第一章00 プロローグ
信州蓼科の奥処を彼と歩いていた私は、遠くで名前を呼ぶ声に目を覚ました。
僅かに動く首を横にして見れば、すぐ横にある岩がべっとりと血で汚れています。
ざあざあと土砂降りの雨のような音が聞こえるのに、木漏れ陽の中でゴツゴツした岩場に倒れているのだから、ここは彼に誘われてついてきた滝の近くなのでしょう。
「貴子さん! 貴子さん!」
彼が遠くから必死に呼びかけているので、それに応えようと唇を動かすけれど、喉に何かが詰まって声になりません。
息を吸うのさえもどかしく、起き上がろうにも全身が痺れて自由になりません。
そして目を閉じれば、もう二度と開かないのでないかと瞬きするのも恐ろしい。
そそっかしい私が滝壺を覗き込んだとき、崖上から足を滑らせて谷底に落っこちたのでしょうか。
足元を注意して覗くように言われたのだから、たぶんそうですね。
霞んだ目端に見える手首から骨が突き出た腕や、岩を赤く染め上げている血は、きっと私の一部だった物に間違いないのでしょう。
白い肌が自慢だったけれど、どんどん血の気がなくなる自分の腕を見ていると、なんだか悲しくなってくる。
「貴子さん……なんてことだ。いま屋敷に戻って、人を呼んでくるよ」
彼の顔が見えなくなった頃、頬に触れている彼の温もりを感じなくなった頃、何もかもが手遅れと悟った私は、不思議と死の恐怖が消え去りました。
人生最後を本当に愛した男性に看取られて終えるのだから、これ以上の女の喜びがあるでしょうか。
人の道を外れた私のような女には、勿体無い幸せだったと思います。