名を呼ぶのさえおぞましい……
この小説は非衛生的な題材を採用しております。その為、読者は気分を害する可能性が有ります。これをご理解頂いた上で閲覧して頂きますようお願いします。
「きゃあー!」
それは休日の午後に起こった。悲鳴を上げた女性はキッチンの一角に身を寄せ、周囲を見渡しながら体を震わせている。程なくして、ダンダンダンと、荒い足音が女性の居るキッチンに近付いて来た。
「どうしたサヨコ!?」
キッチンに現れた男性。彼の右手にはゴルフクラブが握られている。女性の悲鳴を聞き、泥棒や犯罪者との戦闘を考慮して持って来たのだろうか。現場には女性以外の人物は確認出来ず、震える女性の周囲には何かの粉末が散乱し、更に食塩の大袋が落ちている。
「どうした?」
「(ゴキブリが)出たのよ!」
主語の抜けた女性の証言と、未だ震えの止まらない彼女の様子、そして唯一の状況証拠である撒き散らされた食塩。
「(幽霊が)出たのか」
かくして、ある男女の壮絶な入れ違いが幕を開けた。幾らか落ち着きを取り戻した女性は男性に寄り添い、両手を揃えてすがり付く。
「あなたー、(ゴキブリを)なんとかしてー」
「俺が(除霊するの)か!?」
女性の要求を受けて取り乱す男性。しがないサラリーマンの彼にとってそれは無理難題であった。
「お願いあなたー。私もう(ゴキブリが)怖くって動けなーい」
「俺だって(幽霊は )怖いよ…」
「男の癖に(ゴキブリが怖いなんて)みっともないわね」
「(幽霊を怖がるのに)男も女も関係無いだろ。こういうのは専門家(の霊媒師)に任せよう」
「(ゴキブリ1匹に)それは…ちょっとオオゴト過ぎない?(あ、でもゴキブリは1匹居たら30匹いるとか言うわよね確か)」
「なあサヨコ。まだ(幽霊は)居るのか?」
「居るに決まってるじゃない。(ゴキブリは1匹居たら30匹居るから)沢山」
「(幽霊が)沢山居るのか!?」
女性から衝撃の事実を告げられた男性はビクッと体を震わせ、あっちか?それともこっちか?と周囲を警戒している。
「あなたー、しっかりして」
「いや、俺には(幽霊なんて)見えないもんだから…」
「きゃあ!」
また出たらしく、女性が男性に抱き付いた。男性は大きく目を見開いて硬直している。
「ま、また出た…のか?(幽霊が)」
「今そこに居たじゃない!(あんなに大きいゴキブリが)見えなかったの?」
女性は男性のすっとぼけにいささか苛立ちを感じつつ、家具と床の境目を指差している。
「そこに(幽霊が居たのか)?」
「そうよ」
「(幽霊って多分人間くらいはあるよな。何でそんな下の方に出たんだろう?)なあサヨコ。(その幽霊は)小さいやつか?」
「(ゴキブリの種類なんて知らないけど)凄く大きかったわよ」
「そうなのか!?俺には(幽霊なんて)見えないから全然分からないな…」
一般的な幽霊は人間大の身長なのだろうと思っていた男性は、絵本に出て来る様な鬼、数メートルの鬼が窮屈そうにしゃがみ込んでいるイメージで、天井を見上げた。男性が天井を這うゴキブリを見付けたものと勘違いした女性も、警戒して天井を眺めている。
「(あんなに大きなゴキブリが見えなかったなんて。)あなた、視力落ちたんじゃない?」
「(幽霊が見える見えないは)視力の問題なのか?」
「当たり前でしょ。今度眼科で視力検査受けて来て頂戴」
「ああ…(サヨコは凄いな。まさか霊感があったなんて)」
「そんな事よりあなたー、早く(ゴキブリを)何とかしてよー。このままじゃ寝れないわ」
「だから何で(霊媒師とかお坊さんとかじゃなくて)俺なんだよ」
なかなか行動に移してくれない男性に痺れを切らした女性は、自分が履いているスリッパの片方を脱ぐと、それを男性に差し出した。
「こういうのはオトコの役目でしょ。(ゴキブリ退治)頑張って」
「何を?」
「だ、か、ら…もう。言わないと分からないの?これで(ゴキブリを)叩いたらとりあえずお終いでしょ?」
