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佐々木は側近の四人と共に十四階の2007号室でゆっくりとワインを楽しんでいた。
窓側にもう一人、例の秘蔵っ子がいるのも安心材料の一つだった。
佐々木はこの日、聖龍社の使いを始末して、その手柄を持ってT社との合併で事業を大きくしてまた九龍会の幹部におべっかを使うつもりでいた。よく働く中国人の手下も、手駒にする気で今日はその分の報酬も現金で用意があった。
「シャオロン君、君には今日はしっかりと私のガードをしていただきますよ。その分、報酬も弾みます。しかし、もう一つ、君がとるべき道があるのを教えてあげましょう」
ビジネスホテルの最上階、広い室内とは言えないが最上階の特室とあって接待用のテーブルとソファ、小さなワインセラーもついていた。
そのテーブルに銀色のジュラルミンケースを平置きし、ロックを開けて中身を「シャオロン」に見せる。
「今回の報酬の倍あります。これはいわゆる手付金です。契約を交わし、私の下で働いてくれるのなら毎月この倍額を出そうと思っています。いかがです?悪い話ではないでしょう」
窓際から静かにテーブルの上を一瞥し、シャオロンは、考えておく、と心にもないことを言ってのけた。ボスからは、遊びはほどほどに、ときつく言われた後だった。
その時、佐々木たちが予期せぬ事態が起こる。
部屋のベルが鳴ったのだ。
部下の一人が子供二人を追い詰めているだろう配下へ連絡を取る。
「おい、どうなっている。こっちに誰か来たぞ」
五階までに十人の部下を配置していた。十四階のエレベーター前には二人、さらに部屋の前に二人の見張りがいたはずだった。聖龍社側の人間が来た場合は部下が連れてくる手はずになっていた。その場合、部屋のベルが鳴るのはおかしい。佐々木の部屋に入るにはノックをするのが決まりだった。
「聖龍社執行役員の者です。開けていただけますか?」
佐々木は一度シャオロンを確認してからにっこりと、本当に嫌味なくにっこりと笑って見せた。本人にはこれから起こることなど全くの想定外だろうが、それすら頭の片隅にすら思い浮かべなかった。
町のチンピラから成り上がり、周りの暴走族などには目もくれず、一気に駆け抜けてきた。巨大犯罪組織九龍会の息のかかった高利貸しに入り、自身のIT知識を生かして提案した事業が成功し軌道に乗ったところで一つ会社を任された。このまま幹部まで昇格できると思っていた。他にもそんな連中はいくらでもいるのに。自分は特別だと思っていた。体格も大きくないし武道ができるわけでもないが、頭だけは他の奴らより回る、知識もある、策もアイディアもどんどん湧き上がってくる。自分はこんなところで終わるわけがないと高をくくっていたのだ。
だが、そうやすやすとどこかの馬の骨が上に上がれるほど簡単な世界ではなかった。
ある日、IT事業を広げようと模索しているところに取引先の聖龍社からの資金援助と提案を受けた。
「九龍会が日本を手に入れるにはヤクザというのが邪魔になるのでは?ではそれらを傘下に加えてしまうのはどうでしょう」
九龍会は今やアジアの巨大なマフィアだが、昔から日本にはヤクザ組織があり、今も根強くそれは残っている。今回の合併相手の先にあるのはヤクザの山崎組だった。それは佐々木も知っていて、今回の提案を受け入れていた。
九龍側からしてみるとあり得ない提案だった。
中国の名高いマフィアのうちの一つ、九龍会。市場を香港と台湾、シンガポールに広げ、麻薬や武器の密売、賭博、売春、密航や人身売買など裏社会に精通している組織だ。日本ではまだまだ若い組織だが、本土での歴史は深い。
そんな組織が日本のヤクザを傘下に加えるなどありえないことだった。
だが、ここがチャンスとばかりに息巻いた勢いのある若手がその立場を買って出たのだ。
今回の合併では九龍会側も聖龍社ももちろん何も望んではいない。
ただの、催し物。玄関先で開かれるガレージセールのようなものだ。
