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鶯の抵抗  作者: 梔虚月
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02 私を知る鏡

 山間からの陽射しが水面に反射しており、川沿いに滝を目指す私たちの道標になっている。

 先を行く彩子は、足場の悪い川原で軍刀を杖にした私と歩調を合わせていたが、渓流の岩ではぜる水の音に滝から流れ落ちる低い音が混ざる頃、私のところに小走りで引き返してきた。

「そこを曲がったところが十年前に大坪田の奥様が倒れていた現場なのだけど、崖の上から滝壺を覗くなら、ここの林道を登らなくてはならないわ。少佐はどちらに?」

 彩子は貴子が倒れていた現場と、滑落した現場のどちらを調べたいのかと聞いてきた。

 私は崖を見上げて『滑落した現場です』と、貴子が足を滑らせた崖の上が見たいと申し出る。

「では、こちらに腕を回してください」

 そう言って肩を貸してくれた彩子には、なるべく負担をかけないよう体を預けた。

 満州事変で足を負傷したのは少佐であり、私は彼の歩き方を真似ているだけなのだが、それでも彼女の厚意にすがっている。

 母親や長女に似て気丈な性格ではあるが、私みたいな軍属に肩を貸すなど気の良い女性なのだろう。

「少佐が行き先を任せるなんて仰るから、私のお気に入りに招待したのよ。滝を見たいなら、そのように仰れば最初から上の道で行ったんです」

「遠回りなのですか」

「屋敷の前の道を行けば、砂利で舗装されてますからね」

 距離はともかく川原から丸太階段を登るより、整地された道を行く方が遥かに楽だったろう。

 汗臭い軍服の腋に腕を通した彩子が、それでも文句を言わずに体を支えてくれるのに返す言葉がなかった。

 私は黒羽家の小姓を辞めてから、大日本帝国陸軍などと仰々しい組織に属したものの、結局は身分を保証してくれる家の言いなりに生きてきたし、それを疑問に感じることがなかった。

 黒羽家の嫡子である上司のためならば、諜報員として偽りの身分で潜入捜査に携わり、政局や戦局に暗躍する仲間を裏切るのを生業にしている。

 ゆえに駆け引きなしに心を開いた彼女を一方的に騙すことに、女心を弄ぶような罪悪感があるのが不思議でならない。

 戦災孤児として戦場で黒羽家の家長に拾われた私は、親子ほど歳が離れた少佐と十年ほど過ごした神戸の家で、今にして思えば軍属としての嗜みを教え込まされた。

 抜刀術、体術、銃器の取扱い、軍人としての心得や立ち振舞いも、そして諜報活動の何たるかは物心ついてから家を離れて軍人になるまで、いや、関東軍憲兵隊でも人を偽るのが任務であれば、骨の髄まで人を欺いて生きている。

 私が何者かなんて知られてはいけないし、知ってほしくもない。

 それで良いと思っていたし、これからだって良いと思っていた。

「あとすこしですよ、少佐」

「ああ、すまないね」

「何のこれしき」

 視線の位置に砂利道が見えたとき、息を切らせた彩子が笑顔で鼓舞する。

 私なんかも、いずれ身を固める日がくるのだろうか。


 ※ ※ ※


 川原を眼下にした砂利道を歩くこと五分足らず、貴子の滑落した崖上に到着した。

 彩子に聞けば先ほど登ってきた丸太を並べた階段が、滝の上と下を繋ぐ近道で、これより先に進んでも下りる道がなく、滝の上の川辺に出るだけらしい。

「和政兄さんは『ここを整地すれば良い観光地になる』と、昨夜も仰っていたわ。お母様は地元の良夫さんの受け売りだと仰るけど、兄さんは政治家なんかより、商売人の方が向いてると思うのよね」

 道は先にも続いていたが、彩子の言うとおり滝壺が覗ける現場周辺は開けており、風光明媚であれば観光地に最適かもしれない。

 ただここに来るには砂利で舗装された高平家の敷地を抜けねばならず、それには城の売却を拒んでいる政信が許さないだろう。

「しかし音は聞こえますが、肝心の滝が見えませんね」

「ええ、道沿いには滝も滝壺も見えないわ。もう少し歩いた川原なら、流れ落ちる滝を見下ろせるけど」

「流れ落ちる滝では、見応えもありません」

「この季節は崖縁が草で覆われているので、滝の側に近づけないわ」

「あの木のところまで歩けば、下を覗けそうな気もしますが」

 私が指差した木は、草むらに真っ直ぐ立っているように見えた。

「少佐も、そう思うでしょう。でも木は崖から生えているので、根本を覆う草むらの下には何もないわ。崖縁の草が邪魔して地面が見えないので、ここらは落とし穴になっているのよ」