「(幽霊にスリッパが)当たるのか!?」
それはこの男性にとって、今まで見聞きしてきた中で最も衝撃的な情報であった。
「難しいと思うけど、私本当に無理だから。お願いあなた、頑張って」
「無理!?お前(幽霊が)見えるんだろ?どうにか出来ないのか!?」
「(ゴキブリ退治なんて)絶対やだー。怖いし気持ち悪いし」
「仕方ない…で、(幽霊は今)どこに居るんだ?」
男性はスリッパを受け取ると腹を括り、一騎打ちに臨む侍の様な構えを取った。
「今は(どこかの物陰に)隠れちゃったから、分からないわね」
「そうか。(見える方のサヨコでも)分からないか…」
構えを崩さずに女性の支持を待つ男性。女性はと言うと、どう見てもゴキブリを叩くのには適さない体勢の男性をいぶかしんでいた。状況は動かず、時間だけが流れる。
「…あなた、(ゴキブリが物陰から)出て来るのを待っててもラチがあかないわ。直接叩くより他の方法にしない?」
「だから俺は(霊媒師とかお坊さんとかの)専門家に任せようって、最初からそう言ってるじゃないか」
「でも(害虫退治の)専門家だと高くつきそうだし、まずは私達でも出来る事をしましょうよ」
全く霊感の無い男性は、霊が見えるらしい女性の提案を受け入れて構えを崩し、侍から企業戦士に戻った。女性は男性から返却されたスリッパを履くと、冷静さを取り戻した様子で、床に散乱した食塩を片付け始める。
「あーあ、もったい無い。上の方だけでもすくい取って…ダメ?」
「何言ってるんだサヨコ….(清めに撒いた塩なんか食べたら、それこそ呪われるだろ)」
「冗談よ」
「それで、(幽霊に対して)素人でも出来る事って何だ?」
「(ゴキブリ退治って言ったら)やっぱりあれじゃない?あれ」
「あれじゃ分からないぞサヨコ(それにしても詳しいな…)」
モノは思い出せたのだが、肝心の商品名がどうにも出てこないらしく、女性はウンウン唸っている。男性は女性の知識と感覚に付いて行けず、最早丸投げの状態であった。
「あれよあれ。なんか…煙?水蒸気?が出るやつ」
「(除霊効果がある水蒸気の…あ、もしかして)ファブリーズか?」
「うーん、(ゴキブリは汚いから何となく)効くとは思うけど、それじゃないわね」
「そうか(あの噂は本当だったのか…それにしてもサヨコは本当に凄いな)」
人は得てして自分より詳しい人につい頼りがちなものだが、オカルトとなると尚の事で、女性が商品名を思い出せずにいる間にも、男性の中で女性がどんどん過大評価されていく。
「ああ!思い出したわ!(ゴキブリ退治には)バルサン!バルサンよ!」
「バルサン?(線香みたいな感じで効くんだろうか…もうサヨコが言ってるからそうなんだろう)」
幽霊に対してお香を焚くのはさほど不自然では無い。それに、今の男性にとっては最早、女性の発言が全てであった。
「でもバルサンだと匂いが残りそうね…ホウ酸団子とかにしようかしら」
「(幽霊が)食べるのか!?」
「当たり前じゃない。(ゴキブリは)何だって食べるでしょ」
「お、おう…」
次から次へと明かされる新事実。これまでの男性の中での幽霊像は完全に崩壊し、何でも食べる巨大な鬼の集団と言うイメージの、新たな幽霊像が打ち立てられるに至った。
「じゃああなた、ホウ酸団子買って来て」
「…分かった」
男性は部屋に戻って財布だけを持つと、ホウ酸団子だな、と女性に再度確認を取った上で家を出て、近所のドラッグストアへと向かった。女性はリビングへ一時避難し、テレビのワイドショーを見て男性が帰って来るまでの時間を潰す。
ガチャ…
「あ、帰ってきた」
しばらく経った後、玄関のドアを開く音が男性の帰りを告げた。女性はこれでもうゴキブリの恐怖に悩まされずに済むと、早くも勝ち誇った感じの顔で出迎えに行く。
「お母さんただいまー」
「あら…カオリ?今日はお友達と出掛けてるんじゃなかったの?」
