に下った者が多い。
そもそも貴族院議長の近衛文麿を首相に推薦した後ろ盾が、帝都不祥事件で統制派の活躍で命拾いした西園寺公望である。
そうした軍部の政治参加で挙国一致を目指す彼らにとっては、首を縦に振らない政治家が目の上の瘤のはずだ。
犬猿の仲である二人が揃えば、仲良く会食というわけにいかない。
「今夜のディナーには、特別な趣向がありそうだね」
「何も起きなけりゃ良いけど」
執務室前の廊下からは、玄関前に停められている黒塗りのダットサンセダンが見えており、運転手の寅吉は助手が戻らないので苛ついている様子だ。
それを横目で見ている彼も、落ち着きなく執務室のドアと窓の外を交互に眺めていた。
主人に頼まれたであろう仕事の傍ら、運転助手としての務めを気にする様子には、彼の生真面目な性格が表れている。
「政信氏の用事があるのは私だから、甚平くんは寅吉さんのところに戻っていいよ」
「お言葉に甘えます」
甚平は言うが早いか階段を駆け下りてしまったが、ここまで来れば恵子に見つかっても言い訳が立つし、人払いしたい私には彼の気性が好都合だった。
私はドアをノックして政信に入室の許可を得ると、脇に抱えた紐綴じで留めた書類封筒を持ち替えて部屋に入る。
「それは?」
私が執務室の応接セットに腰掛けようと身を屈めたとき、政信が書類封筒を目ざとく見つけた。
上司から事の詳細を聞いていた私は、無策で乗り込んだ訳ではない。
満州から本土に引き揚げる軍隊輸送船に便乗して舞鶴港で下船したのに、わざわざ帝都の陸軍省を経由して茅野駅まできたことには訳合いがある。
私がテーブルに封筒の中身を広げると、執務椅子に座っていた彼が興味深げに応接セットに移って対面した。
「麹町の教育総監部に立寄るついでに、帝都で発行されている各社の新聞を買ってきました。こちらに届いた予告状には、新聞の切抜きが使われていると聞いています。新聞の活字には特徴があり、見出しや広告などの書き文字が使われていれば、それも差出人を特定する手掛かりになりましょう」
政信は感心した様子で、テーブルに並んだ新聞を手に取った。
見出しに視線を落とした束の間、彼は目に飛び込んできた盧溝橋事件に端を発した中華民国との戦況(日華事変)記事に顔を顰める。
「今や新聞も通信社も、戦時体制に向けた国家総動員法を施行した挙国一致内閣の言いなりだな。黒羽少佐が君を寄越したのは、対中講和が決裂して戦局が泥沼化しているからだろう」
新聞と自身に届いた殺害予告をテーブルに戻した政信は『戦争は、政府が軍部に迎合した結果だ』と呟いて、くわえていたパイプが冷めたのを指先で確認すると、ボウルに溜まった灰を取り除いてハンカチで掃除した。
議員は私が少佐の代役だと知った上で、素性を暴き立てる意思がないように思える。
「お気づきでしたか」
「少佐は四十代だぞ、君とは肌艶が違う」
政信が『少佐の意向か?』と続けたので、私は頷いて帽子を取ると膝に置いた。
「黒羽少佐の威光を借りれば、私のような一介の憲兵でも少しはお役に立てるでしょう――とのことです」
「私は、少佐の人を食った態度が好きでね。彼の意向であれば、君を黒羽少佐として歓迎しよう」
食えない人物と言うならば、合議もなしに私を屋敷に招き入れた政信もかなりの曲者だ。
彼の言うとおり私の上司は、事態が悪化する外地を離れることが出来ず、旧知の仲だった議員の警護を私に託している。
上司と議員の仲を考えれば隠し通せる訳合いがないのだが、こうもあっさり頭越しに話が通ると、子供扱いされているようで些か面白くない。
私がヤレヤレと肩をすくめたとき、玄関アプローチに到着した車の玉砂利を踏む音が聞こえた。
「少佐こちらに来たまえ、どうやら新しい容疑者が到着したようだ」
政信が執務室のドアを開けて廊下に出ると、窓の外にはダットサンセダンと入れ替わるようにハドソンフェートンがアプローチに停まっている。
運転手に手を引かれて降車したのは、軽薄な赤いドレスを着た女で、こちらを見上げる彼女の後ろから出てきたのは、撫で肩にインバネスコートを羽織った痩せた男だった。
女が年甲斐もなく着ているプリンセスラインのせいだろうか、それとも猫背に歩く男のせいか、男が女をエスコートする姿は蚤の夫婦だ。
であれば彼らは、前回の互選で貴院議員を落選した榊原三徳と、亭主を尻に敷く朱美であろう。
三徳の恐妻家や、歌劇団出身の朱美が派手好みなのは有名だったし、政信の交友関係で該当するのが榊原夫妻だ。
「新しい容疑者とは?」
「下には、大坪田兼久がいただろう。彼は現内閣に不満を抱く私が邪魔だろうし、いま到着した榊原夫妻には、私が集票に応じなかったせいで落選したと逆恨みされている。政敵の兼久、議席を取り戻したい榊原夫妻、どちらも私を殺す動機がある容疑者だ」
政信は殺害予告を送りつけたと思しき人物を、わざわざ呼びつけて屋敷に招き入れている。
自殺願望でもあるのかと首を傾げるところだが、その訳合いを聞けば疑問が諒解した。
