04 見えない殺人鬼
二日目の夕食は、私と彩子の婚約祝の宴席だった昨晩より質素に感じるが、それでも貴院議員の政信が、調布の本宅から随行させた料理長が腕を振るった料理である。
貴賓室に入れば、香辛料の少し鼻をつく尖った匂いと野菜を煮込んだ甘い香りがして、それだけで署長の貞治は舌なめずりした。
「いやぁ、良い香りですな。節子さん、これは何の料理なんでしょう?」
貞治が着席していた節子に聞くと、イタリア料理で『ミネストローネ』と聞きなれない料理名を答えた。
私たちが席につけば、給仕が前菜とスープ、それに続いてパンと鴨肉のソテーを運んできたのだが、食欲をそそる香りの正体は、野菜煮込みの真っ赤なスープである。
私は満洲と国境を接するソビエト連邦の街で、赤カブとスメタナで作る野菜煮込み『ボルシチ』を食べたことがあるのだが、よく似た赤く酸味のある香りは、ベースとなるトマトのものだろうと思われた。
大食漢の署長はともかく、高平家の者や招待客が立て続けの騒ぎで疲れており、食欲だって失せているだろうし、こうした優しい料理が有難いのではないか。
節子は都度都度、厨房に出入りしているので、献立は彼女の配慮なのだろう。
洋食続きで箸が恋しくなるが、こんな時に要望を通すのは贅沢と言うものだ。
「今夜は、気取る必要もないだろう。料理が並んだら適当に食べてくれ、無礼講をしても構わんぞ」
政信は各々に芽生えた疑心暗鬼を払拭しようと、給仕に酒も運ぶように伝えるなど、努めて明るく振る舞ったものの、昨晩から屋敷で二人も死んでいれば、会話に花が咲くこともなかった。
「岩壁くんも、政信氏の好意に甘えていただきなさい」
「あ、はい」
貞治は、入口に近い斜向かいに座る部下の岩壁に言った。
「では私も、遠慮なくいただきますかな」
襟元にナプキンを挟んだ貞治がスプーンを取って、ミネストローネから野菜や肉をすくって食べ始めると、彼の食欲につられた皆も料理に手を伸ばした。
席次は変更されており、上座に家主の政信が座り、向かって左手から招待客の私、貞治、優馬、三徳、朱美、右手には高平家の節子、和政、恵子、彩子、飛び入り参加の岩壁となっている。
恵子と優馬はテーブルを挟んで向かい合わせになったものの、昼間に叱責した父親の監視が厳しくなったようで、会話どころか目配せすらしていない。
家主は、次女の彩子と得体の知れない私との縁談を認めているのに、よほど身元がしっかりしている書生だった青年と、長女の交際を頑なに拒んでいる。
兼久の甥だからとの訳合いだけでは、素直に割り切れないものがあった。
「そうだ、国産のワインを飲んでみんかね? 甲府のワイナリーから取寄せたのだが、舶来品にも劣らないらしい。これは醸造販売を手がける会社が五年前、フランスからブドウの苗木を手に入れて――」
「これのことなら、先に頂いてます。まだ若いが、なかなか見どころのあるワインですな」
三徳は政信に勧められる前から既にワイングラスを傾けており、貞治は岩壁に『君は公務中だろう?』と、部下に飲ませず招待客の自分だけ飲むようだ。
家主は重苦しい雰囲気を変えようと、取寄せたワインのウンチクを披露したかった様子だが、三徳は手酌で酔いたいだけで、署長に酒の味がわかるはずもなく、誰も彼の話に耳を貸そうとしていない。
「少佐は?」
「ええ、いただきます」
気の毒に思った私がワイングラスを手にすると、控えていた給仕がワインを注ごうと背後に立ったのだが、それを制した政信がボトルを持って中腰になる。
「三徳くんは酒にうるさい男なんだが、ほっておくと深酒して寝てしまうんだ。今夜は目の下にクマもあるし、寝不足のようだからおとなしく寝てもらおう」
「そう言えば、昨晩の騒ぎから寝付けていない様子ですね。三徳氏は、警察の聴取で参っているようです」
「三徳くんは毒にも薬にもならなければ、小心で政治家に向かない。悪い男ではないが、言いたいことも言えないのでは腑抜けだよ」
政信は私のグラスにワインを注ぐと、椅子を引いて立ち上がり、家族と招待客をぐるりと見渡した。
そのとき胸を押さえて苦しそうに眉根を寄せたので、夫人の節子が『無理なさらないで』と、夫の体を気遣って声をかける。
政信は煙草も吸えば酒も飲むので失念していたが、議会の休会中に東京の本宅を離れて信州蓼科の奥処にいる訳合いは、体調を崩して養生しているとのことだった。
