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鶯の抵抗  作者: 梔虚月
25/29

02 任務終了

「少佐、それは何ですか」

 ドアノブを手にした彩子が、鞄から薬包紙を取り出した私に聞いてくるが、何も答えず胸ポケットに仕舞う。

 薬包紙の中身が、自決用に持ち歩いている青酸カリ(シアン化合物)だと言えるはずがない。

 私に自死する訳合いがないので、薬包紙には別の用途があるのだが、できれば使わず穏便に済ませたいものである。

「さあ、彩子さん参りましょう」

 私が彩子を伴って部屋を出れば、玄関ホールにいた長女の恵子の姿がなく、節子のいる応接室に向かったと思われる。

 岩壁には『節子の容態が急変するなら呼び出してくれ』と、応接室で待機するように頼んでいるので、母親の容態に変化があったわけではなさそうだ。

 そして右の塔に向かう私が、朱美の部屋の前を通り過ぎたとき、不安な顔で毛布に包まれた彼女と視線が合う。

 どうやら夫人は、部屋でティーカップを見つけた私が、真犯人だと疑っていると思ったらしい。

 怯えた目が、犯人は自分じゃないと訴えている。

「少佐は、朱美さんに事情を聞かなくても良いのですか」

「ええ、彼女が落ち着くまで待ちましょう」

 朱美の言い分がわかっていれば、無理に聞く必要もなかった。

 彼女が無実でも犯人だったとしても、ティーカップが部屋にある訳合いを問えば、濡れ衣を着せられたと答える。

 よしんば事実でも彼女が保身のために、危篤状態の節子を見捨てた事実に変わりなく、それを咎めなければならない。

 証言の真偽を確かめる手段がないのだから、警察のように犯行を決めつけて、傷心の彼女を追い詰めるのは悪趣味だ。

「彩子さん、中央塔に繋がる廊下を施錠した状態で、客室と屋敷中央を行き来する方法はありますか。例えば、客室のベランダを伝って、応接室のある屋敷中央に渡る方法です」

 吹抜け階段で客室二階に上がった私は、そこから中央塔手前の廊下を指差した。

 私には通路を使わず出入りする方法が思いつかないものの、屋敷の構造を知り尽くした彩子ならば思いつく方法があるかもしれない。

「ベランダから外には出られるかもしれないけど、昨夜は戸締りも確認しているし、窓でも割らないと不可能だと思います」

「なるほど。では優馬くんや朱美さんが自ら閂を解錠しなければ、屋敷中央に向かえないのだね」

「ええ、そのとおりです」

 屋敷中央と客室を繋ぐ三つの閂錠が閉じられていたのだから、優馬と朱美が自ら解錠しなければ、節子が毒を飲まされた応接室に行くことが出来ない。

 私が更に階段を上がると、屋上に出る右の塔の扉は閉じられていたものの、閂は壁に立てかけられており、手で押せば簡単に開いた。

 岩壁と優馬が昨夜、屋敷中央と客室を繋ぐ扉の施錠を、長男の和政が高平家の私室を繋ぐ扉の施錠を行ったはずだが、真犯人は屋敷の者と決めつけて屋上に出入りする扉の施錠を怠ったのか。

