05 容疑者のアリバイ
「じょ、冗談じゃない! この屋敷では、一日も開けずに人が二人も死んだんだよ? 私たちは、東京に帰らせてもらう」
屋敷の者が集められた玄関ホールでは三徳が声を荒げており、妻の朱美も『そうよ、帰らせてもらいます』と、興奮して肩を上下させる夫に同意した。
政信に取り入る隙を窺っていた榊原夫妻だが、実業家の良夫が銃殺されたことで、黄金銃の暴発で死んだ兼久も何者かに殺されたと考えたようだ。
二人の死が連続殺人だったのか、今後の捜査次第ではあるが、少なくとも二人は黄金銃とともに盗み出された弾丸で殺されており、二つの事件を無関係と見る方が難しい。
「兼久の死が暗殺犯の末路だとしても、屋敷にいた者は邸内で銃殺された良夫の殺害事件の容疑者なんですな。容疑が晴れるまでは、ここから帰すことが出来ませんぞ」
貞治は東京府の自宅に戻ると騒ぐ榊原夫妻を宥めながら、その場にいた全員にも『まずは警察にアリバイを聞かせてください』と、昼食の準備が整っている貴賓室に場所を移すように提案した。
私が遺体から取り出した黄金の弾丸を見た貞治と岩壁は、二つの事件を連続殺人と理解したようで、屋敷にいた者を『容疑者』と言い放っている。
「こんなことに巻き込まれるなら、今朝のうちに東京に戻れば良かったんだよ」
昼食の用意がしてある貴賓室の席に座った三徳は、大きなテーブルに肘をついて頭を抱えた。
妻の朱美は『私のせいにしないでね』と、横目で睨んだ夫に釘を刺しているが、帰ると言った彼を引き止めたのは彼女だった。
「まあまあ、せっかくのご馳走です。腹ごしらえしながらで結構なので、皆さんのアリバイを聞かせてもらいましょうか」
貞治はナフキンを襟元に差し込むと、呑気にナイフとフォークを手にしている。
署長の大食漢には呆れてしまうものの、早朝からの現場検証で、昨夜から何も口にしていないと言うので、甚平たち下働きや給仕も部屋の隅っこにテーブルを用意して食事となった。
ただ第一の事件、第二の事件とも高平家に因縁を持つ者の犯行とした場合、下働きや給仕の犯行と考えるには難しく、アリバイも概括して言えば次のとおりである。
運転手の寅吉と甚平は、玄関前で高平家の自家用車であるダットサンセダンを洗車しており、屋敷の裏手から聞こえた銃声に、客室の方から裏庭に回り込んだが、とくに怪しい人影を見ていないと証言している。
給仕に携わる者は銃声を厨房で聞いたものの、警察の現場検証で昼食の仕込み時間が押していれば、特に気に留めず調理を続けていたらしく、そこにいた給仕が互いの証言を裏付けた。
「良夫の殺傷痕は左肋骨の下方ですからな、犯人は応接室のある方向から狙ったと考えるのが筋でしょう。厨房の方々が裏庭を覗いていれば、犯人と行き会ったかもしれませんな」
貞治は応接室に残っていた榊原夫妻を、薄ら笑みで睨みつけた。
「私と妻は、警察に指示されたとおり応接室で呼び出されるのを待っていた。疑われる筋合いは、これっぽちもない!」
三徳が指で輪っかを作り、それを目の前に座っている貞治に突き付けると、署長は『私は事実を申し上げている』と、顔の前で手を振って応えた。
私が三徳に助け船を出すまでもないのだが、このままでは榊原夫妻が誤認逮捕され兼ねない状況なので、署長の思い込みを指摘してやる。
「署長、良夫が正面に立っていたと証明できなければ、左側の殺傷痕が左側からの撃たれたものとは限りません。それこそ隣室のベランダから撃たれたのかもしれないし――」
「そんなことは少佐に言われなくてもっ、わかっとりますよ。私は左から撃たれた可能性が高いと、申し上げただけですぞ」
出しゃばってくる貞治の推理はポンコツで当てにならなければ、ここにいる者を間違った方向に導き兼ねない。
捜査の主導権は、若い私服刑事の岩壁に譲渡することを切に願う。
捜査を仕切りたがる署長よりは、まともな見立てを聞かせてくれそうだ。
「少佐は私と取調室で供述調書を作っていましたので、身の潔白は保証します」
岩壁は被害者の良夫に用意されていた食事を食べながら、隣に座っている貞治に言った。
「まあ満州から来ている少佐には、信州の実業家を殺す理由がないですな。そうなると必然、疑わしい人物が限られてくるのですが――。さて弱りましたな」
貞治はナイフを持つ手で頭を掻くと、主賓席に座る政信に目配せしている。
信州の実業家を殺す訳合いがないのは、榊原夫妻も同様であれば、そもそも疑わしいのは高平家の面々であろうと思われた。
「しかし署長、そうであれば殺された兼久も榊原夫妻も、良夫の口車に乗せられていた可能性だってあるんじゃないですか。だって議員らと飯田良夫の先代は、十年前からの付き合いなんでしょう? 良夫が先代の伝で中央に顔が効く議員らに、公共施設絡みの投資話を持ち込んでいてもおかしくありません」
岩壁は何気ないつもりで言ったのだろうが、やっぱり若い私服刑事の方が鋭い感性を披露してくれる。
