最終章00 九段花街
私は過去の世界から戻ると、高平家の私室、貴賓室や応接室、客室の行き来を中央塔に通じる廊下を閂錠で隔離してから、私が解錠して応接室に向かうまで、誰がどのように行動したのか考えた。
現在わかっている事実は、節子、優馬、朱美が自ら閂を解錠しており、優馬と朱美は再び施錠して自室に戻ったが、節子は応接室で服毒して危篤状態にある。
これは私を呼び出した岩壁が二階客室の閂が施錠されていたと証言して、彼と二人で一階客室の閂を解錠したのだから、何かしらのトリックを使わない限り覆らない。
このことから考えられる彼らの行動は二通り、一つは優馬と朱美が共犯で、朱美が呼び出した節子に毒入り紅茶を飲ませた後、証拠隠滅のためティーカップを回収した。
または優馬が節子に毒入りの紅茶を飲ませて、事前に用意していた朱美のティーカップを残して自室に戻り、そこに別件で応接室を訪れた朱美が、濡れ衣を着せられるのを恐れて、秘密裏に処分しようとしたである。
優馬の単独犯を疑える訳合いは、彼が空き部屋105号の合鍵を常に携帯していたのならば、誰の手を借りずとも黄金銃を盗み出せるからだ。
そして彼が玄関ホールに【怠惰の弾丸】を残して縊死したのは、まだ節子に息があると知り、夫人の証言で犯行が発覚すれば言い逃れできないと自殺した。
市警察の岩壁も辿り着いた結論であり、良く出来た筋書きだが、出来過ぎた結末で、台本を書いた真犯人に踊らされている気がしてならない。
なぜなら玄関ホールで首を吊った青年は、本当に節子が生きていると知ってから、中央塔の見晴らし台に身を投げたのか。
真犯人が三人を殺害して、それを優馬の仕業と見せかけるために、榊原夫妻を除く私たちが応接室に集まったのを見計らって、黄金の弾丸を玄関ホールに置いたのかもしれない。
つまり私と岩壁が応接室に向かうとき、既に玄関ホールの天井を見上げれば、既に彼の遺体が吊られていた可能性である。
それに問題は良夫殺しのとき、二人にアリバイがあることだ。
優馬は恵子と外出先か空き部屋で逢い引きしていただろうし、朱美は三徳と応接室で事情聴取の順番待ちだった。
恵子に偽証しているふしがなければ、三徳も良夫殺しのとき妻と一緒にいたから、妻と誰かの共犯を疑っている。
そして過去に戻って再検証してわかった事実は、優馬が節子を気に掛けていたこと、高平の母娘は朱美が夫の暴力に悩んでいると心得ていたことである。
また政信は署長に【暴食の弾丸】が使われたことで、これが七つの原罪になぞらえた連続殺人だと知ると、考え込むような素振りとなり、何やら心当たりに行き着いた気がする。
「彼の心当たりが何なのか、私に聞かせてこない訳合いがあるのならば、聞き出すのは難しいのだろうね」
椅子の背もたれに体を預けた私は独り言ちて、新緑の森から聞こえる鶯の鳴き声に耳を澄ます。
玄関ホールの中央に寝かされた優馬の横には、恋人の恵子が大理石の地べたに座り、彼の乱れた髪を優しく撫でており、それをソファで眺めている三徳が、ようやく正気を取り戻して気不味い顔をしている頃合い。
下働きが危篤状態の節子を看病する応接室では、妻の手を握る政信が殺害の予告状を送りつけた容疑者を集めて、このような事態を招いたことを後悔している。
そして並びにある客室では、長男の和政と彩子が朱美の手当てに追われながらも、意識不明で倒れている母親の容態を気に掛けていた。
七つの弾丸は全て使用されていれば、これが事件の結末である。
この陰惨な事件の真相を解く鍵は、やはり十年前に崖から転落した大坪田貴子の死に端を発していると、直感めいた見立てが浮かんでくる。
もちろん自室に引き籠もって事件のあれこれを推理する私には、このとき誰が何処で何をしていたのか知る由もない。
ゆえにこれも、真相を解き明かした私が目を閉じて見ている世界だと、前置きする必要があるのだろう。
今から聞かせる話は、市警察を先導して屋敷に戻った甚平に報告された高平家の醜聞であり、現時点では私の想像に過ぎない優馬の出生に拘る秘密だからだ。
※ ※ ※
世界大戦の渦中だった大正四年師走、九段花街の坂下は、招魂社参りの軍人を目当てにした花柳界があり、若くして芸者だった長岡貴子が、爵位を授かったばかりの青年と出会った場所である。
長岡家は明治の頃、就職資金や公債を保証する政府の士族救済制度を受けて家禄の奉還を願い出た地方の士族だったが、救済金も数年で底をつけば没落の途にあった。
貴子は幼少のとき、両親を早くに亡くしており、結婚して入婿を迎えた姉が体を壊していれば、家督を継ぐ姉夫婦のためにと半玉になって家を出たらしい。
九段花街は当時、失職した士族の妻子が芸者となり、旗本屋敷を待合所にお座敷遊びの芸妓を生業にする者が少なからずいたので、生活苦に士族の娘だった彼女が芸者となり、料亭の座敷に上がるのも当然の成り行きだったのかもしれない。
「貴子さんが身籠ったと言うのは、本当なのかい?」
「ええ、最近は芸妓に身が入らなかった様子で、お茶を挽いてばかりでした。理由を聞けば、そのように言うので暇を取らせました」
素性を伏せた青年が白い帽子で人相を隠して、座敷に長く顔を見せない貴子の身を案じていると、九段花街の置屋を訪ねてきた。
置屋の主人から彼女が妊娠していると聞かされた青年は、信じられないといった様子で立ち去ったものの、その後の半年は、彼女を呼んでも料亭に姿を見せなかったので、あれは真実だったのかと肩を落とした。
