06 過去は変えられない
私が斬りつけた手首の治療を終えた三徳は、上体と脚を捕縛して玄関ホールのソファに座らせた。
彼は中央塔の天井で首を吊っている優馬の遺体を見上げると、口元に嘲笑を浮かべて『ざまぁみろ、ざまぁみろ』と呟いている。
まるで磔られた罪人を仰ぎ見るような彼の言動は、普段の物静かな態度からは想像ができなかった。
「なぜ三徳は、妻と優馬くんの共犯を疑ったのでしょうか」
「警察が、朱美の不貞を疑ったからでしょう。もともと彼は、妻の不貞を疑い折檻していたふしもある」
三徳は事情聴取のとき、妻の朱美に不貞を問詰めた貞治の言葉を真に受けて、兼久や良夫との浮気ばかりか、まだ若い帝大生まで妻の浮気相手との妄想に取り憑かれた。
彼が壊れた責任の一半は、警察の執拗な取調べにある。
妻に暴力を振るう彼の本性が憤怒であれば、警察が追い込んで理性の箍を外した。
「それにしたって良夫が殺されたとき、優馬くんは恵子さんと、彼は朱美さんと二人でいたんですよ」
「それは恵子さんの偽証かもしれないし、三徳は昨晩、隣席の優馬が署長さんに一服盛った現場を目撃していると証言しています。兼久に黄金銃を渡したのが一階客室の朱美で、良夫と署長さんを殺したのが優馬と考えても不思議ではありません」
岩壁は天井を見上げて『優馬くんが署長に毒を盛った犯人ですか』と、信じられない様子で言った。
貞治に好青年と評されていた優馬が、毒を飲ませたのが作為的なのか、本人が亡くなっているので確かめようがないのだが、署長が倒れたとき、騒がなかったのは事実である。
「少佐、これでは誰が真犯人なのかわかりませんね」
岩壁は首を捻っているが、現状から真犯人と思われる容疑者がいないわけではなく、真犯人と目される容疑者が複数いて絞り込めないのだ。
もちろん、優馬の犯行は泥酔していた三徳の妄想かもしれなければ、自分の犯行を誤魔化すために、青年の犯行だと偽証している可能性もある。
「私たちに疑心暗鬼を芽生えさせるのが、犯行を誇示した犯人の仕掛けだったのだろう。私たちは、まんまと踊らされた」
そして下働きと彩子が別室で介抱している朱美の嫌疑も、完全に晴れたわけではない。
私が三徳の部屋に踏み込んだとき、執務机には彼女のものと思われる口紅のついたティーカップが置かれていたのだが、警察が到着するまで邸内での飲食を禁じていたのに、どうしてティーカップが室内に持ち込まれていたのか。
その訳合いを考えれば、夫の言うとおり色欲に狂った妻が真犯人の可能性もある。
なぜなら各塔の閂を解錠した三日目の朝、私たちが最初に目にした犠牲者が、彼女の茶飲み相手だったであろう節子であり、夫人は応接室で紅茶に盛られた毒を飲んで虫の息だった。
私が閂錠を開けるまでは、中央塔が施錠されていたのだから、彼女が解錠して応接室にあったティーカップを回収した後、再び施錠して自室に戻ったのは明らかである。
その訳合いは、夜明け前に節子を応接室に呼び出して毒入りの紅茶を飲ませてから、自分のティーカップだけ持ち帰って処分するためだと思われる。
「少佐……優馬さんの遺体を……下ろしてあげてくださらない」
「恵子さん、節子夫人の容態はどうですか」
「お父様が看病していますが、昼までに意識が戻らなければ、もう助からない……だろうとのことです。そんなことより――」
常に気丈だった恵子は、ハンカチで目元を拭いながら、吊るされたままでは、優馬の扱いが酷過ぎると訴えてくる。
岩壁は市警察が到着して現場検証が始まるまでは、長女に『現状を動かせない』と言い聞かせるのだが、遺体を吊っていることに意味もなければ、私の判断で巻上げられたロープを下ろすことにした。
そして中央塔の見晴らし台に登った刑事が、滑車に繋がれたハンドルを回すと、遺体が玄関ホールの中心に下りてくるので、私はそこに戻しておいた【怠惰の弾丸】を再び拾い上げた。
彼の縊死が、節子が服毒した後でなければ、私の見立てが成立するのだが、これがどうにも厄介だった。
なぜなら危篤状態の夫人が応接室で発見された後、円形の玄関ホールの中心に黄金の弾丸が置かれたのだから、弾丸を遺書代わりに、追い詰められた優馬(真犯人)が自分の首にロープを巻いて、見晴らし台から身を投げたと思われるからだ。
真犯人には兼久以外にも協力者がおり、犯行が複数犯だったとすれば、三徳の言うとおり朱美と優馬の犯行で筋が通るものの、殺害動機の点が不明で腑に落ちない。
玄関ホールに下ろされた血の気のない恋人に覆い被さった恵子は、証拠隠滅の恐れがあるので遺体に触れるなと、塔の上から注意した岩壁を睨みつけた。
「優馬さんには、良夫さんや署長さん、それに交際を応援してくれていたお母様を殺す理由がないわ! 被害者を犯人扱いするなんて、日本の警察は無能じゃなくて!」