しかし、帰って来たのは男性ではなく少女であった。男性はまだの様だ。もしかしたら彼は、何かの間違いを犯して時間を食っているのかも知れない。
「1人が体調崩して、今日はもういいやって。解散になった」
「あらそうなの。早く元気になると良いわね」
「本人はいつもの事だからって言ってたけどねー」
少女は少々お疲れの様子で、玄関に座り込んで女性と会話を交わす。
「あそうそう。カオリ、今日ね、出たのよ(ゴキブリが)」
「…出た?(何が出たんだろ)」
「そうなのよ(ゴキブリが出たのよ)。大きいのがねー。お母さんもうビックリしちゃって。カオリも気を付けなさいよ(どこから出て来るかわからないから)」
「大きいの?(お母さん最近便秘気味だーって言ってたし、お通じが有ったのかな?)わたしは平気だよ(便秘してないよ)」
「ええ?カオリ(ゴキブリが)平気なの?お父さんも(退治するのを)嫌がってたのに
」
「うん平気(お父さんも便秘なんだ。遺伝してるかも知れないからわたしも気を付けとこっかな)
普段から自分は便秘がちだと公言している女性が、女性に共通する話題として大きいのが出たと言っていたら、そう思うのも無理は無いのだが、この家族はまたしても厄介な入れ違いを起こしてしまった。遺伝したのは便秘では無く、言葉足らずのおっちょこちょいな所だった様だ。
「はあ。(ゴキブリなんて)出てこなきゃ良いのに、何で(わざわざ人間の目の前に)出て来るのかしらねー」
「いやいやお母さん。(便秘を嫌がる)気持ちは分かるけどさ、(便が)出て来るのは仕方無いよ。(人間だって)生物なんだから」
「悟ったみたいに言わないでよカオリー。なんで貴女は(ゴキブリが)平気なのよ」
「わたしが平気って言うよりさ、(便秘の原因は)お母さんの運動不足とかじゃない?」
「運動不足ねえー。(確かにゴキブリを叩く時には動けた方が有利そうだけど。カオリはいざとなったら潰せるから平気って事?)お母さんカオリが羨ましいわー(肝が座ってて)」
男性と女性の会話では女性が入れ違いによって過大評価されていたが、今度は女性のなかで少女の評価が上がって行く流れだ。実際に少女がゴキブリをどう思っているかについては、想像に容易いのだが。場所を玄関からリビングに移して、入れ違いの会話は続く。
「ねえカオリ。貴女本当に(ゴキブリが)平気なの?」
「平気だって(今朝も出たし)。お母さん、わたしより自分の(お通じの)心配しなよ」
「そ…そう?なら良いけど(凄いわねカオリ。次にゴキブリが出たらお父さんじゃなくてカオリにお願いしようかしら)」
「お母さん、(わたしにもこれだけ言うなんてさ)そんなに(便秘が)怖いの?」
「そりゃあ(ゴキブリは)怖いわよ。見たくもないわ」
「(便を)見たい人なんていないと思うけど…そこまで言う?(便秘でお腹が張ってるのを見たくないって事かな…)」
「(あ、流石のカオリも全く平気って訳じゃ無いのね。やっぱりゴキブリなんて)もう二度と出て来なきゃ良いのよ」
「だからさー。(便秘が)辛いのは分かるけど現実逃避は良く無いって。(便が)全く出て来ないと最悪死んじゃうよ?」
「(ゴキブリが死んだって)別に良いじゃない。むしろ(ゴキブリなんて)死んじゃえば良いのよ」
「ちょ…(死にたくなる程悩んでたなんて知らなかった)お母さん、落ち着いて?」
女性が死と言うワードを出し、少女がそれを間違った形で受け取ってしまったせいで、少女は気を使って話さなければならなくなった。
「何よカオリ。私は落ち着いてるけど?(まさかゴキブリが可哀想なんて言わないわよね)」
「(十分落ち着いた上で死ねば良いだなんて)余計不味いって。出来る事からやろうよ(運動とか)」
「それは分かってるんだけど…」
ガチャ
ここで、女性からお使いを頼まれた男性がようやく帰宅を果たす。
「サヨコ、帰ったぞー」
