06 甚平の正体
二人の警官が、貞治の指示で山から猟師を連行してきたのが昼食後、屋敷には呼び戻された市警察の警官が大挙しており、裏庭を中心に良夫殺しの現場検証を行っていた。
警官の一人は、きまりが悪そうにした署長を見つけて敬礼する。
「署長、容疑者の猟師を連れてきました」
私が玄関ホールで猟師を突出す警官を見て苦笑すると、貞治は咳払いしてから『しばらく狩りを控えてくれ』と、容疑者扱いで呼び出した猟師に言い繕う。
猟師が山の斜面から屋敷に水平射撃したのならば、獲物は木の上にでもいたのだろうか、昼から煩い不如帰でも撃ち落とそうとしたのだろうか。
いやいや、銃声が川の手前から聞こえたので、呆けた顔で物々しい邸内を覗き込む猟師が、誤って良夫を狙撃するなどあり得なかった。
「みやましい屋敷は高平議員の邸宅ずら、何かあったんですかや?」
「そんなことは、あんたに関係なかろう。それとも、あんたは事件に関係あるんですかな?」
「とんでもねぇだら……、いやでも苦にするずら」
「もう用事が済んだら、いらん詮索は止して帰りなさい」
貞治は地元の方言で話す猟師に手を振ると、奥から出てきた政信がライフルを担ぐ猟師に、厨房裏の勝手口へ回るように言った。
猟師は獲物を高平家に卸していたようで、全く知らない間柄でもないようだ。
「貞治くん、猟師は狩りで生活しているんだ。当家の事情で狩猟を禁じれば、悪評を触れ回るかもしれんだろう」
政信は、猟師に禁猟の補償と口止め料で三十円ほど渡すと言っており、貞治には、早急に事態を収拾するように指示した。
三十円が米百キロを買ってもお釣りがくる大金であれば、たかだか数日の禁猟の補償にしては気前が良く思うが、議員にとっては犯人が捕まる前に、事件を面白おかしく騒ぎ立てられる醜聞を恐れての口止め料が大半であろう。
彼が黄金銃の盗難のとき、もっと騒ぎにしていれば兼久も死なずに済んだし、そもそも因縁深い者を集めて、脅迫文を送り付けた犯人探しなど言い出さなければ、こんな事件は起きなかった。
「しかしですな……兼久の死は自業自得で処理できても、良夫は何者かに殺されているんです。私に『早急に』と言われても、こればかりは犯人を捕まえなければ収拾がつきません」
「私は、早急に犯人を捕まえろと言ったんだ」
「犯人の逮捕が難しいから『早急に』と、言われて悩ましいんです。良夫の死は、単なる事故死じゃないんですぞ」
貞治は聞き耳を立てている私を気にして言葉を選んでいるものの、屋敷で起こった殺人事件の醜聞は、市警察の署長を以ても防げないと愚痴っているのだ。
そうやって考えれば、黄金銃の盗難も、兼久が暴発で死んだときも、今だって署長は、政信の言いなりに事件を矮小化しているように見受けられる。
屋敷に招待された貴子が呪いの崖から転落死した十年前も、事故として処理したのが署長なのだから、これも高平家の意向を汲んだと思われた。
兼久に引き金を引かせるだけの殺意は、妻の転落死がきっかけだと考えて良さそうだ。
となると彼に銃口を向けられた政信が、何かしらの訳合いで貴子を崖から突き落とした――という推論も成立するのだが、なぜ殺した女の甥である優馬を書生に招いてまで支援していたのか、そこに大きな疑問が残る。
「少佐には話があるので、私の執務室で待っていてくれ。私は、猟師と話をつけてから向かう」
「わかりました。私も、政信氏に話があります」
政信は『私に話がある?』と、聞き返そうとした言葉を飲み込んで、勝手口のある厨房に向かった。
口籠った議員は、私が署長に聞かれて不味いことを言うと思ったようだ。
「少佐、まさか犯人がわかったなんて言わんでしょうな?」
「いや、別件です」
「事件が管轄外の憲兵に解決されたとあっては、市警察の面目が立たない。何かわかりましたら、ぜひ私にもお聞かせください」
「もちろんです。署長さんも情報の出し惜しみをなさらぬように、お願いいたします」
「情報を出し惜しむ? 誰が? 私が少佐に情報を出し惜しみすると思いますか」
私は自室に戻り書類をまとめてから、政信の執務室に向かうと告げると、おどけて見送る貞治から視線を背けた。
署長は、何かを隠している。
姿勢を低くして相手の顔色を窺う紳士は腹に一物があり、彼にもその兆候が見て取れた。
※ ※ ※
