18 anything but easy=簡単ではないこと
エレベータが地下駐車場に着くころ、ホテル内が騒がしくなっていた。
「首尾は?」
その瑞希の問いに野原はお面をしたままブイサインで答える。
エレベータを降りると七瀬が立っていた。ハンカチを巻いた左手から血がにじんでいる。
七瀬は野原のしているお面を見ると目を輝かせて喜び野原に貸してくれるよう懇願するが野原は七瀬の願いを聞き入れず、二人は千尋の乗るアウディQ5の後部座席に乗り込んだ。
瑞希が助手席に乗ると千尋はエンジンをかけ静かに車を発進させる。
同時に、ロビーへ続く非常階段から複数の男が出てくるが千尋はスピードを上げることはない。
男たちが車にたどり着いた時にはすでに千尋の車はホテルの駐車場から出ており、発砲音が千尋の車に届くことはなかった。
「ナナピオ、汚―い!血が垂れるよぉ」
言いながら野原は千尋に指示され救急箱から大型絆創膏を出し七瀬の手の甲に貼り付けていた。汚れたハンカチとティッシュをビニール袋に入れて口を締める。
「ノンタ、タイヤロック何個使った?」
瑞希がスマートフォンを操作しながら話す。
「んーと、全部で八個かな。ちゃんと車の後輪に取り付けたよ」
「バイクは?」
その問いに野原は少し焦った表情を見せたがまだ顔に張り付いているお面で七瀬にはバレなかった。
「あのバイクは聖龍の子かしらね?スーツは来ているように見えないし、今日私が見た中にはいなかったわ」
ルームミラーから後方を確認する千尋の声を聞いて七瀬と野原が振り向く。それを見た千尋は笑って、みっちゃんが乗ってなくて良かったわね、とつぶやいた。瑞希もその様子に笑顔で応える。
「迷子なのね、きっと」
「じゃあ、おうちに案内してあげるか」
瑞希の指示で千尋は行き先を聖龍社へと変更する。
聖龍社近くの大型ガレージに一度止まると瑞希を下ろし再び車道に戻った。百メートルほど離れた位置に止まったバイクは降りた瑞希がガレージに入っていくのを見届けるとUターンして視界から消えてゆく。
バイクが追ってこなくなってからも千尋は制限速度を超えることは無かった。
仕事が済んだ後、一番重要なのは冷静さを保つことだ。ことが終わり、帰り道で不審な動きをして警察にでも捕まればすべてが台無しになってしまう。それだけじゃない。自分たちが捕まるということは、次の標的に名乗りを上げるのと同じだからだ。
「ノンタ、次からはもう少し周りの状況もよく見れるようになるといいわね。ナナピオは手の甲になにかガードが必要かしら。二人ともお疲れさま。家に帰るまでまだ気は抜かないでね」
二人は同時に頷き、返事をする。
聖龍社のロータリーに車を入れると、中から紺色に赤いバラの刺繍が施されたチャイナ服が現れ運転席側に回り込んでくる。千尋は窓を開ける。
「Have a nice evening. Mr.Yuen-lung. Today is also nice served clothes. Sorry for greeting from inside the car. (ごきげんよう、月龍さん。今日も素敵なお召し物ね。車の中からでごめんなさい)」
「Good evening my beloved. You are beautiful this evening. You gently illuminate my heart like a moon and will burn my heart with its cold eyes. I want to take away you right away, if possible. (こんばんは、我が愛しの君。今宵もお美しい。あなたはまるで今宵の月のように私の心を優しく照らし、その冷たい眼差しで私の心を焦がすのでしょう。もし可能なら私は今すぐにでもあなたを奪い去りたい)」
そこまで話すと月龍は千尋から視線を後部座席へ移した。車内は静かでいつも割って入る癇癪持ちが今日はいないようだった。窓にはスモークが張っていて外からは見えにくい。
