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鶯の抵抗  作者: 梔虚月
19/29

03 白檀

 玄関ホールに戻れば、両開きのドアが開け放たれた貴賓室の方から、スパイスの効いた香りが流れてくる。

 太陽が山裾に顔を隠した屋敷の外は薄暗く、私は肌寒い風に背中を押されて玄関ドアを閉めた。

 時間は夕食時、客室の二階から暗い表情で三徳が下りてくるので事情を尋ねると、良夫が殺されたとき応接室に残っていた夫妻の事情聴取が執拗らしい。

 良夫の殺害現場が応接室の窓から見上げたベランダなのだから、榊原夫妻が疑われても仕方ない状況ではある。

「少佐も、私たちが応接室から良夫くんを撃ったと疑っているのかい」

 俯き加減の三徳は、岩壁や貞治の執拗な追求で気弱になっているのだろうが、朱美と二人で応接室にいたのだから、お互いの無実は確信しているのだろう。

 ただ身内の証言では信憑性に欠けるし、警察に夫婦の共犯を疑われれば申し開きができない。

 彼らが真犯人でなければ、気の毒な話ではある。

「三徳氏には、実業家の良夫を殺す訳合いがありません」

「それがね……警察は『ある』と言うんだよ」

「まさか良夫の投資話に、一枚噛んでいたわけではないですよね?」

「いやいや、良夫くんとは昨日が初対面で、彼がどんな仕事をしているのか知らなかった。ただ先代の大善さんが女優だった朱美のファンで、会社の株式を少しばかり譲り受けていてね」

「朱美さんは、良夫の会社の株主だったのですか。三徳氏は、そのことをご存知なかったのですか」

「株式は微々たるもので、朱美も気に留めてなかったらしいのだが、良夫くんが殺されたときに思い出したらしい。警察に疑われるんじゃないかと、すぐに言い出さなかったのがいけなかった……妻の朱美は、その件でまだ取調室にいるよ」

 三徳は肩を落としてソファに腰掛けると、両手で顔を覆って深い溜め息を吐いた。

 朱美は会社株式を運用目的で所持していなければ、大善が自分の気を引きたいために、貴院議員だった夫との足掛かりに考えて贈与したものだろうと、十年前に大善から譲渡されたのを忘れていたと言う。

 しかし怪しい投資話で儲けている経営者の良夫が死ねば、株式の価値も上がるのではないかと、貞治に問い詰められて、しどろもどろな答弁に終始しているらしい。

「そいつは厄介ですね」

「ああ兼久議員が亡くなって議席に空席が出来たのも、次点候補だった私にとって望ましいだろうと……警察に疑われていれば党席のくりあげじゅうも期待できないし、泣きっ面に蜂、踏んだり蹴ったりだ」

 三徳が刑事事件の容疑者となれば、前回互選で次点候補者だったとしても政党からの支援を受けるのが難しく、兼久の死が好機になるとは限らないのである。

「朱美は、いつも()()()()()()()()()()()。妻が良かれと思ってしたことは、いつも裏目に出てしまうんだ」

「三徳氏には、二人が殺されても得がありませんね」

 私は聞き流したふりで、言葉の真意に探りを入れた。

「べつに金に困っているでもなし、彼の会社の株式が少しばかり値上りしても得があるわけがない。問題は私の預かり知らぬところで、妻が現内閣と親しい兼久議員に根回ししていたことだね」

 政信の後ろ盾が得られなかった三徳の妻は、政敵となった兼久に取り入ろうと画策していた。

 それが彼の言う『余計なこと』なのだろうか、それとも朱美の仕出かしたことが他にもあるのか。

「政治家の妻であれば、そうした議員との顔繋ぎもあるでしょう。朱美さんと兼久は、そもそも知らない間柄でもありません」

「兼久議員は、妻と同世代の独身男だからね……。朱美にその気がなくても、彼は妻を口説いていたかもしれないだろう? 女優だった彼女は世間から好奇の目にも晒されているし、そういう噂も耳に入るんだ」

