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おまけ:グッドルーザー神楽坂 ~Both of you Dance Like You Want to Win!~



「前回の我々は愚かであったな」


 フォスイット王子は神楽坂に語りかける。


「はい、まさか機密文書に躊躇なく手を付けてくるとは」


「うん、無条件閲覧は許可されているけど、別にノーリスクってわけじゃないんだけどさ、凄いよね、女の勘って」


「うん、流石に懲りたよ。っという訳でだ、今日来てもらったのは、お前に受け取って欲しいものがあるんだよ」


「え?」


 と王子は執務室の机に紙袋を置く。


 王子のこの雰囲気、そして中に入っているものが「書物」であると察することができた時、それが何なのか分かった。


「王子、これ、まさか」


「ああ、エロ本だ、これを貰って欲しい」


 王子の言葉のままに、紙袋から数冊取り出してパラパラとめくる、だけどこれは。


「王子、これ、大事にしている奴ですよね?」


「まあ、な」


 俺の言葉に王子は寂しそうに頷く。


 たかがエロ本と侮るなかれ、男には思い出のエロ本というものが存在するのだ。


 それぞれに好みは分かれるし、何より相性がある。これは同じ男でも理解できない領域、だからこそ大事にするのだ。


「王子、どうして手放すんです? 今までも、そしてこれからも、ずっとお世話になるものではないのですか」


「何を言っているんだ、俺にはエンシラがいる、このようなものを持っていては、彼女に失礼だろう?」


「王子……」


(絶対これ後で返してっていうパターンだよな)


 まあそれは言うまい、となれば隠し場所が問題だよなぁ、クォナの家に世話になっているけど、まあでもあれだけ広い部屋だから隠し場所には困らないか。


 と考えていると王子がこちらをじっと見ている


「…………王子?」


「これはあくまでも「ついで」だ、神楽坂よ」


 王子の目を見て理解する、まさか。



「そのとおりだ! 男の浪漫の定番! 女子風呂覗きだ!!」



 女子風呂覗き。


 日本のヲタク文化の男性向け作品においては伝統芸能と言っていいほどの定番ネタである。それは綿密な計画を立て、風呂覗きを決行し、目的を完遂する。


 王子の堂々とした発言に、神楽坂は即座に跪く。


「王子、今回の風呂覗き、了解しました、ならば問います。ターゲットは誰なのですか?」


 風呂覗きは当然リスクを背負う行為、故に風呂覗きとは覗くことが目的ではなく。



 誰が入っているのかが大事っ!



 自分の問いかけを受け、王子は答える。


「今回の風呂覗きで俺達の狙う獲物は……」



「全部だ」



「っ!?」


「王国府に勤める全女性職員の全裸、まるごと覗きまくる」


「本気ですか王子! 覗きがばれたら城の中の女、全部敵に回すことになるんだぜ!! 王子!!」


「怖いのか?」


「嬉しいんだよ…!! 命じてくれ王子、今すぐ!!」



「俺が許す、覗け」



「おお!!」



 邪魔する奴は残らずな!!



:フォスイット王子(次期国王)女子風呂の心構え講座:


「さて、神楽坂よ、女子風呂は男の浪漫なのは言うまでもない、だが決して浪漫ばかりではないというのは分かるな」


「はい、女性とて人間、女子風呂となれば女同士の空間、そこから繰り広げられる光景は言葉を選ばなければ下品である、ということ、過度は夢は見てはならないという事ですね」


「うむ、それが分かっているのならいいが、それでもトラウマとは決して無縁ではない」


「トラウマ?」


「そうだ、あれはまだ俺が王国府学院(日本でいうと学習院みたいなところ)の学院生であって、その女同士の下品な光景にショックを受けた、そんな純情可憐な少年だったころの話だ」


 あれは、いつものとおり、男の浪漫の実現のための使命ふろのぞきを帯びて実行している時だった。


「ある時な、ある女の後姿を見て、その抜群なスタイルに仰天したんだ、こんな女がいたのか、これはうひょひょーってなって、これはぜひ顔も確認したいと、目を皿のようにして裸を見て、その女が振り返ったんだ、そしたら……」



