01 いくつかの課題
長岡優馬は、貴子が生んだ政信の隠し子である。
甚平の情報で知り得た十年前の口論、生活費の援助や養育費の肩代わり、長女の恵子との交際を拒む頑なな態度、青年を隠し子と疑う証拠は多いものの、どれも決め手に欠けていた。
しかし子供だった彼が貴子の転落死に纏わる何らかの秘密を握り、それをネタに政信を強請って援助を引き出しているとは思えない。
ゆえに彼が殺されたとするのならば、十年前の事故ではなく、姉夫婦に実子として育てられた長岡優馬の生い立ちが、真犯人にとって御し難い秘密そのものと考えれば、これまでの違和感が払拭できる。
彼は息絶える瞬間まで、自分が殺される意味さえ理解していなかっただろう。
優馬の出生は私の想像に過ぎなかったが、青年に他の招待客を殺す訳合いも、中央塔から身を投げて縊死する訳合いもなく、そうであれば彼の死には過去の因縁を背負うだけの――背負わされるだけの秘密がある。
彩子は高平家の書生だった彼を『兄妹当然の関係』と評しており、長女の恵子との交際も快諾されると思っていたらしい。
政信が本宅に招いた妾腹の息子と、正妻の子供たちが異母兄妹であれば、彩子の言うとおり、政信は青年を他の兄妹たちと同等に扱っていたのではないか。
政信は長男の和政が実業家の道に傾倒していたので、彼は自分と同じ政治家を志している帝大生には、特段の配慮をしていたのかもしれない。
貴子が亡くなって十年間、彼は供養を欠かさなかったし、長岡家の援助も惜しまなかったが、事故で亡くなった友人の妻にしてやるには、ずいぶんと手厚いお悔みである。
夫だった兼久は、長岡家と疎遠だったにも拘らずだ。
妾腹の子供を招いた結果、子供を畜生道に貶めたのは誤算だったのだろう。
「政信は朋友だった兼久が政敵に転じたから、甥の優馬を追い出したわけじゃない。腹違いの兄妹が恋仲になったので、遠ざけるしかなかった。しかし――」
大名が跡継ぎの男子を生ませるために側室をもっていたように、華族の当主は家督相続のために、妾をもつことが明治の頃まで公然と行われていれば、彼らの年頃には妾腹の華族だって大勢いる。
体調を崩して山奥で養生している政信が、優馬を本宅に招いたのであれば、長男の和政が実業家を目指しており、妾腹の息子を跡継ぎにと考えていた可能性もある。
だとすると、いくつか解決すべき事柄があるものの、妾腹の優馬を正式に息子として家に迎えるだけで、長女の恵子と恋仲になることがなかったし、優馬も貴院議員の立場を世襲ができる。
優馬は衆議院の普通選挙を目指しているのだろうが、長男の和政が商いに精根を傾けることがあれば、貴族院の議席を世襲する者として適任だったはずだ。
しかし政信は、そうしなかった。
いくつかの課題が、優馬を認知して高平家の籍に入れることを難しくしていたのだろう。
過度に醜聞を恐れる彼の性格によるところが大きいが、側室から嫡子を招き入れるのを嫌うのは、いつの世も正妻である。
家長制度では家父長が資産や家督を相続するので、年長である優馬が高平家の戸籍となり、貴院議員の政信から議席を世襲すれば、正妻の子供である和政の資産が目減りするばかりか、名実ともに家督を追いやられる。
そして兼久も自分の妻が身籠った優馬であり、政信の都合で長岡家の姉夫婦から引き剥がそうとすれば、さすがに許すと思えない。
なぜなら兼久は貴子を事故で亡くしたとき、政信や貞治の言い分を聞き入れて、一人で屋敷を抜け出した妻が転落死したと承諾したが、今は黄金銃を手にしたのだから、十年前の事故に政信の関与があったと確信していたふしがある。
では事件の背景となっていよう事実は、誰が知り得ており、誰が知り得なかったのか。
優馬が隠し子だと知り得た人物は、政信、節子、兼久、貞治だと簡単に特定できる。
当事者はもちろん、夫人も心得ていたからこそ反対ができるし、銃口を向けるほどの殺意を抱いた兼久も知っている。
十年前の捜査主任だった署長は屋敷に到着した初日、やけに優馬を好青年だと持ち上げたにも拘らず、彼の件を政信と話してくれるなと、それとなく秘密を探る私を牽制していた。
そして興味深いことに事実を知り得た四人のうち、政信を除く三人が命を狙われており、当人である優馬も首を吊って死んでいる。
つまり今回の事件は、優馬が政信の隠し子だったと仮定した場合、真犯人がある目的を達成するために仕組んだものと推理できる。
「優馬が殺されたことで導き出せる殺害動機は、私の推理どおりなのだが、どうやって犯行を重ねることが出来たのか」
私の推理を実証するためには、部屋に引き篭もり頭を捻っても、これ以上の答えが見つからない。
真犯人の殺害動機は推察できたものの、仕掛けられた数々のトリックが解けなければ、証明のできない机上の空論である。
真犯人の仕掛けたトリックがわかれば、節子が毒入り紅茶を飲んで危篤状態にある訳合いも見えてくる。