「お帰りー。お父さん出掛けてたんだ」
「お帰りなさい。遅かったじゃない」
「慣れない買い物だから中々見つからなくってな。もっと早く店員に聞いたら良かったよ」
一見すると何気無い家族のやり取りなのだが、その実は三人全員が凄まじい認識の入れ違いを起こしている。その事に三人はまだ誰も気付いていない。
「あなた、間違ったりして無いでしょうね?」
「お父さん何買って来たの?」
「ちょっとお母さんから頼まれてな。サヨコ、(除霊と言ったら)これだよな?」
男性は手にしたレジ袋の中から、女性の希望の品であるホウ酸団子を取り出した。
「そう、これよこれ。もう(ゴキブリに)悩まされずに済むわー」
直前に冷静に死をほのめかせていた女性が、紛れも無い毒物であるホウ酸団子のお使いをよりによって夫に依頼し、それを夫である男性が受諾して何食わぬ顔で手渡しし、更に女性は嬉しそうに物を受け取っている。余りにも常軌を逸脱した光景に、少女は飲んでいたお茶を吹き出してしまった。
「ど、どうした?カオリ」
「お茶でむせちゃったの?」
「私の心配してる場合じゃ無いでしょ!(自殺の手伝いするなんて)お父さん何してんの!?」
「え?いや、お父さんはだな、ただサヨコの言う通りに…(幽霊の事なんて全然分からないし)」
「ちょっとは人の気持ちも考えなよ…(普通妻が死にたがってたら気付くでしょ)」
「ああ、すまん…(何で俺は叱られてるんだろうか…しかも娘に)」
少女の剣幕に押され、つい謝罪の言葉を口にしてしまった男性だが、自分の何が少女を激昂させたのかがどうしても理解できず、人差し指でこめかみを掻いている。
「どうしたの?カオリ。お父さんにはお使いを頼んだだけなんだけど(動物愛護かなんかで、ゴキブリを殺すのが嫌なのかしら?)」
「お母さん?(死にたい程便秘が辛いのは分かったけど)早まった事だけはしないでよね。大切な命なんだから」
「(あ、合ってたみたい)うーん、そうは言っても(害虫だし)ねえ…」
「…大切な命?(幽霊ってもう死んでるんじゃないのか?)」
女性と少女のやり取りが続く中、男性は最早蚊帳の外。彼が不意に漏らした小声は、二人の耳には届かなかった。物理が効いたり何でも食べたり、挙句の果てには命が有ったりと、幽霊とは一体。
「カオリ。貴女の(動物愛護の)気持ちも大切にしたいけど、私は(ゴキブリと一緒に暮らすなんて)耐えられないわ」
「そんな事言わないでよお母さん。(ヨーグルトとか)もっと色々試してみようよ」
「なあ、結局これは要らないのか?」
「(無神経な)お父さんは黙ってて」
ほんの些細な、しかし深刻な入れ違いのせいで、男性は娘から非情な冷血人間のレッテルを貼られてしまった。妻からも女以上にゴキブリに怯える小心者扱いされている辺り、この入れ違いの中で一番の被害者と言える。
「カオリ?やっぱり…きゃあー!」
「どうしたのお母さん?」
「ま、また(ゴキブリが)出た…」
「出たか(幽霊)!」
「ええ!?今(便が)出たの!?」
実際出たのはゴキブリなのだが、男性は幽霊が出たものと信じ込み、その上幽霊にはスリッパ等による物理攻撃が効くとまで信じてしまっており、何か武器になる物を探してその場を離れた。便秘の話をしていたと勘違いしている少女は、また出たとの女性の発言を受けて、この場で脱糞してしまったのだと思い込んでいる。
「カオリ、(動物愛護なんて)もう良いでしょ?ホウ酸団子使いましょうよ…」
「駄目だって!て言うか(便が)出たの?今?」
「出たわよ。(ゴキブリの種類なんて知らないけど、とにかく)大きいのが」
母親のまさかの失態が堪えたらしく、少女は右手で頭を抱えてうつむいている。酷い便秘かと思えば突然漏らしてしまったり、これはただの便秘では無く何かの病気なんじゃないかと、少女は真剣に考え始めた。
「お母さん、(便秘とか下痢?とか)何かの病気なんじゃない?」