恵子の憤りが理解できれば、騒ぐ岩壁を手で制して、彼女の好きにさせるように促した。
腰をかがめた私は、優馬が羽織っていた上着のポケットを手探って、105号室のタグが付いた鍵を手にする。
部屋の鍵は合鍵と二本ずつ用意されており、玄関ホールの横にある一階五番目の客室は、長女と恋人が人目を盗んで密会するために、それぞれ鍵を持っていたのだろう。
「恵子さん、優馬くんにシーツをかけてあげなさい。人目に晒しておくのは、彼が不憫だろう」
「そうですわね……ええ、少佐の言うとおりです」
恵子が玄関ホールを後にすると、戻ってきた岩壁と状況を整理した。
現場の状況から察すれば、私たちが深夜に塔を閂で施錠した後、節子と朱美が応接室で落ち合っており、節子は毒入りの紅茶を飲んで、朱美は自分のティーカップだけを持ち帰って処分しようとした。
ティーカップを処分する訳合いは、被害者と二人で会っていた痕跡を消すためだろう。
そして節子が応接室で気を失っているのを発見したのが夫の政信だったのだから、高平家の閂錠は、客室よりも先に解錠されていたことになる。
これは応接室に向かった政信が『塔の閂は、そもそも解錠されていた』と証言しているので、節子が解錠して応接室に向かったと考えて良さそうだ。
問題は次の点である。
日が昇って部屋を出た岩壁は、一階と二階を行き来する右の塔の吹抜け階段を使って、まずは一階の三徳の部屋を訪れて様子を見てから、私と一緒に一階の閂を解錠して応接室に向かった。
岩壁は自室を出たとき、中央塔に繋がる二階の扉が施錠されていたと証言しているし、玄関ホールの床には怠惰の弾丸は置かれていなかった。
応接室に集まった者が服毒した夫人の救護に務めている中、私が顔を出さない優馬を呼び出そうとしたとき、玄関ホールの床に黄金の弾丸が置かれており、見上げれば首吊りした彼の遺体があったのである。
岩壁は『節子夫人に犯行を咎められて口封じしたものの、逃げ切れないと思って自殺した』と、見立てを口にしており、彼が署長に毒を盛ったのを三徳だけではなく、夫人にも目撃されていたのならば、さもありなんと言ったところだ。
ただ不思議なことに中央塔に繋がる扉は、私が見上げたとき、客室の二階と屋上に繋がる扉が閉まっており、確認すれば施錠されたままだったことだ。
優馬が一階の扉から玄関ホールを経由して、そこに遺書代わりに黄金の弾丸を置いたと考えれば、自然な気もするのだが――
「節子夫人も目撃者だったとして、彼女に毒を飲ませたのは優馬だと思うかい。そうだとすると、朱美がティーカップを処分する訳合いは何だろう?」
「そうですね。例えば優馬くんは朱美さんの犯行に見せかけるために、事前に口紅がついたティーカップを隠匿しており、節子さんに毒を飲ませた後、自分の使用したティーカップとすり替えた。被害者と待ち合わせに訪れた朱美さんが、犯人に濡れ衣を着せられると勘付いて、まだ息のあった節子さんを見捨ててティーカップを処分しようとした――と言うのは、私の想像力がたくましいですかね」
「朱美は、節子を見殺しにした?」
「現場の遺留品から自分がいた痕跡が発見されれば、やすやすと弁解できません。彼女は昨日、犯人と決めつけた警察の見込み捜査のやり口を見ていますからね」
「警察に事実を語っても信用されないと学んだわけか……本当に余計なことをしてくれる」
岩壁の推理が正しいのならば、朱美に濡れ衣を着せた優馬が、事件の顛末を知る前に自殺する訳合いがない。
この状況はもしかすると、事件を演出する真犯人のミスキャストにより、緻密な計算に狂いが生じたのではないだろか。
そこに事件の謎を解く、鍵が隠されている。
「岩壁刑事、甚平くんが署長の容態を知らせようとするなら、屋敷の電話が不通だと気付く頃だ。私は市警察が到着するまで、部屋で事件について考えようと思う。節子の容態が急変するようなことがあれば、声をかけてくれないか」
「はい、わかりました」
私の指示に敬礼した岩壁は、関東軍の憲兵を上司と間違っているのではないか。
それはそれで都合が良い。
自室の執務机に向き合った私は、真犯人の意図を探ろうと目を閉じた。
真犯人は、誰が誰を殺したのか、誰が誰を陥れようとしているのか、疑心暗鬼を蔓延させることで、被害者たちを思うがままに操っている。
誰だって疑われたくない、まして無実の者ならば、保身に走って当然の状況が作り出されたのであろう。
私は人心の弱さを見誤った。
三徳は激情する裏の顔を隠していたし、朱美も夫の暴力に声を出せなかった。
節子や優馬にだって後ろ暗いことがあり、危険を承知で部屋を抜け出して、真犯人の書いた台本どおりに演じている。
