01 血の宿命
私が着替えて自室を出ると、既に市警察の警官や私服刑事が邸内をうろついており、署長の貞治が開け放たれた玄関ドアのところで陣頭指揮を執っていた。
署長が早く寝たいと執拗に訴えていたのは、夜明けを待って市警察に連絡したかったかららしい。
働き者を横目にした私は貴賓室に向かったのだが、黄金銃が奪われた応接室に通じるそこにも、二人の警官が入口に立って『捜査中だ』と、入室を禁じている。
しばらく玄関ホールのソファに腰を下ろして朝食を待っていると、二階の客室から良夫と優馬が雑談しながら下りてくる。
「昨夜は、お互いに災難だったね」
階段の二人に声をかけると優馬は『そんなことはありません』と、軽く首を横に振って否定したものの、屋敷の購入を検討している良夫は大きく頷いて同意した。
「まったくですよ。トライデント城で人が死んだなんて噂が広まったら、観光開発やホテル経営に支障が出ます。そうでなくても地元では移築当時、兼久議員の奥さんが不慮の事故で亡くなったのを『呪い』だなんて騒ぎになりました」
「私も昨夜、兼久の妻がここで亡くなったと署長さんに聞きました。しかし、いったい何の呪いですか?」
良夫は『ここだけの話ですが』と前置きすると、座っている私の前に立ったが、優馬はオカルト話に興味がないのか、玄関で腕組みしている貞治の方に歩き去った。
私だってオカルト話に特段興味はないが、昨夜の事件に妻の死が拘っているかもしれなければ、おしゃべりな実業家の与太話にも耳を傾ける。
「トライデント城の移築を記念した集まりに招待された兼久議員の奥さんは、この先にある滝壺を覗き込んで崖から転落死したんです。その滝壺には昔から、口減らしや姥捨て山の言い伝えがあるんですよ。この辺りは冬になれば雪に閉ざされるので、冬を前にした頃にそうした風習があったとか」
「ここには、そんな風習が実在したんですか」
「もちろん、真偽のほどがわからない言い伝えですがね」
私が訝しげに聞き返すと、良夫は踵返しに否定した。
「口減らしは子殺しで、姥捨て山は親殺しですね。しかし兼久の妻は赤子ではないし、ましてや老婆でもないでしょう?」
「だから呪いなんです。幼くして親に殺された赤ん坊や、子供に背負われて山奥の滝壺に沈められた親、そうした者の魂が滝壺を覗き込む生者を呼び込む――地元の人間も、あの滝壺を覗き込んで命を失っているらしいですよ」
「兼久の妻の死が、亡者の仕業であれば確かに呪いですね」
私は幽霊や呪いなど信じていないが、おしゃべりの口の滑りを良くしてやろうと同意すると、気を良くした良夫が話を続ける。
「まあ実際のところ、この地域に口減らしや姥捨て山の風習があったのか、兼久議員の奥さんのほかに崖から転落死した人間が実際いるのか知りません。ただ地元の人間は、あの滝に近付かないんです。呪いの噂は、眉唾ですがね」
満足した良夫は話し終えると、私の隣に腰を下ろして『ここだけの話しですよ』と、人差し指を唇に当てて念を押した。
地元民が呪いの噂を信じて滝に近寄らないのは、崖の上から滝壺を覗き込むのが危険だから、子供に聞かせた戒めが独り歩きしたのだろう。
土着した呪いや伝承の類は、そうした戒めが口伝されるうちに物語性を帯びたものが多い。
しかし地元民が崖から滝壺を覗くのが危険だと知っていたならば、城を移築した高平家は、滝に向かった兼久の妻だった貴子に注意しなかったのだろうか。
そもそも招待客が屋敷の誰にも告げず、何の目的もなく屋敷を抜け出して滝を見物に行ったのも気になる。
兼久が高平家の誰かに唆されて、妻が滝に向かったと考えても不思議がない。