「アレアだった、死にたくなった」



「1週間ぐらいだったか塞ぎこんだ、俺は何をしているんだって、今この時間にも、色々なことで苦労し、戦い、必死に努力をしている人がいるのに、次期国王の俺は何をしているんだって、俺は本当に次期国王の器があるのか、制度に助けられているだけではないか、ならばそれを覆すだけのことが出来るのか、そんなことを考えた」


 目頭を揉む王子。


 なるほど、あれか、賢者タイムに突入した後に、ビデオモードから地上波に変えた時に高校野球とかやってると軽く自己嫌悪に陥るやつか。


 しかもこの状況は普段喪女とか言っている分、敗北感が半端ない。


「まあでも、神楽坂なら大丈夫だろう、さて、と、だ」


 ニマニマと笑う王子。


「むふふ、王子」


 俺も同じようにニマニマと笑う。


「いやあ、ドキドキワクワクですなぁ」


「うん、勤務時間だと今が一番いい時間なんだ、今日の当直班は美人揃いでな!」


「おおう、素晴らしいじゃないですか!」


「フッ、トラウマは抱えるものではなく、克服するものだよ」


「かっこいい!!」


「むふふ、いいか、山分けだからな?」


「ふひひ、もちろんですよ、1人占めなんてしません」


とお互いにニマニマしながら歩いている時だった。



「うわっ! なにあれ気持ちわるぅ~!」

「絶対変なこと考えたよ! ってあれ王子じゃない?」

「ああ、フォスイット王子だよ」

「うわぁ、っていうか、なんで王子なのにイケメンじゃないんだよ」

「隣にいる男もパッとしないよね、冴えないって感じ~」

「そりゃ「お仲間」だからさ、現実は厳しいよね~」



と言いながら足早に立ち去って行った。


「…………」


「…………」


「神楽坂よ」


「はっ」


「今度アイツらのシフトを調べ上げる、その時は付き合え「ドシュメシア」よ」


「仰せのままに」


 と既に誰もいない空間にメンチ切りながら向かうのであった。



 王子が案内してくれた風呂覗き場所は、王子が城の中に設けてある秘密基地のすぐ隣にある場所だった。


 その部屋は奇妙そのものだった。広さからして4畳ぐらいの真っ暗な部屋に、丁度目の大きさ位の二つの穴しか存在しない、城の造りからすると不自然な部屋。


「王子、この部屋って」


「そもそもこの城はな、やっと秩序が安定した時に、当時の第9代国王が国家プロジェクトとして周囲に自分の威信を示すために造られたものだ。だが当時の国交もまだまだ殺伐としててな、覗き穴から相手の動向を探る、こんな剥き出しの幼稚な仕掛けも必要な時代だったそうで、ここがその名残なんだよ」


 実際にこんな大掛かりなスパイ映画に出てくる仕掛けは実は何の意味もなさない。そもそも殺伐とした関係であるのなら相手は当然そんなことは想定してくる。

 だけどもこの幼稚なハッタリが必要である程に関係が構築できない時代であったという事だ。


 なるほどな、そういった歴史を感じさせるものがあるのは浪漫だ、だけど。


「王子」


「なんだ?」



「その覗き穴がなんで女子風呂に繋がっているんですか?」



「…………」


「…………」


「そこはー、ほら、改築する時にさ、こういう馬鹿なことを考える男がいて、その馬鹿なことを実行する馬鹿も絶対にいるんだよね、だからこれはこうやってさ、遠い昔から遠い未来まで繋ぐものなのだよ」


「その締まらない感じが最高ですね」


「うん、案外そういうところあるよね、我が国、ってことで~」


 お互いに頷く。


(さあ! いよいよだ! いよいよだ!)