私が殺害の予告状と新聞を入れた書類封筒を手にして、屋敷左の二階にある政信の執務室に差し掛かると、甚平が辺りの様子を覗いながら部屋から顔を出した。
目が合えば愛想笑いで横を通りず過ぎようとするので、杖代わりの軍刀を廊下いっぱいに広げて道を塞いだ。
たかが運転手の助手であれば、家主が留守にしている部屋を探るような真似はしない。
「おっかない顔して睨みつけちゃって、どうしたんですか」
「甚平くんは、どうして政信氏の執務室から出てきた?」
「捜し物を――」
「警察が現場検証を終えている執務室には、黄金の弾丸が残されていないと思うがね」
高平家の邸内を嗅ぎ回る甚平が、私の敵か味方となるのか、そろそろ仮面を剥いで見極める必要がある。
彼が『そうですね』と、頭を押さえて上目遣いで見てきたので、軍刀の鞘を指で弾いて剥き身を晒した。
「甚平くんは、呪いの滝というのを存じているかい。ここらで育った人間ならば、誰でも知っている話だと聞いたのだが?」
「呪いの滝……いや、俺は東京の出身だから知らねぇけど、それが何か問題なんですか」
甚平は悪びれる様子なく、東京府の人間だと白状した。
「では私を茅野駅まで迎えに来たとき、運転手の寅吉さんと地元の地名や歴史をあげて話題にしていた訳合いは? 私に、ここらの人間だと誤認させようとしただろう」
「そんなのは、少佐の早合点ですよ。俺は『地元の出身だ』と、少佐に言った覚えがねぇや」
「寅吉さんが君の軽口を諌める様子から、高平家に仕えて日が浅いと見たが、その割には家主の人間関係や内情に詳しいじゃないか? 今も政信氏の執務室から出てきたし、私の素性にも探りを入れている」
「少佐の素性? いや、そんなことには興味がな――」
私は刹那、甚平の爪襟と顎の下に刃を潜らせると、単なる運転助手のはずの彼は、身を引いて本来そこにあるだろう物を探るように腰に手を当てた。
いきなり刀で斬り掛かられて、咄嗟に拳銃で応戦しようと身構えた運転助手は、よほど訓練された兵隊、警察官、もしくは私立探偵の類が疑わしい。
私は彼の喉元に刃を押し付けたまま、両手を挙げて降参した彼に質問を続けた。
「高平家の者ならば、この祝宴が私と彩子さんの婚約祝だと知っていた。にも拘らず、部屋に案内してくれた君は『誘惑なんかしちゃいけない』と、釘を刺すふりで探りを入れたね」
「少佐が聞いていたよりも、ずいぶんと歳が若かったもんでね。個人的な興味、好奇心ってやつですよ」
「甚平くん、後学のために忠告してやろう。普通の人間は、刀で脅されたら命乞いをするものだ」
私が体重を乗せて刃を横に引けば、簡単に斬首することができる状況で、甚平は冷静に言い訳を考えて口にしている。
並大抵の精神力では、自分の命を弄ぶ相手を小馬鹿にした態度が取れないはずなのに、私が殺せないと知っていて口元に笑みさえ浮かべていた。
「わかったよ、少佐。でも俺の正体を明かす代わりに、少佐の正体も聞かせてもらえませんかね? 俺が調べたところ、俺らは別命を受けた同業者じゃないかと思うんだ」
先程の身のこなしも、甚平が帝国陸軍で訓練された憲兵だとすれば得心する。
彼が別命を受けた同業者と言うのならば、現政権に批判的な政信の周囲を嗅ぎ回る陸軍省が放った間者と言ったところだろう。
陸軍省は帝都不祥事件の折、軍事革命を企む青年将校らの会合に間者を潜入させたことで、武装蜂起を事前に察知して軍事革命の野望を防いでいた。
参謀本部では、東京・九段に諜報員の育成を目的とする防諜研究所を新設したと聞いている。
内地の参謀本部が諜報謀略により戦果をあげた関東軍の活躍を妬んで、そのような諜報員の育成機関を設立しているのならば、近いうちにかち合うことがあるだろうとは考えていたが、まさか信州の山奥とは思わなかった。
「つまり甚平くんは、私の後輩ということか」
「わかったら、この刀を仕舞ってくれよ」
甚平が刃に触れるのを嫌がった私は、彼の要望に従い刀を手間に振り下ろして鞘を拾い上げた。
「君の雇い主は、政信氏に謀反の兆しありと考えていたのかね」
甚平を放った陸軍省が現政権を肯定的に考えているならば、間者を放った邸内で大勢に与した兼久の死が驚天動地に違いない。
周辺を洗っていた諜報員の彼も、政信が直接手を下すなどとは夢にも思わなければ、想定外の事態に慌てているはずだ。
しかし彼の任務が高平家に出入りする人間の情報収集であれば、政信が日和見の貴院議員を一人殺害しても、事が有利に運べないと理解しているだろう。
