01 トライデント城
昭和十三年の初夏。
関東軍で軍令憲兵だった私は、ダットサンセダンの後部座席に腰掛けて運転手と助手の世間話に耳を傾けていた。
彼らは今から向かう屋敷の下働きで、出身は先ほど鉄道院中央本線の汽車を下車した長野県の茅野駅周辺らしく、ここらの地名や歴史をあげながら会話に花を咲かせている。
満州から船と夜汽車を乗り継いで一人旅をしてきた私は、疲れた体を休めたいところではあったが、どうせ晴天の陽射し中で目を閉じても眠れるわけでもなし、生来からの覗き見趣味もあって楽しく拝聴させてもらった。
「少佐は、満州で憲兵をなさっているんでしょう。高平の旦那に届いた予告状の件を、お調べになっているんですか?」
助手席に座っている吉田甚平は振り返ると、屋敷の主人である貴族院の高平政信議員に届いた殺害予告の捜査にきたのかと尋ねてきた。
「いいや、政信氏とは個人的な知り合いでね。それに私は、憲兵と言っても軍令憲兵だから本土の捜査権がないのだよ」
「そうなんですかい。高平の旦那が満州から憲兵を呼びつけたと言うから、俺らてっきり捜査のために呼ばれたのかと思いました」
憲兵といえば通常、陸軍大臣の管轄に属した勅令憲兵を指すが、軍令憲兵は、戦地で編成された軍司令官の命令に服する憲兵であり、私は関東軍の守備隊に所属している。
関東都督府直属だった関東軍の軍令憲兵の捜査権限は、関東州と南満州鉄道附属地の警備する範囲内に限られており、長野で養生している貴院議員の殺害予告には、何の捜査権限を持たない。
「私は友人として屋敷に招かれたと考えているし、そもそも殺害予告の捜査や要人警護は警察の仕事だろう」
「そりゃそうですね」
甚平は運転手の丸山寅吉に肘で小突かれると、前に向き直り会話を切り上げた。
関東軍の軍令憲兵である私は、休暇を利用して信州の山奥で養生している政信の見舞いにきた。
しかし、これは表向きの訳合いである。
貴院議員とは帝都に軍席を置いていた頃、顔見知り程度の付き合いだったが、彼と懇意にしている上司から私的に身辺警護を依頼されていた。
議員に殺害予告を送りつけた犯人が本気か否か、私に声がかかったのであれば、そこに本気の殺意が込められていたのだろう。
「ここから先は、高平家の敷地になります」
運転手の寅吉が車速を落とすと、甚平が車外に飛び降りて鉄条網の柵を開門して、私たちの乗ったセダンを迎え入れた。
しばらくノロノロと運転していると、閉門した助手が駆け寄って車に飛び乗る。
私が見渡したところ、未舗装だった林道を抜けて砂利道になったとき、深い森の木々に突き出た石造りの塔が遠くに三本あり、それが屋敷の一部だとすれば、高平家の敷地は広大なものだと思った。
「異国の城を移築して建てられた屋敷は、帝都の建築よりモダンでしょう」
甚平の軽口に、寅吉が再び肘で小突く。
彼らは親子ほど歳が離れており、どうやら運転手は助手の教育係も兼ねているようだ。
私が警護のために訪れた一介の憲兵ではなく、主人である政信に招かれた客人であれば、言動に注意を払えと教えているのだろう。
そういう気遣いは堅苦しくていけないのだが、初対面にも拘らず馴れ馴れしく接してくる助手のような男も苦手である。
「黒羽武少佐をお連れしました」
車からの荷物を運んでくれた甚平は、玄関に出迎えてくれた妙齢の女性に告げると、長い軍刀を杖代わりに後部座席から立ち上がった私を待たずに邸内に消えた。
外国から移築された二階建ての洋館は、中央の玄関から見上げた塔の左右に同じ形をした塔がそれぞれに建っており、塔は二階家から倍の高さがある。
確かに壮観で見応えがあるものの、山奥に不釣り合いな洋館は金持ちの道楽に思えた。
私が軍刀を支えにして両開きの重い玄関扉を開ければ、先ほどの女性が手を差し伸べて『腰の物をお預かりします』と、私からピストルと軍刀を取り上げようとする。
ピストルをホルスターから出した私は、彼女の求めに応じたが、杖代わりの軍刀を渡すのは躊躇ってしまう。
主人の政信に殺害予告があるのだから、慎重を期したいのはわかる。しかし任務中に脚を負傷していれば、軍刀を渡して支えをなしに歩くのが困難に思えたからだ。
「恵子、黒羽少佐のそれは問題ない」