「いいか、小声で話せよ、防音設備は無いからな」


「了解!」←小声


 そして二つ空いた穴、俺が右目、王子が左目に食らいつくように顔を押し付けている、その光景は、多分客観視したら首を吊りたくなるだろうが、それも浪漫だ。


 そして、湯煙舞う桃源郷に……。



 誰も入っていなかった。



「あれ? 確かこの時間なら誰か入っている筈なんだがな」


「なにかあったんですかね?」


「おそらく仕事の方で何かトラブったんだろう、たまにあるんだ、そういうこと」


「へー、ふふん、でも誰も入っていない女子風呂でも興奮できますぞ!」


「うんうん! 男の妄想力って凄いよね!」


 と相槌をうった時だった。


 ひたひたと足音が聞こえてきたのだ。


「「キタッッ!!!!」」


 ワクテカとしてその人物が誰であろうか確かめようと、目を皿のようにして食い入るように見る。


 そこから現れた女性。


 まるでそれは一流の芸術品を思わせるような肢体を持ち、その振る舞いは全ての男を魅了、そう、時代が違えば傾国の美女にもなるであろうと評される人物。



 クォナ・シレーゼ・ディオユシル・ロロス



 彼女が一糸まとわぬ姿で現れた。



(…………)


 先ほどまでの熱は一瞬で消え失せ、急速に何かが冷えていく。


(な、なんだ、なんで、苦しい感じが、あ、そうだ、息、止めてた)


 息を止めていたことを忘れるなんて、そんなことがあるのか、いやそれは無理もないことだ、吐き出す息すら慎重にしないといけない、何故なら。



――殺される。



 いや、いやいやいやいや、待て待て、なんだよ殺されるって、そりゃ覗きは犯罪ですよ、うんうん、でもね、まあこれは男の勝手な言い方なんだけど、殺されるほどの罪じゃないとは思うんですね、ハイ。


 しかもこういった、ほら、伝統芸能たる風呂覗きイベントってのは結局ヒロインにバレて、そのヒロイン達から「ぶちころすぞわれ」「頓死しろクズ」という姉弟子的突っ込みを受けてチャンチャン。んで「もう風呂覗きはこりごりだ~」的なフェードアウトで終わり的な、ものですね、ハイ。


 あ、そうそう、姉弟子と言えば奨励会三段への昇段がかかった大事な一戦で勝負には勝ったけど、相手の「男子小学生」に将棋の内容で蹂躙された様子を見てちょっとハアハアした、まあそれはどうでもいい。


「なあ神楽坂、辞めるか? クォナは恋人なんだよな、恋人の裸を他の男に見られるのは嫌だもの」


「視線を外さないでください王子!! 命にかかわります!!」


「えー!! そこまで!?」


 ああ、そうだ、分かった、これキャッキャウフフの風呂覗きイベントじゃない、幻影旅団のマチとノブナカを尾行しているゴンとキルアだこれ。


「はっ! 幻影旅団! ぬかった!! 王子!! 気を付けるべきは二重尾行ですよ!!!」


「に、にじゅうびこう?」


「ゴンとキルアはそれに気付かずに旅団にはめられて捕まったんですよ!!」


「おお、落ち着け、クォナを尾行なんてしていないし、そもそもゴンとキルアって誰なんだよ? 旅団ってなに?」


「ちょっと確認してきます!!」


 と大急ぎで秘密基地からこっそりと外の様子をうかがう。


「…………」


 誰もいない、もともと人が通らない場所だからな、人の気配もない。


 ふうと、少しだけ安心すると王子の元に戻る。


「よかった、どうやら二重尾行は考えすぎだったようです、よかったですね、王子」


「あ、ああ、よ、よかったよ、うん、あの、もう少し落ち着こうな」


「そうです、そのとおりです、落ち着きましょう王子」


 落ち着け、そうだ、落ち着け、落ち着いて考えろ、クールになれ神楽坂イザナミ、keep on our love!