肩で呼吸を整えた彼は、胸に堪え難い痛みを抱えているのだろうか。
「私は二人を殺した殺人鬼が、ここに座って平然と食事できるとは思わない。警察は私たちの誰かを疑っているようだが、そう思わせるのが狡猾な犯人の企みだと信じている。君たちには迷惑をかけるが、あと二日間だけ辛抱してほしい」
政信は招待客が帰宅予定日までトライデント城に残り捜査に協力すれば、身柄を解放するよう警察に掛け合ったらしい。
警察も二日間で真犯人を特定しなければ、容疑者は県外に散ってしまうのだが、嫌疑不十分のまま滞在日数を延長しろと言い出せなかったのだろう。
警察が目下のところ真犯人と注目している榊原夫妻だが、三徳が落選議員とは言え政治家の端くれであり、妻の朱美も華族会を賑わす有名人であれば、いつまでも留め置けない事情もあるだろう。
「まあ警察としては、暗殺未遂で死んだ貴院議員の事件が解決していますからな、あとは良夫殺しの犯人が捕まれば良いのです」
貞治は堂々と言って退けたが、二人が同じ黄金の弾丸で殺されたので、別々の事件ではないことは周知の事実である。
それでも署長が政信を後押しするように『良夫殺しは、外部犯の可能性もある』と嘯けば、張り詰めた空気も和らいだ。
刑事の岩壁は上司の真意を汲み取ろうと、難しい顔をしているものの、ここに真犯人がいないと警察に太鼓判を押されたので一先ず安心したのか、近い席同士で談笑も始まったのである。
「お父様、犯人が外にいるのなら城の守りを固めましょう。トライデント城は、もともと城塞だったのでしょう」
テーブルに身を乗り出した彩子が、父親の政信に提案すると、恵子は、はしゃいで見える妹に少し困った顔をした。
英国から移築された屋敷は、教会として使用されていた頃に城壁を取り払われており、城塞としての体を成していなかったのだが、それでも屋敷に押し入った賊が部屋に侵入するのを防ぐために、三つの塔にある各出入口を閂錠で施錠できる。
屋上に繋がる三階部分は内側から、高平家の私室や客室に繋がる一階と二階は部屋のある内側から、それぞれを閂錠で施錠してしまえば、表門から賊が屋敷に侵入しても、部屋まで押し入るのが難しい。
各部屋の窓にも石戸があったのだが、移築するときに木製の雨戸に取り替えられているので、守りとしては片手落ちな気がする。
「お母様も『戸締まりに用心なさい』と言っていたわ。署長さんが犯人が屋敷の外にいると言うなら、ぜひそうしましょうよ」
「うむ、それで彩子の気が済むなら、そうしなさい」
「はい、ぜひに」
彩子は自分の提案が採用されて喜んで片瞬きしてくるのだから、事件を捜査する私の役に立ったと思っている。
外部の犯行であれ、内部の犯行であれ、邸内の移動を制限すれば犯行を重ねるのが困難になるのだから、彼女の提案は妥当なものではあった。
「署長、外部犯の可能性とは?」
食事を終えた岩壁は膝に置いたナプキンで唇を拭うと、三徳が酔い潰れてテーブルについた手に頭を乗せ、貞治の鼻頭がほんのり色付く頃合で、寝耳に水の見立てを聞かせてほしいと言った。
署長の発言に深い意味はなく、政信の意見に社交辞令で同調しただけだろうと思っていたのだが、彼は手元のグラスを飲み干すと、事情聴取の結果、高平家にも招待客にも殺害動機を持つ者がいなかったと答えた。
確かに貴院議員の兼久、地元の実業家である良夫の二人と接点があり、殺すほどの強い恨みを持つ者が見当たらないのは、私も頷くところではある。
「我々は屋敷の中に黄金銃を盗み出して、兼久に渡した真犯人がいると思い込んでおるが、そもそも黄金銃を盗んだのが外部犯だったなら、良夫を銃殺したのも外部犯の仕業なんですな」
貞治の見立ては一理あるが、それでは真犯人が屋敷の近くに潜んでおり、邸内にいる者を疑心暗鬼に陥れていると言うのだろうか。
兼久や良夫を殺すだけならば、そんな回りくどいやり方で殺害する意味があると思えない。
古城を舞台にした連続殺人は、単なるゲームではなく、そこに真犯人の明確な意志が込められている。
私には、見えない殺人鬼が屋敷に捕らえた獲物を狩っていると思えなかった。
それに川向こうの狩猟区では猟師が、日中は忙しく行き来する警察車両の人目を掻い潜り、そんな不審者が屋敷の周囲に潜めるだろうか。
「この際だから、皆さんがトライデント城に集められた本当の意味をお聞かせするべきでしょうな」