政信が妻殺しの犯人だと考えていた彼ならば、他の招待客が寝静まった深夜に黄金銃を手にした訳合いにも納得できる。
「そんなことより少佐は、優馬くんが兼久議員の遠縁だと知っていましたか」
「優馬くんは、兼久と血縁なのですか?」
良夫は貞治と立ち話をしている優馬をチラリと見ると、聞こえぬように声を潜めた。
「いやいや、血縁関係はないようです。いま話していた兼久の奥さんが、母方の叔母にあたるようですね」
「彼の母親は貴子さんの姉で、兼久が叔父になるのですか?」
どうやら良夫は昨夜、我々と玄関ホールで別れた後、連れ立って二階の客室に戻る優馬に告白されたらしい。
兼久の甥である本人が口にした事なので、疑う余地のない話なのだろう。
「もっとも兼久議員と奥さんは結婚して半年足らずで死別しているし、死後離縁していました。九段下で芸者だった叔母は、そもそも若い時分に家を出ていれば、彼自身も議員と直接会ったことがなかったみたいです」
「それにしたって昨夜、二人には叔父と甥の雰囲気がなかったですね」
「まあ叔母が事故で亡くなった後、彼の面倒をみていたのが高平家です。政信氏は、彼の叔母が亡くなった責任を果たしていたつもりなんでしょう。兼久は薄情にも死後離縁して縁戚関係がなければ、彼にとって赤の他人みたいなもんだったでしょう」
「なるほど……では兼久の妻は旧姓『永岡貴子』ですね。それで署長さんが、恵子さんとの交際には『永岡の家柄が問題になる』と言ったのですか」
「そこまでは知りませんが、彼はああ見えて強かですよ。それも腹が読めないので商人より政治家向き、そんな印象です」
招待客の貴子が死んだ責任を感じた政信は、遺族の優馬を書生に招くなど生活の面倒を見ていたものの、政敵となった兼久の甥と長女の交際には反対だったのだろう。
そう考えれば合点がいく話ではあるが、なぜ彼のパトロンが叔父だった兼久ではなく、政信だったのか疑問が残る。
本来ならば兼久が、妻の生家に残された甥の面倒を見ても良さそうなものだ。
なぜなら永岡家の優馬は将来を嘱望される好青年で、同じ政治を志しているのであれば支援に値する人材に思える。
「貴子は若い頃、芸者だったと言いましたね。兼久との馴れ初めも、九段下界隈の客と芸者だったのでしょうか」
「彼が言うには『叔母が舞妓になったのは七つのとき、たまに顔を出すだけで一緒に暮らしたことがない』とのことなので、二人の馴れ初めなんか知らんでしょう」
「そもそも貴子と優馬くんは、疎遠だったのですね」
良夫と話している私に、高平家の私室から顔を出した彩子が手招きした。
彼女は屋敷を出入りする大勢の警官に物怖じしている様子で、私が近付くと私室の廊下に袖を引いて身を隠す。
まだ早朝だというのに、よそゆき服に着替えて化粧をした彼女は、私を呼びつけておいて一言も話さず俯いていた。
「彩子さん、どうしたのですか?」
焦れた私が問いかけると、彩子は意を決したように『少佐、ここから連れ出してください』と、見慣れぬ警官に気圧されて息苦しいと願いでた。
つまり邸内が騒がしいから、朝の散歩に行こうとのお誘いだ。
男慣れしていない生娘との母親の紹介は、おぼこな彼女の本質を言い当てていたのだろう。
可愛らしい女性との散歩なら気晴らしにもなるし、昨夜から都度都度聞かされる呪いの滝と言うのにも興味があった。
脅迫事件の犯人が兼久で、暗殺未遂に終わっているのならば事件解決であり、これが真犯人の思惑だとしても、大勢の警官が邸内にいれば、新たに犯行を重ねることもあるまい。