一つは黄金銃を盗み出した方法だが、これは既に当たりがついていれば、残りは良夫が殺害されたときのアリバイ、署長に毒を盛った方法、そして三日目の朝に優馬を自殺に見せかけて殺害した方法だった。
そして忘れてはいけないことは、狡猾な真犯人がトリックを用意周到に仕掛けているが、屋敷を孤立化するときにダットサンセダンだけが走行可能な状態だった。
三徳の乗り付けたハドソンフェートンのタイヤを切って電話を不通にした真犯人が、屋敷の車に細工しなかったのは、署長の殺害を目的とするのならば、どう考えても片手落ちであり、ここに計画の狂いを感じた。
また朱美が口紅のついたティーカップを処分しようとしたことで、榊原の夫人が真犯人と目されたにも拘らず、優馬が自殺したことで容疑者が二人いる現状も、真犯人が意図していたと思えない。
今回の事件では、真犯人の計画とは別の意思も働いていることを心に留めておく必要があるだろう。
また部屋で黄金の弾丸が込められた銃を見つけた三徳が、懐疑に取りつかれて妻に銃口を向けたが、これは真犯人の想定内であっても計画に含まれていなかったはずだ。
私が椅子を引いて立ち上がると、彩子がドアをノックした。
「少佐、お腹が空きませんか?」
屋敷の者には昨晩から飲食を禁じているので、喉も渇けば腹の虫も鳴き始める頃だった。
私がドアを開けて彩子を部屋に招き入れると、手には川辺にサンドイッチを運んだバスケットを持参していた。
部屋の奥に進んだ彼女は、バスケットから握り飯が並んだ皿を取り出すと、執務机の書類やノートを端に避けて置いた。
「彩子さん、警察が到着するまでは――」
「少佐は、いくらなんでも私の手作りも毒入りと疑うのですか。これは米を炊くところから、私が作ったので安全です。皆さんにも配り終えていれば、毒見だって済んでおりますわ」
悪戯にペロッと舌を出した彩子が、屋敷の者に配り終えたと言う大きな皿には、握り飯が五つばかり残っており、配膳された者は誰一人疑わずに口にしたらしい。
部屋を出るなとの言いつけを守らないで人が殺されたのに、それでも彼らは言いつけを守らない。
私が肩をすくめると、彼女は『上に梅が乗っているのが梅干し、胡麻は焼いた鮭です』と、屈託のない笑顔を見せた。
「ええ、では一つだけ頂きましょう」
「少佐は軍人なのに華奢なので、一つと言わずに全部召し上がってください」
「そうですか? こう見えても、体を鍛えている方だと自負しているのですが」
「ははあん、わかりましたよ。好き嫌いはよろしくないのですが、少佐は梅干しが苦手でしたね」
私が胡麻の握り飯を手に取ると、彩子は梅の握り飯を手にしてベッドに腰掛ける。
既に七つの銃弾が使用されており、私の推理どおりであれば、犯罪は完遂されているのだから、そこまで神経質になる必要もないのだが、真犯人の意図しない第三者がいると思えば、用心するに越したことがない。
それに母親の節子が危篤状態で、姉の恵子が恋人の死で失意の底にあれば、努めて明るく振舞う彼女も心中穏やかではないだろう。
泣き腫らした目に化粧っけのない顔は、幼い顔を更に幼くしており、両手にもつ握り飯を頬張る姿は、まだ無垢な子供にしか見えなかった。
真犯人が事件を高平家の禊に考えているのであれば、彼女に不格好な握り飯を作らせていることをどう思うのか。
「ところで彩子さんは、三徳が妻に暴力を振るうような男だと存じていましたか」
「噂では……でも嫉妬深いところがあるけれど、三徳様が奥様を愛してらっしゃったのは本当だと思うわ」
彩子は三徳を『嫉妬深い』と言うのだから、やはり兼久が政信の殺害に【嫉妬の弾丸】を用いたのは、不釣り合いに感じてならない。
私は指先の米粒を舐め取り、そんなことを考えながら二つ目の握り飯を口に運ぼうとしたとき、彩子が顔の前で手を横に振った。
どうやら私が食べようとした握り飯の具は、上司が食わず嫌いにしている梅干しだったようだ。
他人に化ける潜入工作で諜報員を疑われるのは、無意識に出てしまう癖などの特徴と、敵の持っている情報との差異が生じて見抜かれる。
食事の選り好みは、上司の身代わりであれば、よほど気を付けていなければならなかった。
「それは、こちらに」
「ああ……ありがとう」
私は彩子に梅干しの握り飯を渡すと、なぜ黒羽武に会ったことがないはずの彼女が、上司の好き嫌いを言い当てているのか、そこが気になって空返事した。
「彩子さん、これから邸内を見て回りたいのだが、良ければ案内をしてくれないかね」
「はい! 私の手伝いが必要とあれば、喜んで邸内を案内させてもらいますわ。ついに私も、捜査のお手伝いができるのですね」
「ええ、そういうことです」
事件の真相が私の推理どおりならば、彩子の笑顔を曇らせる結果になる。
なぜなら今回の事件は、巣に近付いて托卵を企む不如帰に抵抗する鶯の所業であり、ダンテの罪を祓って天国に導いたベアトリーチェの犯行だったからだ。