「貞治くん、酔っているのか」
「政信氏、まだ宵の口ですぞ」
政信に窘められた貞治だが、そもそも招待客は、殺害予告を送りつけた容疑者だったと明らかにする。
水飲み鳥のように体を前後させる三徳は、目も虚ろに『そんなことだろうと思ったよ』と呟いて寝入ったようだが、殺害の予告状を送りつけたと疑われた朱美や優馬、予告状のことを初めて聞かされた岩壁は、署長の一言に憤慨した。
「私たちは、最初から殺人の容疑者として政信さんに招かれたんですの? 彩子さんの婚約祝だと言うから駆けつけたのに、失礼にもほどがあるわ」
朱美は憤りを隠さなかったが、さすがの優馬も俯いて肩を震わせている。
彼は恵子との交際を反対されているばかりか、人殺しを犯すような人間だと烙印を押されて、政信に被害者を気取られたのだ。
理不尽な扱いに堪えていた彼の怒りは、私にも想像できる。
「署長は、なんでそんな重要な情報を言わなかったんですか。それは、犯人に利する情報の隠蔽じゃありませんか!」
岩壁の不満も噴出したようで、今さら話を切り出した貞治に食い下がった。
「まあまあ、皆さん誤解されておるようだが、私は予告状を送りつけて二人を死に追い込んだ犯人が、ここにいないと確信しておるのです。ここに参集しなかった容疑者――、つまり予告状を送りつけたのに招待されなかった者が真犯人で、我々全員が命を狙われた被害者だったのです」
署長の貞治は予告状で脅迫した犯人が招待客と別にいて、その者が兼久と共謀して政信の暗殺を企てたとの考えに至ったようだ。
では見えない殺人鬼が、良夫の殺害に及んだ動機は何かと尋ねたところ、それは逮捕すればわかると大見得を切った。
「貞治くん、それは本当なのかね?」
政信は貞治の推理を受け入れたわけではなく、そうであれば八方丸く収まるといった感である。
「そうですとも、明日さっそく山狩りで真犯人を見つけてみせますぞ!」
不信感を募らせた岩壁は、貞治が迷推理を披露すると、酒に酔った上司の戯言に付き合いきれなくなったのか、私を手招きして玄関ホールに誘い出している。
貴賓室に残っている者は、部屋を出ていく私と刑事の後ろ姿を目で追っているものの、中座する無作法を咎める様子がなかった。
「少佐も、予告状のことを聞かされていたのですか」
岩壁に聞かれれば隠すことなく頷いて、殺害の予告状を送りつけた者を見つけてほしいと、政信に満洲から呼びつけられた旨を白状する。
その上で貞治は予告状を悪戯だと捨て置いていたので、兼久が黄金銃の暴発で亡くなったときに切り出せなかったのだろうと、署長の胸中を代弁してやった。
「それにしたって署長の言動は、どこか腑に落ちないと思いませんか」
「署長さんは、自分も招待客だからね。正体不明の見えない殺人鬼に怯えて、事件の真相を遠ざけているのだろう」
「署長が怯えている?」
「真犯人に持ち去られている弾丸は七発、招待客が七人であれば、これが真犯人の脅しとも言えるからね。誰も口には出さないが良夫が銃殺されたとき、そう感じたから朱美は屋敷を逃げ出したいと慌てたし、三徳は酒に溺れて忘憂している」
「なるほど……では率直にお聞きしてよろしいですか? 署長は、黄金銃を盗み出せた一階の部屋にいた者、良夫が銃殺されたときアリバイが不確かな者、これらの条件に当てはまる人物ではありませんか」
「岩壁刑事は、署長さんの犯行を疑っているのか」
「ええ、彼は意図的に榊原夫妻の犯行をでっち上げているふしがあります。事情聴取では朱美が良夫の先代から株式を譲渡されていたと証言すると、そこを糸口に見込み捜査を指示しました。それに先程も、いきなり外部犯がいると言い出した次第です」
「しかし署長さんには、兼久や良夫を殺す動機がないのではないかね」
「こうは考えられないでしょうか。十年前の貴子の転落死は、彼が事故として処理した経緯がありますが、じつは事故ではない証拠を兼久に掴まれて脅されていた」
私も十年前の出来事が、今回の事件の引き金となっていると考えていれば、岩壁の言うとおり主要人物の貞治も無関係だったと考えていない。
しかし甚平の調べでは、土地勘のない政信が崖上に連れ出して背中を押したとも思えず、彼の性格を把握すれば人殺しができるとも言えないらしい。
では当時の警備主任だった貞治が、貴院議員の代役を買ってでて貴子を崖から突き落としたのか。