私服刑事の見立ての裏付けならば、被害者が死に際まで、机上でにらめっこしていた帳簿を確認すれば、すぐに取れそうだと思った。
「私は貴族院の互選で落選中の身なので、地方の公共事業に口を挟める立場にない」
「貴方は余計なことを言うから、痛くない腹まで探られるのよ……少し黙ってなさい」
朱美が、夫の膝に手を置いて黙らせた。
目を泳がせている妻を見ると、良夫の投資話に踊らされているのは存外、彼女の方なのかもしれない。
そう言えば昨夜、貴賓室と応接室に別れたとき、酒の飲めない実業家は、女性陣と応接室で談笑していたことを思い出す。
今朝ほどは、帰りたいと言う夫の泣き言を諌めた彼女が、手のひらを返したかのように帰宅に同意したのも気にかかる。
もちろん、二人も殺された屋敷に閉じ込められたくない、その気持ちは充分に理解できるが、良夫が殺されてから一転して弱気に見えた。
「では政信氏は銃声がしたとき、どちらにいましたか」
貞治の質問に招待主の政信は『執務室にいた』と、警察の現場検証が終わった部屋の片付けをしていたと証言したものの、一人だったので裏付けることができなかった。
しかし署長は『まあそうでしょうな』と、あっさりと引き下がる。
その訳合いを聞けば、玄関ホールに屋敷の者を集めていたとき、騒ぎを聞きつけた政信が執務室のある二階から中央階段を下りる姿を見ていたらしい。
「私が邸内を捜索していたとき、政信氏は執務室におられたし、屋敷左から中央階段を下りてきましたからな」
政信のアリバイに続いて妻の節子は、厨房の給仕に昼食の用意が整ったのか確認しようと、玄関ホールに差し掛かったところで銃声を聞きつけて、そこに立ち止まっていたようだ。
夫人の証言は、私と岩壁のいた取調室を出た貞治が右の塔から屋上に出て捜索していたとき、銃声を聞いて中央の塔から室内に戻ったところ、玄関ホールで床にへたり込む彼女を見ている。
「僕は良夫さんから借りた本を部屋で読んでいましたが、銃声を聞いて妹たちの部屋を訪ねました」
長男の和政は『良夫さんは、僕の師匠みたいな人ですよ』と、殺す動機がないと付け加える。
聞き及ぶ範囲では、長男は実業家の良夫を慕っており、殺害動機がないと見受けられた。
「恵子さんはそのとき、既に部屋にいなかったのですか」
私が聞くと、和政は頷いた。
「私も事情聴取が終わってから、自室で寛いでいたわ。銃声が聞こえて怯えていたとき、和政兄さんが訪ねてきたから一緒に玄関ホールへ行きました」
彩子が証言していたとき、事情を飲み込めない様子の恵子と優馬が貴賓室に入ってくる。
長男と次女の証言は必然、それ以上の事実がなく切り上げられて、そこに集まっている全員が、連れ立って現れた長女と恋人に注目した。
彼らは銃声が聞こえてから今まで所在不明であれば、そこにいた誰しもが、遅れて登場した二人に疑惑を向けて当然である。
「いったい、何の騒ぎですか?」
優馬がキョトンとした顔で問いかければ、上座に座っていた政信が鬼のような形相で近付いて、彼の手首を捩じ上げた。
家主の行動があまりに唐突で、間に入るのを躊躇ってしまったが、彼が『貴様ッ、あれほど恵子に近付くなと言ったのだろう!』と、床に膝をついて痛がる青年の腕をへし折る剣幕で怒るので、私と岩壁で背中から羽交い締めで止めた。
「な、何よっ、お父様に何の権利があって、優馬さんに怒鳴り散らすのよ! 優馬さんは当家を追い出された後も、お父様の悪口一つ言わないわ! 彼が兼久様の甥だったという理由だけで、私たちの交際をお認めにならないなんて器が小さいですわ! 優馬さんに謝りなさい!」
恵子は私が制止した政信に、堪えていた感情をぶちまけている。
娘に自分の非礼を諌められた父親は、体を揺すって私と岩壁の手を払うと、顔を真っ赤にして仁王立ちした。
「親の気も知らないで、その気丈な性格は誰に似たんだ」
「お父様じゃなくて?」
「お前たち……そこまで言うか」
声を震わせた政信が拳を振り上げると、両手を広げた優馬が立ち塞がる。
わなわなと震えた父親は、その拳を開いて娘を庇った青年の横面を叩くと、床に倒れた彼に『恵子とは、私の目の届かぬところで二度と会うな』と忠告した。
「わかり……ました」
優馬は赤く晴れた頬を抑えながら立ち上がると、政信に深々と頭を下げて詫びを入れる。
「貴様、次は許さんぞ」
「貴方も、もうお止め下さい。皆さんも、困ってしまいますわ……。恵子たちのことは、後でゆっくり話しましょう」
夫人の節子は、怒りが収まらない政信を諌めた。
家主の激昂に有耶無耶になってしまったが、事情聴取が終わった二人は、そのまま落ち合って裏の川で、今後のことを話し合っていたと証言した。
彼らの証言を裏付ける者はいなかったが、私は恋人を抱き起こす恵子が、はみ出たブラウスの裾をスカートに戻す仕草を見て、彼らの言い分が満更でもないと思った。
政信が恵子の着衣の乱れに目敏く気付いていたのならば、娘を拐かした男を許せなかったのだろう。