「お父様は、口を挟まないでください。今夜は貴院の来客もあるというのに、軍服を着た男が刀なんて持ち歩いていたら驚かれますわ」
吹抜けの玄関ロビーから階段を見上げれば、老いてなお矍鑠とした佇まいの政信が立っていた。
議員は病床に伏していると聞いていたのだが、背広に蝶ネクタイ、金糸の刺繍が施された濃紺のローブを羽織りパイプを燻らしている風貌からは、けっして病に冒されているように見えなかった。
そして私から武器を取り上げようと目尻を吊り上げた女性が、政信の長女である高平恵子と思われる。
恵子は結上げた黒髪を手で撫でつけると、私から視線を逸して不貞腐れた。
「黒羽少佐の刀が満州事変で負傷された脚の代わりであれば、誰だって納得する。刀は軍功をたたえられて、皇室から拝領したものだし、貴族院には、彼の支援者も大勢いるぞ」
「そうですの?」
「満州の黒羽武を招いたと言えば、こんな山奥の別荘でも黒山の人だかりができる」
政信に言い含められた恵子は、私を一瞥して『有名人なんですね』と嫌味を言うと、鞄持ちの甚平を従えて邸内を案内してくれた。
彼女は階段から見下ろしている父親に鼻をツンとさせてから、大きな扉を開いてテーブルに燭台が並べられた豪華な部屋に先導する。
まだ日も高いというのに、下働きの給仕が花を飾り付けたり、ナイフやフォークを確認したり、忙しなくディナーの用意をしていた。
テーブルに並べられた食器を数えてみれば十数名、屋敷に住んでいる政信の身内が妻と三人の子供と聞いているので、来客は私だけではなさそうだ。
「一階中央には貴賓室と応接室、その奥に厨房があります。玄関から右手は一、二階とも客室になっており、それぞれ四部屋の個室になっています。左手が家族の私室になるので、けっして立ち入らないでくださいね」
恵子は階段のある中央塔真下の吹抜けに戻ると、脚を引き摺る私に一階手前のゲストルームを用意するように甚平に託ける。
「外観で目立っている三つの塔は、吹抜けの階段になっているんですか?」
「ええ、塔は一階と二階、それと左右の屋上庭園を繋いでおります。建築当初は中央に三階があったらしいのですが、今は切妻屋根になっています」
「塔の上にある小さな明り取り窓は、賊の侵入を見張る物見櫓ですね」
「階段の先には円形の踊り場があるけれど、ここの眺めは最悪よ。こんな辺鄙な山奥じゃなくて、早く調布の本宅に戻りたいわ」
恵子は素っ気ない態度で会話を切り上げると、部屋の用意ができたと顔を覗かせた甚平を手招きして、あとは彼に聞いてみろと言った。
彼女のつれない素振りには、何か訳合いがあるのだろうか。
都会慣れした雰囲気があれば、田舎暮らしに辟易していても不思議ではないが、都会慣れしていればこそ人嫌いの趣に首を傾げる。
「彼女が嫌っているのは、私の着ている軍服か」
帝都不祥事件(二・二六事件)以降、軍属は政治家に煙たがられる嫌いがある。
独り言ちた私は、家族の私室がある左手に消えた彼女の後ろ姿を見送ってから、コツコツと軍刀で床を鳴らして宛がわれた個室に向かった。
片開きドアを奥に押せば、部屋の入口脇に浴室と洗面台の水回りとワードローブがあり、その先にはベッドと窓辺に置かれた執務机が見えた。
「少佐、モダンな部屋だろう」
私が脱いだ国防色の外套をワードローブのハンガーに掛けている甚平に聞けば、八部屋ある客室は全て同じ造りであり、各室にある水回りは厨房の裏手にあるボイラーから給湯されている。
浴室付きの客室は都会のホテルでも流行りだが、駅から車で小一時間ほど離れた山奥の個人宅でお目にかかるとは思わなかった。
「この屋敷は、トライデント城と呼ばれていたらしいです。ほら、三本の塔が三叉槍に見えるでしょう。まあ城と言っても移築するときは教会だったから、内装は帝都から職人を呼びつけて全面改装したんですよ」
「この屋敷は、英国から移築されたのかな」
「なんでわかります?」
「我々連合国が勝利した欧州大戦だが、国力が疲弊した英国では、屋敷や領地を手放す没落貴族が多い。政信氏は英国王室とも交流があるし、その伝手で古城を譲り受けた。そんなところだろう」
天井の高い邸内や貴賓室のステンドガラスに調度品、どこか厳かな雰囲気を感じていたので、移築前に教会だったとの説明に頷いた。
そして建築当初、三階があった貴賓室の屋根が切妻屋根の訳合いは、中央塔の裏手が礼拝堂に改築されていたからだとも思った。