警備主任であれば招待客の事故死は、自らの失態で責任を問われかねない立場だったはずであり、事件の隠蔽に加担していても実行犯を疑うに至らない。
「署長さんが、真相に目を背けたいと言うのは同意するよ。しかし彼が真犯人かと問われれば、今のところ証拠不十分だと思う」
貴賓室を覗けば皆が食事を終える中、貞治だけがスプーンとグラスを手放さず、ずいぶんと尻が重い男だと思った。
それに野菜煮込みとワインを交互に口に運ぶ署長は、大食いで気を紛らわせているようにも感じられるので、気掛かりなことがあるのは間違いなさそうだ。
私が問い詰めようかと思った矢先、彼の身に異変が生じた。
「うっ……ん?……」
スプーンを咥えた貞治は柄のところを寄り目で見つめると、傾げた首を元に戻さず、そのまま床に引っ張られるように椅子から転げ落ちる。
部屋の壁際に控えていた給仕が、銅製の水差しからコップに水を注いで、横倒しになった署長を抱え起こしているが、口角を白く泡立てた彼は白目を剥いて気を失っていた。
駆け寄った私が署長の口元に手を翳すと、微かに呼吸を感じられたものの、唇を青くして全身を小刻みに震わせるのは、血液中の酸素濃度が低下してチアノーゼを起こしている証拠だった。
背中から覗き込んでいる岩壁に『病院に搬送しろ!』と、叫んで指示したのだが、突然のことで事態を飲み込めなかったようだ。
「銃声がしていませんし、酒に酔っているだけではありませんか」
岩壁は肩を竦めると、深酒した上司が酩酊していると軽く見ているが、呼吸も浅く脈拍も微弱であれば、症状から毒を盛られた可能性が疑わしい。
「あ、ああ……私は見たんだ、この目でしっかりと見たんだ。目の前で彼が殺されるところを――」
倒れる音に顔を上げた三徳だったが、こちらは完全に酒に酔っているようで、うわ言を呟くと机に突っ伏してイビキを掻いている。
不穏な寝言ではあったが、今は急変した貞治の容態を処置するのが優先された。
「単なる酩酊なのか、毒を盛られたのかわからないが、このまま放置していれば手遅れになるぞ!」
「あ、はいっ、そうですよね。車の手配を急ぎます」
給仕に先導された岩壁が、厨房の勝手口から住み込みの長屋に向かって、運転手の寅吉と甚平を連れてくる。
私は貞治の喉に指を突っ込んで、どうにか無理矢理吐かせたのだが、回復する兆しが見えず、ますます呼吸が浅く苦悶の表情で顔色も土気色に変わった。
飲酒のせいだろうか、よほど強い毒を飲まされたのか、弱っていくのが毒のせいだとすれば回りが早い気がする。
「甚平くん、この症状をどう思うかね?」
「こいつぁ……、たぶん附子にやられたな。彼の口にした物は、詳しく調べた方が良いだろうね」
「わかった」
附子とはキンポウゲ科トリカブトのことで有毒植物の一種、トリカブトに含まれる毒成分アコニチンは、アルカロイド系の強い毒物なのだが、山間部に多く自生しており、誰にでも入手しやすい。
私は集まった運転手らと協力して、重い貞治をダットサンセダンの後部座席に寝かせると、寅吉と甚平に市内の病院まで搬送して容態を見守るように指示する。
岩壁も同乗したいと申し出たものの、署長が真犯人に殺されかけたのならば、刑事の彼が屋敷を空けるのが不安だと、朱美を筆頭に女性陣が反対した。
私や優馬でさえ彼女たちから見れば殺人鬼の可能性があり、潔白なのは飛び入り参加の若い刑事だけなのだ。
「甚平くん、署長が目を覚ますことがあれば、彼を締め上げて隠していることを吐かせてくれ」
「どういうことです?」
「十年前の事件を担当していた署長は、高平家の醜聞を知り得る立場にいたはずだ。貴子が事故死であったにせよ、捜査の過程で醜聞を手にした彼が、それを利用して高平家に厚遇されていた気がする」
「少佐がほしいのは、貞治が隠している高平家の醜聞ですね」
「見返りは金か権力か……、政信氏と持ちつ持たれつの関係だったとしても、よもや殺されかけたのだから隠し立てすると思わない」
「貞治が、このまま死んでしまったらどうします」
「君は腕利きなのだろう? 市警察には、当時の捜査資料が残されている」
「少佐は、人使いが荒いやぁ」
助手の窓を叩いた私は、声を潜めて甚平に貞治が秘匿する情報を聞き出すように依頼して、それが叶わぬ場合は自力で調べてこいと発破をかけた。