「Oh, today seems to have a pretty bodyguard. You'd better put the kid to sleep early (おや、今日はかわいらしいボディガードをお連れのようですね。子供は早く寝かせたほうがいいでしょう)」
「We will call on you to greet you again at a later date. (ではまた後日、ゆっくりとあいさつに伺いますね)」
「You should come too. (是非、貴方も来てくださいよ)」
月龍のその言葉に笑顔で答え、千尋はギアをドライブに入れてアクセルを踏みこむ。
その後ろを先ほどとは別のバイクが千尋の車が住宅街へ入るまでを見送る。おそらく側近の飛竜だろう。
月龍がいたく千尋のことを気に入っているのを瑞希は知っている。自分のいないところでも千尋の身を守る手段として瑞希はそれを利用していることがある。今回の挨拶もそうだった。
瑞希は千尋と月龍の接点は知らなかったが、知ろうともしなかった。自分にも他人に知られたくないことはいくつかはある。だがそれがあるのが人間として当たり前だと考えていた。全てをさらけ出してしまうことは一見いいことのようにも思えるが、相手に自分の、自分だけで終わることのできる何かを背負わせてしまう危険性があることを、瑞希は常に意識していた。もちろん、それについては通緒も、千尋も同意だった。
だが、千尋はそれに関していつも「二人は私のことを特別扱いしているのが丸見えで許せない」とこぼしていた。
今回のように千尋を一人にするときは(おまけのひよこは数に入れていない)必ず月龍に連絡を入れておく。そうすると自動的に月龍が表まであいさつに出向き、さらに帰路の安全を確かめるため側近の飛竜を使うことは承知していた。千尋本人がこの方法を気に入っていないのはこの条件下では常に無視されてはいるが。
安全を確保するというのはそう簡単なことではないのも皆、知っている。
瑞希は聖龍社のお抱え整備士から車を一台借りてガレージを出る。
スマートフォンに連絡がないのを見て、少しイラついた表情でアクセルを踏んだ。
高速道路に乗り、出口を三つほど通過した後で降りる。連絡はまだないが、スマートフォンに映っているGPS情報が先ほどから動いていないのを確認して少しだけ冷静に、目的地へ向かう。
車内ではFMラジオ局の男性DJが今日の特集を紹介していた。
「-のパワーミッドナイト☆本日は待望のアニソン特集でーす!いよいよ待ちに待ったアニソン☆オールナイトを明日に控え、今日はリクエストと最新アニメソングの中から僕が独断と偏見で選んだ曲を次々と流しちゃいたいと思いまーす!」
普段は甘く囁くような声音で平日のこの時間を担当しているDJだが、金曜と土曜の二日間はその柔らかな声を弾ませるように話すのが瑞希は気に入っていた。
高速道路を降りてしばらく走ると目的地のコンビニが見えてくる。
アニソン特集は後半に差し掛かっていた。
街中のコンビニの駐車場にはこの時間帯車の数が多い。店の前には止められず、少し離れた位置に車を動かす。目の前のアイドリングストップの協力依頼の看板をみて、素直にそれに従いエンジンを切ったが、ラジオの音は聞きたかったのでアクセサリーモードにとどめる。
それから、スマートフォンで電話をかけた。すぐに出たのは通緒だった。
「通緒?俺紅茶がいい」
「え?紅茶かよ!すみません、ちょっと一回キャンセルで」
おそらくコンビニの窓から瑞希を発見していた通緒がすでにレジに並び買い物を済ませるところだったのだろう。電話の向こうからぶつぶつと文句を言う声が小さく聞こえてくる。
「ホットでいいのか?」
「今日はアイス」
丁寧に舌打ちをして通緒が冷蔵庫からペットボトルを取り出す音が聞こえる。ふんふんと鼻歌を歌いながら瑞希はそれを待った。
「おい、今度はスラムダンクかよ」