「如何に少佐が優れていても、予告状一枚で犯人を捕まえるのは困難だろう。だから私を殺したいほど恨んでいる連中を、この屋敷に招待しておいた。ほかに二名ほど容疑者を招待しているのだが、それは追々紹介しよう」
「私には、危険な賭けにしか思えませんね。招待客から武器を取り上げたところで、ピストルも刃物も人が人を殺すのに必須ではありません」
「ああ、だからこそ少佐を招いたのではないか。君は、名前に恥じぬ行動に努めれば良い」
朱美の投げキスに手を振って応えた政信は、私の肩を叩いて執務室に戻り、調査のためなら予告状を預けると言った。
それから彼は、新聞と予告状を書類封筒に収めてハトメに紐を巻いている私の背中に問いかけた。
「君は消印のない予告状の差出人が、なぜ帝都の人間だと考えたのかね」
「予告状を郵送しなかったのは、消印から足が付くのを恐れたのでしょう。しかし予告状は東京府の自宅に届けられているのだから、送り主は帝都周辺にいると言うことです」
「そうとは限らんだろう?」
「ですから、帝都の新聞と照合するのです。けれど犯人が遠方にいるのなら投函場所を誤魔化すだけで良いのに、汽車を乗り継いで投函する訳合いもわかりません」
「なるほど、手掛かりを嫌ったのが手掛かりになったのか」
「そこに思いが至らないのは、犯人が身近にいる人間の証拠です」
私は政信に一礼して部屋を出ると、後ろ手にドアを閉めて息を吐いた。
渡航前に彼の身辺調査を終えていた私は、既に容疑者として兼久や榊原夫妻を含む数名をリストアップしている。
しかし犯人と目星をつけていた彼らと、逃げ場のない山奥の古城に幽閉されるとは想像していなかった。
殺害予告を送りつけられた政信は、あろうことか容疑者を集めて宴を催すと言うのだから、そもそも脅迫如きに屈する人物ではない。
つまり彼の豪胆な性格をよく知る犯人ならば、殺害予告程度の脅迫で政界引退や隠居生活に追い込めるなどと考えていなかったはずだ。
では殺すだけならば粛々と実行すれば良いのに、なぜ予告状なんて送りつけて議員を挑発したのか。
彼が先手を打つことも、予告状を送りつけた犯人の計算なのだろう。
「厄介なことを考えるものだ」
話が単純になったと、手放しで喜べる状況ではない。
なぜなら私の任務が、殺害予告の差出人の特定と身柄確保で済まなくなったからだ。
政信の話によれば、屋敷に招待した自分を殺すほど憎んでいる容疑者は、兼久、榊原夫妻のほかに二名いると言うのだから、ずいぶんと敵の多い男である。
容疑者の一堂に会する機会で彼が殺害されれば犯人の特定が難しく、それに一つ屋根の下にいれば殺害の好機も生まれる。
彼の性格をよく知る犯人が予告状を送りつけた目的が、養生している信州の屋敷に他の容疑者とともに呼ばれることにあった――そう思えば一応の辻褄が合う。
ここは最早、政信が犯人と興じるために用意したチェスボードと考えた方が良さそうだ。
私は諜報を好み荒事が苦手なのだが、キングを守る盤上の駒となれば要人警護の任務が避けられない。
窓枠に置いた腰を支えにして気が滅入る身体を預けたとき、誰かが少佐の名前を呼んだ。
「貴方が、甚平と恵子姉さんの話していた黒羽少佐ですね」
私が鈴を転がすような声に振り向くと、黒髪のショートボブにちょこんとクロッシェ帽を被る、オフショルダーのベルト付きワンピースを着た十代と思しき少女が階段を上がってきた。
階段を登りきった彼女と向き合えば、大胆に開かれた襟から覗く胸元、ミニ丈から伸びる白い脚に赤面して目のやり場に困ってしまう。
高平の家柄を考えれば、成人前の娘が肌の露出が多い服を着れば叱責されると思うのだが、長女の恵子を『姉さん』と呼ぶ彼女が次女の高平彩子に間違いない。
「そうね、甚平が言うほど男前じゃないけれど、恵子姉さんが言うほど野暮ったくないわ。それにお父様から聞いていたほど、おじさまでもない」
顎に手を当てた彩子は、ふむふむと頷きながら私の容姿を品定めしているが、少佐の代役であれば人相を凝視されるのに抵抗がある。
私は軍帽の革つばを引き下げて顔を隠すと、屈託のない笑顔の少女から視線を逸した。
しかし数時間ほど横になっている間、屋敷の彼らは彼女に何を吹き込んでいるのか。
「それで、貴女はどう思います?」
「切れ長の細い目と薄い唇は好みだけれど、男前と言うより歌舞伎の女性みたいね。少佐は軍人だし、もっと肩幅のある方がモテるんじゃないかしら」
「そりゃどうも」
「少佐は、私のことが気にならないの?」
彩子は、立ち去ろうとする私の腕を掴んだ。
言葉の訳合いを理解できない私が『なぜですか』と、問い質したのが気に食わない様子で、彼女は黒目がちの目を丸くして頬を膨らませる。
私の無関心が、彼女を怒らせたらしい。
「だって私たち、もうすぐ結婚するんでしょう。少佐は、妻になる私のことが全く気にならないのですか」
「え、私と貴女が結婚する?」
「少佐は、そのために呼ばれたのでしょう」
上司からも政信からも何も聞かされていないし、彩子との結婚は私に与えられた任務なのだろうか。