なぜなら青年が貴子と出会ったのは、同じ爵位を持つ先達の男から置屋を紹介されたのがきっかけであり、男は水揚げの費用を買って出ていたが、身持ちが堅くて未通女であると言っていたからだ。
それが正妻を娶ったばかりの男の戯言だと疑えば、女は彼の妾となって身籠り、男は身請けを申し出た自分を騙していたのである。
青年は純真を弄ばれたと、彼らの酷い裏切りだと憤る。
端的に申せば青年は、座敷で芸妓を披露する貴子に一目惚れしており、人目も憚らず九段花街に通いつめて、ついぞ世帯を持ちたいと旦那だった男に土下座もした。
「私も好いております」
求婚に応じる言葉を貴子から聞き出したのが行方知れずになる三ヶ月前で、あとは芸者になる費用を引き受けた旦那の男に、筋を通すだけだと考えていた矢先の出来事だったからだ。
その結末が兄貴分と慕う男に女を水揚げされており、彼の想いを知っていた女は妾となって帰郷している。
しかし大正五年晩秋、諦めかけていた青年のところに置屋の主から『長く帰郷していた貴子が戻ったので、またご贔屓にしてください』と、思いがけない一報が届いた。
「貴子が身籠ったと言うのは、姉の看病で長く暇を取るための嘘だったというのですか」
「そのようですね」
貴子の姉が持病持ちで、それを気掛かりにしていたのは聞いていたし、花柳界の者が長期に暇を取るのが難しい現状も知っている。
ひと芝居打った彼女が身籠ったふりで、帰郷していたというのは信じ難いものの、子連れでないと言うのならば、惚れた女の言葉を一先ず受け入れた。
「君と私の仲ではありませんか、九段の貴子さんを身受けさせてくれても良いでしょう」
貴子が九段花街に戻ってしばらく、青年は再び土下座をくり返す。
旦那の男は『貴子の気持ち次第だろう』と言うのだが、郷里から戻った彼女の気持ちは一年前と打って変わり、首を縦に振ってくれなかった。
一度は受け入れてくれた申し出だったが、再会を果たした彼女は拒否したのである。
彼が求婚を断り続ける事情を彼女から聞き出すには、十年の歳月を費やして、その頃には若かった彼女も年増と呼ばれる歳になり、彼も一端の貴院議員となっていた。
青い月明かりに静まる九段花街の料亭、ほろ酔い加減の草臥れた男に凭れ掛かって酌をする女が、しつこく求婚を口にする彼に『もう止めてほしい』と、溜息交じりに呟いた。
枕をともにしたこともない男に十年変わらず『愛している』と、囁かれていれば根負けもする。
彼女が盃を手に黙っている彼の顔を覗き込めば、微笑み返して『今日のところは止めましょう』と、諦めるつもりがないのが明らかだった。
だから――
「私が身籠って帰郷したのは、姉の看病のために吐いた嘘じゃないわ。私と彼の間に生まれた子供は、子供のできない姉夫婦の実子として育ててもらっているんです」
貴子から断り続けた訳合いを聞いた彼は、注がれた盃に障子窓の隙間からさしこむ月光を映して、それを感慨深く見つめる。
「貴子さん、そんなことは心得ていたよ。君が隠しておきたいのならば、私は聞き出そうと思わないし、君が告白したところで、私の気持ちは変わらない」
「でも政信様は潔癖を好んで、自分に隠し子がいる醜聞をお認めになりません。私たちが世帯を持てば、姉夫婦に託した子供のことを貴方に知られてしまうと……きっと私の身請けを許してくれません」
貴子に求婚を続けていた兼久は、とっくの昔に事実を言い当てて政信に身請けの許可をもらっていれば、それと知って彼と長い年月『朋友』と呼ばれる関係を保っている。
「彼とは上手くやっていれば、貴子さんの心配には及びません。君は一言『私を愛している』と、想いに報いてくれるだけで良いのです」
「兼久様……お慕いしていました。私は出会った日から、兼久様だけを愛しております」
「私は、それを聞きたかった」
兼久は目に涙を浮かべたが、それを酒と一緒に飲み干した。
貴子の姉夫婦が実子として育てた長岡優馬は、彼女のパトロンだった政信の隠し子であり、政信が長岡家に資金提供していたり彼を書生に迎えたのも、落成式での兼久との口論も、長女の恵子との交際に反対する訳合いも、それで全て得心がいくのである。
※ ※ ※
これが政信が隠していた醜聞の一端であり、署長の貞治が十年前の捜査で知り得た醜聞である。
そこから見えてくる疑問は、醜聞の露呈を嫌った政信が十年前、何らかの形で貴子の転落死を装って口封じをしたものの、夫である兼久が事故の真相を口にしなかったことにある。
兼久が妻の死を事故だと受け入れざるを得なかったのは、崖上から転落する妻を目の当たりにしていたからではないだろうか。
あれは事故だったと、納得できなければ騒ぎ立てたに違いない。
貴子の死が明らかな事故、それと受け入れられるのは、そこに自分もいたからだったと推測できる。
政信は妻殺しを疑われても仕方のなかった兼久を唆して、署長の貞治を抱き込んで、自分勝手に崖から転落した事故として処理してやった。
二人の関係を考えれば、唆した兄貴分が恩着せがましく、弟分として面倒見ていた彼の弱みを握れると考えても不思議がない。
兼久は十年後、この屋敷に招かれたとき、そのことに気付いて政信に銃口を向けたのだとすれば、その胸中に去来した想いが何だったのか。
それは想像するに、とても悲しい想いだったはずだ。