 さっき見た光景、クォナは現れた後、品よく湯あみをしている。


 それは王子が言った女同士の下品な感じではなく、深窓の令嬢としての振る舞いを崩していなかった。


 女だけの世界、王子に言われるまでもなくアイカも前に「男は夢見すぎ、女同士はもっと下品だよ」なんて言っていた。


 故に不自然な振る舞いに見える。


 だがセレナが以前こんなことも言っていた。「クォナは同性の嫉妬を買っている」と、女の敵は女とか怖いことも言っていた。

 だからクォナは同性同士に一番油断しないとか、もし、女同士の場だからと下品なことをしたら女から男に伝わるだろう。


 ってああ、女子風呂覗きなんてしているのに、こんなこと考えているんだ、ちっとも楽しくない、もっと楽しいことを考えようじゃないか。


 そうだ、今俺は男の浪漫なんだ、延々脈々と受け継がれる風呂覗きイベント、コテコテすぎて使い古されたシチュエーション、そしてこれからも使われ続けるシチュエーション、そう、男は永遠の中二病なのだから。


 よし、楽しくなってきたぞ、あの穴はバレない様に作ってあるのが当然、なにしろ幼稚とはいえ、政治の道具に使われていたぐらいだからな。


「王子、失礼しました、さあ、浪漫を楽しみましょう、大人の階段をのぼりましょう」


「あ、ああ、落ち着いたのなら何より」


 とここで再び覗き穴に顔をつけて女子風呂の光景を見た時。



――クォナがこちらを見つめていて、彼女と目が合った。



「ひぃぃ!!」


「神楽坂!? どうした!?」


「王子! バレてます! 逃げましょう!」


「は?」


「お願いです、俺はまだ死にたくない!!」


「わ、わかった、そうだな、いくらでも機会があるし、えっと、その、神楽坂、言うまでもないがこういったイベントはバレても、自分1人で罪を」


「盟約に誓って(アッシェンテ)!!」



「はあ! はあ! はあ!」


 そこからどうやって帰ったのはよく覚えていない。


 気が付いたら、クォナにあてがわれた俺の部屋に戻っていた。パニック状態でおぼろに覚えているのは、あの場から一刻も早く逃げだすためひたすら走ったことだ。だから尋常じゃないぐらい息が切れている。


 とはいえ逃げ場所は俺にあてがわれている部屋しかなかった、もう夜だから逃げ場所は他にないのだ、今考えれば王子に匿ってもらえばよかったかも、そんな少しの後悔が押し寄せる。



 だけど今、落ち着いたこの時に至っては、少し敏感になりすぎていたと思う。



 クォナだって、色々付き合いがあるだろうし、仕事だってある、城の風呂に入るなんて不自然でも何でもない、各国の有力者と会うこともあるから、城に詰めることもあるだろう。


 しかも仮にあの時のクォナが本当に穴を見つけて、それを不自然に思い、覗き穴かもという考えを持った視線だとしても、覗いているのが俺という結論に至ることはできない。


 だから今は大丈夫、でも不自然に思われたかもしれないから、ほとぼりが冷めるまで控えるように王子に助言をしておかないとな。


 その時に、コンコンというノックが木霊して。



「ご主人様、戻っていらしているのですか?」



 クォナの声がした。


「…………」


 ひょっとしたら扉を開けた瞬間に……。


「っ!」


 クォナのナイフを振りかぶった光景を思い出して首を振る。


 だがここで応対しないのは下策、もし不自然に思っていて、その直後に俺の行動が不自然ならば、下手をすると関連性に感づかれるかもしれない。王子と一緒にいたことを知ればなおさらだ。


 だからこそ、扉を開ける、勇気をもって!


 俺は扉を開けて、その先に。


「やっぱり戻っていらしたんですね、一言言ってくださればよかったのに」


と笑顔のクォナが立っていた。いつもいい香りがするけど、今はふわっとした別の石鹸の香りがする、風呂に入っていたのは知っているからその香りだろう。


「ああ、ごめんな、というか忙しそうにしていたからな、遠慮していたんだよ」


 よし、自分でも声が掠れず早口にならず、ちゃんといえたぞ!