「では十年前、ここを訪れた貴子も気付かずに転落死したという訳合いですか」

「たぶん、そうだと思うけど……詳しくはわからない」

 彩子は十九歳、事故当時は九歳であれば記憶も不確かで、高平家の忌まわしい過去であれば尚更詳細を聞かされていないだろう。

 しかしこうして貴子が滑落した現場を見ても、事故か他殺か判断がつかない。

 貞治の見聞調書が正しければ、被害者は一人で屋敷を出たとのことで、高平家や招待客のアリバイが確かであれば、事故で処理されても仕方なく思える。

「大坪田の奥様はあのとき、夕時を過ぎても戻らなくて騒ぎになったのよ。季節もちょうど今時期で、捜索は蓼科湖に向かう道と、山に向かうこの道、それと裏の川を川上と川下に別れて探すことになったわ。滝壺で横たわる和装の彼女を見つけた警察官の話では、手足をあらぬ方向に広げて、少し離れた岩に打ち付けた頭蓋からは、真っ赤な血が流れていたんですって……少佐は、この滝にまつわる呪いのことをご存知かしら? 私が子供の頃、お母様に聞かされた話なのですが――」

 彩子は腕をしなだれて、まるで幽霊のように声を震わせた。

 朝っぱらから呪いの話を二度も聞かされるとは思わなかったが、それだけ有名な戒めなのだろう。

「呪いの話なら、先ほど良夫さんに聞きました」

「えーっ、知っているんですか」

「ええ、まあ……すみません」

 彩子は『私からお聞かせしたかったのに』と、両手を腰に当てて拗ねている。

 まだ幼かった彼女でさえ、呪いの話を聞かされていたのであれば、口減らしの赤子や山に捨てられた老人の魂が、生者を滝壺に引き摺り込むというのは、子供に聞かせる戒めなのだと確信した。

「彩子さん、当時の招待客は覚えてますか」

「よく覚えてないけど、大坪田夫妻と榊原夫妻の他にも議員さんがいたわ。それに一昨年亡くなられた飯田良夫さんのお父様と、署長さんもいらしたわね」

「良夫さんの先代は、ここに鉄道を敷くのに尽力した方ですね。彼の家とは、その頃からの付き合いでしたか」

「トライデント城の移築には鉄道貨物や地元の人足にんそくを雇いましたから、そのときのご縁なのかしら?」

「では署長さんは、招待客だったのですか」

 貞治からは、高平家での事故調査が縁で今回の祝宴に招待されたと聞いていた。

 貴子の亡くなった十年前、既に招待客の一人として参列していたならば、彼の説明とがある。

「署長さんが警備で訪れただけで、招待客だったのか知らないわ。私は小さかったし、そうしたことはお母様に聞くと良いわ」

 時計の針が九時を回った頃、滝の見えない道端で過ごしているのも飽きた頃、数発の銃声が山間に木霊する。

 私は反射的に軍刀を握りしめたが、銃声は遠く、屋敷の方角とも違っていた。

 それを合図と思ったのか、彩子は私の手に手を重ねて首を横に振る。

「そろそろ屋敷に戻りましょう」

「今の銃声は?」

「あれは心配いりません。猟師が川向こうで、猪や鹿を狩っているんです。今は狩猟期間で鉄砲の音が毎日聞こえますけど、彼らは当家の私有地に入ってきません」

「そうでしたか」

「昨夜の宴席で振舞った鹿肉は、地元の猟師から買い付けているんです。ここらでは今の時期、いろんなお肉が食べられるんですよ」

 彩子は私の左に立つと、手を繋いで歩き始めた。

 しばらくすると、彼女は思い出し笑いに口元を隠す。

「でもおかしいわ、少佐みたいな立派な軍人さんが銃声に怯えるなんて」

「軍人であれば銃声に身構えるのが職業病みたいなもので、べつに怯えたわけではありません」

「まあ、そうでしたの? 私は良いと思いましたのに――」

「何が良いのですか?」

「いいえ、何でもありません」

「私は、御婦人の思わせぶりな態度が苦手なのです」

 彩子は声を出して笑うと、私の前に立って振り向いた。

 彼女の言動には、どうも調子が狂う。

 その原因はわからない。

「少佐は人間味のある、とても可愛い方だと思いましたわ」

「ご冗談を――」

「いいえ、冗談ではありません。少佐は感情を出さないので、私は機械仕掛けかと疑っておりました」

 彩子は私を人間味があると言うが、世を欺いている人間の何処を見てそう思われたのか。

 私だって私の本質を見抜けないのに、箱入り娘の彼女に私の本質が見抜けるはずがない。

「彩子さんには、出会ったばかりの私の為人がわかるのですか」

「自分よりも他人の方が、為人がわかるものよ。少佐は鏡をご存じ? この世界に鏡がなければ、自分の顔は自分だけが見れないわ」

「ほう、それは面白い例えですね」

「ほら、そうやって強がりを仰る」

 そう言って再び私の横についた彩子は、指を絡ませて手を握り体を預けてくる。

 顔を覗けば、はにかんだ笑顔を返してきた。


 ※ ※ ※


 私たちが屋敷に戻れば、玄関アプローチに停まっていた警察車両が引き上げて閑散としており、貞治に訳合いを問えば、兼久の遺体を南諏訪の本署に移送したこと、犯行現場である政信の執務室の鑑識作業が一通り済んだとのことだった。