「しかし屋敷の内装も、外観に負けず劣らずモダンな造りだ。政信氏は、なかなかの趣味人のようだね」
古城を現代的と言えるのかわからないが、甚平は洋風を以てモダンと称しているのだろう。
そろそろ一人になりたい私は、適当な言葉で彼をあしらったつもりだが、同意を得たと勘違いした彼は、小鼻を膨らませて話を続けたのである。
「そうでしょう。高平の旦那は、あんな事件がなければ山奥に引っ込んでいるお方じゃないんですよ。帝都では事件以来、兵隊が幅を利かせているって話じゃないですか」
甚平は口を滑らせたと思ったのか、口を手で覆って言葉を飲み込むと愛想笑いで私の顔色をうかがった。
あんな事件とは一昨年初春、皇道派の陸軍青年将校らが下士官兵を率いて起こした帝都不祥事件のことであろう。
軍事革命を首謀した青年将校らの理論的指導者として逮捕された社会運動家は、特権階級の貴族院議員が天皇と国民を隔てる「藩屏」だと廃止を訴えており、未遂に終わったが貴族院の西園寺公望襲撃も企てていた。
天皇親政を掲げた皇道派の青年将校は、その当為に反して天皇の勅令で反逆者となり革命を成し得なかったものの、暗殺された高橋是清大蔵大臣らを中心とした政党政治に不満を抱いていた軍部主流派(統制派)には、彼らに同情的な声がなかったわけではない。
帝都不祥事件により皇道派は力を失ったが、彼らに入れ替わり軍部主流派は官僚、政党、財界上層部と結託して、翌月九日には広義国防国家の樹立を目標とした廣田弘毅内閣を成立させる。
これにより軍部は陸軍大臣、海軍大臣の就任資格を現役の軍人に限定する『軍部大臣現役武官制』を議会に承認させると、軍部の政治介入を可能にして政治的優位を確立した。
帝都不祥事件は演者である皇道派こそ舞台から引きずり降ろされたが、その志は敵役だった統制派の軍部主流派に引き継がれており、政党政治の幕引きが図られたのである。
「政治の話には疎くてね」
「そうですか……、そう言ってもらえると助かります」
甚平は憲兵を前にして、軍部がキャスティングボードを握る現政権を批判したことを後悔している様子だが、彼は過激な思想家でもなければ、ただ自分の主人が中央政府から追いやられている現状を口にしただけだ。
そう思えば政党政治の終焉により政治家として活躍の場を奪われた政信は、病を言い訳に信州の山奥に引きこもっているのかもしれない。
あの親にして、あの娘ありか。
議員が軍部に政治権力を掌握されて不貞腐れているのだとしたら存外、二人は似た者親子なのだろう。
「もうすぐ彩子様が屋敷に戻られるですが、モガでお美しいお方なんですよ」
「モガ?」
「いやだなぁ、モダンガールのことです。少佐は男前だけど、貴族のお嬢様を誘惑なんかしちゃいけませんよ」
甚平は揉み手をしながら、あからさまに話題を変えた。
彼の与太話に付き合ってやるのも一興だったが、長旅の疲れを癒やしたいので、シャワーを浴びてから夕食まで仮眠したいと伝えると、旅行鞄をワードローブに仕舞って部屋を出ていった。
私は一人になったのを確認して軍刀をベッドに投げ置くと、右脚を二度ほど踏み鳴らしてから兵用編上靴の紐を解いて素足になる。
それから引き出した椅子の背もたれに脱いだ軍服とワイシャツを掛けて裸になると、しっかりした足取りで浴室に向かった。
黒羽武少佐は満州事変のとき、右脛を銃弾に貫かれており、長い軍刀を杖代わりにしているのだから、彼の代役を引き受けた自分も、その逸話に準じて右脚を引き摺っている。
熱いシャワーを浴びながら、シャボンを手に取りオールバックにまとめた椿油を丁寧に洗い落とすと、額に流れた前髪を鏡に映して在るべき姿を取り戻した。
「狸親父は、いつまで白を切り通すつもりかね」
帝都の陸軍省に赴任していた頃、上司と連れ立った貴族院で政信と面識があれば、私が黒羽武ではないことが一目瞭然だったはずだ。
それでも議員は先ほど、到着したばかりの私を件の少佐として迎え入れてくれた。
これが意味するところは、私の素性はともかく結果を期待してと見受けられる。
口裏を合わせてくれた彼の期待に応えられるかは別として、濡れた体のままでベッドに横たわった私は、山に木霊する不如帰の鳴き声を聞きながら、今は無心で眠りたかった。