「まあ! 流石ご主人様! なんてお優しい! まあ忙しいのはそうだったのですが、今日不在だったのは訳がありますの!」


「わ、わけ? 孤児院運営のやつとか?」


 とここでクォナは違いますわと首を振るとモジモジとする。


「そ、その、あの」


 すうと息を吸うと告げる。


「て、手料理を作りましたの!」


「…………て、てりょうり?」


「は、はい、城の仲のいいコックがいて、あ、もちろん女性ですわ! えっと、その彼女に、りょ、料理を教わっていたのです、厨房って熱いのですね、あ、汗をたくさんかいてしまいましたわ!」


「あ、ああ、だから、石鹸の香りが」


「も、もう! そういう事は言わないでくださいまし! 女は気にするのです! それを指摘するのはデリカシーに欠けますわ!」


「ご、ごめん!」


「もう! まあ、そういうところも可愛いんですけども!」


 クォナの言葉で全身から力が抜けるのを感じる。


 ああ、そうだったのか、料理を教わって、汗をかいてしまった、んで俺と会うのに汗の匂いを気にして、だから風呂に入った、それがあの時だったんだ。


「で、ですから、その、きょ、今日は実は偶然にもセレナ達は用事があって誰もいないのです、だから、作る人がいなくて、その、折角だからと……」


「クォナ……」


 そんないじらしい申し出、そんなの決まっている。


「ありがとう! 喜んで食べるよ!」


 女子の手料理! これもまた男の浪漫だ!



「フンフンフフーン♪」


 鼻歌を歌いながら脱衣所で服を脱ぐ。


 クォナの料理はとっても美味かった、お世辞抜きに美味しかった。手料理というだけでこんなに嬉しいのだから俺もチョロいよなと思う。


 クォナとも話が弾んで、今後のこととか、ウルティミスのこととかいろいろたくさん話して本当に楽しかった。


 上機嫌なまま、風呂の準備が出来ていると告げられて、今ここにいるのだ、そしてポイポーイと服を脱ぐとスッポンポンになって風呂場に入る。


 目の前に広がる光景、吹き抜けになっている天井から見える夜空、さらさらと流れる風呂の湯の音、全てが風流だ、風光ではないが、明媚である。


 この風呂場はとても広く、浅いところは座れるほどに、深いところはちょうど自分の上腹部のあたりまでの深さがある。


 つまり立ち湯が出来るのだ。


 俺はかけ湯だけとっととすませて、ちょっとマナーが悪いなと思いながらも、直に湯船に入り、一番深いところで少し体を倒して、耳が水面に浸かるぐらいに少し浮いた形で入るのが大好きなのだ。