通緒は聞こえてくる瑞希の鼻歌で曲当てを見事に成功させてレジで会計を済ませた。ペットボトルと袋菓子をビニール袋で受け取り、それからコーヒーマシーンでアイスカフェオレを淹れて車へ向かう。
助手席に乗り込みアイスティーのペットボトルを瑞希の席に放り投げる。
「腹減ってねぇ?」
そういって袋菓子を開けると瑞希の目の前に差し出した。
ラジオの曲に合わせて鼻歌を歌いながら瑞希は袋菓子を食べ始める。BIGと書かれた文字が通緒の空腹感を現していた。二人はしばらくFMラジオに耳を傾け、通緒は煙草を吸ってカフェオレを飲んだ。
「―今宵もお付き合いありがとうございましたぁ。では続きは明日の夜二三時からのアニソンオールナイトでー。引き続きFMラジオ局をお楽しみくださーい」
ラジオから番組終了の知らせが流れ、瑞希は通緒に煙草を一本せがんだ。
「俺のどの辺が不安なわけ?」
煙草を渡しながら通緒は直接本題に切り込んだ。
「んー?」
とぼけた返事を返しながら瑞希は通緒からジッポをもぎ取り自分で火をつける。通緒は瑞希の顔を覗き込むと口元を緩めて話し始める。
「っとに、カンブは心配性だよなー。大丈夫だって、俺、もう出てったりしねーから」
「お前はわかってない」
煙と共につぶやいた瑞希の声は低く、怒りを帯びている。
「昔から他人を頼らないし、自分で勝手にケリをつけて満足してる」
通緒が笑顔を固まらせて煙草の煙を窓の隙間から夜空へ逃がした。
「あの時だって、お前が悪いわけでもないのに」
「だから。今回のでわかったろ?俺は戻ってきたんだぜ?それでいいだろ」
「お前はわかってない!」
今度は強く、張り裂けるような声音で言う。瑞希は通緒の顔を一度も見ない。
通緒は少し間を置いた後、低く吐き出した。
「俺はもう、何も失いたくないだけだ」
その言葉に瑞希はぐっと歯を噛みしめた。
「俺たちは!俺たちは、だ!あいつがいなくなって、お前が消えたあと、お前は俺たちのことを考えてないんだ」
瑞希が口をつけない煙草の灰が、足元に落ちる。
「勝手に自分に責任があると決めつけて、勝手に一人でケリつけに行って、その間俺たちが何をしてたと思う。何も、何もできないんだ」
FMラジオからはムーディーなジャズが流れている。だが、二人にそれが聞こえてはいない。
「自分を許す気になれない?そんなの当たり前だ。お前だけが当事者じゃない。引きずってたってなにしたって、俺らは前を向いて生きていかなきゃいけないんだろ。何のための約束だ、何のための誓いだ、何のための仲間だよ!お前ひとりが背負ってるみたいな言い方をするな!」
通緒は灰皿に灰を落とし、ひと呼吸する。
悪かった、という言葉が頭をよぎったが、そんな無責任なセリフを今口に出す気にはなれなかった。
「八郎さんがさ」
ぽつりと通緒がつぶやいた。
「おかえりって言ってくれたんだ。長い家出だったなって。仲間に心配かけた分、これからはしっかりやれよって」
煙草を深く根元まで吸い切り、一気に煙を吐き出す。
「俺はいっつも甘えてばっかりだけど、甘やかしてくれる仲間、大事にしないとなって。考えなかったわけじゃない、考えることから逃げてたんだ。未だに怖くて、でもそれが瑞希と千尋ちゃんにバレるのが嫌でさ」
「とっくにバレバレだ」
「だよな」
煙草を潰して熱を消した。
「だからさ、これからはしっかり甘えようと思って。本腰いれてさ。迷いも恐れもちゃんと伝えていこうと思ってんだぜ?」
「こわーい!ノンター!たすけてー!ってか」
「あいつのことはいいだろ。でも、ちゃんと、それこそ、たすけてって素直に言えるように努力はするよ」
「ナナピオに言わせたら、迷ったときは110番らしいぞ」
瑞希は笑って、通緒の顔を見る。
膝の上にあるアイスティーのボトルが軽く汗をかいていた。
「ホットにしなかった理由が分かったぜ。俺のアイスカフェオレもう、氷溶けて薄くなってんじゃん」
運転を代わろうかとの通緒の提案に首を振り、瑞希は彼なりの安全運転で帰路に着いた。
星がでて、月の光も見えるほど夜空は快晴だった。