 屋上を見渡しながら中央塔に近付いた私は、屋敷中央に通じる扉を引いても開かないので、ここから邸内に戻るのは不可能だった。

 また切妻屋根の角度は鋭角で、よじ登って反対側に行くのが困難であれば、あちら側の扉も施錠されており、どちらにせよ邸内に侵入することができない。

 私は、ここでも彩子に確認した。

 すると顎に手を当てた彼女は、しばらく考えてから手を打った。

「右の塔から中央塔までロープを渡せば、屋上を通らなくても客室と屋敷中央を出入りできますわ。子供の頃、綱渡りというの出し物を靖国神社のサーカスで見ました」

 そんな奇抜な方法は、真犯人が曲芸師でもない限り不可能である。

 真犯人が曲芸師であっても、誰にも悟られず二本の塔にロープを渡すような、大仕掛けを用いることは万が一にもない。

「そう言えば良夫さんが殺されたとき、貞治さんは屋上にいたんですよね? ここからだと、ベランダが近くに見えますよ」

 彩子は切妻屋根にある狭い足場に立って、そこから良夫が射殺されたベランダを指差している。

 貞治は切妻屋根の足場からロープを使えば、応接室の上げ下げ窓まで降下できると言っており、二階客室にいた兼久にも黄金銃が盗めると、そんな見立てを披露していた。

 それに署長は私と岩壁のいた取調室を出た後、その足で屋上に向かっており、そこで良夫を殺害した銃声を聞いたと証言している。

「確かに足場からは、手前のベランダに立つ良夫を至近距離で狙えますね」

 屋上の足場からは、中央塔に一番近い部屋のベランダが目と鼻の先にあり、被害者をベランダに誘い出せば、拳銃の腕が素人でも外しようがないように思われる。

「貞治さんが真犯人ですか」

「いいえ、それは有り得ません」

 貞治は良夫が殺害されたとき、中央塔から邸内に戻って政信や節子のアリバイを証明しているが、切妻屋根の足場からの狙撃だった場合、彼自身のアリバイは誰も証明できない。

 しかし甚平に病院に搬送されている署長には、良夫を殺害できても節子や優馬の殺害を試みることが不可能である。

「貞治さんは、共犯者なのでしょうか」

「かもしれませんが、或いは――」

 私は言葉尻を濁すと、彩子に足場で待たせて客室の屋上に戻る。

 私が足場に残した彼女と視線を合わせつつ、屋上を隅々歩き回っていると、屋敷中央に通じる扉が開いて、刑事の岩壁が顔を出した。

「少佐、政信氏が呼んでいます」

 岩壁は私が部屋にいなかったので、あちらこちら邸内を探していたようだ。

 彼には聞きたいことがあったので、こちらから訪ねる手間が省ける。

「岩壁刑事に一つ確認したいのだが、客室から屋上に出る扉は昨夜、ちゃんと施錠していたのかね」

「私は、こちらを施錠したのですが、あちらは優馬くんにお願いしたので……彼が施錠したのか、どうかわかりません」

 岩壁の説明では、優馬が屋上に出た後に中央塔を施錠しており、反対側の扉の施錠まで確認していない。

 青年が施錠のために屋上を通り抜けて客室に戻っているのならば、客室から屋上に出る扉は施錠されていたと考えるべきだろう。

 刑事が『何かわかりましたか』と、彩子を手招きして邸内に戻る私に、すれ違いざまに尋ねてきたので首を横に振った。

「少佐は、何もわからなかったんですか」

「一つ確認したいことがありますが、ほとんどの謎は解けました。彩子さんのおかげです」

「私のおかげですか」

「ええ、そうです」

 彩子が顔を覗き込むので、私は人差し指を唇に当てた。

 岩壁がそうだとは言わないが、警察に私の見立てを聞かせれば、彼らは早合点で事件を掻き回す。


 ※ ※ ※


 中央塔の階段で別れた彩子には、節子の看病についてやるように言った。

 私は政信の執務室に向かう途中、踊り場から玄関ホールのソファに座る三徳を見下ろした。

 朱美を拳銃で撃った彼は今後、刑事被告人として法廷で裁かれるだろうし、妻への暴力だって明るみになれば、二度と貴院議員に戻れないだろう。

 犯人に踊らされたとは言え、妻の不貞を疑った彼の自業自得ではある。

「少佐には予告状の件を依頼していたが、このような事態になっては、関東軍の君が出る幕もないだろう」

 私を呼びつけた政信は、咳き込みながら机の引き出しを開けると、帯封付きの札束を机上に積んだ。

 彼は『遠慮なく受取れ』と、兼久が殺害予告を送りつけた犯人と言い当てた報酬だと言うのだが、そもそも私は私立探偵でもなければ、上司からの命令に従っているので、金をもらう筋合いがないと辞退する。

 私に金を掴ませる訳合いが、そもそも報酬の類でないのが明らかであれば、彼は口封じに人を殺せない優男だと実感した。

「君の任務は()()()()()()()()()()()()()()ことで、殺人事件の捜査を依頼した覚えはないぞ」

「ええ、そのとおりです。私の任務は政信氏の命を守ることで、殺人事件の捜査ではありません。貴方の安全が確保できれば、すぐにでも満州に引き揚げます」

「ならば、君の任務は終了だ」

「その訳合いは、暗殺を企む者がいなくなったとお考えなのですね。つまり政信氏には、兼久と共謀して命を狙っていた者がわかった。その者が貴方を殺すはずがないので、私の任務は終了した……ですが、これは弱りましたね」