 耳からはお湯の流れるせせらぎが聞こえてきて、それだけで幸せだ。


 そんな幸せに浸っている時だった。


「ん? 目、いたっ!」


 目に汗が流れ込んでしまい、目に染みてしまう。


 でもなんか今日の汗はやたら染みるなと思いながら、風呂桶の中で立つと右目を手で拭うと。


「な、なんだこりゃあ!」


 思わず声が出てしまった。


 何故なら丁度拭った左の手の甲の部分が。



 真っ黒になっていたのだ。



「って、これ、インク?」


 間違いない、インクだ、と思ったのと同時に、水面に自分の顔が写る。


「…………え?」


 最初は見間違いだと思った、まだ水面が揺れているから。


 だから水面が揺れるのを治まってから、もう一度見てみると。



 自分の右目の周りに円形のインクの跡があったのだ。



 円形のインクの跡、少し溶けた、太さが一センチぐらいの円形のインク、それが右目の周りに間違いなくついている、水面で分かるぐらいだから、相当に目立つ形でついている。


 なんだこれ、こんな円形のインク、当然自分でつけた記憶はない。


 なら、このインクって、いつ付いたんだ。


 考えろ、もしこのインクが王子と出会った時に既に付いていたら王子は指摘するだろう。「なんだそれ?」って。


 そして途中、王国府の女性職員達とすれ違った時、彼女たちも言わなかった。


 あの女達なら言うよな。「なにあのインク? 悪戯でもされたんじゃない~?」とか「いじめられているんじゃない~?」とか。


 つまりあの時点まで、このインクが付いていなかったってことになる。


 そしてその後、右目の周りに円形のインクが付く「行動」をした、ということになる。


 行動、考えるまでもない、風呂覗きをするために壁に顔を押し付けた時だ。


 あの部屋は暗く、お互いの顔すらもかろうじてしか認識できない空間、仮にインクが円形についたとしても、あの部屋の中にいる限りは指摘なんてできない。


 ここで問題となるのは、誰がこのインクを付けたのか、という事だ。


「ひっ、ひっ、ひっ」


 断続的に呼吸が荒く続く、思考を拒否したい、だが思考が止まらない、止めることができない。


 拒否の感情の強さに反比例するかのように思考が加速する。


「こ、このインクを付けた、犯人、えっと、そう、そうだ、フォスイット王子だ!」


 王子のイタズラ、風呂覗きをした後、目の周りにインクが付いていた俺を見て、ケラケラ笑う。うんうん、男ってそういう子供っぽい悪戯をするよね、いくつになってもね。


――違う


 でも俺が怯えちゃったから、そんなことできなくて、インクのことも言い忘れた、だから今頃「あちゃー」とか思っているに違いない。


――違う


 全くもう、王子は本当に子どもだよな、まあそこが気が合うところだし、好きなところでもあるんだけどね!


「は、はは、まったく、王子は、こ、今度は、俺が悪戯を、仕返してやろっと、うん」




――ならどうして、あの人は何も言わなかった?




「ひいいぃ!!」


 自分の思考に背筋が凍る。


「違う! 気を使ったんだよ! 彼女が何も言わなかったのは! 俺が悪戯の被害にでもあったのかと思って! 指摘すると俺のプライドが傷つくかもしれないと思って! だからそれは!」



「彼女の!! 気遣いなんだよおおおおぉぉぉぉ!!!!」



 それは恐怖を紛らわせるための、絶叫だった、これから来るであろう絶望への、逃避行動であった。


 だがそれが無駄であることは彼も分かっていた。


 繰り返す。


 女子風呂覗きは、ヲタク文化の伝統芸能、男は綿密な計画を立てて、その浪漫を追い求めるために奔走する。


 そしてそのイベントの結末は、神楽坂自身が語ったことだ。


 だから今から始まるのは、その結末。



 ふと、神楽坂は気が付いた。



 自分の腰に何かが巻きついていることを。



 腰に視線を移すと、それはそれは綺麗な、白魚のような手、それが自分を抱えるように巻き付いていたのだ。



 神楽坂が振り返った先に広がるは水面に浮きあがり広がるは黒き綺麗な扇形。



 それは美しき黒き髪、その源で。



――彼女は嗤っていた



 グン! という凄い力と共に、一気に神楽坂は肩の部分までお湯に沈む。



「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!! 出来心で!! できごころだったんだよおおぉぉ!!!」



 グン! という凄い力と共に、一気に神楽坂は首の深く、口の部分までお湯に沈む。



「いやだ!! いやだああぁぁぁ!!! たすけてええぇぇ!!! お願いたすけてえええぇぇぇ!!!」



 グン! という凄い力と共に、一気に神楽坂は頭頂部までお湯に沈む。



「ガボボボガ!!! ガボボ!!! ガオボガボボ!!!」



 グン! という凄い力と共に、神楽坂が許された部分は肘から先の腕の部分だけになり。



 その両腕はバシャバシャと最期の抵抗で水面をかき分ける。



 そして数瞬の後……。



 水面は平穏を取り戻し、風呂場は湯の流れだけが時を刻む音だけになった。






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