「兼久が、朱美さんと浮気ですか?」

「私のために働いてくれるのは嬉しいのだけど、若い妻をもらうと気苦労も多いと言うことだよ。まあ朱美と兼久議員の浮気は、私の取り越し苦労だと信じるがね。警察は、そんな噂も妻に突き付けていた」

「それで三徳氏が、先に解放されたのですか」

「警察は、朱美が良夫くんにも色目を使っていたなんて言う始末だよ。不貞の噂は聞くに堪えないし、私がいると妻も正直に答えないだろうとね」

 三徳は言い終えて貴賓室に向き直り、鼻をひくつかせて『食事はまだかな?』と、苦しい現状から目を背けるように呟いた。

 生気の失せた瞳で一点を見つめる彼は、親指の爪を噛んで貧乏ゆすりを始めると、念仏のように何かをぶつぶつと呟いて、現実逃避しているように見える。

 彼は今朝、すぐに帰宅したいと主張していたが、あれは兼久と浮気の嫌疑がある朱美の犯行を疑って、妻を現場から遠ざけたかったのではなかろうか。

 それに見るからに臆病な彼だが、妻の浮気相手と噂される議員や、女性陣に囲まれた若い男に嫉妬して手にかける可能性だって、けっして否定が出来なかった。

 被害妄想癖のある気弱な男が、美しい妻に捨てられるのを恐れて、彼女に近付く男を殺して回る。

 美しい妻に見放されたくない落選議員の彼が、そのような心情に駆られても不思議ではないが――

「朱美さんは良夫が殺されたとき、三徳氏と応接室にいたのでしょう? 奥様の無実は、警察が疑っても確信しているはずです」

 三徳は『もちろんだ、もちろんだとも、当然じゃないか』と、自分に言い聞かせるように何度も繰り返した。

 蚤の心臓と思われる落選議員は、自分たち夫婦が警察に疑われたことで、きょうにしてしており、猜疑心の権化と成り果てたのだろう。

 ヤレヤレ。

 ただ警察の本命は、人目を忍んで会っていた恵子と優馬の犯行だろう。

 二人は良夫が殺されたとき、外出中で邸内の騒ぎに気付かなかったと証言しており、屋敷の者が貴賓室に移動してから現れている。

 事情聴取している岩壁は、署長の貞治が高平家に配慮しているので、表立って口にしていないものの、長女と恋人が隣室のベランダから実業家を射殺した後、屋敷の者が玄関ホールから消えるのを見計らい、邸内に戻ったふりで合流したと考えている。