「病気?(ゴキブリが)本当に出たのよ。(ゴキブリをかばう)貴女こそ変じゃない」
「何でわたしが?(わたしは便秘してないって何度も言ってるじゃん)」
「カオリー。ホウ酸団子がそんなに嫌なら貴女が(ゴキブリを)殺してよ。私(動物愛護に)付き合ってられないわよ…」
「お母さん!(娘に殺してだなんて)冗談言わないで!」
ただゴキブリを何とかしたいだけの女性、便秘を苦に介錯を求める母親をなだめる少女、未だ戻らない男性。
「わたしも(お母さんの便秘が治るように)出来る限りの事はするから!とりあえずトイレ行こ?」
「(トイレに避難?)良いけど、後は任せたわよ?」
「うん」
女性は、自身がトイレに避難している間にゴキブリに耐性がある少女が解決してくれるとの認識。スマホで便秘について検索する少女の元に、ようやく男性が戻って来た。彼の手には丸めた雑誌が握られている。やはりと言うべきか癖になってしまったのか、スリッパの時と同じく侍の様な構え。
「カオリ。お母さんはどうした?」
「(出たよ冷血人間)トイレ。何その格好」
「(何でそんなに冷たいんだ?)いや、(幽霊は)叩いたら効くってお母さんがな」
「え?叩いたら(便秘に)効く?お母さんが言ってたの?」
「ああ。でも肝心のサヨコが居ないんじゃあ意味が無いな(俺には幽霊は見えないし)」
便秘には丸めた雑誌なんかで叩くと効く、出やすくなる。そんな情報、少女は聞いた事も見た事も無かったが、母親本人が言ったならそうなのかも知れないと、試しに検索にかけてみると、マッサージ等のそれっぽい情報がいくつかヒットした。
「うーん、でも(薄情者の)お父さんには任せられないなー。それ貸して。わたしがやるから」
「カオリが(幽霊と戦うの)か?」
「うん」
男性は少女に雑誌を渡しながら、幽霊と肉弾戦に臨むというのに全く恐れが無い辺り、こいつもサヨコの血を引いているんだなと、娘の中に妻を見ていた。
「そう言えばカオリ、こういう(オカルトな)のが趣味だって言ってたよな。お父さんは(幽霊が)怖いから任せるよ」
「そんな(叩くのが好きなSですみたいな)事言ってない!馬鹿じゃないの!?」
「え!?すまん…(何も怒らなくても…趣味が変わったのか?)」
「お父さん無神経過ぎ。何考えてんの?」
「そこまで言うか…」
妻に霊感の有無で大きな差を付けられたかと思えば、娘からは理不尽に散々な扱いを受け、面目丸潰れとなった男性。少女は相変わらず、スマホで便秘を改善する手段を探している。
「…お父さん、便秘ってそんなに辛いの?」
「ん?便秘?」
「お父さんも便秘なんでしょ?」
「いや、お父さんは便秘なんてしてないぞ。何だ急に」
少女は両親共に、特に母親は死すら考える程の酷い便秘で苦しんでいているものと思い込んでいたが、少女が主語を解禁したのを切っ掛けにして、絡まった思い込みの糸がほつれ始めた。リビングの空気が一変する。
「…あれ?」
「どうしたカオリ」
「いや、あの…お父さんは便秘してないんだ。そっか。良かったー」
「うん?」
脳内で認識されたエラーの処理に追われ、会話を上手く続けられずにいる少女。そこへ、トイレに避難していた筈の女性が笑顔で現れた。
「どうしたサヨコ。ご機嫌だな」
「トイレに籠ってたらなんか催しちゃって。そしたら久々に沢山(便が)出てね。あー、スッキリしたわー」
「おお、そうか。良かったな」
「あれ?お母さん、また(便が)出たの?」
「また?またって?」
「いや、今日は一度(便が)出たって言ってたじゃん」
「今日はさっきのが一回目だけど…こんな事言わせないでよ」
「あ…ごめんね」
「それよりカオリ、ゴキブリはもうやっつけたの?結構経ったと思うけど」
女性が便秘気味だったのは真実であったらしい。それが解消されて気が大きくなったのか、女性はとうとうゴキブリの四文字を口にするに至った。女性が最初からこれを明言していれば、もっとスムーズに事が運んでいたのだが。