要らなくなった邪魔なものを金に換えるために今回の催し物の開催の許可を出したというわけ。
組織の幹部になるには下積みと根回し、コネが必要になる。それらをすべて飛ばし、佐々木は常に上を目指した。革命児にでもなった気分ではるか遠くの椅子を夢見ていた。
佐々木の合図で2007号室の扉が開かれ、現れたのは右手を捻り上げられた部下と、部下を悲痛の表情にさせている一人の男だった。
「案内ご苦労さん」
黒いカシミアのスーツ、ダークパープルのシャツに黒いタイをした長身はそう言ってドアの外に掴んでいた腕を開放する。
部屋の中から詰め寄るスーツの男をさっさとかわし、静かに佐々木の前まで歩を進めにこりともせず、一礼する。
「初めまして。聖龍社、執行役員、安彦と申します」
佐々木の両サイドの男が前に出るのを佐々木は静かに片手を挙げて制止する。
一人が通緒のボディチェックを始めると通緒は両腕を持ち上げそれに応じる。
「おい!貴様どういうことだ!」
ドアの外とエレベーター前に倒れた部下たちを確認した通緒より少し背の低いスーツがボディチェックをする男を押しのけ通緒に掴みかかったが、通緒は眉一つ動かさなかった。
「やめろやめろ!客人に失礼だろうが!すみませんねぇ、血の気の多い者ばかり集まってしまって」
通緒はそれに笑顔で返し、それから窓際の黒いハイネックシャツの男を確認する。おそらくそれが昨日千尋を狙った部下だったことを確信し、ひっそりと表情を曇らせた。
「フロアの全員が伸されています」
焦った表情でそう告げた部下に対し、眉を吊り上げ佐々木は舌打ちを返す。胸ポケットから出したハンカチで外した眼鏡を拭きながら奥歯を噛み、怒りをこらえた。
「もしかして、Sネットバンクの方々でした?エレベーターを降りていきなりつかみかかられたので黙ってもらいました。それから、ドアの前にいたのも名乗る前に殴りかかってきたので、同様に。申し訳ございません。私もこの短気なところをどうにかするようにいつも上から言われているのですが、なかなか治りませんね」
まるっきり心のこもらない謝罪を受けて佐々木は通緒より先に眉間にしわを作った。
「いいええ、こちら側の不手際でお手を煩わせてしまって逆に申し訳なかったですね。改めまして、私、Sネットバンク代表取締役、佐々木啓介です」
立ち上がり、佐々木は握手を求めたが通緒は一切応じない。
部下の一人が通緒の前にワイングラスを置き、佐々木から離れ、通緒の背後と入り口に並んだ。通緒がソファに腰を下ろしたのを見て佐々木が話し始める。
「最近の御社の成績はどうですか?聞いたところによりますと、防衛省のほうに営業に行ってるのだとか。まさかミサイルなんかを売るつもりです?」
胸ポケットから煙草を取り出した通緒に部下の一人が火をつけようとしたが、通緒はそっと「すみません、そういうのは慣れてないんで」と拒み自前のジッポで火をつける。
「防衛省のですか、さすがお耳が早い。なかなか難攻不落ですね。やはりいまだに武器を持つということを許さないんでしょうね、国民が。民間団体には結構好評な部分もありますけどね」
「まぁ、そうでしょうねぇ。国民性というのはなかなか変わるものではありませんよ」
ワイングラスに口をつけながら軽く会話を交わす。佐々木は目の前の男が仕掛けてくるのを待った。
「そういえば、昨日はうちの者が手配した若手が行ったらしいですが粗相はなかったですか?」
煙草の灰をガラスの灰皿に落として通緒は佐々木の表情を確認する。案の定顔を引きつらせながら佐々木は一度息を吐き出した。
「ええ、粗相というほどのことはなかったですねぇ。しかし、あんな子供を使っているとは驚きましたよ。今時見ない、なんというか、ああ、ビートルズのラバーソウルの時代のリンゴ・スターの髪型で、ビジネススーツを着ているというよりも着せられている感じでしたかね。一人はまだ学生のように見えましたし。人員不足というやつですか?もしよろしければうちから何名か紹介しましょうか?」
通緒は笑いをぐっとこらえ、考えさせていただきます、とだけこぼした。