 殺害状況から推理すれば、現場と隣接するベランダからの射殺も、その部屋に泊まっている招待客や、席次や部屋割りを自由にできる長女を疑うのも当然だった。

「あ、恵子さん」

 私が呼び止めると、玄関ホールから見える廊下を左の塔に向かって歩いた恵子は立ち止まり、何の用事があるのかと聞き返してくる。

 歩み寄った私が、高平家の私室一階にある空き部屋を見せてほしいと頼めば、自室に引き返した彼女が鍵を持ってきてくれた。

「三徳様は、お疲れのご様子ね」

 恵子は私の肩越しにソファで貧乏ゆすりする三徳を見ながら、邸内で二人も死んだのだから無理もないと小さく首を横に振る。

 彼が心労に病んでいるのは、誰の目から見ても明らかだった。

「少佐は、何のために空き部屋を確認するんですか」

「岩壁刑事が『空き部屋から庭に出れる』と言うので、痕跡があるか探してみたいのです」

「空き部屋は施錠していたので、誰も出入りできませんわ」

「それならそれで、私が納得できれば良いのです」

 私が手を出すと、恵子は『105』と書かれたタグの付いた鍵を渡してきた。

 中央塔の手前にある私の部屋の鍵には『101』のタグが付いており、空き部屋が一階五番目の客室扱いだとわかる。

 室内の間取りや家具の配置は一階の客室と同じだと、岩壁が言っていたのを思い出した。

「少佐が納得されたら、ドアを施錠して鍵をお返しください」

 顔をツンと上に向けた恵子が横を通り過ぎるとき、爽やかな甘い芳香が鼻腔を抜けた。

 サンダルウッドの香りを残した彼女は、三徳に優しい声で話しかけている。

 政信に妹との縁談を勧められた私は、優馬との交際を反対されている彼女にとって、鼻持ちならない相手なのだろう。

 そんなことを考えて眺めていると、後れ毛を手で整えた彼女と目が合ったので、視線を逸らして空き部屋に向かった。


 ※ ※ ※


 玄関ホールのある中央塔から高平家の私室がある屋敷左手前、岩壁が庭に出られると疑った空き部屋は、私の部屋と間取りや家具の配置が左右対称だったものの、入口脇の水回り、窓辺に置かれた執務机やベッド、特筆すべき不審な点がなかった。