「え!?ゴキブリ!?」
「どうしたのカオリ。(ゴキブリ退治は)任せてって言ってたじゃないの」
「えっと…お母さん?あれはね、お母さんが便秘で死ぬ程悩んでるって勘違いしてて」
「え?勘違い?便秘してたのは合ってるけど」
「うん。で、任せてってのは便秘についてだからね。わたしもゴキブリは無理だから」
「ちょっと待ってくれ」
女性と少女によるカミングアウトの最中に、男性が割って入った。彼は何と幽霊騒ぎの勘違いをしていたのだが、ゴキブリの話題になってようやく、何かが変だと気付き始めた様だ。
「どしたのお父さん」
「サヨコ。俺はてっきりお前が幽霊を見たものだとばかり思っていたんだが…」
「幽霊?あなた、何言ってるの?」
「俺が最初に駆け付けた時に、塩が撒き散らしてあっただろ?それにお前はやたら震えてたじゃないか」
「…プッ、ふふ、あはははは」
夫の過剰な反応や奇行の真意を知り、爆笑し出した女性。んだよーとでも言いたげで、露骨に落胆している男性。全く状況が掴めず両親の顔を交互に見る少女。
「あ、あはは、ひいひい」
「お母さん、何があったの?」
「な…何でゴキブリを叩くのにあんな格好してるのかって気になってたけどまさか…くふふふ」
「止めてくれサヨコ…」
女性は夫の失態を娘に話そうとするが、込み上げる笑いがそれを阻む。男性の方は意気消沈を通り過ぎて虫の息である。
「ねえ、まだ良く分かんないんだけど…もしかしてお母さんが死にたがってるみたいなのもわたしの勘違いだったって事?」
「そうそう。もう全部勘違いよ全部。あーお腹痛い…」
「全部って…じゃああのホウ酸団子は?」
「ああごめん。ゴキブリが出たのだけ本当よ。だからお父さんに買ってきて貰ったの。自殺とかしないから安心してね」
「そっか。良かった。でも…ゴキブリは出たんだ」
「ええ。でその時お父さんに退治してって頼んだんだけどね…ふふ」
「その話はもう止めてくれ。サヨコ、本当にゴキブリだったんだな?」
「当たり前よ。幽霊何て出る訳無いじゃない」
「いい加減にしてくれ。はっきり言わなかったお前のせいでもあるだろう」
「ごめんごめん。私だってカオリが動物愛護に目覚めて虫も殺せないのかと思ってたのよ。こんな事って有るのね」
「何それ?わたし虫とか全部無理だよ?」
「とりあえず、ホウ酸団子仕掛けとくぞ」
「お願いしまーす」
「ごめんなさいあなた。でも本当に可笑しくって」
「…サヨコ、もういい」
僅かながら一家の大黒柱としてのプライドを取り戻した男性は、家のあちこちに黙々とホウ酸団子を仕掛けて行く。女性は思い出し笑いを堪えながら、何時もより遅れて夕食の準備に取り掛かった。
「あ、そうだ。お塩全部こぼしちゃって無いんだった…醤油で何とかしよ」
少女はおおよそ全てが勘違いだったと知って安堵し、冷蔵庫のドアを開けて中を物色する。1日1個のプリンを食べる事が彼女の日課だった。
「あれー?」
「どうしたのカオリ」
「プリン無いんだけど。お母さん食べた?」
「私じゃ無いわよ。お父さんじゃない?」
「サヨコ。腹減ったんだが、何かつまめる物有るか?」
噂をすれば何とやらだろうか、有る筈のプリンの行方を探る二人の元に、丁度良いタイミングで男性が現れた。
「あ、あなた。カオリのプリンが無いらしいんだけど知らない?」
「プリン?俺は甘い物は食べないぞ。サヨコじゃないのか?」
「私じゃないって。ダイエット中よ?」
「じゃあ買い忘れじゃないか?」
「えー?今朝は確かに入ってたんだけど…」
三人の間に不穏な空気が流れる。鍋の煮立つ音が鮮明に聞こえた。
「…お供え物って甘い物が主流だよね」
「止めろよカオリ」
「冗談だって。無いなら買ってくる」
「カオリ…お塩、ついでに頼んで良い?」
「サヨコ…」
「でも、幽霊何て…ね?」