だから黄金銃の暴発が兼久の暴走だったのか、その見極めに急きょ動かざるを得なくなり、私の前で馬脚を露わしたのだ。
「そんなところだが、俺の心象では兼久を殺したのは政信じゃねぇな。俺の見たところでは、奴も不測の事態に面を食らっている様子だ」
「甚平くんは、犯人に心当たりがあるのかな」
「怪しい奴なら目星をつけているが、少佐が素性と任務を明かさない限り、あんたは謀反を画策する政信議員と親しい満州の兵隊だ」
甚平が政信に近付く人間を調べている諜報員ならば、同業者と言えども花婿候補で獲物の屋敷に招かれた外地の諜報員とは、任務の性質が真逆の可能性がある。
陸軍省の参謀本部から送り込まれた彼は、諜報謀略に長けた関東軍の憲兵が貴院議員と接触したことで、皇道派の青年将校による帝都不祥事件の二の舞になるのを恐れているのだろう。
外地の関東軍が、陸軍省と銃口を構えて睨み合うとは、とんだ誇大妄想だと笑い飛ばしたいところではある。
「私の任務は、政信氏に殺害予告を送り付けた犯人の身柄確保だった」
「だった? それは表向きの理由だろう」
「表向きの訳合いは、高平家に花婿候補で招かれた憲兵だったがね。まあ、こういう状況だから、君に任務を明かして協力を願い出るよ」
私が『嘘だと思うなら、依頼主の政信氏に確認してみろ』と、悩んだ素振りの甚平に言うと、間者の身分を伏せたまま確認できない彼は、大きく肩を落とした。
「少佐の言葉は信用できないが、正体を見破られた俺に選択の余地がない。ただ、このまま手ぶらで引き上げれば、俺は何の成果を持ち帰れなかったと笑い者になる。同業のよしみで、事件解決まで俺の素性を伏せてもらえないか」
「同業者のよしみね――。甚平くんが、それに見合う情報を寄越せば考えよう」
甚平は『足元を見やがって』と、恨みがましく呟いたものの、事件の真相を解き明かしたい一点においては、共通の目的なのだから、私の申し出を断れるはずがない。
「少佐が政信の犯行を疑っているんなら、それは政信の性格を把握してないからだね。娘の恋人を殴りつけるような粗暴な行動は初めて見たが、人を殺せるような度胸があるとも思えねぇ。奴は十年前、屋敷に招いて事故死した大坪田貴子の供養を欠かさない優男だ」
「しかし兼久は、政信氏が貴子を崖から突き落としたと考えていたようだが? 兼久の死が何者かによる故意の殺人だとすれば、現場にいた政信が真っ先に疑わしい」
「だとしても東京に本宅がある政信は、移築したばかりのトライデント城や、ここらの事情に精通していたわけじゃない。知らない土地で貴子を呼び出して、崖上から突き落としたと言うのは、いくら何でも勘繰りが過ぎやしないか」
「貴子の転落死は、事故で間違いない?」
「ただ政信と兼久が事故の前日、九段で芸者をしていた貴子をめぐって言い争ってたてぇのは、少佐の知らねぇ情報なんじゃないですか」
三徳は十年前の宴席で二人が口論していたが『内容まで知らない』と言っていたものの、屋敷の下働きで潜入している甚平は、当時から運転手に雇われた寅吉から口論の内容を聞き出していた。
醜聞に人一倍気を払う政信の噂、とくに家系の恥になるような話は、私が聞き回っても集めることができなければ、運転助手が収集する情報が有益に思われた。
「さあ、次は少佐が話す番だ。少佐の任務は政信を脅迫している犯人の『身柄確保だった』と、過去形で話しているんだから、殺害予告を送り付けた犯人がわかったんだろう?」
甚平は手のひらを上に向けて、早くよこせと指を動かす。
「ああ、それを今から政信氏に報告するところだったのだよ。予告状に使われていた新聞の切抜きはA新聞社の活字で、招待客の中でA新聞を取っている人物は大坪田兼久だけなのだ。犯人が死んでしまっては、いくら私でも身柄確保ができないからね」
「うん? それでは、殺される順番がおかしいじゃねぇか。真犯人がご丁寧にA新聞を使って政信を強迫したなら、兼久は濡れ衣を着せるために用意したってことだぜ」
予告状を送りつけた者を招待客に限定しなければ、兼久の他にも容疑者がいるだろう。
しかし予告状が容疑者として屋敷に招かれるために用意されたものならば、屋敷にいる招待客以外に考えられない。
甚平は兼久が犯人に利用されて殺されたのであれば、舞台から退場するのが早すぎると考えたようだ。