 私はベッドのある奥の部屋に進むと、執務机越しに窓から裏庭を覗いた。

「この部屋を使えば、二階の客室にいた招待客も屋敷を抜け出せるが……恵子さんが鍵を管理しているので不可能だろう」

 二階の客室には手前から良夫、優馬、兼久が割り振られており、そのうち二人が殺されているのだから、ここからの出入りを考えても無意味な気がする。

 二階客室の優馬が窓から抜け出すのならば、恋人に協力してもらい彼女の部屋を使えば良いので、わざわざ空き部屋の窓から出入りする必要がない。

 恋人の協力が得られない優馬や、兼久が空き部屋を利用していれば、彼らは長女に空き部屋の鍵を借りねばならず、その場で犯行が露見して当然のはずだ。

「恵子さんが優馬くんの犯行を庇っているのなら、鍵を貸したことを証言しないのだろうが――」

 私はそんなことを口にしながらベッドに視線を落とすと、空き部屋には別の利用価値があると気がついた。

 ベッドの白いシーツに指を這わせた私は、床に膝をついて姿勢を低くして、指先でシワを伸ばしたところに顔を寄せる。

 鼻腔をくすぐる高貴な香り、爽やかな甘い芳香は恵子の使っている香水だろう。

「なるほど。彼らは良夫殺しの騒ぎのとき、玄関ホールに集まれなかったわけだ」

 ここは恵子と優馬の逢瀬を重ねる場所であり、事情聴取を終えた恋人は騒ぎが起きても、玄関ホールに近い空き部屋から出るに出られなかった。

 それが真相ならば、彼らが真犯人であるわけがない。

 しかしそうでなければ、優馬は恵子から事前に105号室の合鍵を渡されている可能性が高く、恵子が恋人のためにアリバイ工作をしていれば容疑者から外せない。

「ここが彼らの密会場所なら、優馬は部屋の鍵を所持しているだろうね」

 部屋の鍵は二本ずつ用意されているのだから、いつでも会えるように恵子が優馬に合鍵を預けていても不思議ではない。

 私はベッドを整えてから立ち上がり、部屋のドアを少しだけ開いて玄関ホールを覗くと、夕食の匂いに誘われた署長の貞治が、岩壁と朱美を引き連れて階段を下りてくる。

 夫人は警察の執拗な聴取に陰鬱としており、前を歩く署長の背中を突き落とさんばかりに、恨みがましく眺めていた。

 私の視線に気付いた夫人が、こちらを見ながら微笑んだので、ドアから少しでも顔を覗かせれば、玄関ホールに集まった者に見つかるのは確実だ。

 優馬に良夫を殺す動機も見つからなければ、彼らが部屋から出られなかったとしても筋は通っているのだが、政信から脅迫の容疑者扱いされた青年の素性が気にかかる。

「少佐?」

 彩子が不思議そうな顔で、ドアの隙間から覗き見している私に声をかけてきた。

「空き部屋から顔を出して、どうしたんですか」

「事件の捜査です」

「え、何を調べているんです?」

「もう調べは終わりました」

 空き部屋は、恵子と優馬が逢引する部屋だとわかった。

 政信から言葉を交わすことさえ禁じられた二人の密事であれば、そのままにして深入りしない方が良さそうだ。

「この部屋を調べて、何がわかったんですか」

「まあ色々と――」

 気まずい私が鼻頭を掻きながら答えると、興味を引かれた彩子が部屋に押し入った。

 室内を見渡す彼女には『私は先ほど、事件に興味を持つなと忠告しましたよ』と、諌めるように言ったのだが、

「ええ、殺人事件には興味ないわ。でも私は、事件を捜査する少佐に興味津々なんです」

「それは、屁理屈と言うものです」

「なぜ、少佐に興味を持ってはいけないんですか」

 彩子は首を傾げながら、私の手を引いてベッドに腰掛ける。

 ショートボブの黒髪を耳にかけた彼女は、そっと目を閉じると、顎を上げて蕾のような唇を差し出した。

「そのような御婦人は、あまり好きではありません」

「やっぱり、そう仰ると思いましたわ」

 片目を開けた彩子は、赤い舌をペロッと出しておどけている。

 私の心は最早、彼女の手のひらで弄ばれているようだ。

「少佐は思わせぶりな態度が苦手と仰るのに、積極的な女性も好かないと仰る。私がお慕いしている気持ちは、どのように伝えればよろしいのでしょうか」

 私が答えに窮していると、彩子は『冗談です』と悪戯っぽく笑い立ち上がる。

 彼女の想いを両親から聞かされていれば、私に好意があるのは明らかであり、拒む訳合いがないのも偽らざるところだった。

「本気にしますよ」

「私を愛してくださるなら、本気にしてください」

 向き合った彩子が再び目を閉じて、私の腕を掴んで背伸びをするので、肩を引き寄せて顔を斜にする。

 屋敷にいる誰しもが命の危険を感じている最中、女にうつつを抜かすのは不謹慎だと心得ているし、身分を偽っていることの罪悪感もある。

 ただ蕩けそうな女の腰を左手で支えて、逃さぬように後ろ首を右手で押さえて唇を重ねれば、根無し草の自分にも確固たる未来があるように思えた。

「んっ……ぅ……」

 彩子が吐息を漏らすので口腔に滑り込ませた舌を戻した私は、拘束を緩めて上目遣いの彼女を見つめる。

 より深く愛撫しようと、ブラウスの裾に指を忍ばせて、スカートから伸びる白い脚の間に膝を捩じ込んだとき、ドアをノックする音で我に返り、高揚していた全身から血の気が引いた。

 それは彼女も同様で、悪戯を咎められた子供のように身を硬くして視線を泳がせている。

「少佐、食事の用意が整ったから出ていらっしゃい」

「ん……わかりました」

 恵子は妹が部屋に入るのを見ていたらしく、ノックしたドアを開けず声をかけてきた。

 新京の繁華街に繰り出す上司の『女を知るのに遅くないだろう』と、事ある毎の誘いを断っていたのが、ここにきて災いしたのだろうか。

 それとも部屋に漂う白檀の香りに当てられて、私も彩子も正気を失ったのか。

 ただ女の色香に惑わされたなどと、男の風上にもおけない無礼千万な言い訳をするつもりはない。

 私は彩子に惚れている。

 それは事実として認めるところだ。

 いつからと問われれば、彼女が嘘つきの私のために肩を貸してくれたとき、生き馬の目を抜く世界に身を置く私が純粋無垢な魂に触れたとき、偽りの身分に憎悪の念を抱いたときであろう。

「信じてよろしいのですね」

 私は彩子の力強い真っ直ぐに目に、軍帽のつばを深く引き下げて頷く。

 我ながら諜者な振舞い、無責任な約束をするものだ。

 二日目の夜は、こうして始まった。

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