 政信は私の言葉に苛ついた様子で、指先でコツコツと机を叩きながら『任務終了だ』と、つっけんどんな口調で繰り返した。

 殺害予告を送りつけた兼久が殺されており、七つの弾丸を用いた殺人事件が結末を迎えていれば、これ以上の深入りは個人的な好奇心でしかない。

 知りたがりの性分は満たされないものの、私は警察や探偵の真似事、まして安っぽい正義感や義憤に駆られて犯人を捕まえたいとも思わない。

 依頼主が『任務終了』と言うのならば、今後の事件捜査に首を突っ込むのはお節介である。

 それに犯行に用いられたトリックは全て解けたものの、彼の協力が得られなければ、最後の謎が確信に至らないのだ。

 あまり気が進まないが、依頼主が事件解決を望まないのであれば、ここは大人しく手を引くのが定石だろう。

「私も目立つ仕事は不本意であれば、警察の捜査に口出しするのは止めにいたしましょう。しかし政信氏の安全確保が上司に与えられた任務であれば、私は満州に引き揚げる前にらねばならぬ仕事があります」

「貴様は、何を言っておるんだ?」

「政信氏は知らず知らず、既に敵の術中に陥っているのです。真犯人が貴方の命を狙っているのですから、これを排除するのが、私に与えられた本来の任務なのです」

 私が腰に手を当てると、軍刀に視線を落とした政信の顔が引き攣った。

「ま、待てっ、貴様はどうするつもりなんだ!」

 執務机に身を乗り出した政信は、背広の胸元を強く握り締めると、苦しそうな表情で私を睨みつけている。

 興奮すると胸の病が辛いのだろうか、肩で息する彼の額からは脂汗も流れていた。

「私は、上司から貴方を守るように命令されています。貴方の協力が得られないのであれば、ここから先は憲兵隊防諜班の領分で動きます」

 偽計を用いて人心を揺さぶり、相手を術中に陥れるのも、情報操作や口封じも、真犯人の専売特許でなければ、むしろ諜報員である私の領分なのだ。

 政信は私を屋敷に送り込んだ関東軍憲兵隊を指揮する黒羽武が、単なる要人警護の使い走りを寄越したと思っていたのだろうか。

 だとしたら、お笑い草である。

「だから待てと言っておる……貴様には、犯人が誰かわかったのか」

「私にわからない真犯人が、貴方にはわかった。それがどういう意味なのか、少し考えれば子供にだって真犯人を言い当てられます」

「しかし犯人が、私の命を狙っている証拠はあるのか」

 私は頷くと、その証拠だと胸ポケットに仕舞った薬包紙を取り出した。

 そして私が政信の耳元で囁くと、証拠の使い道を聞いた彼は驚愕したようだ。

「それは……本当のことか」

「ええ、もちろんです。真犯人は、今でも貴方の命を狙っています」

 私が神妙な顔で政信の胸を突くと、彼は椅子に深く座り直して『そうか』と呟いたので、今朝ほどの言動の真意を確かめた。

 人心を揺さぶり情報を操作するのは、なにも真犯人の専売特許ではないのである。

 私の得意とするところだ。

「――は、私がやったことだ」

「やはり貴方の証言は、私の推理していたとおりでした。これで事件に拘る事象は、全て辻褄が合います」

 私が執務室を後にしようと軍刀で床を突けば、政信が『わかっていると思うが』と、背中に話しかけてきた。

「事件の真相が公になれば、私は議席を失うことになろう。しかし戦時体制を整えた挙国一致内閣の歯止めが効かなくなれば、まずは対中講和の道が閉ざされた大陸が戦場になるんだぞ」

 政信はこの期に及んでも、事件の隠蔽を画策しているようだ。

 彼の証言で最後の謎が確信に至れば、知りたがりの性分も満たされており、事件の真相を闇に葬ってやるのは構わない。

 むしろ私の任務は貴院議員の高平政信を守ることで、事件の真相を解き明かせば、敵である甚平に花を持たせる結果になる。

 上司が諜報に長けた私を身代りにした訳合いを勘案すれば、政信の失脚に利するのを避けたいところだ。

 となれば――

「もちろん、任務は心得ていますよ」

 私のような諜報員は、警察や探偵の真似事、まして安っぽい正義感や義憤に駆られて目的を見失わない。

最終章03、04は謎解きです。

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