私が客室一階の閂を施錠する前に、見えない殺人鬼に怯える者の人心を深く考察していれば、このような結末を避けられたと思えば心苦しい。
後悔しても過去は変えられないのだが、榊原夫妻を除く全員が戻ってきた貴賓室の出来事に戻ろうと、目を固く閉じて念じる。
※ ※ ※
私が目を閉じれば、前後不覚となった三徳を部屋に送り届けた岩壁、優馬、和政が貴賓室に戻ってきたところである。
「岩壁刑事、三徳氏の様子はどうですか」
「あれは毒を盛られた様子でもないし、ただの酔払いでしょう。朱美さんが部屋に残って介抱すると言うので、彼女に任せておけば大丈夫だと思います」
署長の貞治が寅吉の運転するダットサンセダンで、市内の病院に搬送されて一時間後、私がミネストローネから暴食の弾丸を掬い上げて五分後を再現した過去だった。
ここは『邸内に疑心暗鬼を蔓延するのが、真犯人の狙いかもしれません』と、政信に署長が【暴食の弾丸】で殺されたのを口止めした直後である。
私が頭の中に再現した世界は視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感を伴っており、私は記憶の底から呼び戻した過去の世界で、そのとき見逃した情報を得ることが出来る。
目を閉じて見ている世界は、現実に起こった過去と寸分違わない。
私の上司は『無意識下に蓄えた情報を任意に引き出して、再検証できるのは天賦の才だ』と、諜報の任務で大いに役に立つと褒めてくれる。
私の洞察力が優れている訳合いも、この特筆すべき能力に裏打ちされているのだろう。
「優馬くんは、恵子さんが気掛かりかね」
「ええ、まあ……、いいえ、そんなことはありません」
優馬は交際に反対している政信を横目で見ると、一旦は空返事で応えたがすぐに否定した。
私はこのとき、酔い潰れた三徳が『彼が殺されるところを見た』と、寝言で呟いた真意を考察しており、これが応接室から見上げた良夫殺害の目撃を示唆するのか、署長の貞治が毒殺されたことを指すのか、まだ漫然として理解できなかった。
今ならば、優馬が署長に毒を飲ませたのを目撃したと、酔い潰れた彼が訴えていたと理解できるので、高平母娘が戻らない客室を気にしている青年に問い質したくもなる。
そして今ならば、青年が気掛かりだったのが、恋人の恵子ではなく、応接室で毒入りの紅茶を飲んだ節子だったのかもしれないと疑えた。
しかし私の頭の中で再現した世界は、結果を知った上で多角的に捜査を進められるが、私が演者となって過去に干渉できない。
ただ繰り返して上映される天然色映画を鑑賞するだけで、舞台に上がることができない非常にもどかしい能力だった。
「お母様、三徳様はだいぶお酒を飲まれていたけれど、朱美様と二人にして大丈夫かしら」
「客室には、少佐も刑事さんもいるわ。朝までに何かあれば、人手もあるので平気でしょう」
男性陣が戻ってしばらくすると、先を歩く節子が恵子と話しながら母娘も三徳の部屋から引き揚げてきた。
「でも三徳様は内弁慶だと仰るし、お酒が入ると人が変わるから――」
「恵子、ご夫婦の事情を詮索するものではないわ。彼女が悩んでいるなら、榊原家とは付き合いが長いのだから相談してくるでしょう」
恵子と節子は三徳の性癖を心得た上で、朱美の身を案じていたのだろうか。
二人の夫人は十年前、移築した城の落成式からの付き合いであれば、現役議員と落選議員の妻であり、社交界でも一日の長のある節子と日の浅い朱美には華族会で上下関係にあったはずだ。
朱美が人目を忍んで節子と応接室で待ち合わせて、繰り返される夫の暴力を相談していても不思議はない。
昨夜は気に留めていなかったが、これについては恵子を問い質せば明らかになろう。
私が過去の視界を見渡せば、目端に捉えていた政信はこのとき、黄金の弾丸を戻したミネストローネを凝視しており、顎に手を当てて難しい顔をしていた。
あれほど真犯人の仕掛けた罠だと忠告したにも拘らず、彼は何を疑っているのだろうか。
よもや彼が真犯人に目星がついたのならば、それを私に口にしなかった訳合いがある。
「私と優馬くんは、屋上に通じる閂錠を施錠してから、中央塔に繋がる客室二階を施錠して部屋に戻ります。そちらの施錠は、和政くんにお願いできますか」
岩壁の指示に和政『もちろんです』と、恵子と彩子の肩を抱き寄せた。
「妹たちのことは僕に任せてください。少佐には及びませんが、僕だって腕っぷしに自信があります」
妹たちを任せろと豪語した和政は、優馬にも目配せしているので、恵子との交際に反対していないのだろう。
長男に微笑んだ青年だったが直後、政信に肩を貸して貴賓室を後にする節子の背中を見ている。
やはり気掛かりの相手は、恋人ではなく母親だったようだ。