「私には行ってみたい場所があるので、ぜひ案内してください」
「はい!」
彩子は、とびっきりの笑顔で応える。
胸の奥が、良心の呵責でチクリと痛む。
この若い御婦人は、少佐の身代りでしかない私を将来の伴侶として接していれば、騙している気がして心苦しくなる。
私は屋敷の外に出るとき、貞治に『何かわかれば後ほど』と言い残したが、既に事件解決と決めつけていた署長は手を煽って追い払う。
彼の見立てが正しく、私の心配が老婆心ならば、残りの滞在を適当に過ごせば任務終了でお役御免である。
願わくば、それが良い。
「少佐は、どちらに行きたいの?」
彩子が無邪気に聞いたので、件の滝に行きたいと口にするのが憚られた。
隣を歩く彼女も高平家の者であれば、十年前のことを知っているだろうし、まだ昨夜の事件が心に残っているのならば、件の滝に行きたいと申し出れば、捜査の一環に利用されたと考えるだろう。
人を謀るのは慣れているが、相手が無垢な女性だと勝手が違うものだと思った。
「あれは、彩子さんを誘い出す口実です。とくには――」
「そうでしたの? では、私がエスコートしますわ」
不器用な自分には、ほとほと頭を悩ますところだ。
彩子は屋敷の裏手にある使用人の宿舎を経由すると、サンドウィッチの入ったバスケットを受取って先を歩き始める。
あんな事件の後でも、私との散歩は下働きと話がついていたようだ。
屋敷を裏手から見れば貴賓室に通じる厨房が、甚平たち使用人が寝泊まりしている長屋と渡り廊下で繋がっていた。
「景色を楽しみながら朝食をとるには、とっておきの場所があるのよ。さあ、まいりましょう」
「はい」
彩子は屋敷を背にして歩き始めると、緩やかに下る白樺の林道が続いた先に川が見えてきた。
裏の川は幅が広く流れも穏やかで、彼女は真夏になると兄妹で水遊びした思い出を聞かせてくれた。
かなり歩いたはずだが、そこから見上げれば三つの塔が見えている。
恵子は塔からの眺めは最悪と、うんざりした様子で愚痴っていたものの、周囲の自然が見渡せる塔の景色は悪くなさそうだ。
「彩子さんは、恵子さんと優馬くんのことをどう思う?」
川縁に下りて手頃な石に腰掛けた私は、サンドウィッチを手渡した彩子に聞いてみた。
政信が政敵の甥と心得た上で書生に迎えた優馬であれば、長女の恵子との交際を無碍に断るとも思えなかったのもある。
もともと同じ政党に属していれば、確執が表面化したのが帝都不祥事件以降だった可能性もあるのだが、そうであっても永岡家を嫌う訳合いに足りない気がした。
「優馬さんとは兄妹当然の関係だったから、恵子姉さんとの交際もすんなり決まると思ったわ」
「優馬くんとは、兄妹同然ですか」
「彼の叔母様が、ここで亡くなったことは存じてます?」
「署長さんから昨夜、そのことを聞きました」
私が言うと、彩子は頭を抱えてため息を吐いた。
「もしかして少佐の行きたかったところは、優馬さんの叔母様が亡くなった現場でしょう?」
「ええまあ……、気にはなりますよね」
「少佐は、憲兵ですものね」
彩子は食べかけのサンドウィッチをバスケットに戻すと、不貞腐れた様子で川上に向かった。
「少佐が仕事熱心なのは、私としては喜ばしいのかもしれませんけど、知り合ったばかりの女性を顎で使うような真似は、紳士として頂けませんわ」
前を行く彩子は特権階級である貴院議員の娘であり、道案内を買って出るような人柄でもない。
それでも私を将来の夫と思えば、足元の悪い川縁を遡上しているのだ。
偽りの身分を利用しているようで申し訳ない気持ちにはなるし、彼女の甲斐甲斐しい態度に気持ちも揺れ動く。