 署長は黄金銃暴発の被害者であり、殺人未遂の容疑者である兼久の事件は、既に解決していると考えているのだから、事情聴取の私服刑事と警官二人を残して屋敷から追い返している。

「私は、市警察の岩壁いわかべろうと申します。失礼ですが、後ほど黒羽武少佐にも聴取させてください」

 私服刑事の岩壁は敬礼すると、招待客のいなかった二階客室の一番奥まった部屋を取調室に借受けて、事情聴取を行っているらしい。

 私服刑事は高平家の者や下働きの聴取を先に終えており、彩子の帰宅を玄関先で待っていたようだ。

「事件が解決しているので、お手間は取らせませんよ。お嬢さんの聴取も、すぐに終わります」

 私が中央階段を岩壁と上がっていく不安な表情の彩子を見送ると、貞治が肩を抱いて言った。

 高平家と兼久にどんな因縁があったとしても、彼女が事件に絡んでいるなんて心配していないのだが、裏の事情を知らない署長は、将来の伴侶を見送る私に気遣っている。

「皆さんは、どちらで待機しているのですか」

 貞治が招待客は応接室で順番待ちをしていると言うので、私もそちらで待たせてもらうことにした。

 ステンドグラスの木漏れ陽で彩られた貴賓室を通り、応接室の扉を開けると、ソファや壁に凭れてそれぞれに寛いでいた招待客の視線を浴びる。

「なんだ少佐か」

 壁を背にした良夫は、部屋を訪れたのが聴取を呼びにきた岩壁でないとわかると、ため息まじりに項垂れた。

 どうやら事情聴取の順番は、中央階段から二階手前の良夫、優馬、そして一階手前の私、朱美、三徳と伝えられており、彼らは早く聴取に応じて解放されたい様子だ。

「良夫さんは、警察の調べが終わったら自宅にもどりたいのかい」

「トライデント城の邸内や敷地を見て回りたいし、週明けまでは滞在するつもりだよ。これは、チャンスだからね」

「チャンス?」

「敷地内の見学は、招待客でないと政信氏の許しがでないだろう。それに政信氏は、縁起の悪い屋敷を手放すかもしれないじゃないか」

 良夫は十年前の事故、今回の事件でケチの付いた土地と屋敷を政信が売りに出すと考えており、さっそく購入の申入れをするつもりだ。

 商売人らしい発想ではあるが、屋敷を手に入れたい彼が仕組んだ犯罪との疑惑も色濃くなった。

「私は、東京に帰るつもりなんだが――」

「貴方は、そうやって弱気だから皆に足元を見られるのよ。議席に空きが出たなら、政信さんに取り入るくらいさしなさい!」

 ソファに腰を下ろした三徳がおずおずと話を切り出すと、隣に座っていた朱美が畳み掛けるように否定した。

 貴院議員の兼久が亡くなれば議席に空きが出るので、今のうち政信の機嫌を取って互選を有利に運ぼうという腹だ。

 それも兼久が殺害されているのならば、議席の確保も充分な動機になるだろう。

 恵子との交際を認めてほしい優馬は聞くまでもなく、滞在期間中に両親を口説き落としたければ残るし、任務完了だとしても次女の花婿候補の私が真っ先に屋敷を去るわけにもいかない。

「では全員が、期日まで屋敷に残るということですね」

 招待客は顔を見合わせてから頷くと、私服刑事の岩壁が良夫を呼び出して応接室を二人で出ていった。

 それから私は、黄金銃が飾られていたガラスケースの置かれた書棚を退屈凌ぎに見渡して、ちょっとした変化に気付いたのである。

 政信は書棚の蔵書や美術品が城を移築したとき、教会から譲り受けたものだと言っていた。

 ゆえに応接室の書棚に整頓された本の背表紙は、英語、ラテン語、ギリシャ語などで書かれていることはわかっても、その詳細まで把握しているわけではない。

 しかし私ほどの洞察力があれば、巻数の並びがおかしければ、昨夜の時点で気付かないはずがない。

 私は黄金銃の飾られていた真下の蔵書を手にすると、正しい位置に並べ直したとき、本の裏側の書棚に仕掛けがないのか念入りに調べた。

「少佐、警察も書棚や壁を調べていたが、この部屋には何の仕掛けもないと言っていたよ」

 三徳が言うので、書棚を調べていた警察が本を戻すとき、巻数を並べ間違えたのかもしれないと思った。

 腰を屈めていた私が上体を起こすと、狩人の放ったライフルの銃声が、先ほどより近くに聞こえる。

「ひぃ! ま、また聞こえた」

「銃声なら朝から鳴っているでしょう! いちいちビクビクしないでよ」

「だって昨夜、兼久議員は銃で死んだんだよ?」

「貴方が騒ぐから、こっちも気が気じゃないのよ……騒ぐのはみっともないから、お止めなさい」

 三徳の臆病を嗜める朱美を見ていると、銃声に身構えた私を人間味があるなんて微笑んだ彩子は、きっと良い女房になるのだろうと思った。

 

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