8、炬燵の暖かい熱源を抜けると異世界であった Ⅲ
***
すがるように伸ばされた小さな手が見える。
夢の中で。
時々、現実で。
この手は守れなかった『誰か』のものなのだろうか……。
それを思い出せない自分は、薄情で冷徹だ。
そのことを思うと、体が動かなくなる。
(震えるな……震えるな……)
自らを叱責しても、震えは止まらない。
お前に震える資格なんてない。
怯える資格なんてない。
そう思うのに、体の震えが止まらない。
過去を救えなかったのなら、決してそれを未来に繰り返してはならないのに……。
(震えるなよっ……!)
頼むから……。
いよいよ駄目になりそうになった時、直ぐ側で声が聞こえた気がして、震える手に温かい何かが触れた。
***
「イルセイドさん!イルセイドさんっ!!」
身長差を埋めるために。ほとんどかじりつくみたいにして、精一杯背伸びをして耳元で叫んでも、イルセイドは全く反応を示さない。
ただ、時々緩慢に。虚ろな瞳で、流れ作業のように魔物を切り伏せている。
それは彼女がイルセイドに追い付き、ここにたどり着いた時にはすでに繰り返されていた作業だった。
彼の顔が向く先には青くゼリー状な魔物の塊が蠢いている。
それを視界に捉えて、彼女は「うへぇ……」と、声を上げた。
あの、密集し過ぎて、はっきり言ってキモく成り果てている物体が恐らく核とかいうやつなのだろう。
パラパラと思い出したようにこちらへ向かってくる魔物ではなく、イルセイドは本来ならあれを討たねばならないだろうはずなのに、彼は縫い付けられているかのように、その場から動く気配はなかった。
顔だけは反らすことなくそれのほうを向いている。
でも、見て、捉えてはいない。
それどころか……。
(手……震えてる……)
かろうじて剣を取り落としてはいないが、その手は小刻みに震えていた。
魔物が怖い……と言っても、これはちょっと異常だ。
自宅の炬燵で、ミカンを食べながら聞いていた時は、単なる愚痴という感じだったし、イルセイド自身も深刻な様子で話してはいなかったからここまでとは思っていなかった。
「これ、もう、トラウマレベルじゃないですか……」
彼女はそっとイルセイドの震えている手に、自分のそれを重ねた。
イルセイドの手のほうが明らかに大きいので、包み込んで安心感を与える……なんて事は出来ないけれど、それでも恐怖から気をそらせる何かに成れたらと思って、彼女はそうしながらイルセイドに呼びかけけた。
「イルセイドさん……あの、やりたくないことを無理やり頑張らなくていいんです……イルセイドさんはもうそんな風になるまで……凄く、物凄く頑張ってると思います」
そして、自分がここにいるよ……と、存在を主張するように、彼女は添えている手に少し力を込めた。
「でももしそれをやらなきゃ後悔するんだったら……頑張らなきゃイルセイドさんがダメになるっていうんだったら……頑張ってください」
イルセイドの顔が、ゆっくりと彼女のほうを向く。
その瞳の中で光が揺れて、そこに彼女の姿が映っていた。
「頑張……る……?」
「そうです。判断は私じゃできませんので、イルセイドさん自身にお任せします……でも……そうですね……もし、イルセイドさんが頑張るんだったら……」
「頑張るんだったら……?」
彼女は自分の衣服のポケットに手を突っ込んだ。
そこには炬燵に転がり込んでこちらの世界にくるきっかけとなったミカンが一つ入っている。
「このミカンを差し上げます」
手にしたミカンをぐっと前につきだしたら、イルセイドがクスリと笑った。
「……他には?」
「……え?ほか?」
予想外に切り返しが来て、彼女のほうが戸惑う。
「え……えと……抱きしめて、いいこいいこしてあげますっ!」
「それは魅力的だね」
苦し紛れの案に、イルセイドが頷いた。
「そこに、いてね」
彼女にそう言って、イルセイドは深く呼吸する。
息をすべて吐ききり、新しい空気と入れ換えると、しっかりとした足取りで魔物の核のほうへと駆け出した。
自らが攻撃されると察知したのか青いゼリー状の中から大量の塊たちが放出されてイルセイドに襲いかかってくる。
けれど彼はそれら全てを一瞬で切り捨てた。
そこにはもう臆する様子は微塵も見られない。
彼は真っ直ぐと魔物の核へ向かい、刃を突き立てた。
ピギィィという多重音声な断末魔が聞こえた後、ゼリー状の密集は霧散する。
剣をすらりと鞘に納めたイルセイドが彼女のほうを振り返った。
「頑張ったよ」
振り返ったイルセイドは今度は泣きそうな顔で笑っている。
彼女は少し考えて、ミカンを再びポケットにしまったあと、彼に向かって両手を広げた。
「よし!どんとこいっ!!」
彼女の言葉を合図に、イルセイドがこちらへ走ってくる。
そして、彼女の目の前に着くと、その体を抱きしめ、抱き上げた。
「イルセイドさん、イルセイドさん!それ、イルセイドさんじゃなくて私が抱っこされてる感じになってます!!」
「うん……」
イルセイドはそう言ったが、彼女を離してはくれなかった。
どころか、抱きしめる腕には、より力が入る。
彼女はどうしたものかと考えを巡らせた後、取り敢えずいいこいいこだけは有言実行しておこう……と、彼の頭を撫で始めた。
頭の形に沿って手を動かして、その柔らかな金の髪をさらさらとすいてみる。
すると、それがくすぐったかったのか、イルセイドがクスクスと笑い出した。
イルセイドが笑う度、その息が彼女の首筋にかかる。
今度は彼女がくすぐったさに笑う番だった。